『淑やかな悪夢』読了。
1800年代後半から1900年代前半にかけて活躍した英米女流作家のホラー小説アンソロジーということで、読むぞ〜と思いながら2年くらい積んでいた。最近はここ2年くらいで積んだ本の積み解消に向けて取り組んでおります。
収録作はどれも面白かったが、特に気に入ったのは『黄色い壁紙』(シャーロット・パーキンズ・ギルマン)の物語。訳者である西崎憲氏の解説にある通りフェミニズム批評的な観点から見ても重要な作品で、“霊的現象が引き起こす摩訶不思議な恐怖体験”を思わせる書き出しから、実は…と物語の真相が詳らかになるにつれ、この恐怖に共感出来ない“女性”は、確かにシャーロットが生きた時代には居なかっただろうと思わされた。
この物語に描きこまれた怖さというのは、霊的なもの、あるいは超自然的なものに対する恐怖ではなく、我々はこの主人公の苦悩を少しも「過去」に出来ていないという意味での恐怖だ。おそらくこの作品が発表された当時においても主人公は私たち女性の「隣人」のように、どこかには必ず居たであろう人物だったはずで、主人公の苦しみはそんな私たち「隣人」の苦しみだったはず。そしてこの「隣人」は、現代においてもまだ隣人のままだ。『黄色い壁紙』は「あの頃の話」ではなく、現代においてなお“ありふれた”恐怖である。自由を求めて発言したことを、神経症だとかヒステリーだとか言われてきた女たち。壁紙に閉じ込められてきた女たち。
主人公は精神的に落ち込んでおり、その療養のためとある家にしばらくの間夫とともに身を置くことになった。彼女は自分の現在の状況や症状などを実はノートに書き付けているのだが(これがそのまま小説の内容となっている)、夫は彼女がそんなことをしていると知ると機嫌を損ねるので、彼女は机の引き出しにこっそりノートを忍ばせて夫から隠れて日記をつけている。
夫いわく、彼女の病は働きすぎによるものだ。彼女には“何も考えない”時間が必要だと言う。君は色々考えてしまうからダメなのだ。とにかく、何もせずゆっくりしていたらいい。君は無駄なことを考えず、やらず、とにかく体と頭を休めることだけ考えていたらいいのだ。さらに夫は言う。私は君をとても愛している。とても心配している。君のためならなんでもしよう。
主人公は越してきた家を観察する。夫婦が寝室にしているのはかつて子供部屋として使用されていた部屋だが、主人公はどうもこの部屋の“黄色い壁紙”が不快で仕方がない。模様が常に蠢いて、気持ちが悪く、どこまで目で追っても果てがない。この部屋にいるだけで、かえって具合がどんどん悪くなりそうな感じである。
彼女の精神が錯乱しているからそう見えるのか?それとも、本当に壁紙が蠢いているのか?
主人公は不快感を夫に訴えるが、夫の答えはいつも決まっている。とにかく休め。考えるな。私はあなたを愛している。心配している。おお、私のかわいい人よ。しかし主人公は、やはりこの部屋の壁紙が不愉快でたまらない。壁紙がまるで自分を煽っているようにも感じられる。それに、家の中から外をみると、人影のようなものが這っているのを見かけたりする。正体の分からないモヤ。彼女は毎日の不安とどうしようもなさをノートにひたすら書きつける……
物語の主人公は「妻」だ。夫がいて、この夫は優しい。彼女を愛していて、彼女の療養のために色々と手を尽くしている。しかし彼女の病状は一向に快復せず、むしろどんどん悪化しているように見える。夫の献身のことを、妻も分かっている。だがどうしようもない。その罪悪感で、どんどん妻である彼女は追い詰められていく。そんな妻に夫は言う。「考えないで、何もやらないで、ただゆっくりしていればいい」。妻である主人公は、夫の言葉に従順だ。だが、それにしてもこの部屋の黄色い壁紙には耐えられない。
物語の主人公は「女性」だ。ひとりの自立した、自分の考えや生活に対して理想を持つ、ひとりの「女性」。外に出て働いたり、自分のためあらゆることを自分で“考え”、“行動する”、そういう女性だ。一見すると優しい態度、優しい言葉で夫に尽くされているように見えても、彼女は、実際にはただ支配されている。生活の実権を握られ、自分の意思表示をすべて「考えすぎ」だと言われる。ただふつうに、ひとりの人間として、自分の行動を自分自身で選択しようとすれば、それを「心気症」だとか「神経症」だとか言われる。心配のしすぎだと。だから、彼女をそういう見えない檻に閉じ込めるこの部屋の黄色い壁紙は、彼女にとって耐え難いのだ。今までにも同じように女性たちを閉じ込めてきたこの部屋で、壁紙に吸い込まれていってしまった女性たちの影が、彼女の目には見えるから。
この夫の行為には、現代になって名前がついた。「ガスライティング」という名前である。
相手の見ている確かな事実を否定し、自分に都合のいいように答えを誘導したり、騙したりする。その繰り返しで相手自身に自分の認識や認知能力を疑わせて、精神的に圧力をかける。「ガスライティング」とは、そういう「心理的虐待」を指す言葉だ。
主人公は、本当は病んでいない。ただ、外に出たいだけだ。だが夫は外に出たがる彼女に対し、「そんなことを言うのは君が“病んで”いるからだ」というポーズをとる。外に出たがるなんておかしい。君は外に出たがっている。つまり君はおかしい。夫は直接的な暴力などは振るわない。ただ夫は彼女の言葉を聞かない。自分の望んだ言葉以外何ひとつ受け入れない。おかしいのは私なのだ、と彼女は錯覚していく。夫はやさしい。やさしいはずだ。私を愛している。愛しているはずだ。夫はまったくその通りだと答える。君を傷つけるわけがないと。しかし、それはウソだ。
夫は、家の中で既にあなたは満ち足りているはずだ、という態度をとる。自分はせっせと家事をしろなどと言わないし、眠りたいなら眠っていていいと言う。休めるだけ休んで、何も考えなくていいと言う。“考えるのは私が代わりにやるのだから”と。この夫にとって、妻は人形と同じである。彼女がおとなしく従順でいることの対価に、生活を保護して“やっている”。
だから夫は、彼女が“文章を書く”なんて耐えられない。彼女がノートを隠しているのはそのせいだ。夫にとって、“賢い”妻は耐えられない。“自立する”妻は耐えられない。そんな女は“病んでいる”。
“病んだ”彼女は黄色い壁紙のその奥に、染み込んだ女性たちの苦悶の声を聞き姿を見る。それは果たして狂気なのか、真実なのか。
非常に怖い終わり方だった。これこそ、“ホラー”だ。
2026/08/02読了
淑やかな悪夢
シンシア・アスキス 他
倉阪鬼一郎/南條竹則/西崎憲 編訳
創元推理文庫畳む
1800年代後半から1900年代前半にかけて活躍した英米女流作家のホラー小説アンソロジーということで、読むぞ〜と思いながら2年くらい積んでいた。最近はここ2年くらいで積んだ本の積み解消に向けて取り組んでおります。
収録作はどれも面白かったが、特に気に入ったのは『黄色い壁紙』(シャーロット・パーキンズ・ギルマン)の物語。訳者である西崎憲氏の解説にある通りフェミニズム批評的な観点から見ても重要な作品で、“霊的現象が引き起こす摩訶不思議な恐怖体験”を思わせる書き出しから、実は…と物語の真相が詳らかになるにつれ、この恐怖に共感出来ない“女性”は、確かにシャーロットが生きた時代には居なかっただろうと思わされた。
この物語に描きこまれた怖さというのは、霊的なもの、あるいは超自然的なものに対する恐怖ではなく、我々はこの主人公の苦悩を少しも「過去」に出来ていないという意味での恐怖だ。おそらくこの作品が発表された当時においても主人公は私たち女性の「隣人」のように、どこかには必ず居たであろう人物だったはずで、主人公の苦しみはそんな私たち「隣人」の苦しみだったはず。そしてこの「隣人」は、現代においてもまだ隣人のままだ。『黄色い壁紙』は「あの頃の話」ではなく、現代においてなお“ありふれた”恐怖である。自由を求めて発言したことを、神経症だとかヒステリーだとか言われてきた女たち。壁紙に閉じ込められてきた女たち。
主人公は精神的に落ち込んでおり、その療養のためとある家にしばらくの間夫とともに身を置くことになった。彼女は自分の現在の状況や症状などを実はノートに書き付けているのだが(これがそのまま小説の内容となっている)、夫は彼女がそんなことをしていると知ると機嫌を損ねるので、彼女は机の引き出しにこっそりノートを忍ばせて夫から隠れて日記をつけている。
夫いわく、彼女の病は働きすぎによるものだ。彼女には“何も考えない”時間が必要だと言う。君は色々考えてしまうからダメなのだ。とにかく、何もせずゆっくりしていたらいい。君は無駄なことを考えず、やらず、とにかく体と頭を休めることだけ考えていたらいいのだ。さらに夫は言う。私は君をとても愛している。とても心配している。君のためならなんでもしよう。
主人公は越してきた家を観察する。夫婦が寝室にしているのはかつて子供部屋として使用されていた部屋だが、主人公はどうもこの部屋の“黄色い壁紙”が不快で仕方がない。模様が常に蠢いて、気持ちが悪く、どこまで目で追っても果てがない。この部屋にいるだけで、かえって具合がどんどん悪くなりそうな感じである。
彼女の精神が錯乱しているからそう見えるのか?それとも、本当に壁紙が蠢いているのか?
主人公は不快感を夫に訴えるが、夫の答えはいつも決まっている。とにかく休め。考えるな。私はあなたを愛している。心配している。おお、私のかわいい人よ。しかし主人公は、やはりこの部屋の壁紙が不愉快でたまらない。壁紙がまるで自分を煽っているようにも感じられる。それに、家の中から外をみると、人影のようなものが這っているのを見かけたりする。正体の分からないモヤ。彼女は毎日の不安とどうしようもなさをノートにひたすら書きつける……
物語の主人公は「妻」だ。夫がいて、この夫は優しい。彼女を愛していて、彼女の療養のために色々と手を尽くしている。しかし彼女の病状は一向に快復せず、むしろどんどん悪化しているように見える。夫の献身のことを、妻も分かっている。だがどうしようもない。その罪悪感で、どんどん妻である彼女は追い詰められていく。そんな妻に夫は言う。「考えないで、何もやらないで、ただゆっくりしていればいい」。妻である主人公は、夫の言葉に従順だ。だが、それにしてもこの部屋の黄色い壁紙には耐えられない。
物語の主人公は「女性」だ。ひとりの自立した、自分の考えや生活に対して理想を持つ、ひとりの「女性」。外に出て働いたり、自分のためあらゆることを自分で“考え”、“行動する”、そういう女性だ。一見すると優しい態度、優しい言葉で夫に尽くされているように見えても、彼女は、実際にはただ支配されている。生活の実権を握られ、自分の意思表示をすべて「考えすぎ」だと言われる。ただふつうに、ひとりの人間として、自分の行動を自分自身で選択しようとすれば、それを「心気症」だとか「神経症」だとか言われる。心配のしすぎだと。だから、彼女をそういう見えない檻に閉じ込めるこの部屋の黄色い壁紙は、彼女にとって耐え難いのだ。今までにも同じように女性たちを閉じ込めてきたこの部屋で、壁紙に吸い込まれていってしまった女性たちの影が、彼女の目には見えるから。
この夫の行為には、現代になって名前がついた。「ガスライティング」という名前である。
相手の見ている確かな事実を否定し、自分に都合のいいように答えを誘導したり、騙したりする。その繰り返しで相手自身に自分の認識や認知能力を疑わせて、精神的に圧力をかける。「ガスライティング」とは、そういう「心理的虐待」を指す言葉だ。
主人公は、本当は病んでいない。ただ、外に出たいだけだ。だが夫は外に出たがる彼女に対し、「そんなことを言うのは君が“病んで”いるからだ」というポーズをとる。外に出たがるなんておかしい。君は外に出たがっている。つまり君はおかしい。夫は直接的な暴力などは振るわない。ただ夫は彼女の言葉を聞かない。自分の望んだ言葉以外何ひとつ受け入れない。おかしいのは私なのだ、と彼女は錯覚していく。夫はやさしい。やさしいはずだ。私を愛している。愛しているはずだ。夫はまったくその通りだと答える。君を傷つけるわけがないと。しかし、それはウソだ。
夫は、家の中で既にあなたは満ち足りているはずだ、という態度をとる。自分はせっせと家事をしろなどと言わないし、眠りたいなら眠っていていいと言う。休めるだけ休んで、何も考えなくていいと言う。“考えるのは私が代わりにやるのだから”と。この夫にとって、妻は人形と同じである。彼女がおとなしく従順でいることの対価に、生活を保護して“やっている”。
だから夫は、彼女が“文章を書く”なんて耐えられない。彼女がノートを隠しているのはそのせいだ。夫にとって、“賢い”妻は耐えられない。“自立する”妻は耐えられない。そんな女は“病んでいる”。
“病んだ”彼女は黄色い壁紙のその奥に、染み込んだ女性たちの苦悶の声を聞き姿を見る。それは果たして狂気なのか、真実なのか。
非常に怖い終わり方だった。これこそ、“ホラー”だ。
2026/08/02読了
淑やかな悪夢
シンシア・アスキス 他
倉阪鬼一郎/南條竹則/西崎憲 編訳
創元推理文庫畳む
CATEGORY:小説感想
ジェラルド・カーシュ『壜の中の手記』読了。※ネタバレを含みます。
先日購入した『灰の王』(S・A・コスビー)と共に新刊コーナーにあったのでなんとなく購入してみたもので、ジェラルド・カーシュという作家の名前は初めて聞いた。
スゴい。全部面白い。全編藤子・F・不二雄先生の絵柄で脳内再生される。読んでもらったら言っている意味が分かると思う。この本の内容が、そのまま藤子・F・不二雄先生の『異色短編集』に収録されていても違和感がない。
短編集なので読みやすく、寝る前のちょっとした読書にもちょうど良かった。また、SFや怪奇小説の入口としても非常に取っ掛りやすい感じる。とはいえ、ジェラルド・カーシュは1930年頃から50年頃にかけて最も精力的に活動した作家ということで、彼が文筆家を志し、小説家として生きていた当時の時代背景を考えると致し方ないにしても、中身に差別的かつかなりの偏見に基づいた人物や文化に対する認識、やや公平さに欠けた表現がしばしば出てくるので(特に人種に関しては)、やはりいくらかは大人向けかも知れない。巻末にジェラルド・カーシュの生い立ちから作家になるまでの生活など、短い伝記的なまとめがあり、読んでみると従軍記者として活動していた時期もあったようだ。本人はどうも体格に恵まれた人物だったようで、かつてはレスラーをやったこともあるらしい。(戦歴はあまりパッとしない)色々と、作家の口からあまり聞かないような経歴を持っている。
取っ付きやすく、テンポも良い。読みやすい。こんなに面白いのに一体今までどこに?と思って調べたら、2002年と2003年に晶文社から『壜の中の手記』『廃墟の歌声』の2冊が発刊、2006年と2008年には『壜の中の手記』『犯罪王カームジン あるいは世界一の大ぼら吹き』が今度は角川から発行されてそれきりだったことを知る。創元推理文庫から9月には『廃墟の歌声』も発売を予定されているようなので楽しみ。
収録されている話はどれも面白く甲乙つけがたいが、表題の作品以外では『ねじくれた骨』『ブライトンの怪物』『死こそわが同志』がお気に入りだ。
『死こそわが同志』は、あるセールスマンがひとつの屈折した感情、言ってしまえば個人的な怨嗟を晴らすために戦争兵器を売りさばく「武器商人」から「戦争屋」となり、老年となってなお儲けに儲けるが最期は…という話なのだが、読みながら様々なことが私の脳裏に過ぎった。時に空想は現実に先立つ。おそろしく残酷で、おそろしく生々しい男の歪んだ挫折の物語だった。
表題にもなっている『壜の中の手記』は、実在した作家、アンブローズ・ビアス失踪事件に着想を得ており、彼の失踪の真相を語るというていで物語が進む。途中からなんとなく“オチ”が読めてきて意外性はさほどないのだが、屋敷の装飾や使用人たちがまとう雰囲気、屋敷の主人の物腰などにものすごく“色気”があるように感じて脳内再生が楽しい。しかしこの手の話のオチが中盤で大体分かってしまうのは、『注文の多い料理店』の影響するところが大きいよなぁ。
「もてなされていると思ったら、それは実は自分を〇〇するための罠だった」というタイプの物語は、古今東西どの国どの歴史上にも類似するものがあるのだが(それこそヘンゼルとグレーテルなども)、被害者が男性だと結構もてなし期間が長いという特徴があるような気がする。あと基本的に食べ物でもてなされる。女性が被害者だとわりと早い段階で殺人鬼からのネタばらしがあって、挙句別の部屋で積み重なった死体目撃したり、主人公が実際の殺害現場を見てしまったりと、スリラーみたいな趣が出てくる。もてなしも、金銀財宝を与えるというものが多い。(青ひげ、盗賊の花嫁、フィッチャーの鳥等…)機転を利かせて困難を回避し、ラストはハッピーエンドというのは概ねほとんどの物語に共通しているが。ちなみに『壜の中の~』の主人公アンブローズ・ビアスはというと、美味い肉美味い酒に加えてビスケ(HUNTER×HUNTER)のマッサージばりの絶頂マッサージで最強になっている。
『注文の多い料理店』は、もともと猟師で動物を狩る側だった主人公たちが「料理店」では逆に狩られる側になるという立場逆転が皮肉効いてて面白いんだけど、『壜の中の手記』にはそうしたアイロニカルな含みや展開などはなく、物語の主人公であるアンブローズ・ビアスが、その観察眼と知性をもって事態を察し忍び寄る危険を回避しようと孤立無援の中戦う感じ(しかし欲望には揺れる)が怪奇小説的な趣たっぷりに描かれていて面白かった。このアンブローズ・ビアスを誘導するとある動物の存在も、よくよく考えると本当に恐ろしくて好きだ。
2026/07/27読了
壜の中の手記
ジェラルド・カーシュ著 西崎憲 他訳
創元推理文庫畳む
先日購入した『灰の王』(S・A・コスビー)と共に新刊コーナーにあったのでなんとなく購入してみたもので、ジェラルド・カーシュという作家の名前は初めて聞いた。
スゴい。全部面白い。全編藤子・F・不二雄先生の絵柄で脳内再生される。読んでもらったら言っている意味が分かると思う。この本の内容が、そのまま藤子・F・不二雄先生の『異色短編集』に収録されていても違和感がない。
短編集なので読みやすく、寝る前のちょっとした読書にもちょうど良かった。また、SFや怪奇小説の入口としても非常に取っ掛りやすい感じる。とはいえ、ジェラルド・カーシュは1930年頃から50年頃にかけて最も精力的に活動した作家ということで、彼が文筆家を志し、小説家として生きていた当時の時代背景を考えると致し方ないにしても、中身に差別的かつかなりの偏見に基づいた人物や文化に対する認識、やや公平さに欠けた表現がしばしば出てくるので(特に人種に関しては)、やはりいくらかは大人向けかも知れない。巻末にジェラルド・カーシュの生い立ちから作家になるまでの生活など、短い伝記的なまとめがあり、読んでみると従軍記者として活動していた時期もあったようだ。本人はどうも体格に恵まれた人物だったようで、かつてはレスラーをやったこともあるらしい。(戦歴はあまりパッとしない)色々と、作家の口からあまり聞かないような経歴を持っている。
取っ付きやすく、テンポも良い。読みやすい。こんなに面白いのに一体今までどこに?と思って調べたら、2002年と2003年に晶文社から『壜の中の手記』『廃墟の歌声』の2冊が発刊、2006年と2008年には『壜の中の手記』『犯罪王カームジン あるいは世界一の大ぼら吹き』が今度は角川から発行されてそれきりだったことを知る。創元推理文庫から9月には『廃墟の歌声』も発売を予定されているようなので楽しみ。
収録されている話はどれも面白く甲乙つけがたいが、表題の作品以外では『ねじくれた骨』『ブライトンの怪物』『死こそわが同志』がお気に入りだ。
『死こそわが同志』は、あるセールスマンがひとつの屈折した感情、言ってしまえば個人的な怨嗟を晴らすために戦争兵器を売りさばく「武器商人」から「戦争屋」となり、老年となってなお儲けに儲けるが最期は…という話なのだが、読みながら様々なことが私の脳裏に過ぎった。時に空想は現実に先立つ。おそろしく残酷で、おそろしく生々しい男の歪んだ挫折の物語だった。
表題にもなっている『壜の中の手記』は、実在した作家、アンブローズ・ビアス失踪事件に着想を得ており、彼の失踪の真相を語るというていで物語が進む。途中からなんとなく“オチ”が読めてきて意外性はさほどないのだが、屋敷の装飾や使用人たちがまとう雰囲気、屋敷の主人の物腰などにものすごく“色気”があるように感じて脳内再生が楽しい。しかしこの手の話のオチが中盤で大体分かってしまうのは、『注文の多い料理店』の影響するところが大きいよなぁ。
「もてなされていると思ったら、それは実は自分を〇〇するための罠だった」というタイプの物語は、古今東西どの国どの歴史上にも類似するものがあるのだが(それこそヘンゼルとグレーテルなども)、被害者が男性だと結構もてなし期間が長いという特徴があるような気がする。あと基本的に食べ物でもてなされる。女性が被害者だとわりと早い段階で殺人鬼からのネタばらしがあって、挙句別の部屋で積み重なった死体目撃したり、主人公が実際の殺害現場を見てしまったりと、スリラーみたいな趣が出てくる。もてなしも、金銀財宝を与えるというものが多い。(青ひげ、盗賊の花嫁、フィッチャーの鳥等…)機転を利かせて困難を回避し、ラストはハッピーエンドというのは概ねほとんどの物語に共通しているが。ちなみに『壜の中の~』の主人公アンブローズ・ビアスはというと、美味い肉美味い酒に加えてビスケ(HUNTER×HUNTER)のマッサージばりの絶頂マッサージで最強になっている。
『注文の多い料理店』は、もともと猟師で動物を狩る側だった主人公たちが「料理店」では逆に狩られる側になるという立場逆転が皮肉効いてて面白いんだけど、『壜の中の手記』にはそうしたアイロニカルな含みや展開などはなく、物語の主人公であるアンブローズ・ビアスが、その観察眼と知性をもって事態を察し忍び寄る危険を回避しようと孤立無援の中戦う感じ(しかし欲望には揺れる)が怪奇小説的な趣たっぷりに描かれていて面白かった。このアンブローズ・ビアスを誘導するとある動物の存在も、よくよく考えると本当に恐ろしくて好きだ。
2026/07/27読了
壜の中の手記
ジェラルド・カーシュ著 西崎憲 他訳
創元推理文庫畳む
CATEGORY:小説感想
ジョルジュ・シムノン『猫』読了。
ジョルジュ・シムノンといえばメグレシリーズでお馴染みの推理小説作家ですが彼の著作は本当に点数が多く内容も多岐に渡っていて、その中には推理小説とは趣の異なる作品(ロマン・デュール)などもありまして、『猫』はそうした小説群における代表作のひとつです。老夫婦が、ある出来事をきっかけにお互いを強く意識しあいながらもまるで互いなど存在しないかのように無視をしあって生活するという、老いの残酷と哀愁とを抱えたふたりの老人の愛憎劇をシニカルに描き出した小説です。
猫が死んでオウムが死にます。罪なき動物が死ぬのには耐えられないという人には読むのがかなりつらいと思います。
身も蓋もない言い方をすると、もともとは石工で職人気質な男と小金持ちの地主の女がそれぞれ妻と夫に先立たれ、男やもめと未亡人になり数年が経った頃にいよいよ老後の孤独を想像してなんとなく漠然とした不安にかられていたところ、ひょんなことからふたりは知り合いになり、「ひとりで居るよかいいか」というような、愛の再発見ではなく妥協で再婚するのですが、これがマジでうまくいかなかった、みたいな話です。
もちろん出会ったばかりのふたりはお互いに対してほんのりとした好意を持っている、しかしいざ生活を共にしてみると、無骨な職人の男とお上品な令嬢の生活はまったくもって噛み合わないものであって、それぞれの性格の違いや生活習慣の違いなど、価値観の相違が顕著になってくるたびに互いへの反感が強まっていき、ついには互いのペットを手にかけてしまう。そしてひとつ屋根の下で暮らしながらもふたりはお互いを憎みあうようになって、様々な方法で相手にプレッシャーを与えようとするのです。
怒りのあまりにふたりは、お互いを透明人間のように扱って会話のひとつさえしなくなるんだけど、そうすればそうするほどかえって相手の輪郭がはっきりしてきて、どんどん無視出来ない存在になっていくという皮肉な現実、そしてその緊張感にじっと耐えねばならない生活を互いに強いるうちに、どんどん「老いる」という退けようのない未来や、振り返ざるをえぬ過去などが迫ってくる…相手を切り捨てるに切り捨てられず、いっそ自分が自分を捨て去ってしまいたいような気持ちにさえなるのに自分を諦められず、別れるに別れられない老人の哀切は、「老い」の過程において決して回避出来ない孤独の本質を鋭く突いていると思います。孤独にはなりたくないが、他人が自分の築き上げてきた領域に足を踏み入れてくることにも、自分が生活の一部を譲ることにも、要するに相手の勝手気ままな振る舞いのすべてをそっくりそのまま受け入れることが出来ず、むなしい気持ちになる。かつての夫婦生活ではどうとでもなっていたことが新しい相手とではどうにもならず、かといって、今更妥協点を探ることも難しい。
主人公たちは70手前のおじいさんとおばあさん同士で再婚をするのですが、夫となるエミールはなんとそんな老人になってもまだ「性欲」なるものがありまして、初夜に再婚相手のマルグリットを抱こうとするんですよね。むしろ、そうすることが一種の礼儀でさえあるかのような振る舞いで、夫婦生活というものはそういうものだと思っている。前の妻とも盛んだったし。ところがマルグリットのほうはドン引きというか、「まあ夫には妻を抱く権利ありますものね…」みたいな感じでセックスを「耐えるもの」として受け入れようとするから、エミールは勃起を維持できずにその後は一度も夫婦の営みなどなく年月が流れ、お互いの価値観を冷静に擦り合わせる時間を持てないまま、結局ふたりはペット殺しという手段で擬似的にお互いを殺し合うちゅーわけです。
手前としては、正直70手前のじいさんにまだそんな気力が残っていると考えるとそれだけでだいぶ気持ちが悪いな…と思ってしまうんだけど、シムノンって本人が「女1万人抱いたった」みたいなトンデモドスケべおじさんなので、おそらく本人としては70手前でも現役なのは当たり前というか変な設定とは微塵とも思わなかったのかなと思います。作中でもエミールは70歳を過ぎてなお現役すぎて、妻の無言の圧力から逃れるために駆け込んだ飲み屋の女店主とやっちゃうし。でもここで描かれるエミールの性って、男性の欲望としての生々しい影を背負うものではなく、老いることや客観的に自分を見てしまうことへの恐れなんかをどうにか忘れようとする、かつての自分を部分的にでも取り戻そうとする老人の痛切な叫びのようなものがあり、痛ましい。何が痛ましいって、エミールの男として夫としての自尊心は既にボロ切れのような状態なのに、まだ自分には勃起的なもの、即ち自分の能力に対するプライドがあって、少なくとも妻/女性とは「対等」に綱引きが出来るはずだと思っているのに、いざ女店主とやった時/やったあとに残ったものは、「自分は彼女のご厚意に受け入れてもらっている、許して頂いている」という受け身の自分だけで…。
一方妻のマルグリットも、夫に対する当てこすりのためにそれまでの自分だったら絶対に付き合わないような下品な人を友人として家に招いたりして、もはや生きる目的が夫を苦しめることになりつつあるというか、「神に誓ったから離婚しない」のではなく、離婚することをなんらかの挫折、敗北と認めていて、自分の人生において「孤独」を勝者とすることは、夫を精神的に追い込むことや自分が今何をやっているのか分からなくなること、狂気じみたあらゆる行為よりもずっと最悪なことなんだろうなと。
このふたりというのは、どちらかの収入に頼らねば生きていけない人達ではないんですよね。ふたりとも余生を過ごすには足りるお金を持っていて、自分で料理することも外食することも出来る。文化的な活動もひとりで楽しめる。だから、「この人が居なくなったら生活が金銭面で苦しくなる」というようなことはなく、そういう意味では満ち足りているはずなのです。にも関わらず、彼らはお互いの精神にどうにかして干渉し続ける人生を選んでいるわけで、ここにシムノンの残酷な指摘があると思います。
老いるということは孤独との並走です。生き別れ、死に別れの繰り返し。そして「老い」というものは逃れようのない人生のさだめです。だから、人間は本質的に「孤独」というものと常に連帯しているのであって、孤独感というものは別に敵でも味方でもなくただの標準装備なわけです。若い頃はこの装備を取り扱うための体力がある。新しい人間関係や経験が何をせずとも目の前に現れる、考え事を処理するための体力もある、選択肢もある。ところが人はいずれ仕事を辞め、家庭に戻ります。定年を迎えて社会人としての役目に区切りをつける、人間関係はそれ以上広がらず最小単位に留まり、その維持とメンテナンスを続ける体力も徐々に失い、遠出をするのも億劫になる。ある時、経験そのものが負担に変わる瞬間がやってくる。次第に両肩にのしかかる孤独が重たさを増したと感じる。いや、孤独が重たくなったのではない、自分の肩があまりに小さくなったのだ、その重みに耐えられる体力を失いつつあるのだ…と、こういう感じで、孤独を脅威とみなせば立ち所に孤独は人の心を蝕みます。
老夫婦はひとりでいることの厄介さを知っています。それはつらいことです。不安なことです。だから、共依存出来る宛先として他者を自分の人生に招き入れます。愛ではないもので人と繋がろうとします。でも目的は愛し合うことではなく、共依存です。ゆえにどんなに相手に腹が立っても、どれほど相手の所業が許せなくても、別れられない。別れるつもりもない。なぜなら、ふたりの目的はそういう意味では既に達成されているからです。そしてこういう問題の解決には、「自分ひとりが生きていくのに充分なお金」なんてなんの役にも立たないのです。人に依存しないで生きていくために最も重要なアイテムは、実はお金よりもまず自分がどう孤独と連帯していくか、その方法を記載したルールブックだからです。
孤独にならない方法はどれもが難しい。実践するためには、たくさんのリソースを割かなければいけないから。でも孤独を“感じずに”生きる方法はそれより容易い。意地が悪かろうと虚しかろうと、様々な方法で自分という存在を相手に意識させ続ければいいんだから。誰かから意識され続けている以上、自分は決して「孤独」には陥らない。
夫婦はどちらが怒りのイニシアチブを握るかで毎日を苛立たしく過ごすけど、その苛立ちにこそ孤独の解決方法を認めている。それは複雑で、実に解きほぐしがたい歪な絆なのです。
2026/07/10読了
猫
ジョルジュ・シムノン著 三輪秀彦訳
創元社推理文庫畳む
ジョルジュ・シムノンといえばメグレシリーズでお馴染みの推理小説作家ですが彼の著作は本当に点数が多く内容も多岐に渡っていて、その中には推理小説とは趣の異なる作品(ロマン・デュール)などもありまして、『猫』はそうした小説群における代表作のひとつです。老夫婦が、ある出来事をきっかけにお互いを強く意識しあいながらもまるで互いなど存在しないかのように無視をしあって生活するという、老いの残酷と哀愁とを抱えたふたりの老人の愛憎劇をシニカルに描き出した小説です。
猫が死んでオウムが死にます。罪なき動物が死ぬのには耐えられないという人には読むのがかなりつらいと思います。
身も蓋もない言い方をすると、もともとは石工で職人気質な男と小金持ちの地主の女がそれぞれ妻と夫に先立たれ、男やもめと未亡人になり数年が経った頃にいよいよ老後の孤独を想像してなんとなく漠然とした不安にかられていたところ、ひょんなことからふたりは知り合いになり、「ひとりで居るよかいいか」というような、愛の再発見ではなく妥協で再婚するのですが、これがマジでうまくいかなかった、みたいな話です。
もちろん出会ったばかりのふたりはお互いに対してほんのりとした好意を持っている、しかしいざ生活を共にしてみると、無骨な職人の男とお上品な令嬢の生活はまったくもって噛み合わないものであって、それぞれの性格の違いや生活習慣の違いなど、価値観の相違が顕著になってくるたびに互いへの反感が強まっていき、ついには互いのペットを手にかけてしまう。そしてひとつ屋根の下で暮らしながらもふたりはお互いを憎みあうようになって、様々な方法で相手にプレッシャーを与えようとするのです。
怒りのあまりにふたりは、お互いを透明人間のように扱って会話のひとつさえしなくなるんだけど、そうすればそうするほどかえって相手の輪郭がはっきりしてきて、どんどん無視出来ない存在になっていくという皮肉な現実、そしてその緊張感にじっと耐えねばならない生活を互いに強いるうちに、どんどん「老いる」という退けようのない未来や、振り返ざるをえぬ過去などが迫ってくる…相手を切り捨てるに切り捨てられず、いっそ自分が自分を捨て去ってしまいたいような気持ちにさえなるのに自分を諦められず、別れるに別れられない老人の哀切は、「老い」の過程において決して回避出来ない孤独の本質を鋭く突いていると思います。孤独にはなりたくないが、他人が自分の築き上げてきた領域に足を踏み入れてくることにも、自分が生活の一部を譲ることにも、要するに相手の勝手気ままな振る舞いのすべてをそっくりそのまま受け入れることが出来ず、むなしい気持ちになる。かつての夫婦生活ではどうとでもなっていたことが新しい相手とではどうにもならず、かといって、今更妥協点を探ることも難しい。
主人公たちは70手前のおじいさんとおばあさん同士で再婚をするのですが、夫となるエミールはなんとそんな老人になってもまだ「性欲」なるものがありまして、初夜に再婚相手のマルグリットを抱こうとするんですよね。むしろ、そうすることが一種の礼儀でさえあるかのような振る舞いで、夫婦生活というものはそういうものだと思っている。前の妻とも盛んだったし。ところがマルグリットのほうはドン引きというか、「まあ夫には妻を抱く権利ありますものね…」みたいな感じでセックスを「耐えるもの」として受け入れようとするから、エミールは勃起を維持できずにその後は一度も夫婦の営みなどなく年月が流れ、お互いの価値観を冷静に擦り合わせる時間を持てないまま、結局ふたりはペット殺しという手段で擬似的にお互いを殺し合うちゅーわけです。
手前としては、正直70手前のじいさんにまだそんな気力が残っていると考えるとそれだけでだいぶ気持ちが悪いな…と思ってしまうんだけど、シムノンって本人が「女1万人抱いたった」みたいなトンデモドスケべおじさんなので、おそらく本人としては70手前でも現役なのは当たり前というか変な設定とは微塵とも思わなかったのかなと思います。作中でもエミールは70歳を過ぎてなお現役すぎて、妻の無言の圧力から逃れるために駆け込んだ飲み屋の女店主とやっちゃうし。でもここで描かれるエミールの性って、男性の欲望としての生々しい影を背負うものではなく、老いることや客観的に自分を見てしまうことへの恐れなんかをどうにか忘れようとする、かつての自分を部分的にでも取り戻そうとする老人の痛切な叫びのようなものがあり、痛ましい。何が痛ましいって、エミールの男として夫としての自尊心は既にボロ切れのような状態なのに、まだ自分には勃起的なもの、即ち自分の能力に対するプライドがあって、少なくとも妻/女性とは「対等」に綱引きが出来るはずだと思っているのに、いざ女店主とやった時/やったあとに残ったものは、「自分は彼女のご厚意に受け入れてもらっている、許して頂いている」という受け身の自分だけで…。
一方妻のマルグリットも、夫に対する当てこすりのためにそれまでの自分だったら絶対に付き合わないような下品な人を友人として家に招いたりして、もはや生きる目的が夫を苦しめることになりつつあるというか、「神に誓ったから離婚しない」のではなく、離婚することをなんらかの挫折、敗北と認めていて、自分の人生において「孤独」を勝者とすることは、夫を精神的に追い込むことや自分が今何をやっているのか分からなくなること、狂気じみたあらゆる行為よりもずっと最悪なことなんだろうなと。
このふたりというのは、どちらかの収入に頼らねば生きていけない人達ではないんですよね。ふたりとも余生を過ごすには足りるお金を持っていて、自分で料理することも外食することも出来る。文化的な活動もひとりで楽しめる。だから、「この人が居なくなったら生活が金銭面で苦しくなる」というようなことはなく、そういう意味では満ち足りているはずなのです。にも関わらず、彼らはお互いの精神にどうにかして干渉し続ける人生を選んでいるわけで、ここにシムノンの残酷な指摘があると思います。
老いるということは孤独との並走です。生き別れ、死に別れの繰り返し。そして「老い」というものは逃れようのない人生のさだめです。だから、人間は本質的に「孤独」というものと常に連帯しているのであって、孤独感というものは別に敵でも味方でもなくただの標準装備なわけです。若い頃はこの装備を取り扱うための体力がある。新しい人間関係や経験が何をせずとも目の前に現れる、考え事を処理するための体力もある、選択肢もある。ところが人はいずれ仕事を辞め、家庭に戻ります。定年を迎えて社会人としての役目に区切りをつける、人間関係はそれ以上広がらず最小単位に留まり、その維持とメンテナンスを続ける体力も徐々に失い、遠出をするのも億劫になる。ある時、経験そのものが負担に変わる瞬間がやってくる。次第に両肩にのしかかる孤独が重たさを増したと感じる。いや、孤独が重たくなったのではない、自分の肩があまりに小さくなったのだ、その重みに耐えられる体力を失いつつあるのだ…と、こういう感じで、孤独を脅威とみなせば立ち所に孤独は人の心を蝕みます。
老夫婦はひとりでいることの厄介さを知っています。それはつらいことです。不安なことです。だから、共依存出来る宛先として他者を自分の人生に招き入れます。愛ではないもので人と繋がろうとします。でも目的は愛し合うことではなく、共依存です。ゆえにどんなに相手に腹が立っても、どれほど相手の所業が許せなくても、別れられない。別れるつもりもない。なぜなら、ふたりの目的はそういう意味では既に達成されているからです。そしてこういう問題の解決には、「自分ひとりが生きていくのに充分なお金」なんてなんの役にも立たないのです。人に依存しないで生きていくために最も重要なアイテムは、実はお金よりもまず自分がどう孤独と連帯していくか、その方法を記載したルールブックだからです。
孤独にならない方法はどれもが難しい。実践するためには、たくさんのリソースを割かなければいけないから。でも孤独を“感じずに”生きる方法はそれより容易い。意地が悪かろうと虚しかろうと、様々な方法で自分という存在を相手に意識させ続ければいいんだから。誰かから意識され続けている以上、自分は決して「孤独」には陥らない。
夫婦はどちらが怒りのイニシアチブを握るかで毎日を苛立たしく過ごすけど、その苛立ちにこそ孤独の解決方法を認めている。それは複雑で、実に解きほぐしがたい歪な絆なのです。
2026/07/10読了
猫
ジョルジュ・シムノン著 三輪秀彦訳
創元社推理文庫畳む
CATEGORY:小説感想
フランシス・アイルズ『殺意』読了。
犯人と犯行の手口が先に明かされて、その犯人視点から物語が進むいわゆる「倒述ミステリー」の傑作と言われている本なんですけど、本当にバチくそおもしろい。作者のフランシス・アイルズはもともとがユーモア作家なんだけど、「ミステリ書いた方が儲かるやんけ」ということで『レイトン・コートの謎』という処女作を皮切りに次々作品を発表して、『殺意』は彼がフランシス・アイルズという名義で初めて出した本だそう。ともかく、もともとがユーモア作家ということで、内容にかなりブラックな笑いが効いていてめちゃくちゃ良い。
主人公のビクリー(犯人)は、自尊心だけはやたらに高いが本当は自分の身長が小さいことや学歴が立派ではないことがコンプレックスで、他人の地位や社会的な実績、相手が自分のことをどのように評価してくれるのかばかりを気にしている、実際にはとても臆病で卑屈な性格の持ち主で、そんな男が「殺人」という凶行にあまりにも身勝手な理由で手を染めたことを懸命に自己正当化しつづけるうち、自己憐憫が過ぎるあまりにすべての「殺意」は自分のために公平性と限りない正当性を持つに違いないのだから自分が裁かれるはずがないと思い込み、殺人をとんでもない悪事であり過ちと認める一方で、自分の犯した罪をまるで当然の権利を行使したとばかりに正当化する様を皮肉たっぷりに描いているところが、現代にもまったく同じような思考回路をもつ人間はいるよなぁという点で、非常に興味深く読めた。インターネットにゴロゴロおるで、擬似ビクリー。
ビクリーという男がどういう存在なのかというのをすべて掘り下げて描いていくんだけど、その書き出しが「37歳、チビ」みたいな感じで笑ってしまった。身長が靴をはいて170センチくらいしかなくて、それがビクリーにとってはものすごいコンプレックスで、しかも学歴も育ちもまわりの上流階級とは全然違うからそういうことも本人は気にしていて、コンプレックスの塊だから特に女性と話す時には妙に緊張しちゃうタイプで、なんだけどこのコンプレックスがひるがえって好みの女性を見るとすぐに腰ヘコヘコしだすみたいな最悪のクセがある。夜寝る前は「クラスに突然テロリストが現れて、それを俺はギッタバッタとなぎ倒し…」みたいな妄想で自分を慰めて、それが彼にとってのささやかな楽しみになっているというのも生々しい。奥さんは7つ年上で自分とは性的関係にないどころか形式上は夫婦みたいな冷めきった関係で、自分より若い女の子に「この子こそ俺の理想の女の子だッ!」と熱をあげて一方的に両思いと思い込んでキスをせがんで全力でフラれて、拒絶された途端に「アイツはビッチ!俺の心を弄んだ!」つって逆恨みするタイプで本当に情けなさすぎて泣けてくるんだが、ビクリーは小さな田舎町の開業医なので周囲からの人望はそこそこに厚いんですね。仕事はちゃんとやるタイプ。
そんなビクリーがこの田舎町に引っ越してきたマドレインという、自分より10も年下の女性に熱をあげまくって「だいちゅき結婚すゅ!」となり、マドレインに「余計なこと奥さんに言ったらあかんよ、こういうのはふたりの秘密にしとこうや」と言われたにも関わらず、それでは誠意がなさすぎる!と勝手に盛り上がり、奥さんのジュリアに「そういうわけだから離婚してくだちい」とわざわざ告げてしまう。このあたりからも、自己中心的で思い込みが激しくマドレインという(その時点では)最愛の人の言葉の真意も届かない、自分の自尊心が傷つくことを過度に恐れるあまりなんでも自己解釈で都合よく捉えてしまうところがビクリーにはある、と読める。
冷静な奥さんに「お前の恋愛とかにほんまに微塵も興味ないけどな、でもまあその関係が一年続いて、女のほうもお前と結婚したがってるっちゅーなら離婚したるわ」つって、この寛容さにビクリーもビックリーするんですが、「若い娘エロがんなよ」みたいなこと言われた瞬間「アナタはそんなことしか考えられないんですかぁ?引くんですけど」みたいなこと考えてかなりまともなこと言ってるジュリアに嫌悪感を向ける、この認知の歪みっぷりが「いるいるいるいるこいうヤツ!」という感じで心にグサグサくる。端的にいうと、ビクリーはコンカフェ嬢やホステスにのめり込んで勝手に自滅したのに被害妄想だけは人一倍強くてすぐキレるタイプのおじさんである。
ビクリーはコンプレックスが強すぎて、本当は自分に自信がない。結婚だって燃え上がるような恋愛で…とかじゃなく、社会的に自分がどう見えるかを気にしてのこと。とにかく相手から拒絶されることを過度に恐れていて、自分に対する批判が怖い。単なる思い込みで一方的に相手を好きになったくせに、脳内では勝手にお相手との両想いのバラ色生活が始まっていて、これが真の愛なのだと妄想する。相手から自分が望んだとおりの返報がないと逆ギレし、自分を責めるのではなくなんの非もない相手をなじる。自分を受け入れてくれない女が嫌い。自分は常に弱い立場で尊重されていないし、被害者なのはむしろこっちだと本気で思っている。
フランシス・アイルズはこの手の男に何か断罪を加えてやろうと思ってこの話を書いたのではなく特濃の皮肉を込めてこの物語を描いたんだろうけど、ビクリーと対比される(と読める)男性たちがみんなビクリーとは真逆(確固たる地位がある、地位はなくとも人は良い、若くハツラツ等…)なあたり、「もっと手心というか…」と思ってしまう。ラスト2ページのどんでん返しにもちょっと度肝を抜かれました。
前半、なかなか人が死なず若干退屈なのですが、ビクリーがマドレインと一方的な真剣恋愛(と本人が思い込んでいる何か)を始めたあたりからの加速がエグい。
ビクリー、自分の中に「これだけは手放しで褒められることだ、自分の自信になった経歴だ、これだけの積み重ねが今の自分を作っているんだ、自分はその点で立派だ」みたいな、自分の核というべき経験がなさすぎて、「殺人」という行為そのものに人生における実績みたいな価値を感じちゃってんだよな。自己陶酔と自己肥大化の両方を殺人が後押ししてしまった。自分が好きすぎるのに自分が空っぽ。むしろ今の時代にこそみんなが読んでおくべき良著では…と思いました。これがまた1931年に発表されている作品だというのがもう…。現代にも、たくさんのビクリー予備軍がおりますから。
2026/06/17読了
殺意
フランシス・アイルズ著 大久保康夫訳
創元社推理文庫畳む
犯人と犯行の手口が先に明かされて、その犯人視点から物語が進むいわゆる「倒述ミステリー」の傑作と言われている本なんですけど、本当にバチくそおもしろい。作者のフランシス・アイルズはもともとがユーモア作家なんだけど、「ミステリ書いた方が儲かるやんけ」ということで『レイトン・コートの謎』という処女作を皮切りに次々作品を発表して、『殺意』は彼がフランシス・アイルズという名義で初めて出した本だそう。ともかく、もともとがユーモア作家ということで、内容にかなりブラックな笑いが効いていてめちゃくちゃ良い。
主人公のビクリー(犯人)は、自尊心だけはやたらに高いが本当は自分の身長が小さいことや学歴が立派ではないことがコンプレックスで、他人の地位や社会的な実績、相手が自分のことをどのように評価してくれるのかばかりを気にしている、実際にはとても臆病で卑屈な性格の持ち主で、そんな男が「殺人」という凶行にあまりにも身勝手な理由で手を染めたことを懸命に自己正当化しつづけるうち、自己憐憫が過ぎるあまりにすべての「殺意」は自分のために公平性と限りない正当性を持つに違いないのだから自分が裁かれるはずがないと思い込み、殺人をとんでもない悪事であり過ちと認める一方で、自分の犯した罪をまるで当然の権利を行使したとばかりに正当化する様を皮肉たっぷりに描いているところが、現代にもまったく同じような思考回路をもつ人間はいるよなぁという点で、非常に興味深く読めた。インターネットにゴロゴロおるで、擬似ビクリー。
ビクリーという男がどういう存在なのかというのをすべて掘り下げて描いていくんだけど、その書き出しが「37歳、チビ」みたいな感じで笑ってしまった。身長が靴をはいて170センチくらいしかなくて、それがビクリーにとってはものすごいコンプレックスで、しかも学歴も育ちもまわりの上流階級とは全然違うからそういうことも本人は気にしていて、コンプレックスの塊だから特に女性と話す時には妙に緊張しちゃうタイプで、なんだけどこのコンプレックスがひるがえって好みの女性を見るとすぐに腰ヘコヘコしだすみたいな最悪のクセがある。夜寝る前は「クラスに突然テロリストが現れて、それを俺はギッタバッタとなぎ倒し…」みたいな妄想で自分を慰めて、それが彼にとってのささやかな楽しみになっているというのも生々しい。奥さんは7つ年上で自分とは性的関係にないどころか形式上は夫婦みたいな冷めきった関係で、自分より若い女の子に「この子こそ俺の理想の女の子だッ!」と熱をあげて一方的に両思いと思い込んでキスをせがんで全力でフラれて、拒絶された途端に「アイツはビッチ!俺の心を弄んだ!」つって逆恨みするタイプで本当に情けなさすぎて泣けてくるんだが、ビクリーは小さな田舎町の開業医なので周囲からの人望はそこそこに厚いんですね。仕事はちゃんとやるタイプ。
そんなビクリーがこの田舎町に引っ越してきたマドレインという、自分より10も年下の女性に熱をあげまくって「だいちゅき結婚すゅ!」となり、マドレインに「余計なこと奥さんに言ったらあかんよ、こういうのはふたりの秘密にしとこうや」と言われたにも関わらず、それでは誠意がなさすぎる!と勝手に盛り上がり、奥さんのジュリアに「そういうわけだから離婚してくだちい」とわざわざ告げてしまう。このあたりからも、自己中心的で思い込みが激しくマドレインという(その時点では)最愛の人の言葉の真意も届かない、自分の自尊心が傷つくことを過度に恐れるあまりなんでも自己解釈で都合よく捉えてしまうところがビクリーにはある、と読める。
冷静な奥さんに「お前の恋愛とかにほんまに微塵も興味ないけどな、でもまあその関係が一年続いて、女のほうもお前と結婚したがってるっちゅーなら離婚したるわ」つって、この寛容さにビクリーもビックリーするんですが、「若い娘エロがんなよ」みたいなこと言われた瞬間「アナタはそんなことしか考えられないんですかぁ?引くんですけど」みたいなこと考えてかなりまともなこと言ってるジュリアに嫌悪感を向ける、この認知の歪みっぷりが「いるいるいるいるこいうヤツ!」という感じで心にグサグサくる。端的にいうと、ビクリーはコンカフェ嬢やホステスにのめり込んで勝手に自滅したのに被害妄想だけは人一倍強くてすぐキレるタイプのおじさんである。
ビクリーはコンプレックスが強すぎて、本当は自分に自信がない。結婚だって燃え上がるような恋愛で…とかじゃなく、社会的に自分がどう見えるかを気にしてのこと。とにかく相手から拒絶されることを過度に恐れていて、自分に対する批判が怖い。単なる思い込みで一方的に相手を好きになったくせに、脳内では勝手にお相手との両想いのバラ色生活が始まっていて、これが真の愛なのだと妄想する。相手から自分が望んだとおりの返報がないと逆ギレし、自分を責めるのではなくなんの非もない相手をなじる。自分を受け入れてくれない女が嫌い。自分は常に弱い立場で尊重されていないし、被害者なのはむしろこっちだと本気で思っている。
フランシス・アイルズはこの手の男に何か断罪を加えてやろうと思ってこの話を書いたのではなく特濃の皮肉を込めてこの物語を描いたんだろうけど、ビクリーと対比される(と読める)男性たちがみんなビクリーとは真逆(確固たる地位がある、地位はなくとも人は良い、若くハツラツ等…)なあたり、「もっと手心というか…」と思ってしまう。ラスト2ページのどんでん返しにもちょっと度肝を抜かれました。
前半、なかなか人が死なず若干退屈なのですが、ビクリーがマドレインと一方的な真剣恋愛(と本人が思い込んでいる何か)を始めたあたりからの加速がエグい。
ビクリー、自分の中に「これだけは手放しで褒められることだ、自分の自信になった経歴だ、これだけの積み重ねが今の自分を作っているんだ、自分はその点で立派だ」みたいな、自分の核というべき経験がなさすぎて、「殺人」という行為そのものに人生における実績みたいな価値を感じちゃってんだよな。自己陶酔と自己肥大化の両方を殺人が後押ししてしまった。自分が好きすぎるのに自分が空っぽ。むしろ今の時代にこそみんなが読んでおくべき良著では…と思いました。これがまた1931年に発表されている作品だというのがもう…。現代にも、たくさんのビクリー予備軍がおりますから。
2026/06/17読了
殺意
フランシス・アイルズ著 大久保康夫訳
創元社推理文庫畳む
CATEGORY:小説感想
S・A・コスビーの『すべての罪は血を流す』を店頭でなんとなく買ってしばらく積んでいたのだが、ふと読んだら恐ろしい速度でハマった。失われていた読書への熱がぶり返し、活字だ!もっと活字をくれ!となってから、去年と今年は最も本を読んでいた学生時代と同じくらいのペースで読書が出来ている。
ただ、そもそも私は年間の読書量がそもそもまったく多くないタイプだし、読むのが早いというわけでもない。最もたくさん読んでいた時期でも、1ヶ月に1冊というペース。社会人になってからはそれより減って、年間で読む量は2冊から4冊というところで、それも分厚い本は避けていた。新しく、更には膨大な情報量を受け取るのが非常に億劫という時代がここ5、6年くらいあり、複雑な推理小説や犯罪小説からは距離を置いていたし、もっと噛み砕きやすいエンタメ寄りの小説、浅田次郎や西村京太郎などを好んで読むという感じだった。特に浅田次郎作品にはお世話になりました。壬生義士伝は傑作です。
そんな感じでほぼ溶けた氷みたいな読書勢だったのが、S・A・コスビーと出会って側頭部をガツンとイカれた。面白すぎて文字を読むというより気付いたら飲んでいた。すぐに既刊をすべて買った。自分が液体から個体に戻ろうとしている感覚だった。
この『灰の王』もどれほど心待ちにしていたか。私をもう一度「本を読む」という面白さと楽しさの深いぬくもりに包み込んでくれたS・A・コスビーに最大の賞賛と賛辞を送りながら、1ページ1ページ大切に読んで、出来れば1週間くらい楽しむぞ…と思っていたのに興奮と好奇心がそれを許してくれなかった。かぶりつくように読んで、そして泣いた。感動とかではなく、物語の登場人物たちのあまりにも深くあまりにも健気で、あまりにも無力であまりにも空回った愛の虚しさに…。本当につらい。呪術廻戦のつらさを1呪術廻戦とすると今回の話は1.5呪術廻戦くらいのつらさがある。
S・A・コスビーは「家族」を書く。自分たちの体の中に流れている確かな「血」を書く。『灰の王』は犯罪小説でありながら、家族の在り方と罪とを問うドラマでもある。登場人物たちはみな家族を愛している。自分の人生を投げ打ってもいいと思えるほど心から、すべてを捧げても構わないと思えるほど、家族を愛している。兄。姉。弟。きょうだい。真剣で痛いほど一途な愛。でも、彼らは愛し方が分からない。愛だけ知っていて、やり方だけを知らない。
S・A・コスビーが活写してきた今までの主人公は、すでに闇社会からは手を切っている/またはすでに公権力の側にあるが、悪を排除するため暴力という過剰なエネルギーの迸る世界に再び足を踏み入れるというパターンが多かった。正義が正義を実行するのではなく、悪の中にいびつに花開くもう片方の悪が、さながらゲームセンターに置かれたメダルプッシャーのように農場の生活を脅かす野獣たちを押し出して排除するという物語。
一方『灰の王』では、主人公ローマンはビジネスで成功した金持ちではあるものの、反社会的行為に加担などしていない「一般人」で、ある程度好き勝手出来る金を持ってはいるがバットマンなどではない男だ。しかし、弟のダンテが麻薬ディーラーに“なりそこねた”せいで、ローマンは財力ではなく自分のビジネスセンスでバットケイブを作り上げなくてはならなくなった。ただし、それは絶対的な悪に対して正義の鉄槌を下すためなどではなく、ただ家族を守るためにである。
ローマンには弟ダンテの他に妹のネヴェアがおり、彼女もまた悪徳警官チョーンシーとの不倫や家族への疑心など、後暗い秘密を抱えている。彼ら三兄弟が幼い頃に“失踪”した母親と、ダンテへの“見せしめ”として寝たきりにさせられた父親。両親につきまとう影と噂。三者三様の愛が複雑に絡み合い、それが相手に安らぎや恋しさを覚えさせるのではなく常に不安と猜疑心に変換されてしまう。
南部ノワールとしての舞台設定も完璧だ。コミュニティはその深い絆のために常に犠牲者を選び、対価を支払わなければならない。沈黙を選び続けることは出来ない。
また登場人物たちの魅力も深い。脳内では完全に主人公をマイケル・B・ジョーダンの顔で再生している。
今年もコスビーはゴールドダガー賞にノミネートされていたが、受賞はアビゲイル・ディーンの『The Death Of Us』となったようだ。こちらもいずれ読みたい。
S・A・コスビーの好きなところ、カーチェイスや銃撃戦の描写が凄まじい疾走感と重量をたたえて描かれているところなのだが、これは無駄な冗長性をこのシーン(カーチェイスや銃撃戦、その他暴力の現場)において一切排しているからなんだな、と思った。例えばボストン・テランなんかは、もはや描き出すというより暴き出すって感じの強烈な気迫に満ちた文章が特徴的だけど、テランの場合は暴力描写の中に詩的なほど鮮やかな人物描写や時間と一体化した空間を書き込んでしまうことで、すべてのシーンがスローモーションに読める。
ボストン・テランは『暴力の教義』と『神は銃弾』しか読んだことないので詳しいわけではないんだけど、両作とも冨樫義博が描き出すような人間のエグみが好きな人にはオススメ出来ると思う。『暴力の教義』も映画化する話があったがあれは結局立ち消えたのかな。『神は銃弾』のほうは2023年に映画化されていたらしくて(知らなかった)観たいような、あの苛烈な暴力描写を知っているうえで改めて映像として観たいかと言われると悩ましいような。
コスビーの作品も映画化の権利だけはどこぞの会社が押さえていると聞いたので、5年後になるか10年後になるかはたまた20年後になるかは分からないが、映像化が楽しみではある。
暴力と砂漠って死ぬほど相性がいいよな。呪われるなら村、霊に出会うなら屋敷、怪異と出会うなら山、人を埋めるなら森、死にに行くなら海、人を銃で殺すなら砂漠。私はそのように思います。
2026/07/02読了
灰の王
S・A・コスビー著 加賀山卓朗訳
ハーパーBOOKS畳む
ただ、そもそも私は年間の読書量がそもそもまったく多くないタイプだし、読むのが早いというわけでもない。最もたくさん読んでいた時期でも、1ヶ月に1冊というペース。社会人になってからはそれより減って、年間で読む量は2冊から4冊というところで、それも分厚い本は避けていた。新しく、更には膨大な情報量を受け取るのが非常に億劫という時代がここ5、6年くらいあり、複雑な推理小説や犯罪小説からは距離を置いていたし、もっと噛み砕きやすいエンタメ寄りの小説、浅田次郎や西村京太郎などを好んで読むという感じだった。特に浅田次郎作品にはお世話になりました。壬生義士伝は傑作です。
そんな感じでほぼ溶けた氷みたいな読書勢だったのが、S・A・コスビーと出会って側頭部をガツンとイカれた。面白すぎて文字を読むというより気付いたら飲んでいた。すぐに既刊をすべて買った。自分が液体から個体に戻ろうとしている感覚だった。
この『灰の王』もどれほど心待ちにしていたか。私をもう一度「本を読む」という面白さと楽しさの深いぬくもりに包み込んでくれたS・A・コスビーに最大の賞賛と賛辞を送りながら、1ページ1ページ大切に読んで、出来れば1週間くらい楽しむぞ…と思っていたのに興奮と好奇心がそれを許してくれなかった。かぶりつくように読んで、そして泣いた。感動とかではなく、物語の登場人物たちのあまりにも深くあまりにも健気で、あまりにも無力であまりにも空回った愛の虚しさに…。本当につらい。呪術廻戦のつらさを1呪術廻戦とすると今回の話は1.5呪術廻戦くらいのつらさがある。
S・A・コスビーは「家族」を書く。自分たちの体の中に流れている確かな「血」を書く。『灰の王』は犯罪小説でありながら、家族の在り方と罪とを問うドラマでもある。登場人物たちはみな家族を愛している。自分の人生を投げ打ってもいいと思えるほど心から、すべてを捧げても構わないと思えるほど、家族を愛している。兄。姉。弟。きょうだい。真剣で痛いほど一途な愛。でも、彼らは愛し方が分からない。愛だけ知っていて、やり方だけを知らない。
S・A・コスビーが活写してきた今までの主人公は、すでに闇社会からは手を切っている/またはすでに公権力の側にあるが、悪を排除するため暴力という過剰なエネルギーの迸る世界に再び足を踏み入れるというパターンが多かった。正義が正義を実行するのではなく、悪の中にいびつに花開くもう片方の悪が、さながらゲームセンターに置かれたメダルプッシャーのように農場の生活を脅かす野獣たちを押し出して排除するという物語。
一方『灰の王』では、主人公ローマンはビジネスで成功した金持ちではあるものの、反社会的行為に加担などしていない「一般人」で、ある程度好き勝手出来る金を持ってはいるがバットマンなどではない男だ。しかし、弟のダンテが麻薬ディーラーに“なりそこねた”せいで、ローマンは財力ではなく自分のビジネスセンスでバットケイブを作り上げなくてはならなくなった。ただし、それは絶対的な悪に対して正義の鉄槌を下すためなどではなく、ただ家族を守るためにである。
ローマンには弟ダンテの他に妹のネヴェアがおり、彼女もまた悪徳警官チョーンシーとの不倫や家族への疑心など、後暗い秘密を抱えている。彼ら三兄弟が幼い頃に“失踪”した母親と、ダンテへの“見せしめ”として寝たきりにさせられた父親。両親につきまとう影と噂。三者三様の愛が複雑に絡み合い、それが相手に安らぎや恋しさを覚えさせるのではなく常に不安と猜疑心に変換されてしまう。
南部ノワールとしての舞台設定も完璧だ。コミュニティはその深い絆のために常に犠牲者を選び、対価を支払わなければならない。沈黙を選び続けることは出来ない。
また登場人物たちの魅力も深い。脳内では完全に主人公をマイケル・B・ジョーダンの顔で再生している。
今年もコスビーはゴールドダガー賞にノミネートされていたが、受賞はアビゲイル・ディーンの『The Death Of Us』となったようだ。こちらもいずれ読みたい。
S・A・コスビーの好きなところ、カーチェイスや銃撃戦の描写が凄まじい疾走感と重量をたたえて描かれているところなのだが、これは無駄な冗長性をこのシーン(カーチェイスや銃撃戦、その他暴力の現場)において一切排しているからなんだな、と思った。例えばボストン・テランなんかは、もはや描き出すというより暴き出すって感じの強烈な気迫に満ちた文章が特徴的だけど、テランの場合は暴力描写の中に詩的なほど鮮やかな人物描写や時間と一体化した空間を書き込んでしまうことで、すべてのシーンがスローモーションに読める。
ボストン・テランは『暴力の教義』と『神は銃弾』しか読んだことないので詳しいわけではないんだけど、両作とも冨樫義博が描き出すような人間のエグみが好きな人にはオススメ出来ると思う。『暴力の教義』も映画化する話があったがあれは結局立ち消えたのかな。『神は銃弾』のほうは2023年に映画化されていたらしくて(知らなかった)観たいような、あの苛烈な暴力描写を知っているうえで改めて映像として観たいかと言われると悩ましいような。
コスビーの作品も映画化の権利だけはどこぞの会社が押さえていると聞いたので、5年後になるか10年後になるかはたまた20年後になるかは分からないが、映像化が楽しみではある。
暴力と砂漠って死ぬほど相性がいいよな。呪われるなら村、霊に出会うなら屋敷、怪異と出会うなら山、人を埋めるなら森、死にに行くなら海、人を銃で殺すなら砂漠。私はそのように思います。
2026/07/02読了
灰の王
S・A・コスビー著 加賀山卓朗訳
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CATEGORY:小説感想
もともと雑記帳代わりにくるっぷを使っていて、それで特に不足を感じていないので、今後も基本的にはくるっぷにおります。こちらは くるっぷ に投げたなんらかの感想とかニュースへの雑感なんかを放り投げる備忘録として運用していく予定です。
折角設置したので、テスト代わりに先日くるっぷに投げた『肉は美し』の感想(の改訂版)をこちらにも。
『肉は美し』、本の帯に「Tiktokで話題沸騰」と書いてあるのを見て、私の中の悪いインターネットがTiktok愛好者に3行以上文章読めるヤツなんか居ないだろと唾棄すべき極めて差別的な偏見を囁いてきたので、それじゃあ一丁買って読むかという気になり購入を決めました。導入としては最低だと思います。
アルゼンチン発の「食人ディストピアSFホラー」というふうに紹介されているんですけど、難しい用語や複雑な設定なども出てこずかなり世界観を理解しやすいSFホラー入門編という感じ。グロテスクな部分は多分にあるのですがそこまで苛烈な描写ではなく、非常に淡々としていて読みやすいです。それでいて読後にちゃんと「毒を飲んだ」という感覚が残る。とても良かった。確かにTikTokで話題沸騰しそうだなとも思いました。こういうグロテスクさを大袈裟に広告するタイプのインフルエンサーは居るだろうなという意味で。
舞台は動物が人命を脅かす病原菌の保体となってしまった近未来、動物を食肉として生産・出荷・消費することが出来なくなり、人間を家畜として扱うことが合法的に認められた社会で、その家畜人間(作中ではこれを【人間】と表現することは法律で固く禁じられている)を屠殺する業務に従事しているマルコスという男が本作の主人公。
彼はもともと食肉加工(もちろん家畜の)業者だったのですが、現在はその知識を活かして人肉加工会社に勤めてそこそこの地位についているサラリーマン。しかし彼の生活は厳しいもので、社会が合法的に人間食っていいとかマジでワケ分かんないことを言い出して世の中がありえない狂い方したことに絶望したお父さんは認知症になっちゃうし、実の妹はボケた父親の介護にノンタッチで父親が入居する施設に会いに来ようともせず、マルコスはひとりで父親の介護負担を背負っており、不妊治療を続けてどうにか授かった子供も生まれてすぐに亡くなってしまって、そのせいで妻は精神的に病んで実家に戻っていて、人肉加工になんの罪悪感も持たないどころか嬉々として人の肉を切り刻むサイコパス経営者に囲まれて心労もハンパじゃないし、なんかもうにっちもさっちもいかなくてちょっと病んでる男なんですけど、そんな彼がある時、取引先の人間に食肉用に飼育された最高級人肉女性をプレゼントされるのですね。
マルコスという主人公は悲観的な男で、自分がどれほど悲劇的な人生を歩んでいるかということにもかなり自覚的です。自分の父親、妹という心理的距離が最も近いはずの家族が分裂している問題、苦労した末に授かった子を喪失してしまった父親として、その死を処理しきれない自分自身の精神の問題、また妻も同様に病んでしまい、そうした家庭の問題をも抱えなければいけないという多重の精神的負荷、加えて仕事においても安寧の時はなく、自分自身が抱える業務の違和感と経営者たちの臨む景色の間に深い断絶があることに絶望している。あらゆる方面から悲劇に見舞われている実に《悲劇的な》男マルコスは、自分とは即ち悲劇の男なんだという諦観の中に生き、日々を苛立ちと共に過ごしている。そんな主人公が、人肉として育てられて出荷を待っていた、『見た目は人間中身は家畜』という地獄名探偵(ヘル・コナン)みたいな決して《人として》扱ってはいけない存在と出会ってしまい…
『肉は美し』の世界において描写される社会というのは、「食べられなくなった動物の肉の代わりに人間の肉を食べる」という極端な選択をした社会です。つまり、需要を満たすためであれば究極的な超消費を肯定する、資本主義の最果てのような社会です。作中に描写される食用人間たちは肉の一枚とて無駄にはされず、その皮さえも加工品となります。実験動物の代わりでもある。人格はほぼないに等しいような描かれ方をされていて、同じなのは見た目だけ…という建付けです。でも誰も彼もがこの食事にありつけるわけではない。工場で管理されて生産された「美味しい人肉」を食べられるのは、ミドルクラス以上の人間たちだけということ。
動物性タンパク質がないなら人肉食べればいいじゃない。国家が(無論自分たちを含む)ブルジョワ様の【消費】のために超えてはならない一線を超えた社会、ここに描かれているのはいわば資本主義を限界まで加速させた結果倫理の崩壊を引き起こしている社会です。シリコンバレーの技術者の一部の集団が提唱している「加速主義」のようなカルト的な主張は、この資本主義の限界をテック企業が突き破ってこそ社会は前進するのだから、限りなく資本主義を拡大せよと謳っているけど、本作の舞台ではテクノロジーがこれを救いません。つまり技術革新は人を死に至らしめる病を克服出来ず、また動物性タンパク質の代替を生み出すことも出来ず、しかして消費に対する希求は留まることがなく、今ある資源の分配を拒否し、需要を満たすためであれば人倫を踏み越えることも厭わなくなった社会、文化や文明というものが【カネ】と【消費活動】にとって代わられた世界です。
設計としてかなりの無理のある【超消費】は、一部の富裕層にだけはやたらとカネが集まっているのに市場にはモノがないという状態の時にこそ起こる。一部にだけ富が集中してるってことは市井の人々の生活は困窮しているということで、作中では貧富の差が壮絶なものであるということが肉の消費を通じて描かれています。金持ちもヤバいけど貧困層もヤバい。
で、モノがなくなり需要を満たせず、著しく需給の均衡を欠く貧困社会では下記のような価値観がとても強い実行力を持っていて、『肉』という富の象徴はやはり富裕層を中心に消費されます。一部の限られた層の人たちへの分配だから、ここでは人としての倫理よりも消費のための倫理が優先されます。
・我々が需要する限りにおいて供給はされるべきであり(支払い能力がある以上、安全に肉を食べる権利がある)、
・需要を満たすため生産において限りなく合理的な手段をとることは、生命倫理とはまた切り分けて考えねばならない経済の問題で(肉として生まれたものを肉として消費することは悪ではないので、その過程において発生する諸問題は一切を免責されるべきである)、
・また、消費とは生活を過不足なく運用するために必要不可欠な文化的かつ文明的行為であり(美味しい肉を食べるために、肉そのものは安全な場所で管理されなければならず、その点において虐待は許されず、文明的な運用が義務付けられている、であるならば、それは肉そのものの権利すら包括的に保護しているということであり、この合理性を保持する以上、我々は文化的かつ人間的な価値観を喪失しえない)、
・需要を満たすための生産消費は雇用の創出にも繋がり、そのサイクルの中で経済を発展させ、また安定させるものでもあるのだから、仮にしばしば労働者が比重の偏った負担を強いられたとしても、その利益はいずれ労働者に還元される(自らの、受け取りたい/受け取りたくないという意思に関わらず、食肉は市場を潤し潤った市場の恩恵を国民はすべからく受け取っているのだから、その責任はすべてに分散され共有される)
文化や文明が人間の道徳を構成するのではなく、消費行動が人間の「善性」「善意」そのものの価値観まで支配するという考えです。だから人々は食人行為を「食“人”」とは言わない。あくまでもこれは「食事」という行為で、食べているものも「ヒト」ではなく「頭」(作中で食用人間は「頭」と呼ばれる)である。呼び方から強制し、情報統制を徹底する。これは【文化】なんですよ、というポーズ。ただの消費行動を文化的行為と見なすためには、言葉による書き換えがとても重要なんだなぁ。その書き換えがあってこそ、残虐な行為には大量の免罪符が与えられることになります。だって、人は肉を食わねばいきていけないし、動物性タンパク質がなければ健康が損なわれるし、食用の「頭」はそういう生き物として飼育されており、わざわざ痛めつけて殺すといったようなことはしないのだし、食用の「頭」に対する性的な虐待も無論罪に問われる行為で、食の楽しみを守るということは我々の基本的人権を守ることであり、食事は生活において不可欠な行為なのだから、正当性はある。したがって、合法的に肉を手に入れるために必要な手段を講じることは、「悪」ではない。
それが真実かどうかはひとまず置いておいて、そういう「御札」を貼るという行為は、それそのものの価値自体に大きく作用します。だけどマルコスは食肉加工会社で食用人間がどのような環境でどのように飼育され、どんな人間に何をされるか、またどのように処理されているかを知っている。実際に供される「肉」が実際には食肉用の人間だけではないという現実を知っている。そしてその肉がどういった人達に需要され、どういった用途のために使用されているのかも分かっている。マルコスの頭の中には、これを「肉」として見なければいけない自分と「しかしこれは人間の形をしている」と認識する自分がそれぞれに存在していて、常に矛盾を抱えています。本当に生きるために必要ならば納得が出来るかも知れない。それを職業と割り切ることも出来るかも知れない。実際、そう考えている仲間は居る。しかし、現実的にはこれはただの「食人」で、彼らはかつて人間の形をしていたものを食べている。人間が人間を食べるという一線を超えた人々にとって、人肉食のハードルはかなり下がってしまった。つまり、自分と同じ人間を傷つけるハードル、殺しのハードル、そういったものが以前よりずっと低くなってしまった。命の価値自体が変容してしまった。その一方で、マルコスは子供を喪ったら悲しく苦しいわけです。親がボケてまともに会話も出来なくなっていることを嘆く気持ちがあるわけです。妹が介護に参加せず協力的な態度を見せないことに冷酷さを感じるわけです。社会全体が命に対するハードルを下げたとしても、私個人にとっての命のハードルは変わらない。この矛盾が、マルコスを苦しめている。
主人公のマルコスは本当に悲劇的な人物で、 様々な不条理の中をもがく男として描かれているのですが、この人物描写は実に巧みです。
彼の描かれ方としてはこうなわけです。つまり、彼は今自分がやっていることをとても残酷で惨たらしいことだと感じているけど、父親の介護費用を賄うためにはこの選択に頼らざるを得ないから仕方なく仕事を引き受けているという立場で、喪った子供や病んだ妻のことを悼んだり思いやったりするといった心理的コストの支払いのためにはどこかに苛立ちをぶつける必要もあって、その苛立ちの捌け口のためには、エロい知り合いの女と乱暴なセックスもするし、そのエロい知り合いの女をエロがっている男の前で見せつけるようなプレイをすることで溜飲を下げてもいる。かつての彼は飼っていた犬を本当に愛していて、今でも犬に対しては格別の思い入れがあるんだけど、生き残った野犬たちが子供たちに虐待されているところに遭遇しても割り込んでいったりは出来ないし、犬一匹救えない。かといってそんな自分を責めたり哀れんだりといったようなことはなく、悪いのは自分という個人ではなくこういう社会の構造なんだと世の中に対する暗い怒りを抱えている。上司や取引先のお偉いさんには逆らえないが、特別苛立っている時には、女性のサイコパス研究者くらいになら嫌味な態度もとる。
マルコスはまるで「こちら側」の人間であるかのような描かれ方をします。悪の当事者ではなく、悪の傍観者という立場です。肉を捌くということに罪悪感があり悲しさがある。つらさがある。自分の仕事に違和感がある。おかしいと思っている。それを誰にも言えないでいる。死ぬことを恐れている。家族の尊厳が傷つくことを恐れている。どこにでもいる、小さくとも、確かな倫理観に基づいて思考することの出来る人物。「あなた」と同じ。「わたし」と同じ。最初はそういうふうに彼を読むことが出来る。しかし、マルコスは自分より強いものには逆らえない。現状を打破するための努力は出来ない。完全に人肉食や人肉加工を受け入れている取引先の人々にささやかな意思表示をすることも出来ない。子供たちが生き残った野犬を虐待する場面に遭遇してもただ見ているだけで何もしない。子供が死んでしまい心のバランスを崩す妻に寄り添えない。妹を憎んでいて、取引先の女を乱暴に抱き、女性の研究者相手にならストレートな苛立ちを見せる…彼は、今この瞬間に出来る最大限普通の振る舞いをして新しい常識から逸脱しない、ゆえに、彼は自分自身の「差別意識」に気付きもしません。
マルコスは家族や社会的地位に縛られています。食肉加工業者として日々「肉」を処理しながら、自分自身はそういう肉を決して食べないのは、その行為に生理的な極めて強い嫌悪感を覚えるからです。だから貢物として贈られた高級人肉女性のことも、“食べは”しません。
しかし、この物語で提示される「消費」は、食べるという行為をはるかに超えた、もっとグロテスクな行為であり…
マルコスの人間性は悲劇によって保たれています。子供を喪った父親という自分自身の悲劇が、彼に現状に対して不満を持ち、怒りと悲しみを覚える平凡な男の人格を与えています。この物語が明示するのは、「行き場のない怒り」や「途方もない悲しみ」こそが、実は人が「人」というものに大きく共感し、精神的な共鳴を送受信するアンテナになっているという事実です。では、その「悲劇」を克服した彼は、その代わりのアンテナをどこに求めるようになるのか。
マルコスと同じ「あなた」も「わたし」も、結局はこの超消費社会でひたすら滑車を回し続けている残酷な消費者でしかないとしたら。そしてその残酷さに、当事者ほど無自覚なのはなぜなのか。他人の誤った行いには強烈な忌々しさを感じるのに、自分の手だけはあんなふうに汚れていないと考えてしまうのはなぜなのか。人命を家畜と等しく扱う富裕層(遊びで人間狩りとかする)を心底下品と軽蔑しながら彼らを打倒しようとはせず、その日食うにも困っている最貧困の人々(腐った人肉を拾い集めて食ったりする)に憐れみより苛立ちを感じて常に攻撃の口実を探してしまうのはなぜなのか。
その矛盾の答えを、物語は最後の最後で明示してくれます。これ以上ないグロさをもって。
2026/05/14読了
肉は美し
アウグスティナ・バスティリカ著 宮崎真紀訳
河出書房新社畳む
折角設置したので、テスト代わりに先日くるっぷに投げた『肉は美し』の感想(の改訂版)をこちらにも。
『肉は美し』、本の帯に「Tiktokで話題沸騰」と書いてあるのを見て、私の中の悪いインターネットがTiktok愛好者に3行以上文章読めるヤツなんか居ないだろと唾棄すべき極めて差別的な偏見を囁いてきたので、それじゃあ一丁買って読むかという気になり購入を決めました。導入としては最低だと思います。
アルゼンチン発の「食人ディストピアSFホラー」というふうに紹介されているんですけど、難しい用語や複雑な設定なども出てこずかなり世界観を理解しやすいSFホラー入門編という感じ。グロテスクな部分は多分にあるのですがそこまで苛烈な描写ではなく、非常に淡々としていて読みやすいです。それでいて読後にちゃんと「毒を飲んだ」という感覚が残る。とても良かった。確かにTikTokで話題沸騰しそうだなとも思いました。こういうグロテスクさを大袈裟に広告するタイプのインフルエンサーは居るだろうなという意味で。
舞台は動物が人命を脅かす病原菌の保体となってしまった近未来、動物を食肉として生産・出荷・消費することが出来なくなり、人間を家畜として扱うことが合法的に認められた社会で、その家畜人間(作中ではこれを【人間】と表現することは法律で固く禁じられている)を屠殺する業務に従事しているマルコスという男が本作の主人公。
彼はもともと食肉加工(もちろん家畜の)業者だったのですが、現在はその知識を活かして人肉加工会社に勤めてそこそこの地位についているサラリーマン。しかし彼の生活は厳しいもので、社会が合法的に人間食っていいとかマジでワケ分かんないことを言い出して世の中がありえない狂い方したことに絶望したお父さんは認知症になっちゃうし、実の妹はボケた父親の介護にノンタッチで父親が入居する施設に会いに来ようともせず、マルコスはひとりで父親の介護負担を背負っており、不妊治療を続けてどうにか授かった子供も生まれてすぐに亡くなってしまって、そのせいで妻は精神的に病んで実家に戻っていて、人肉加工になんの罪悪感も持たないどころか嬉々として人の肉を切り刻むサイコパス経営者に囲まれて心労もハンパじゃないし、なんかもうにっちもさっちもいかなくてちょっと病んでる男なんですけど、そんな彼がある時、取引先の人間に食肉用に飼育された最高級人肉女性をプレゼントされるのですね。
マルコスという主人公は悲観的な男で、自分がどれほど悲劇的な人生を歩んでいるかということにもかなり自覚的です。自分の父親、妹という心理的距離が最も近いはずの家族が分裂している問題、苦労した末に授かった子を喪失してしまった父親として、その死を処理しきれない自分自身の精神の問題、また妻も同様に病んでしまい、そうした家庭の問題をも抱えなければいけないという多重の精神的負荷、加えて仕事においても安寧の時はなく、自分自身が抱える業務の違和感と経営者たちの臨む景色の間に深い断絶があることに絶望している。あらゆる方面から悲劇に見舞われている実に《悲劇的な》男マルコスは、自分とは即ち悲劇の男なんだという諦観の中に生き、日々を苛立ちと共に過ごしている。そんな主人公が、人肉として育てられて出荷を待っていた、『見た目は人間中身は家畜』という地獄名探偵(ヘル・コナン)みたいな決して《人として》扱ってはいけない存在と出会ってしまい…
『肉は美し』の世界において描写される社会というのは、「食べられなくなった動物の肉の代わりに人間の肉を食べる」という極端な選択をした社会です。つまり、需要を満たすためであれば究極的な超消費を肯定する、資本主義の最果てのような社会です。作中に描写される食用人間たちは肉の一枚とて無駄にはされず、その皮さえも加工品となります。実験動物の代わりでもある。人格はほぼないに等しいような描かれ方をされていて、同じなのは見た目だけ…という建付けです。でも誰も彼もがこの食事にありつけるわけではない。工場で管理されて生産された「美味しい人肉」を食べられるのは、ミドルクラス以上の人間たちだけということ。
動物性タンパク質がないなら人肉食べればいいじゃない。国家が(無論自分たちを含む)ブルジョワ様の【消費】のために超えてはならない一線を超えた社会、ここに描かれているのはいわば資本主義を限界まで加速させた結果倫理の崩壊を引き起こしている社会です。シリコンバレーの技術者の一部の集団が提唱している「加速主義」のようなカルト的な主張は、この資本主義の限界をテック企業が突き破ってこそ社会は前進するのだから、限りなく資本主義を拡大せよと謳っているけど、本作の舞台ではテクノロジーがこれを救いません。つまり技術革新は人を死に至らしめる病を克服出来ず、また動物性タンパク質の代替を生み出すことも出来ず、しかして消費に対する希求は留まることがなく、今ある資源の分配を拒否し、需要を満たすためであれば人倫を踏み越えることも厭わなくなった社会、文化や文明というものが【カネ】と【消費活動】にとって代わられた世界です。
設計としてかなりの無理のある【超消費】は、一部の富裕層にだけはやたらとカネが集まっているのに市場にはモノがないという状態の時にこそ起こる。一部にだけ富が集中してるってことは市井の人々の生活は困窮しているということで、作中では貧富の差が壮絶なものであるということが肉の消費を通じて描かれています。金持ちもヤバいけど貧困層もヤバい。
で、モノがなくなり需要を満たせず、著しく需給の均衡を欠く貧困社会では下記のような価値観がとても強い実行力を持っていて、『肉』という富の象徴はやはり富裕層を中心に消費されます。一部の限られた層の人たちへの分配だから、ここでは人としての倫理よりも消費のための倫理が優先されます。
・我々が需要する限りにおいて供給はされるべきであり(支払い能力がある以上、安全に肉を食べる権利がある)、
・需要を満たすため生産において限りなく合理的な手段をとることは、生命倫理とはまた切り分けて考えねばならない経済の問題で(肉として生まれたものを肉として消費することは悪ではないので、その過程において発生する諸問題は一切を免責されるべきである)、
・また、消費とは生活を過不足なく運用するために必要不可欠な文化的かつ文明的行為であり(美味しい肉を食べるために、肉そのものは安全な場所で管理されなければならず、その点において虐待は許されず、文明的な運用が義務付けられている、であるならば、それは肉そのものの権利すら包括的に保護しているということであり、この合理性を保持する以上、我々は文化的かつ人間的な価値観を喪失しえない)、
・需要を満たすための生産消費は雇用の創出にも繋がり、そのサイクルの中で経済を発展させ、また安定させるものでもあるのだから、仮にしばしば労働者が比重の偏った負担を強いられたとしても、その利益はいずれ労働者に還元される(自らの、受け取りたい/受け取りたくないという意思に関わらず、食肉は市場を潤し潤った市場の恩恵を国民はすべからく受け取っているのだから、その責任はすべてに分散され共有される)
文化や文明が人間の道徳を構成するのではなく、消費行動が人間の「善性」「善意」そのものの価値観まで支配するという考えです。だから人々は食人行為を「食“人”」とは言わない。あくまでもこれは「食事」という行為で、食べているものも「ヒト」ではなく「頭」(作中で食用人間は「頭」と呼ばれる)である。呼び方から強制し、情報統制を徹底する。これは【文化】なんですよ、というポーズ。ただの消費行動を文化的行為と見なすためには、言葉による書き換えがとても重要なんだなぁ。その書き換えがあってこそ、残虐な行為には大量の免罪符が与えられることになります。だって、人は肉を食わねばいきていけないし、動物性タンパク質がなければ健康が損なわれるし、食用の「頭」はそういう生き物として飼育されており、わざわざ痛めつけて殺すといったようなことはしないのだし、食用の「頭」に対する性的な虐待も無論罪に問われる行為で、食の楽しみを守るということは我々の基本的人権を守ることであり、食事は生活において不可欠な行為なのだから、正当性はある。したがって、合法的に肉を手に入れるために必要な手段を講じることは、「悪」ではない。
それが真実かどうかはひとまず置いておいて、そういう「御札」を貼るという行為は、それそのものの価値自体に大きく作用します。だけどマルコスは食肉加工会社で食用人間がどのような環境でどのように飼育され、どんな人間に何をされるか、またどのように処理されているかを知っている。実際に供される「肉」が実際には食肉用の人間だけではないという現実を知っている。そしてその肉がどういった人達に需要され、どういった用途のために使用されているのかも分かっている。マルコスの頭の中には、これを「肉」として見なければいけない自分と「しかしこれは人間の形をしている」と認識する自分がそれぞれに存在していて、常に矛盾を抱えています。本当に生きるために必要ならば納得が出来るかも知れない。それを職業と割り切ることも出来るかも知れない。実際、そう考えている仲間は居る。しかし、現実的にはこれはただの「食人」で、彼らはかつて人間の形をしていたものを食べている。人間が人間を食べるという一線を超えた人々にとって、人肉食のハードルはかなり下がってしまった。つまり、自分と同じ人間を傷つけるハードル、殺しのハードル、そういったものが以前よりずっと低くなってしまった。命の価値自体が変容してしまった。その一方で、マルコスは子供を喪ったら悲しく苦しいわけです。親がボケてまともに会話も出来なくなっていることを嘆く気持ちがあるわけです。妹が介護に参加せず協力的な態度を見せないことに冷酷さを感じるわけです。社会全体が命に対するハードルを下げたとしても、私個人にとっての命のハードルは変わらない。この矛盾が、マルコスを苦しめている。
主人公のマルコスは本当に悲劇的な人物で、 様々な不条理の中をもがく男として描かれているのですが、この人物描写は実に巧みです。
彼の描かれ方としてはこうなわけです。つまり、彼は今自分がやっていることをとても残酷で惨たらしいことだと感じているけど、父親の介護費用を賄うためにはこの選択に頼らざるを得ないから仕方なく仕事を引き受けているという立場で、喪った子供や病んだ妻のことを悼んだり思いやったりするといった心理的コストの支払いのためにはどこかに苛立ちをぶつける必要もあって、その苛立ちの捌け口のためには、エロい知り合いの女と乱暴なセックスもするし、そのエロい知り合いの女をエロがっている男の前で見せつけるようなプレイをすることで溜飲を下げてもいる。かつての彼は飼っていた犬を本当に愛していて、今でも犬に対しては格別の思い入れがあるんだけど、生き残った野犬たちが子供たちに虐待されているところに遭遇しても割り込んでいったりは出来ないし、犬一匹救えない。かといってそんな自分を責めたり哀れんだりといったようなことはなく、悪いのは自分という個人ではなくこういう社会の構造なんだと世の中に対する暗い怒りを抱えている。上司や取引先のお偉いさんには逆らえないが、特別苛立っている時には、女性のサイコパス研究者くらいになら嫌味な態度もとる。
マルコスはまるで「こちら側」の人間であるかのような描かれ方をします。悪の当事者ではなく、悪の傍観者という立場です。肉を捌くということに罪悪感があり悲しさがある。つらさがある。自分の仕事に違和感がある。おかしいと思っている。それを誰にも言えないでいる。死ぬことを恐れている。家族の尊厳が傷つくことを恐れている。どこにでもいる、小さくとも、確かな倫理観に基づいて思考することの出来る人物。「あなた」と同じ。「わたし」と同じ。最初はそういうふうに彼を読むことが出来る。しかし、マルコスは自分より強いものには逆らえない。現状を打破するための努力は出来ない。完全に人肉食や人肉加工を受け入れている取引先の人々にささやかな意思表示をすることも出来ない。子供たちが生き残った野犬を虐待する場面に遭遇してもただ見ているだけで何もしない。子供が死んでしまい心のバランスを崩す妻に寄り添えない。妹を憎んでいて、取引先の女を乱暴に抱き、女性の研究者相手にならストレートな苛立ちを見せる…彼は、今この瞬間に出来る最大限普通の振る舞いをして新しい常識から逸脱しない、ゆえに、彼は自分自身の「差別意識」に気付きもしません。
マルコスは家族や社会的地位に縛られています。食肉加工業者として日々「肉」を処理しながら、自分自身はそういう肉を決して食べないのは、その行為に生理的な極めて強い嫌悪感を覚えるからです。だから貢物として贈られた高級人肉女性のことも、“食べは”しません。
しかし、この物語で提示される「消費」は、食べるという行為をはるかに超えた、もっとグロテスクな行為であり…
マルコスの人間性は悲劇によって保たれています。子供を喪った父親という自分自身の悲劇が、彼に現状に対して不満を持ち、怒りと悲しみを覚える平凡な男の人格を与えています。この物語が明示するのは、「行き場のない怒り」や「途方もない悲しみ」こそが、実は人が「人」というものに大きく共感し、精神的な共鳴を送受信するアンテナになっているという事実です。では、その「悲劇」を克服した彼は、その代わりのアンテナをどこに求めるようになるのか。
マルコスと同じ「あなた」も「わたし」も、結局はこの超消費社会でひたすら滑車を回し続けている残酷な消費者でしかないとしたら。そしてその残酷さに、当事者ほど無自覚なのはなぜなのか。他人の誤った行いには強烈な忌々しさを感じるのに、自分の手だけはあんなふうに汚れていないと考えてしまうのはなぜなのか。人命を家畜と等しく扱う富裕層(遊びで人間狩りとかする)を心底下品と軽蔑しながら彼らを打倒しようとはせず、その日食うにも困っている最貧困の人々(腐った人肉を拾い集めて食ったりする)に憐れみより苛立ちを感じて常に攻撃の口実を探してしまうのはなぜなのか。
その矛盾の答えを、物語は最後の最後で明示してくれます。これ以上ないグロさをもって。
2026/05/14読了
肉は美し
アウグスティナ・バスティリカ著 宮崎真紀訳
河出書房新社畳む
CATEGORY:小説感想
結論から言うと私向けの作品ではなかった。
硬派な推理小説ぜんとしたラストの謎解きシーンには怒涛の疾走感とすべての伏線を回収してやるッ!という勢い込んだ迫力があり、圧倒された。「コイツが犯人⁉️いや、コイツ⁉️」と振り回される感じも堪らない。エンディングはいかにも“推理小説”らしい「まさか…」というセリフと共に、キレイにまとまったと見せかけて…?な後味も残り、そういう点で本書に不足はないと感じる。
張り巡らされた疑惑、浮き上がってくる真実、そういったものが複雑に絡み合いながら、それぞれの思惑のために事件はより暗く閉ざされ、ほんの僅かな穴を穿って真相に辿り着こうとする主人公たちの戦いは、それゆえに一進一退を繰り返すのだが、溜まったフラストレーションがラストにかけてどんどん晴れていくという展開は、王道にして正道。登場人物がみな腹にイチモツ抱えているので、正味なところ誰が犯人でも良いというか、誰が犯人だったとしても意外性こそないのだが、誰が犯人でもおかしくないからこその“謎”が過不足なく回収されていき、そのあたりはやはりジル・マゴーンという作家の素晴らしい力量によるところが大きいのだろう。
問題なのは主人公の相棒となるジャンが、主人公にとってあまりに都合のいい便利な女すぎて、主人公の魅力がかえって失われてしまっているという点。そしてあまりにも唐突かつあまりにも不要だった、主人公によるジャンへの性暴力シーン。本書が刊行された2000年代という時代背景をふまえた上でも、これはアウトだと思う。
主人公ホルトは無実の罪で16年間投獄され、真犯人を突き止めて殺すことを獄中で決意しその決意のみを生きるよすがとしてきた男。出所後、早速ホルトはかつての同僚たちをたずね、真相解明に乗り出すが…というのがあらすじ。
服役中にホルトは肉体的にも精神的にもシャバにいた頃よりだいぶ“タフネス”になったと自称するが、作品自体は本格的に硬派な推理小説なので、ホルトが筋肉にもの言わせてジェイソン・ステイサムするシーンはない。主人公が具体的かつ直接的な暴力行為に及んだのは、相棒であるジャンに対して八つ当たりで珍棒を突っ込んだシーンくらい。実刑16年の罪の重さを出所後にわざわざ回収すんなよ。
主人公より明らかにジャンのほうが探偵として有能で、謎解きのヒントはほとんどジャンが与えたものといっても過言ではない。ホルトがやったことといえば、引き出した情報を並べて考え、方々に向けて怒りを炸裂させながら、「自分の苦しみはこんなものじゃない…」みたいな顔を定期的に挟んでくるくらいである。
ホルトがついに犯人にあたりをつけ、復讐のため自分からジャンを引き離し、暗殺者として最後の計画を実行しようという時にも、ジャンは体を張ってホルトをとめる。文字通り体を張ったタイマンでホルトをとめるので、ここでジャンはホルトに性的暴行を加えられ、ホルトも自分の下衆すぎる行為に「あわ、あわわ」となるのだが、はっきり言ってこの辺の話の何が本編にとって重要なのか分からず、完全に無駄な章だったと感じる。しかし何が一番腹立ったかといえば、この一方的な暴力行為をジャンが結果として許し、その後のホルトに対してよしよしHまで用意するというバカバカしさのほうにである。
推理ものとしては本当に硬派で無駄な装飾がない真っ向勝負のミステリなぶん、このファンタジックで、もはや倒錯的とさえ表現出来る恋愛関係がひたすら悪目立ちしており、全体的に非常に大きなノイズになっている。そもそもなぜジャンがホルトに惹かれたのかというエピソードが「屋根の上から俺は無実だと叫んでいた姿を見た」くらいしかないのが怖い。
ホルトが初めからジャンに惹かれていたというのは、ジャンがホルトのもとをおとずれるたびに一々解説される「本日のジャンのファッション」の描写から明らかなのだが、そうなるとホルトもホルトで「俺は孤独に戦い抜く…俺はあの地獄の戦場から舞い戻った戦士なのだから…」みたいな顔して初手からジャンに甘勃起カマしていた男ということになり、なんかちょっと…という感じである。
要するに男女趣味がさすがにキショすぎないか?というのが、本作の骨太な推理路線とかなり噛み合っておらず、ふたりの関係性のメロドラマぶりが単なる“やかましさ”になっている。
どうも今回は翻訳との相性も悪く、上滑り状態で本書を読んでいたのもあり、主人公に対してあまり魅力を感じられなかったのが残念。謎解き前にビシッとした服に着替えたけど、茶色のシャツにしたら脇汗目立つ!白いシャツにしとけばよかった!とか考え出すシーンなども、「今はそういうのいらねぇだろ」としか思えず。
謎解きシーンは楽しかった。このシーンだけで元をとったと考えましょう。
2026/08/06読了
ジル・マゴーン
騙し絵の檻
中村有希 訳
創元推理文庫畳む