フランシス・アイルズ『殺意』読了。
犯人と犯行の手口が先に明かされて、その犯人視点から物語が進むいわゆる「倒述ミステリー」の傑作と言われている本なんですけど、本当にバチくそおもしろい。作者のフランシス・アイルズはもともとがユーモア作家なんだけど、「ミステリ書いた方が儲かるやんけ」ということで『レイトン・コートの謎』という処女作を皮切りに次々作品を発表して、『殺意』は彼がフランシス・アイルズという名義で初めて出した本だそう。ともかく、もともとがユーモア作家ということで、内容にかなりブラックな笑いが効いていてめちゃくちゃ良い。
主人公のビクリー(犯人)は、自尊心だけはやたらに高いが本当は自分の身長が小さいことや学歴が立派ではないことがコンプレックスで、他人の地位や社会的な実績、相手が自分のことをどのように評価してくれるのかばかりを気にしている、実際にはとても臆病で卑屈な性格の持ち主で、そんな男が「殺人」という凶行にあまりにも身勝手な理由で手を染めたことを懸命に自己正当化しつづけるうち、自己憐憫が過ぎるあまりにすべての「殺意」は自分のために公平性と限りない正当性を持つに違いないのだから自分が裁かれるはずがないと思い込み、殺人をとんでもない悪事であり過ちと認める一方で、自分の犯した罪をまるで当然の権利を行使したとばかりに正当化する様を皮肉たっぷりに描いているところが、現代にもまったく同じような思考回路をもつ人間はいるよなぁという点で、非常に興味深く読めた。インターネットにゴロゴロおるで、擬似ビクリー。
ビクリーという男がどういう存在なのかというのをすべて掘り下げて描いていくんだけど、その書き出しが「37歳、チビ」みたいな感じで笑ってしまった。身長が靴をはいて170センチくらいしかなくて、それがビクリーにとってはものすごいコンプレックスで、しかも学歴も育ちもまわりの上流階級とは全然違うからそういうことも本人は気にしていて、コンプレックスの塊だから特に女性と話す時には妙に緊張しちゃうタイプで、なんだけどこのコンプレックスがひるがえって好みの女性を見るとすぐに腰ヘコヘコしだすみたいな最悪のクセがある。夜寝る前は「クラスに突然テロリストが現れて、それを俺はギッタバッタとなぎ倒し…」みたいな妄想で自分を慰めて、それが彼にとってのささやかな楽しみになっているというのも生々しい。奥さんは7つ年上で自分とは性的関係にないどころか形式上は夫婦みたいな冷めきった関係で、自分より若い女の子に「この子こそ俺の理想の女の子だッ!」と熱をあげて一方的に両思いと思い込んでキスをせがんで全力でフラれて、拒絶された途端に「アイツはビッチ!俺の心を弄んだ!」つって逆恨みするタイプで本当に情けなさすぎて泣けてくるんだが、ビクリーは小さな田舎町の開業医なので周囲からの人望はそこそこに厚いんですね。仕事はちゃんとやるタイプ。
そんなビクリーがこの田舎町に引っ越してきたマドレインという、自分より10も年下の女性に熱をあげまくって「だいちゅき結婚すゅ!」となり、マドレインに「余計なこと奥さんに言ったらあかんよ、こういうのはふたりの秘密にしとこうや」と言われたにも関わらず、それでは誠意がなさすぎる!と勝手に盛り上がり、奥さんのジュリアに「そういうわけだから離婚してくだちい」とわざわざ告げてしまう。このあたりからも、自己中心的で思い込みが激しくマドレインという(その時点では)最愛の人の言葉の真意も届かない、自分の自尊心が傷つくことを過度に恐れるあまりなんでも自己解釈で都合よく捉えてしまうところがビクリーにはある、と読める。
冷静な奥さんに「お前の恋愛とかにほんまに微塵も興味ないけどな、でもまあその関係が一年続いて、女のほうもお前と結婚したがってるっちゅーなら離婚したるわ」つって、この寛容さにビクリーもビックリーするんですが、「若い娘エロがんなよ」みたいなこと言われた瞬間「アナタはそんなことしか考えられないんですかぁ?引くんですけど」みたいなこと考えてかなりまともなこと言ってるジュリアに嫌悪感を向ける、この認知の歪みっぷりが「いるいるいるいるこいうヤツ!」という感じで心にグサグサくる。端的にいうと、ビクリーはコンカフェ嬢やホステスにのめり込んで勝手に自滅したのに被害妄想だけは人一倍強くてすぐキレるタイプのおじさんである。
ビクリーはコンプレックスが強すぎて、本当は自分に自信がない。結婚だって燃え上がるような恋愛で…とかじゃなく、社会的に自分がどう見えるかを気にしてのこと。とにかく相手から拒絶されることを過度に恐れていて、自分に対する批判が怖い。単なる思い込みで一方的に相手を好きになったくせに、脳内では勝手にお相手との両想いのバラ色生活が始まっていて、これが真の愛なのだと妄想する。相手から自分が望んだとおりの返報がないと逆ギレし、自分を責めるのではなくなんの非もない相手をなじる。自分を受け入れてくれない女が嫌い。自分は常に弱い立場で尊重されていないし、被害者なのはむしろこっちだと本気で思っている。
フランシス・アイルズはこの手の男に何か断罪を加えてやろうと思ってこの話を書いたのではなく特濃の皮肉を込めてこの物語を描いたんだろうけど、ビクリーと対比される(と読める)男性たちがみんなビクリーとは真逆(確固たる地位がある、地位はなくとも人は良い、若くハツラツ等…)なあたり、「もっと手心というか…」と思ってしまう。ラスト2ページのどんでん返しにもちょっと度肝を抜かれました。
前半、なかなか人が死なず若干退屈なのですが、ビクリーがマドレインと一方的な真剣恋愛(と本人が思い込んでいる何か)を始めたあたりからの加速がエグい。
ビクリー、自分の中に「これだけは手放しで褒められることだ、自分の自信になった経歴だ、これだけの積み重ねが今の自分を作っているんだ、自分はその点で立派だ」みたいな、自分の核というべき経験がなさすぎて、「殺人」という行為そのものに人生における実績みたいな価値を感じちゃってんだよな。自己陶酔と自己肥大化の両方を殺人が後押ししてしまった。自分が好きすぎるのに自分が空っぽ。むしろ今の時代にこそみんなが読んでおくべき良著では…と思いました。これがまた1931年に発表されている作品だというのがもう…。現代にも、たくさんのビクリー予備軍がおりますから。
2026/06/17読了
殺意
フランシス・アイルズ著 大久保康夫訳
創元社推理文庫畳む
犯人と犯行の手口が先に明かされて、その犯人視点から物語が進むいわゆる「倒述ミステリー」の傑作と言われている本なんですけど、本当にバチくそおもしろい。作者のフランシス・アイルズはもともとがユーモア作家なんだけど、「ミステリ書いた方が儲かるやんけ」ということで『レイトン・コートの謎』という処女作を皮切りに次々作品を発表して、『殺意』は彼がフランシス・アイルズという名義で初めて出した本だそう。ともかく、もともとがユーモア作家ということで、内容にかなりブラックな笑いが効いていてめちゃくちゃ良い。
主人公のビクリー(犯人)は、自尊心だけはやたらに高いが本当は自分の身長が小さいことや学歴が立派ではないことがコンプレックスで、他人の地位や社会的な実績、相手が自分のことをどのように評価してくれるのかばかりを気にしている、実際にはとても臆病で卑屈な性格の持ち主で、そんな男が「殺人」という凶行にあまりにも身勝手な理由で手を染めたことを懸命に自己正当化しつづけるうち、自己憐憫が過ぎるあまりにすべての「殺意」は自分のために公平性と限りない正当性を持つに違いないのだから自分が裁かれるはずがないと思い込み、殺人をとんでもない悪事であり過ちと認める一方で、自分の犯した罪をまるで当然の権利を行使したとばかりに正当化する様を皮肉たっぷりに描いているところが、現代にもまったく同じような思考回路をもつ人間はいるよなぁという点で、非常に興味深く読めた。インターネットにゴロゴロおるで、擬似ビクリー。
ビクリーという男がどういう存在なのかというのをすべて掘り下げて描いていくんだけど、その書き出しが「37歳、チビ」みたいな感じで笑ってしまった。身長が靴をはいて170センチくらいしかなくて、それがビクリーにとってはものすごいコンプレックスで、しかも学歴も育ちもまわりの上流階級とは全然違うからそういうことも本人は気にしていて、コンプレックスの塊だから特に女性と話す時には妙に緊張しちゃうタイプで、なんだけどこのコンプレックスがひるがえって好みの女性を見るとすぐに腰ヘコヘコしだすみたいな最悪のクセがある。夜寝る前は「クラスに突然テロリストが現れて、それを俺はギッタバッタとなぎ倒し…」みたいな妄想で自分を慰めて、それが彼にとってのささやかな楽しみになっているというのも生々しい。奥さんは7つ年上で自分とは性的関係にないどころか形式上は夫婦みたいな冷めきった関係で、自分より若い女の子に「この子こそ俺の理想の女の子だッ!」と熱をあげて一方的に両思いと思い込んでキスをせがんで全力でフラれて、拒絶された途端に「アイツはビッチ!俺の心を弄んだ!」つって逆恨みするタイプで本当に情けなさすぎて泣けてくるんだが、ビクリーは小さな田舎町の開業医なので周囲からの人望はそこそこに厚いんですね。仕事はちゃんとやるタイプ。
そんなビクリーがこの田舎町に引っ越してきたマドレインという、自分より10も年下の女性に熱をあげまくって「だいちゅき結婚すゅ!」となり、マドレインに「余計なこと奥さんに言ったらあかんよ、こういうのはふたりの秘密にしとこうや」と言われたにも関わらず、それでは誠意がなさすぎる!と勝手に盛り上がり、奥さんのジュリアに「そういうわけだから離婚してくだちい」とわざわざ告げてしまう。このあたりからも、自己中心的で思い込みが激しくマドレインという(その時点では)最愛の人の言葉の真意も届かない、自分の自尊心が傷つくことを過度に恐れるあまりなんでも自己解釈で都合よく捉えてしまうところがビクリーにはある、と読める。
冷静な奥さんに「お前の恋愛とかにほんまに微塵も興味ないけどな、でもまあその関係が一年続いて、女のほうもお前と結婚したがってるっちゅーなら離婚したるわ」つって、この寛容さにビクリーもビックリーするんですが、「若い娘エロがんなよ」みたいなこと言われた瞬間「アナタはそんなことしか考えられないんですかぁ?引くんですけど」みたいなこと考えてかなりまともなこと言ってるジュリアに嫌悪感を向ける、この認知の歪みっぷりが「いるいるいるいるこいうヤツ!」という感じで心にグサグサくる。端的にいうと、ビクリーはコンカフェ嬢やホステスにのめり込んで勝手に自滅したのに被害妄想だけは人一倍強くてすぐキレるタイプのおじさんである。
ビクリーはコンプレックスが強すぎて、本当は自分に自信がない。結婚だって燃え上がるような恋愛で…とかじゃなく、社会的に自分がどう見えるかを気にしてのこと。とにかく相手から拒絶されることを過度に恐れていて、自分に対する批判が怖い。単なる思い込みで一方的に相手を好きになったくせに、脳内では勝手にお相手との両想いのバラ色生活が始まっていて、これが真の愛なのだと妄想する。相手から自分が望んだとおりの返報がないと逆ギレし、自分を責めるのではなくなんの非もない相手をなじる。自分を受け入れてくれない女が嫌い。自分は常に弱い立場で尊重されていないし、被害者なのはむしろこっちだと本気で思っている。
フランシス・アイルズはこの手の男に何か断罪を加えてやろうと思ってこの話を書いたのではなく特濃の皮肉を込めてこの物語を描いたんだろうけど、ビクリーと対比される(と読める)男性たちがみんなビクリーとは真逆(確固たる地位がある、地位はなくとも人は良い、若くハツラツ等…)なあたり、「もっと手心というか…」と思ってしまう。ラスト2ページのどんでん返しにもちょっと度肝を抜かれました。
前半、なかなか人が死なず若干退屈なのですが、ビクリーがマドレインと一方的な真剣恋愛(と本人が思い込んでいる何か)を始めたあたりからの加速がエグい。
ビクリー、自分の中に「これだけは手放しで褒められることだ、自分の自信になった経歴だ、これだけの積み重ねが今の自分を作っているんだ、自分はその点で立派だ」みたいな、自分の核というべき経験がなさすぎて、「殺人」という行為そのものに人生における実績みたいな価値を感じちゃってんだよな。自己陶酔と自己肥大化の両方を殺人が後押ししてしまった。自分が好きすぎるのに自分が空っぽ。むしろ今の時代にこそみんなが読んでおくべき良著では…と思いました。これがまた1931年に発表されている作品だというのがもう…。現代にも、たくさんのビクリー予備軍がおりますから。
2026/06/17読了
殺意
フランシス・アイルズ著 大久保康夫訳
創元社推理文庫畳む
CATEGORY:小説感想
S・A・コスビーの『すべての罪は血を流す』を店頭でなんとなく買ってしばらく積んでいたのだが、ふと読んだら恐ろしい速度でハマった。失われていた読書への熱がぶり返し、活字だ!もっと活字をくれ!となってから、去年と今年は最も本を読んでいた学生時代と同じくらいのペースで読書が出来ている。
ただ、そもそも私は年間の読書量がそもそもまったく多くないタイプだし、読むのが早いというわけでもない。最もたくさん読んでいた時期でも、1ヶ月に1冊というペース。社会人になってからはそれより減って、年間で読む量は2冊から4冊というところで、それも分厚い本は避けていた。新しく、更には膨大な情報量を受け取るのが非常に億劫という時代がここ5、6年くらいあり、複雑な推理小説や犯罪小説からは距離を置いていたし、もっと噛み砕きやすいエンタメ寄りの小説、浅田次郎や西村京太郎などを好んで読むという感じだった。特に浅田次郎作品にはお世話になりました。壬生義士伝は傑作です。
そんな感じでほぼ溶けた氷みたいな読書勢だったのが、S・A・コスビーと出会って側頭部をガツンとイカれた。面白すぎて文字を読むというより気付いたら飲んでいた。すぐに既刊をすべて買った。自分が液体から個体に戻ろうとしている感覚だった。
この『灰の王』もどれほど心待ちにしていたか。私をもう一度「本を読む」という面白さと楽しさの深いぬくもりに包み込んでくれたS・A・コスビーに最大の賞賛と賛辞を送りながら、1ページ1ページ大切に読んで、出来れば1週間くらい楽しむぞ…と思っていたのに興奮と好奇心がそれを許してくれなかった。かぶりつくように読んで、そして泣いた。感動とかではなく、物語の登場人物たちのあまりにも深くあまりにも健気で、あまりにも無力であまりにも空回った愛の虚しさに…。本当につらい。呪術廻戦のつらさを1呪術廻戦とすると今回の話は1.5呪術廻戦くらいのつらさがある。
S・A・コスビーは「家族」を書く。自分たちの体の中に流れている確かな「血」を書く。『灰の王』は犯罪小説でありながら、家族の在り方と罪とを問うドラマでもある。登場人物たちはみな家族を愛している。自分の人生を投げ打ってもいいと思えるほど心から、すべてを捧げても構わないと思えるほど、家族を愛している。兄。姉。弟。きょうだい。真剣で痛いほど一途な愛。でも、彼らは愛し方が分からない。愛だけ知っていて、やり方だけを知らない。
S・A・コスビーが活写してきた今までの主人公は、すでに闇社会からは手を切っている/またはすでに公権力の側にあるが、悪を排除するため暴力という過剰なエネルギーの迸る世界に再び足を踏み入れるというパターンが多かった。正義が正義を実行するのではなく、悪の中にいびつに花開くもう片方の悪が、さながらゲームセンターに置かれたメダルプッシャーのように農場の生活を脅かす野獣たちを押し出して排除するという物語。
一方『灰の王』では、主人公ローマンはビジネスで成功した金持ちではあるものの、反社会的行為に加担などしていない「一般人」で、ある程度好き勝手出来る金を持ってはいるがバットマンなどではない男だ。しかし、弟のダンテが麻薬ディーラーに“なりそこねた”せいで、ローマンは財力ではなく自分のビジネスセンスでバットケイブを作り上げなくてはならなくなった。ただし、それは絶対的な悪に対して正義の鉄槌を下すためなどではなく、ただ家族を守るためにである。
ローマンには弟ダンテの他に妹のネヴェアがおり、彼女もまた悪徳警官チョーンシーとの不倫や家族への疑心など、後暗い秘密を抱えている。彼ら三兄弟が幼い頃に“失踪”した母親と、ダンテへの“見せしめ”として寝たきりにさせられた父親。両親につきまとう影と噂。三者三様の愛が複雑に絡み合い、それが相手に安らぎや恋しさを覚えさせるのではなく常に不安と猜疑心に変換されてしまう。
南部ノワールとしての舞台設定も完璧だ。コミュニティはその深い絆のために常に犠牲者を選び、対価を支払わなければならない。沈黙を選び続けることは出来ない。
また登場人物たちの魅力も深い。脳内では完全に主人公をマイケル・B・ジョーダンの顔で再生している。
今年もコスビーはゴールドダガー賞にノミネートされていたが、受賞はアビゲイル・ディーンの『The Death Of Us』となったようだ。こちらもいずれ読みたい。
S・A・コスビーの好きなところ、カーチェイスや銃撃戦の描写が凄まじい疾走感と重量をたたえて描かれているところなのだが、これは無駄な冗長性をこのシーン(カーチェイスや銃撃戦、その他暴力の現場)において一切排しているからなんだな、と思った。例えばボストン・テランなんかは、もはや描き出すというより暴き出すって感じの強烈な気迫に満ちた文章が特徴的だけど、テランの場合は暴力描写の中に詩的なほど鮮やかな人物描写や時間と一体化した空間を書き込んでしまうことで、すべてのシーンがスローモーションに読める。
ボストン・テランは『暴力の教義』と『神は銃弾』しか読んだことないので詳しいわけではないんだけど、両作とも冨樫義博が描き出すような人間のエグみが好きな人にはオススメ出来ると思う。『暴力の教義』も映画化する話があったがあれは結局立ち消えたのかな。『神は銃弾』のほうは2023年に映画化されていたらしくて(知らなかった)観たいような、あの苛烈な暴力描写を知っているうえで改めて映像として観たいかと言われると悩ましいような。
コスビーの作品も映画化の権利だけはどこぞの会社が押さえていると聞いたので、5年後になるか10年後になるかはたまた20年後になるかは分からないが、映像化が楽しみではある。
暴力と砂漠って死ぬほど相性がいいよな。呪われるなら村、霊に出会うなら屋敷、怪異と出会うなら山、人を埋めるなら森、死にに行くなら海、人を銃で殺すなら砂漠。私はそのように思います。
2026/07/02読了
灰の王
S・A・コスビー著 加賀山卓朗訳
ハーパーBOOKS畳む
ただ、そもそも私は年間の読書量がそもそもまったく多くないタイプだし、読むのが早いというわけでもない。最もたくさん読んでいた時期でも、1ヶ月に1冊というペース。社会人になってからはそれより減って、年間で読む量は2冊から4冊というところで、それも分厚い本は避けていた。新しく、更には膨大な情報量を受け取るのが非常に億劫という時代がここ5、6年くらいあり、複雑な推理小説や犯罪小説からは距離を置いていたし、もっと噛み砕きやすいエンタメ寄りの小説、浅田次郎や西村京太郎などを好んで読むという感じだった。特に浅田次郎作品にはお世話になりました。壬生義士伝は傑作です。
そんな感じでほぼ溶けた氷みたいな読書勢だったのが、S・A・コスビーと出会って側頭部をガツンとイカれた。面白すぎて文字を読むというより気付いたら飲んでいた。すぐに既刊をすべて買った。自分が液体から個体に戻ろうとしている感覚だった。
この『灰の王』もどれほど心待ちにしていたか。私をもう一度「本を読む」という面白さと楽しさの深いぬくもりに包み込んでくれたS・A・コスビーに最大の賞賛と賛辞を送りながら、1ページ1ページ大切に読んで、出来れば1週間くらい楽しむぞ…と思っていたのに興奮と好奇心がそれを許してくれなかった。かぶりつくように読んで、そして泣いた。感動とかではなく、物語の登場人物たちのあまりにも深くあまりにも健気で、あまりにも無力であまりにも空回った愛の虚しさに…。本当につらい。呪術廻戦のつらさを1呪術廻戦とすると今回の話は1.5呪術廻戦くらいのつらさがある。
S・A・コスビーは「家族」を書く。自分たちの体の中に流れている確かな「血」を書く。『灰の王』は犯罪小説でありながら、家族の在り方と罪とを問うドラマでもある。登場人物たちはみな家族を愛している。自分の人生を投げ打ってもいいと思えるほど心から、すべてを捧げても構わないと思えるほど、家族を愛している。兄。姉。弟。きょうだい。真剣で痛いほど一途な愛。でも、彼らは愛し方が分からない。愛だけ知っていて、やり方だけを知らない。
S・A・コスビーが活写してきた今までの主人公は、すでに闇社会からは手を切っている/またはすでに公権力の側にあるが、悪を排除するため暴力という過剰なエネルギーの迸る世界に再び足を踏み入れるというパターンが多かった。正義が正義を実行するのではなく、悪の中にいびつに花開くもう片方の悪が、さながらゲームセンターに置かれたメダルプッシャーのように農場の生活を脅かす野獣たちを押し出して排除するという物語。
一方『灰の王』では、主人公ローマンはビジネスで成功した金持ちではあるものの、反社会的行為に加担などしていない「一般人」で、ある程度好き勝手出来る金を持ってはいるがバットマンなどではない男だ。しかし、弟のダンテが麻薬ディーラーに“なりそこねた”せいで、ローマンは財力ではなく自分のビジネスセンスでバットケイブを作り上げなくてはならなくなった。ただし、それは絶対的な悪に対して正義の鉄槌を下すためなどではなく、ただ家族を守るためにである。
ローマンには弟ダンテの他に妹のネヴェアがおり、彼女もまた悪徳警官チョーンシーとの不倫や家族への疑心など、後暗い秘密を抱えている。彼ら三兄弟が幼い頃に“失踪”した母親と、ダンテへの“見せしめ”として寝たきりにさせられた父親。両親につきまとう影と噂。三者三様の愛が複雑に絡み合い、それが相手に安らぎや恋しさを覚えさせるのではなく常に不安と猜疑心に変換されてしまう。
南部ノワールとしての舞台設定も完璧だ。コミュニティはその深い絆のために常に犠牲者を選び、対価を支払わなければならない。沈黙を選び続けることは出来ない。
また登場人物たちの魅力も深い。脳内では完全に主人公をマイケル・B・ジョーダンの顔で再生している。
今年もコスビーはゴールドダガー賞にノミネートされていたが、受賞はアビゲイル・ディーンの『The Death Of Us』となったようだ。こちらもいずれ読みたい。
S・A・コスビーの好きなところ、カーチェイスや銃撃戦の描写が凄まじい疾走感と重量をたたえて描かれているところなのだが、これは無駄な冗長性をこのシーン(カーチェイスや銃撃戦、その他暴力の現場)において一切排しているからなんだな、と思った。例えばボストン・テランなんかは、もはや描き出すというより暴き出すって感じの強烈な気迫に満ちた文章が特徴的だけど、テランの場合は暴力描写の中に詩的なほど鮮やかな人物描写や時間と一体化した空間を書き込んでしまうことで、すべてのシーンがスローモーションに読める。
ボストン・テランは『暴力の教義』と『神は銃弾』しか読んだことないので詳しいわけではないんだけど、両作とも冨樫義博が描き出すような人間のエグみが好きな人にはオススメ出来ると思う。『暴力の教義』も映画化する話があったがあれは結局立ち消えたのかな。『神は銃弾』のほうは2023年に映画化されていたらしくて(知らなかった)観たいような、あの苛烈な暴力描写を知っているうえで改めて映像として観たいかと言われると悩ましいような。
コスビーの作品も映画化の権利だけはどこぞの会社が押さえていると聞いたので、5年後になるか10年後になるかはたまた20年後になるかは分からないが、映像化が楽しみではある。
暴力と砂漠って死ぬほど相性がいいよな。呪われるなら村、霊に出会うなら屋敷、怪異と出会うなら山、人を埋めるなら森、死にに行くなら海、人を銃で殺すなら砂漠。私はそのように思います。
2026/07/02読了
灰の王
S・A・コスビー著 加賀山卓朗訳
ハーパーBOOKS畳む
CATEGORY:小説感想
もともと雑記帳代わりにくるっぷを使っていて、それで特に不足を感じていないので、今後も基本的にはくるっぷにおります。こちらは くるっぷ に投げたなんらかの感想とかニュースへの雑感なんかを放り投げる備忘録として運用していく予定です。
折角設置したので、テスト代わりに先日くるっぷに投げた『肉は美し』の感想(の改訂版)をこちらにも。
『肉は美し』、本の帯に「Tiktokで話題沸騰」と書いてあるのを見て、私の中の悪いインターネットがTiktok愛好者に3行以上文章読めるヤツなんか居ないだろと唾棄すべき極めて差別的な偏見を囁いてきたので、それじゃあ一丁買って読むかという気になり購入を決めました。導入としては最低だと思います。
アルゼンチン発の「食人ディストピアSFホラー」というふうに紹介されているんですけど、難しい用語や複雑な設定なども出てこずかなり世界観を理解しやすいSFホラー入門編という感じ。グロテスクな部分は多分にあるのですがそこまで苛烈な描写ではなく、非常に淡々としていて読みやすいです。それでいて読後にちゃんと「毒を飲んだ」という感覚が残る。とても良かった。確かにTikTokで話題沸騰しそうだなとも思いました。こういうグロテスクさを大袈裟に広告するタイプのインフルエンサーは居るだろうなという意味で。
舞台は動物が人命を脅かす病原菌の保体となってしまった近未来、動物を食肉として生産・出荷・消費することが出来なくなり、人間を家畜として扱うことが合法的に認められた社会で、その家畜人間(作中ではこれを【人間】と表現することは法律で固く禁じられている)を屠殺する業務に従事しているマルコスという男が本作の主人公。
彼はもともと食肉加工(もちろん家畜の)業者だったのですが、現在はその知識を活かして人肉加工会社に勤めてそこそこの地位についているサラリーマン。しかし彼の生活は厳しいもので、社会が合法的に人間食っていいとかマジでワケ分かんないことを言い出して世の中がありえない狂い方したことに絶望したお父さんは認知症になっちゃうし、実の妹はボケた父親の介護にノンタッチで父親が入居する施設に会いに来ようともせず、マルコスはひとりで父親の介護負担を背負っており、不妊治療を続けてどうにか授かった子供も生まれてすぐに亡くなってしまって、そのせいで妻は精神的に病んで実家に戻っていて、人肉加工になんの罪悪感も持たないどころか嬉々として人の肉を切り刻むサイコパス経営者に囲まれて心労もハンパじゃないし、なんかもうにっちもさっちもいかなくてちょっと病んでる男なんですけど、そんな彼がある時、取引先の人間に食肉用に飼育された最高級人肉女性をプレゼントされるのですね。
マルコスという主人公は悲観的な男で、自分がどれほど悲劇的な人生を歩んでいるかということにもかなり自覚的です。自分の父親、妹という心理的距離が最も近いはずの家族が分裂している問題、苦労した末に授かった子を喪失してしまった父親として、その死を処理しきれない自分自身の精神の問題、また妻も同様に病んでしまい、そうした家庭の問題をも抱えなければいけないという多重の精神的負荷、加えて仕事においても安寧の時はなく、自分自身が抱える業務の違和感と経営者たちの臨む景色の間に深い断絶があることに絶望している。あらゆる方面から悲劇に見舞われている実に《悲劇的な》男マルコスは、自分とは即ち悲劇の男なんだという諦観の中に生き、日々を苛立ちと共に過ごしている。そんな主人公が、人肉として育てられて出荷を待っていた、『見た目は人間中身は家畜』という地獄名探偵(ヘル・コナン)みたいな決して《人として》扱ってはいけない存在と出会ってしまい…
『肉は美し』の世界において描写される社会というのは、「食べられなくなった動物の肉の代わりに人間の肉を食べる」という極端な選択をした社会です。つまり、需要を満たすためであれば究極的な超消費を肯定する、資本主義の最果てのような社会です。作中に描写される食用人間たちは肉の一枚とて無駄にはされず、その皮さえも加工品となります。実験動物の代わりでもある。人格はほぼないに等しいような描かれ方をされていて、同じなのは見た目だけ…という建付けです。でも誰も彼もがこの食事にありつけるわけではない。工場で管理されて生産された「美味しい人肉」を食べられるのは、ミドルクラス以上の人間たちだけということ。
動物性タンパク質がないなら人肉食べればいいじゃない。国家が(無論自分たちを含む)ブルジョワ様の【消費】のために超えてはならない一線を超えた社会、ここに描かれているのはいわば資本主義を限界まで加速させた結果倫理の崩壊を引き起こしている社会です。シリコンバレーの技術者の一部の集団が提唱している「加速主義」のようなカルト的な主張は、この資本主義の限界をテック企業が突き破ってこそ社会は前進するのだから、限りなく資本主義を拡大せよと謳っているけど、本作の舞台ではテクノロジーがこれを救いません。つまり技術革新は人を死に至らしめる病を克服出来ず、また動物性タンパク質の代替を生み出すことも出来ず、しかして消費に対する希求は留まることがなく、今ある資源の分配を拒否し、需要を満たすためであれば人倫を踏み越えることも厭わなくなった社会、文化や文明というものが【カネ】と【消費活動】にとって代わられた世界です。
設計としてかなりの無理のある【超消費】は、一部の富裕層にだけはやたらとカネが集まっているのに市場にはモノがないという状態の時にこそ起こる。一部にだけ富が集中してるってことは市井の人々の生活は困窮しているということで、作中では貧富の差が壮絶なものであるということが肉の消費を通じて描かれています。金持ちもヤバいけど貧困層もヤバい。
で、モノがなくなり需要を満たせず、著しく需給の均衡を欠く貧困社会では下記のような価値観がとても強い実行力を持っていて、『肉』という富の象徴はやはり富裕層を中心に消費されます。一部の限られた層の人たちへの分配だから、ここでは人としての倫理よりも消費のための倫理が優先されます。
・我々が需要する限りにおいて供給はされるべきであり(支払い能力がある以上、安全に肉を食べる権利がある)、
・需要を満たすため生産において限りなく合理的な手段をとることは、生命倫理とはまた切り分けて考えねばならない経済の問題で(肉として生まれたものを肉として消費することは悪ではないので、その過程において発生する諸問題は一切を免責されるべきである)、
・また、消費とは生活を過不足なく運用するために必要不可欠な文化的かつ文明的行為であり(美味しい肉を食べるために、肉そのものは安全な場所で管理されなければならず、その点において虐待は許されず、文明的な運用が義務付けられている、であるならば、それは肉そのものの権利すら包括的に保護しているということであり、この合理性を保持する以上、我々は文化的かつ人間的な価値観を喪失しえない)、
・需要を満たすための生産消費は雇用の創出にも繋がり、そのサイクルの中で経済を発展させ、また安定させるものでもあるのだから、仮にしばしば労働者が比重の偏った負担を強いられたとしても、その利益はいずれ労働者に還元される(自らの、受け取りたい/受け取りたくないという意思に関わらず、食肉は市場を潤し潤った市場の恩恵を国民はすべからく受け取っているのだから、その責任はすべてに分散され共有される)
文化や文明が人間の道徳を構成するのではなく、消費行動が人間の「善性」「善意」そのものの価値観まで支配するという考えです。だから人々は食人行為を「食“人”」とは言わない。あくまでもこれは「食事」という行為で、食べているものも「ヒト」ではなく「頭」(作中で食用人間は「頭」と呼ばれる)である。呼び方から強制し、情報統制を徹底する。これは【文化】なんですよ、というポーズ。ただの消費行動を文化的行為と見なすためには、言葉による書き換えがとても重要なんだなぁ。その書き換えがあってこそ、残虐な行為には大量の免罪符が与えられることになります。だって、人は肉を食わねばいきていけないし、動物性タンパク質がなければ健康が損なわれるし、食用の「頭」はそういう生き物として飼育されており、わざわざ痛めつけて殺すといったようなことはしないのだし、食用の「頭」に対する性的な虐待も無論罪に問われる行為で、食の楽しみを守るということは我々の基本的人権を守ることであり、食事は生活において不可欠な行為なのだから、正当性はある。したがって、合法的に肉を手に入れるために必要な手段を講じることは、「悪」ではない。
それが真実かどうかはひとまず置いておいて、そういう「御札」を貼るという行為は、それそのものの価値自体に大きく作用します。だけどマルコスは食肉加工会社で食用人間がどのような環境でどのように飼育され、どんな人間に何をされるか、またどのように処理されているかを知っている。実際に供される「肉」が実際には食肉用の人間だけではないという現実を知っている。そしてその肉がどういった人達に需要され、どういった用途のために使用されているのかも分かっている。マルコスの頭の中には、これを「肉」として見なければいけない自分と「しかしこれは人間の形をしている」と認識する自分がそれぞれに存在していて、常に矛盾を抱えています。本当に生きるために必要ならば納得が出来るかも知れない。それを職業と割り切ることも出来るかも知れない。実際、そう考えている仲間は居る。しかし、現実的にはこれはただの「食人」で、彼らはかつて人間の形をしていたものを食べている。人間が人間を食べるという一線を超えた人々にとって、人肉食のハードルはかなり下がってしまった。つまり、自分と同じ人間を傷つけるハードル、殺しのハードル、そういったものが以前よりずっと低くなってしまった。命の価値自体が変容してしまった。その一方で、マルコスは子供を喪ったら悲しく苦しいわけです。親がボケてまともに会話も出来なくなっていることを嘆く気持ちがあるわけです。妹が介護に参加せず協力的な態度を見せないことに冷酷さを感じるわけです。社会全体が命に対するハードルを下げたとしても、私個人にとっての命のハードルは変わらない。この矛盾が、マルコスを苦しめている。
主人公のマルコスは本当に悲劇的な人物で、 様々な不条理の中をもがく男として描かれているのですが、この人物描写は実に巧みです。
彼の描かれ方としてはこうなわけです。つまり、彼は今自分がやっていることをとても残酷で惨たらしいことだと感じているけど、父親の介護費用を賄うためにはこの選択に頼らざるを得ないから仕方なく仕事を引き受けているという立場で、喪った子供や病んだ妻のことを悼んだり思いやったりするといった心理的コストの支払いのためにはどこかに苛立ちをぶつける必要もあって、その苛立ちの捌け口のためには、エロい知り合いの女と乱暴なセックスもするし、そのエロい知り合いの女をエロがっている男の前で見せつけるようなプレイをすることで溜飲を下げてもいる。かつての彼は飼っていた犬を本当に愛していて、今でも犬に対しては格別の思い入れがあるんだけど、生き残った野犬たちが子供たちに虐待されているところに遭遇しても割り込んでいったりは出来ないし、犬一匹救えない。かといってそんな自分を責めたり哀れんだりといったようなことはなく、悪いのは自分という個人ではなくこういう社会の構造なんだと世の中に対する暗い怒りを抱えている。上司や取引先のお偉いさんには逆らえないが、特別苛立っている時には、女性のサイコパス研究者くらいになら嫌味な態度もとる。
マルコスはまるで「こちら側」の人間であるかのような描かれ方をします。悪の当事者ではなく、悪の傍観者という立場です。肉を捌くということに罪悪感があり悲しさがある。つらさがある。自分の仕事に違和感がある。おかしいと思っている。それを誰にも言えないでいる。死ぬことを恐れている。家族の尊厳が傷つくことを恐れている。どこにでもいる、小さくとも、確かな倫理観に基づいて思考することの出来る人物。「あなた」と同じ。「わたし」と同じ。最初はそういうふうに彼を読むことが出来る。しかし、マルコスは自分より強いものには逆らえない。現状を打破するための努力は出来ない。完全に人肉食や人肉加工を受け入れている取引先の人々にささやかな意思表示をすることも出来ない。子供たちが生き残った野犬を虐待する場面に遭遇してもただ見ているだけで何もしない。子供が死んでしまい心のバランスを崩す妻に寄り添えない。妹を憎んでいて、取引先の女を乱暴に抱き、女性の研究者相手にならストレートな苛立ちを見せる…彼は、今この瞬間に出来る最大限普通の振る舞いをして新しい常識から逸脱しない、ゆえに、彼は自分自身の「差別意識」に気付きもしません。
マルコスは家族や社会的地位に縛られています。食肉加工業者として日々「肉」を処理しながら、自分自身はそういう肉を決して食べないのは、その行為に生理的な極めて強い嫌悪感を覚えるからです。だから貢物として贈られた高級人肉女性のことも、“食べは”しません。
しかし、この物語で提示される「消費」は、食べるという行為をはるかに超えた、もっとグロテスクな行為であり…
マルコスの人間性は悲劇によって保たれています。子供を喪った父親という自分自身の悲劇が、彼に現状に対して不満を持ち、怒りと悲しみを覚える平凡な男の人格を与えています。この物語が明示するのは、「行き場のない怒り」や「途方もない悲しみ」こそが、実は人が「人」というものに大きく共感し、精神的な共鳴を送受信するアンテナになっているという事実です。では、その「悲劇」を克服した彼は、その代わりのアンテナをどこに求めるようになるのか。
マルコスと同じ「あなた」も「わたし」も、結局はこの超消費社会でひたすら滑車を回し続けている残酷な消費者でしかないとしたら。そしてその残酷さに、当事者ほど無自覚なのはなぜなのか。他人の誤った行いには強烈な忌々しさを感じるのに、自分の手だけはあんなふうに汚れていないと考えてしまうのはなぜなのか。人命を家畜と等しく扱う富裕層(遊びで人間狩りとかする)を心底下品と軽蔑しながら彼らを打倒しようとはせず、その日食うにも困っている最貧困の人々(腐った人肉を拾い集めて食ったりする)に憐れみより苛立ちを感じて常に攻撃の口実を探してしまうのはなぜなのか。
その矛盾の答えを、物語は最後の最後で明示してくれます。これ以上ないグロさをもって。
2026/05/14読了
肉は美し
アウグスティナ・バスティリカ著 宮崎真紀訳
河出書房新社畳む
折角設置したので、テスト代わりに先日くるっぷに投げた『肉は美し』の感想(の改訂版)をこちらにも。
『肉は美し』、本の帯に「Tiktokで話題沸騰」と書いてあるのを見て、私の中の悪いインターネットがTiktok愛好者に3行以上文章読めるヤツなんか居ないだろと唾棄すべき極めて差別的な偏見を囁いてきたので、それじゃあ一丁買って読むかという気になり購入を決めました。導入としては最低だと思います。
アルゼンチン発の「食人ディストピアSFホラー」というふうに紹介されているんですけど、難しい用語や複雑な設定なども出てこずかなり世界観を理解しやすいSFホラー入門編という感じ。グロテスクな部分は多分にあるのですがそこまで苛烈な描写ではなく、非常に淡々としていて読みやすいです。それでいて読後にちゃんと「毒を飲んだ」という感覚が残る。とても良かった。確かにTikTokで話題沸騰しそうだなとも思いました。こういうグロテスクさを大袈裟に広告するタイプのインフルエンサーは居るだろうなという意味で。
舞台は動物が人命を脅かす病原菌の保体となってしまった近未来、動物を食肉として生産・出荷・消費することが出来なくなり、人間を家畜として扱うことが合法的に認められた社会で、その家畜人間(作中ではこれを【人間】と表現することは法律で固く禁じられている)を屠殺する業務に従事しているマルコスという男が本作の主人公。
彼はもともと食肉加工(もちろん家畜の)業者だったのですが、現在はその知識を活かして人肉加工会社に勤めてそこそこの地位についているサラリーマン。しかし彼の生活は厳しいもので、社会が合法的に人間食っていいとかマジでワケ分かんないことを言い出して世の中がありえない狂い方したことに絶望したお父さんは認知症になっちゃうし、実の妹はボケた父親の介護にノンタッチで父親が入居する施設に会いに来ようともせず、マルコスはひとりで父親の介護負担を背負っており、不妊治療を続けてどうにか授かった子供も生まれてすぐに亡くなってしまって、そのせいで妻は精神的に病んで実家に戻っていて、人肉加工になんの罪悪感も持たないどころか嬉々として人の肉を切り刻むサイコパス経営者に囲まれて心労もハンパじゃないし、なんかもうにっちもさっちもいかなくてちょっと病んでる男なんですけど、そんな彼がある時、取引先の人間に食肉用に飼育された最高級人肉女性をプレゼントされるのですね。
マルコスという主人公は悲観的な男で、自分がどれほど悲劇的な人生を歩んでいるかということにもかなり自覚的です。自分の父親、妹という心理的距離が最も近いはずの家族が分裂している問題、苦労した末に授かった子を喪失してしまった父親として、その死を処理しきれない自分自身の精神の問題、また妻も同様に病んでしまい、そうした家庭の問題をも抱えなければいけないという多重の精神的負荷、加えて仕事においても安寧の時はなく、自分自身が抱える業務の違和感と経営者たちの臨む景色の間に深い断絶があることに絶望している。あらゆる方面から悲劇に見舞われている実に《悲劇的な》男マルコスは、自分とは即ち悲劇の男なんだという諦観の中に生き、日々を苛立ちと共に過ごしている。そんな主人公が、人肉として育てられて出荷を待っていた、『見た目は人間中身は家畜』という地獄名探偵(ヘル・コナン)みたいな決して《人として》扱ってはいけない存在と出会ってしまい…
『肉は美し』の世界において描写される社会というのは、「食べられなくなった動物の肉の代わりに人間の肉を食べる」という極端な選択をした社会です。つまり、需要を満たすためであれば究極的な超消費を肯定する、資本主義の最果てのような社会です。作中に描写される食用人間たちは肉の一枚とて無駄にはされず、その皮さえも加工品となります。実験動物の代わりでもある。人格はほぼないに等しいような描かれ方をされていて、同じなのは見た目だけ…という建付けです。でも誰も彼もがこの食事にありつけるわけではない。工場で管理されて生産された「美味しい人肉」を食べられるのは、ミドルクラス以上の人間たちだけということ。
動物性タンパク質がないなら人肉食べればいいじゃない。国家が(無論自分たちを含む)ブルジョワ様の【消費】のために超えてはならない一線を超えた社会、ここに描かれているのはいわば資本主義を限界まで加速させた結果倫理の崩壊を引き起こしている社会です。シリコンバレーの技術者の一部の集団が提唱している「加速主義」のようなカルト的な主張は、この資本主義の限界をテック企業が突き破ってこそ社会は前進するのだから、限りなく資本主義を拡大せよと謳っているけど、本作の舞台ではテクノロジーがこれを救いません。つまり技術革新は人を死に至らしめる病を克服出来ず、また動物性タンパク質の代替を生み出すことも出来ず、しかして消費に対する希求は留まることがなく、今ある資源の分配を拒否し、需要を満たすためであれば人倫を踏み越えることも厭わなくなった社会、文化や文明というものが【カネ】と【消費活動】にとって代わられた世界です。
設計としてかなりの無理のある【超消費】は、一部の富裕層にだけはやたらとカネが集まっているのに市場にはモノがないという状態の時にこそ起こる。一部にだけ富が集中してるってことは市井の人々の生活は困窮しているということで、作中では貧富の差が壮絶なものであるということが肉の消費を通じて描かれています。金持ちもヤバいけど貧困層もヤバい。
で、モノがなくなり需要を満たせず、著しく需給の均衡を欠く貧困社会では下記のような価値観がとても強い実行力を持っていて、『肉』という富の象徴はやはり富裕層を中心に消費されます。一部の限られた層の人たちへの分配だから、ここでは人としての倫理よりも消費のための倫理が優先されます。
・我々が需要する限りにおいて供給はされるべきであり(支払い能力がある以上、安全に肉を食べる権利がある)、
・需要を満たすため生産において限りなく合理的な手段をとることは、生命倫理とはまた切り分けて考えねばならない経済の問題で(肉として生まれたものを肉として消費することは悪ではないので、その過程において発生する諸問題は一切を免責されるべきである)、
・また、消費とは生活を過不足なく運用するために必要不可欠な文化的かつ文明的行為であり(美味しい肉を食べるために、肉そのものは安全な場所で管理されなければならず、その点において虐待は許されず、文明的な運用が義務付けられている、であるならば、それは肉そのものの権利すら包括的に保護しているということであり、この合理性を保持する以上、我々は文化的かつ人間的な価値観を喪失しえない)、
・需要を満たすための生産消費は雇用の創出にも繋がり、そのサイクルの中で経済を発展させ、また安定させるものでもあるのだから、仮にしばしば労働者が比重の偏った負担を強いられたとしても、その利益はいずれ労働者に還元される(自らの、受け取りたい/受け取りたくないという意思に関わらず、食肉は市場を潤し潤った市場の恩恵を国民はすべからく受け取っているのだから、その責任はすべてに分散され共有される)
文化や文明が人間の道徳を構成するのではなく、消費行動が人間の「善性」「善意」そのものの価値観まで支配するという考えです。だから人々は食人行為を「食“人”」とは言わない。あくまでもこれは「食事」という行為で、食べているものも「ヒト」ではなく「頭」(作中で食用人間は「頭」と呼ばれる)である。呼び方から強制し、情報統制を徹底する。これは【文化】なんですよ、というポーズ。ただの消費行動を文化的行為と見なすためには、言葉による書き換えがとても重要なんだなぁ。その書き換えがあってこそ、残虐な行為には大量の免罪符が与えられることになります。だって、人は肉を食わねばいきていけないし、動物性タンパク質がなければ健康が損なわれるし、食用の「頭」はそういう生き物として飼育されており、わざわざ痛めつけて殺すといったようなことはしないのだし、食用の「頭」に対する性的な虐待も無論罪に問われる行為で、食の楽しみを守るということは我々の基本的人権を守ることであり、食事は生活において不可欠な行為なのだから、正当性はある。したがって、合法的に肉を手に入れるために必要な手段を講じることは、「悪」ではない。
それが真実かどうかはひとまず置いておいて、そういう「御札」を貼るという行為は、それそのものの価値自体に大きく作用します。だけどマルコスは食肉加工会社で食用人間がどのような環境でどのように飼育され、どんな人間に何をされるか、またどのように処理されているかを知っている。実際に供される「肉」が実際には食肉用の人間だけではないという現実を知っている。そしてその肉がどういった人達に需要され、どういった用途のために使用されているのかも分かっている。マルコスの頭の中には、これを「肉」として見なければいけない自分と「しかしこれは人間の形をしている」と認識する自分がそれぞれに存在していて、常に矛盾を抱えています。本当に生きるために必要ならば納得が出来るかも知れない。それを職業と割り切ることも出来るかも知れない。実際、そう考えている仲間は居る。しかし、現実的にはこれはただの「食人」で、彼らはかつて人間の形をしていたものを食べている。人間が人間を食べるという一線を超えた人々にとって、人肉食のハードルはかなり下がってしまった。つまり、自分と同じ人間を傷つけるハードル、殺しのハードル、そういったものが以前よりずっと低くなってしまった。命の価値自体が変容してしまった。その一方で、マルコスは子供を喪ったら悲しく苦しいわけです。親がボケてまともに会話も出来なくなっていることを嘆く気持ちがあるわけです。妹が介護に参加せず協力的な態度を見せないことに冷酷さを感じるわけです。社会全体が命に対するハードルを下げたとしても、私個人にとっての命のハードルは変わらない。この矛盾が、マルコスを苦しめている。
主人公のマルコスは本当に悲劇的な人物で、 様々な不条理の中をもがく男として描かれているのですが、この人物描写は実に巧みです。
彼の描かれ方としてはこうなわけです。つまり、彼は今自分がやっていることをとても残酷で惨たらしいことだと感じているけど、父親の介護費用を賄うためにはこの選択に頼らざるを得ないから仕方なく仕事を引き受けているという立場で、喪った子供や病んだ妻のことを悼んだり思いやったりするといった心理的コストの支払いのためにはどこかに苛立ちをぶつける必要もあって、その苛立ちの捌け口のためには、エロい知り合いの女と乱暴なセックスもするし、そのエロい知り合いの女をエロがっている男の前で見せつけるようなプレイをすることで溜飲を下げてもいる。かつての彼は飼っていた犬を本当に愛していて、今でも犬に対しては格別の思い入れがあるんだけど、生き残った野犬たちが子供たちに虐待されているところに遭遇しても割り込んでいったりは出来ないし、犬一匹救えない。かといってそんな自分を責めたり哀れんだりといったようなことはなく、悪いのは自分という個人ではなくこういう社会の構造なんだと世の中に対する暗い怒りを抱えている。上司や取引先のお偉いさんには逆らえないが、特別苛立っている時には、女性のサイコパス研究者くらいになら嫌味な態度もとる。
マルコスはまるで「こちら側」の人間であるかのような描かれ方をします。悪の当事者ではなく、悪の傍観者という立場です。肉を捌くということに罪悪感があり悲しさがある。つらさがある。自分の仕事に違和感がある。おかしいと思っている。それを誰にも言えないでいる。死ぬことを恐れている。家族の尊厳が傷つくことを恐れている。どこにでもいる、小さくとも、確かな倫理観に基づいて思考することの出来る人物。「あなた」と同じ。「わたし」と同じ。最初はそういうふうに彼を読むことが出来る。しかし、マルコスは自分より強いものには逆らえない。現状を打破するための努力は出来ない。完全に人肉食や人肉加工を受け入れている取引先の人々にささやかな意思表示をすることも出来ない。子供たちが生き残った野犬を虐待する場面に遭遇してもただ見ているだけで何もしない。子供が死んでしまい心のバランスを崩す妻に寄り添えない。妹を憎んでいて、取引先の女を乱暴に抱き、女性の研究者相手にならストレートな苛立ちを見せる…彼は、今この瞬間に出来る最大限普通の振る舞いをして新しい常識から逸脱しない、ゆえに、彼は自分自身の「差別意識」に気付きもしません。
マルコスは家族や社会的地位に縛られています。食肉加工業者として日々「肉」を処理しながら、自分自身はそういう肉を決して食べないのは、その行為に生理的な極めて強い嫌悪感を覚えるからです。だから貢物として贈られた高級人肉女性のことも、“食べは”しません。
しかし、この物語で提示される「消費」は、食べるという行為をはるかに超えた、もっとグロテスクな行為であり…
マルコスの人間性は悲劇によって保たれています。子供を喪った父親という自分自身の悲劇が、彼に現状に対して不満を持ち、怒りと悲しみを覚える平凡な男の人格を与えています。この物語が明示するのは、「行き場のない怒り」や「途方もない悲しみ」こそが、実は人が「人」というものに大きく共感し、精神的な共鳴を送受信するアンテナになっているという事実です。では、その「悲劇」を克服した彼は、その代わりのアンテナをどこに求めるようになるのか。
マルコスと同じ「あなた」も「わたし」も、結局はこの超消費社会でひたすら滑車を回し続けている残酷な消費者でしかないとしたら。そしてその残酷さに、当事者ほど無自覚なのはなぜなのか。他人の誤った行いには強烈な忌々しさを感じるのに、自分の手だけはあんなふうに汚れていないと考えてしまうのはなぜなのか。人命を家畜と等しく扱う富裕層(遊びで人間狩りとかする)を心底下品と軽蔑しながら彼らを打倒しようとはせず、その日食うにも困っている最貧困の人々(腐った人肉を拾い集めて食ったりする)に憐れみより苛立ちを感じて常に攻撃の口実を探してしまうのはなぜなのか。
その矛盾の答えを、物語は最後の最後で明示してくれます。これ以上ないグロさをもって。
2026/05/14読了
肉は美し
アウグスティナ・バスティリカ著 宮崎真紀訳
河出書房新社畳む
CATEGORY:小説感想
ジョルジュ・シムノンといえばメグレシリーズでお馴染みの推理小説作家ですが彼の著作は本当に点数が多く内容も多岐に渡っていて、その中には推理小説とは趣の異なる作品(ロマン・デュール)などもありまして、『猫』はそうした小説群における代表作のひとつです。老夫婦が、ある出来事をきっかけにお互いを強く意識しあいながらもまるで互いなど存在しないかのように無視をしあって生活するという、老いの残酷と哀愁とを抱えたふたりの老人の愛憎劇をシニカルに描き出した小説です。
猫が死んでオウムが死にます。罪なき動物が死ぬのには耐えられないという人には読むのがかなりつらいと思います。
身も蓋もない言い方をすると、もともとは石工で職人気質な男と小金持ちの地主の女がそれぞれ妻と夫に先立たれ、男やもめと未亡人になり数年が経った頃にいよいよ老後の孤独を想像してなんとなく漠然とした不安にかられていたところ、ひょんなことからふたりは知り合いになり、「ひとりで居るよかいいか」というような、愛の再発見ではなく妥協で再婚するのですが、これがマジでうまくいかなかった、みたいな話です。
もちろん出会ったばかりのふたりはお互いに対してほんのりとした好意を持っている、しかしいざ生活を共にしてみると、無骨な職人の男とお上品な令嬢の生活はまったくもって噛み合わないものであって、それぞれの性格の違いや生活習慣の違いなど、価値観の相違が顕著になってくるたびに互いへの反感が強まっていき、ついには互いのペットを手にかけてしまう。そしてひとつ屋根の下で暮らしながらもふたりはお互いを憎みあうようになって、様々な方法で相手にプレッシャーを与えようとするのです。
怒りのあまりにふたりは、お互いを透明人間のように扱って会話のひとつさえしなくなるんだけど、そうすればそうするほどかえって相手の輪郭がはっきりしてきて、どんどん無視出来ない存在になっていくという皮肉な現実、そしてその緊張感にじっと耐えねばならない生活を互いに強いるうちに、どんどん「老いる」という退けようのない未来や、振り返ざるをえぬ過去などが迫ってくる…相手を切り捨てるに切り捨てられず、いっそ自分が自分を捨て去ってしまいたいような気持ちにさえなるのに自分を諦められず、別れるに別れられない老人の哀切は、「老い」の過程において決して回避出来ない孤独の本質を鋭く突いていると思います。孤独にはなりたくないが、他人が自分の築き上げてきた領域に足を踏み入れてくることにも、自分が生活の一部を譲ることにも、要するに相手の勝手気ままな振る舞いのすべてをそっくりそのまま受け入れることが出来ず、むなしい気持ちになる。かつての夫婦生活ではどうとでもなっていたことが新しい相手とではどうにもならず、かといって、今更妥協点を探ることも難しい。
主人公たちは70手前のおじいさんとおばあさん同士で再婚をするのですが、夫となるエミールはなんとそんな老人になってもまだ「性欲」なるものがありまして、初夜に再婚相手のマルグリットを抱こうとするんですよね。むしろ、そうすることが一種の礼儀でさえあるかのような振る舞いで、夫婦生活というものはそういうものだと思っている。前の妻とも盛んだったし。ところがマルグリットのほうはドン引きというか、「まあ夫には妻を抱く権利ありますものね…」みたいな感じでセックスを「耐えるもの」として受け入れようとするから、エミールは勃起を維持できずにその後は一度も夫婦の営みなどなく年月が流れ、お互いの価値観を冷静に擦り合わせる時間を持てないまま、結局ふたりはペット殺しという手段で擬似的にお互いを殺し合うちゅーわけです。
手前としては、正直70手前のじいさんにまだそんな気力が残っていると考えるとそれだけでだいぶ気持ちが悪いな…と思ってしまうんだけど、シムノンって本人が「女1万人抱いたった」みたいなトンデモドスケべおじさんなので、おそらく本人としては70手前でも現役なのは当たり前というか変な設定とは微塵とも思わなかったのかなと思います。作中でもエミールは70歳を過ぎてなお現役すぎて、妻の無言の圧力から逃れるために駆け込んだ飲み屋の女店主とやっちゃうし。でもここで描かれるエミールの性って、男性の欲望としての生々しい影を背負うものではなく、老いることや客観的に自分を見てしまうことへの恐れなんかをどうにか忘れようとする、かつての自分を部分的にでも取り戻そうとする老人の痛切な叫びのようなものがあり、痛ましい。何が痛ましいって、エミールの男として夫としての自尊心は既にボロ切れのような状態なのに、まだ自分には勃起的なもの、即ち自分の能力に対するプライドがあって、少なくとも妻/女性とは「対等」に綱引きが出来るはずだと思っているのに、いざ女店主とやった時/やったあとに残ったものは、「自分は彼女のご厚意に受け入れてもらっている、許して頂いている」という受け身の自分だけで…。
一方妻のマルグリットも、夫に対する当てこすりのためにそれまでの自分だったら絶対に付き合わないような下品な人を友人として家に招いたりして、もはや生きる目的が夫を苦しめることになりつつあるというか、「神に誓ったから離婚しない」のではなく、離婚することをなんらかの挫折、敗北と認めていて、自分の人生において「孤独」を勝者とすることは、夫を精神的に追い込むことや自分が今何をやっているのか分からなくなること、狂気じみたあらゆる行為よりもずっと最悪なことなんだろうなと。
このふたりというのは、どちらかの収入に頼らねば生きていけない人達ではないんですよね。ふたりとも余生を過ごすには足りるお金を持っていて、自分で料理することも外食することも出来る。文化的な活動もひとりで楽しめる。だから、「この人が居なくなったら生活が金銭面で苦しくなる」というようなことはなく、そういう意味では満ち足りているはずなのです。にも関わらず、彼らはお互いの精神にどうにかして干渉し続ける人生を選んでいるわけで、ここにシムノンの残酷な指摘があると思います。
老いるということは孤独との並走です。生き別れ、死に別れの繰り返し。そして「老い」というものは逃れようのない人生のさだめです。だから、人間は本質的に「孤独」というものと常に連帯しているのであって、孤独感というものは別に敵でも味方でもなくただの標準装備なわけです。若い頃はこの装備を取り扱うための体力がある。新しい人間関係や経験が何をせずとも目の前に現れる、考え事を処理するための体力もある、選択肢もある。ところが人はいずれ仕事を辞め、家庭に戻ります。定年を迎えて社会人としての役目に区切りをつける、人間関係はそれ以上広がらず最小単位に留まり、その維持とメンテナンスを続ける体力も徐々に失い、遠出をするのも億劫になる。ある時、経験そのものが負担に変わる瞬間がやってくる。次第に両肩にのしかかる孤独が重たさを増したと感じる。いや、孤独が重たくなったのではない、自分の肩があまりに小さくなったのだ、その重みに耐えられる体力を失いつつあるのだ…と、こういう感じで、孤独を脅威とみなせば立ち所に孤独は人の心を蝕みます。
老夫婦はひとりでいることの厄介さを知っています。それはつらいことです。不安なことです。だから、共依存出来る宛先として他者を自分の人生に招き入れます。愛ではないもので人と繋がろうとします。でも目的は愛し合うことではなく、共依存です。ゆえにどんなに相手に腹が立っても、どれほど相手の所業が許せなくても、別れられない。別れるつもりもない。なぜなら、ふたりの目的はそういう意味では既に達成されているからです。そしてこういう問題の解決には、「自分ひとりが生きていくのに充分なお金」なんてなんの役にも立たないのです。人に依存しないで生きていくために最も重要なアイテムは、実はお金よりもまず自分がどう孤独と連帯していくか、その方法を記載したルールブックだからです。
孤独にならない方法はどれもが難しい。実践するためには、たくさんのリソースを割かなければいけないから。でも孤独を“感じずに”生きる方法はそれより容易い。意地が悪かろうと虚しかろうと、様々な方法で自分という存在を相手に意識させ続ければいいんだから。誰かから意識され続けている以上、自分は決して「孤独」には陥らない。
夫婦はどちらが怒りのイニシアチブを握るかで毎日を苛立たしく過ごすけど、その苛立ちにこそ孤独の解決方法を認めている。それは複雑で、実に解きほぐしがたい歪な絆なのです。
2026/07/10読了
猫
ジョルジュ・シムノン著 三輪秀彦訳
創元社推理文庫畳む