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2026/5/29 17:30
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もともと雑記帳代わりにくるっぷを使っていて、それで特に不足を感じていないので、今後も基本的にはくるっぷにおります。こちらは
くるっぷ
に投げたなんらかの感想とかニュースへの雑感なんかを放り投げる備忘録として運用していく予定です。
折角設置したので、テスト代わりに先日くるっぷに投げた『肉は美し』の感想(の改訂版)をこちらにも。
『肉は美し』、本の帯に「Tiktokで話題沸騰」と書いてあるのを見て、私の中の悪いインターネットがTiktok愛好者に3行以上文章読めるヤツなんか居ないだろと唾棄すべき極めて差別的な偏見を囁いてきたので、それじゃあ一丁買って読むかという気になり購入を決めました。導入としては最低だと思います。
アルゼンチン発の「食人ディストピアSFホラー」というふうに紹介されているんですけど、
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難しい用語や複雑な設定なども出てこずかなり世界観を理解しやすいSFホラー入門編という感じ。グロテスクな部分は多分にあるのですがそこまで苛烈な描写ではなく、非常に淡々としていて読みやすいです。それでいて読後にちゃんと「毒を飲んだ」という感覚が残る。とても良かった。確かにTikTokで話題沸騰しそうだなとも思いました。こういうグロテスクさを大袈裟に広告するタイプのインフルエンサーは居るだろうなという意味で。
舞台は動物が人命を脅かす病原菌の保体となってしまった近未来、動物を食肉として生産・出荷・消費することが出来なくなり、人間を家畜として扱うことが合法的に認められた社会で、その家畜人間(作中ではこれを【人間】と表現することは法律で固く禁じられている)を屠殺する業務に従事しているマルコスという男が本作の主人公。
彼はもともと食肉加工(もちろん家畜の)業者だったのですが、現在はその知識を活かして人肉加工会社に勤めてそこそこの地位についているサラリーマン。しかし彼の生活は厳しいもので、社会が合法的に人間食っていいとかマジでワケ分かんないことを言い出して世の中がありえない狂い方したことに絶望したお父さんは認知症になっちゃうし、実の妹はボケた父親の介護にノンタッチで父親が入居する施設に会いに来ようともせず、マルコスはひとりで父親の介護負担を背負っており、不妊治療を続けてどうにか授かった子供も生まれてすぐに亡くなってしまって、そのせいで妻は精神的に病んで実家に戻っていて、人肉加工になんの罪悪感も持たないどころか嬉々として人の肉を切り刻むサイコパス経営者に囲まれて心労もハンパじゃないし、なんかもうにっちもさっちもいかなくてちょっと病んでる男なんですけど、そんな彼がある時、取引先の人間に食肉用に飼育された最高級人肉女性をプレゼントされるのですね。
マルコスという主人公は悲観的な男で、自分がどれほど悲劇的な人生を歩んでいるかということにもかなり自覚的です。自分の父親、妹という心理的距離が最も近いはずの家族が分裂している問題、苦労した末に授かった子を喪失してしまった父親として、その死を処理しきれない自分自身の精神の問題、また妻も同様に病んでしまい、そうした家庭の問題をも抱えなければいけないという多重の精神的負荷、加えて仕事においても安寧の時はなく、自分自身が抱える業務の違和感と経営者たちの臨む景色の間に深い断絶があることに絶望している。あらゆる方面から悲劇に見舞われている実に《悲劇的な》男マルコスは、自分とは即ち悲劇の男なんだという諦観の中に生き、日々を苛立ちと共に過ごしている。そんな主人公が、人肉として育てられて出荷を待っていた、『見た目は人間中身は家畜』という地獄名探偵(ヘル・コナン)みたいな決して《人として》扱ってはいけない存在と出会ってしまい…
『肉は美し』の世界において描写される社会というのは、「食べられなくなった動物の肉の代わりに人間の肉を食べる」という極端な選択をした社会です。つまり、需要を満たすためであれば究極的な超消費を肯定する、資本主義の最果てのような社会です。作中に描写される食用人間たちは肉の一枚とて無駄にはされず、その皮さえも加工品となります。実験動物の代わりでもある。人格はほぼないに等しいような描かれ方をされていて、同じなのは見た目だけ…という建付けです。でも誰も彼もがこの食事にありつけるわけではない。工場で管理されて生産された「美味しい人肉」を食べられるのは、ミドルクラス以上の人間たちだけということ。
動物性タンパク質がないなら人肉食べればいいじゃない。国家が(無論自分たちを含む)ブルジョワ様の【消費】のために超えてはならない一線を超えた社会、ここに描かれているのはいわば資本主義を限界まで加速させた結果倫理の崩壊を引き起こしている社会です。シリコンバレーの技術者の一部の集団が提唱している「加速主義」のようなカルト的な主張は、この資本主義の限界をテック企業が突き破ってこそ社会は前進するのだから、限りなく資本主義を拡大せよと謳っているけど、本作の舞台ではテクノロジーがこれを救いません。つまり技術革新は人を死に至らしめる病を克服出来ず、また動物性タンパク質の代替を生み出すことも出来ず、しかして消費に対する希求は留まることがなく、今ある資源の分配を拒否し、需要を満たすためであれば人倫を踏み越えることも厭わなくなった社会、文化や文明というものが【カネ】と【消費活動】にとって代わられた世界です。
設計としてかなりの無理のある【超消費】は、一部の富裕層にだけはやたらとカネが集まっているのに市場にはモノがないという状態の時にこそ起こる。一部にだけ富が集中してるってことは市井の人々の生活は困窮しているということで、作中では貧富の差が壮絶なものであるということが肉の消費を通じて描かれています。金持ちもヤバいけど貧困層もヤバい。
で、モノがなくなり需要を満たせず、著しく需給の均衡を欠く貧困社会では下記のような価値観がとても強い実行力を持っていて、『肉』という富の象徴はやはり富裕層を中心に消費されます。一部の限られた層の人たちへの分配だから、ここでは人としての倫理よりも消費のための倫理が優先されます。
・我々が需要する限りにおいて供給はされるべきであり(支払い能力がある以上、安全に肉を食べる権利がある)、
・需要を満たすため生産において限りなく合理的な手段をとることは、生命倫理とはまた切り分けて考えねばならない経済の問題で(肉として生まれたものを肉として消費することは悪ではないので、その過程において発生する諸問題は一切を免責されるべきである)、
・また、消費とは生活を過不足なく運用するために必要不可欠な文化的かつ文明的行為であり(美味しい肉を食べるために、肉そのものは安全な場所で管理されなければならず、その点において虐待は許されず、文明的な運用が義務付けられている、であるならば、それは肉そのものの権利すら包括的に保護しているということであり、この合理性を保持する以上、我々は文化的かつ人間的な価値観を喪失しえない)、
・需要を満たすための生産消費は雇用の創出にも繋がり、そのサイクルの中で経済を発展させ、また安定させるものでもあるのだから、仮にしばしば労働者が比重の偏った負担を強いられたとしても、その利益はいずれ労働者に還元される(自らの、受け取りたい/受け取りたくないという意思に関わらず、食肉は市場を潤し潤った市場の恩恵を国民はすべからく受け取っているのだから、その責任はすべてに分散され共有される)
文化や文明が人間の道徳を構成するのではなく、消費行動が人間の「善性」「善意」そのものの価値観まで支配するという考えです。だから人々は食人行為を「食“人”」とは言わない。あくまでもこれは「食事」という行為で、食べているものも「ヒト」ではなく「頭」(作中で食用人間は「頭」と呼ばれる)である。呼び方から強制し、情報統制を徹底する。これは【文化】なんですよ、というポーズ。ただの消費行動を文化的行為と見なすためには、言葉による書き換えがとても重要なんだなぁ。その書き換えがあってこそ、残虐な行為には大量の免罪符が与えられることになります。だって、人は肉を食わねばいきていけないし、動物性タンパク質がなければ健康が損なわれるし、食用の「頭」はそういう生き物として飼育されており、わざわざ痛めつけて殺すといったようなことはしないのだし、食用の「頭」に対する性的な虐待も無論罪に問われる行為で、食の楽しみを守るということは我々の基本的人権を守ることであり、食事は生活において不可欠な行為なのだから、正当性はある。したがって、合法的に肉を手に入れるために必要な手段を講じることは、「悪」ではない。
それが真実かどうかはひとまず置いておいて、そういう「御札」を貼るという行為は、それそのものの価値自体に大きく作用します。だけどマルコスは食肉加工会社で食用人間がどのような環境でどのように飼育され、どんな人間に何をされるか、またどのように処理されているかを知っている。実際に供される「肉」が実際には食肉用の人間だけではないという現実を知っている。そしてその肉がどういった人達に需要され、どういった用途のために使用されているのかも分かっている。マルコスの頭の中には、これを「肉」として見なければいけない自分と「しかしこれは人間の形をしている」と認識する自分がそれぞれに存在していて、常に矛盾を抱えています。本当に生きるために必要ならば納得が出来るかも知れない。それを職業と割り切ることも出来るかも知れない。実際、そう考えている仲間は居る。しかし、現実的にはこれはただの「食人」で、彼らはかつて人間の形をしていたものを食べている。人間が人間を食べるという一線を超えた人々にとって、人肉食のハードルはかなり下がってしまった。つまり、自分と同じ人間を傷つけるハードル、殺しのハードル、そういったものが以前よりずっと低くなってしまった。命の価値自体が変容してしまった。その一方で、マルコスは子供を喪ったら悲しく苦しいわけです。親がボケてまともに会話も出来なくなっていることを嘆く気持ちがあるわけです。妹が介護に参加せず協力的な態度を見せないことに冷酷さを感じるわけです。社会全体が命に対するハードルを下げたとしても、私個人にとっての命のハードルは変わらない。この矛盾が、マルコスを苦しめている。
主人公のマルコスは本当に悲劇的な人物で、 様々な不条理の中をもがく男として描かれているのですが、この人物描写は実に巧みです。
彼の描かれ方としてはこうなわけです。つまり、彼は今自分がやっていることをとても残酷で惨たらしいことだと感じているけど、父親の介護費用を賄うためにはこの選択に頼らざるを得ないから仕方なく仕事を引き受けているという立場で、喪った子供や病んだ妻のことを悼んだり思いやったりするといった心理的コストの支払いのためにはどこかに苛立ちをぶつける必要もあって、その苛立ちの捌け口のためには、エロい知り合いの女と乱暴なセックスもするし、そのエロい知り合いの女をエロがっている男の前で見せつけるようなプレイをすることで溜飲を下げてもいる。かつての彼は飼っていた犬を本当に愛していて、今でも犬に対しては格別の思い入れがあるんだけど、生き残った野犬たちが子供たちに虐待されているところに遭遇しても割り込んでいったりは出来ないし、犬一匹救えない。かといってそんな自分を責めたり哀れんだりといったようなことはなく、悪いのは自分という個人ではなくこういう社会の構造なんだと世の中に対する暗い怒りを抱えている。上司や取引先のお偉いさんには逆らえないが、特別苛立っている時には、女性のサイコパス研究者くらいになら嫌味な態度もとる。
マルコスはまるで「こちら側」の人間であるかのような描かれ方をします。悪の当事者ではなく、悪の傍観者という立場です。肉を捌くということに罪悪感があり悲しさがある。つらさがある。自分の仕事に違和感がある。おかしいと思っている。それを誰にも言えないでいる。死ぬことを恐れている。家族の尊厳が傷つくことを恐れている。どこにでもいる、小さくとも、確かな倫理観に基づいて思考することの出来る人物。「あなた」と同じ。「わたし」と同じ。最初はそういうふうに彼を読むことが出来る。しかし、マルコスは自分より強いものには逆らえない。現状を打破するための努力は出来ない。完全に人肉食や人肉加工を受け入れている取引先の人々にささやかな意思表示をすることも出来ない。子供たちが生き残った野犬を虐待する場面に遭遇してもただ見ているだけで何もしない。子供が死んでしまい心のバランスを崩す妻に寄り添えない。妹を憎んでいて、取引先の女を乱暴に抱き、女性の研究者相手にならストレートな苛立ちを見せる…彼は、今この瞬間に出来る最大限普通の振る舞いをして新しい常識から逸脱しない、ゆえに、彼は自分自身の「差別意識」に気付きもしません。
マルコスは家族や社会的地位に縛られています。食肉加工業者として日々「肉」を処理しながら、自分自身はそういう肉を決して食べないのは、その行為に生理的な極めて強い嫌悪感を覚えるからです。だから貢物として贈られた高級人肉女性のことも、“食べは”しません。
しかし、この物語で提示される「消費」は、食べるという行為をはるかに超えた、もっとグロテスクな行為であり…
マルコスの人間性は悲劇によって保たれています。子供を喪った父親という自分自身の悲劇が、彼に現状に対して不満を持ち、怒りと悲しみを覚える平凡な男の人格を与えています。この物語が明示するのは、「行き場のない怒り」や「途方もない悲しみ」こそが、実は人が「人」というものに大きく共感し、精神的な共鳴を送受信するアンテナになっているという事実です。では、その「悲劇」を克服した彼は、その代わりのアンテナをどこに求めるようになるのか。
マルコスと同じ「あなた」も「わたし」も、結局はこの超消費社会でひたすら滑車を回し続けている残酷な消費者でしかないとしたら。そしてその残酷さに、当事者ほど無自覚なのはなぜなのか。他人の誤った行いには強烈な忌々しさを感じるのに、自分の手だけはあんなふうに汚れていないと考えてしまうのはなぜなのか。人命を家畜と等しく扱う富裕層(遊びで人間狩りとかする)を心底下品と軽蔑しながら彼らを打倒しようとはせず、その日食うにも困っている最貧困の人々(腐った人肉を拾い集めて食ったりする)に憐れみより苛立ちを感じて常に攻撃の口実を探してしまうのはなぜなのか。
その矛盾の答えを、物語は最後の最後で明示してくれます。これ以上ないグロさをもって。
2026/05/14読了
肉は美し
アウグスティナ・バスティリカ著 宮崎真紀訳
河出書房新社
畳む
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アルゼンチン発の「食人ディストピアSFホラー」というふうに紹介されているんですけど、難しい用語や複雑な設定なども出てこずかなり世界観を理解しやすいSFホラー入門編という感じ。グロテスクな部分は多分にあるのですがそこまで苛烈な描写ではなく、非常に淡々としていて読みやすいです。それでいて読後にちゃんと「毒を飲んだ」という感覚が残る。とても良かった。確かにTikTokで話題沸騰しそうだなとも思いました。こういうグロテスクさを大袈裟に広告するタイプのインフルエンサーは居るだろうなという意味で。
舞台は動物が人命を脅かす病原菌の保体となってしまった近未来、動物を食肉として生産・出荷・消費することが出来なくなり、人間を家畜として扱うことが合法的に認められた社会で、その家畜人間(作中ではこれを【人間】と表現することは法律で固く禁じられている)を屠殺する業務に従事しているマルコスという男が本作の主人公。
彼はもともと食肉加工(もちろん家畜の)業者だったのですが、現在はその知識を活かして人肉加工会社に勤めてそこそこの地位についているサラリーマン。しかし彼の生活は厳しいもので、社会が合法的に人間食っていいとかマジでワケ分かんないことを言い出して世の中がありえない狂い方したことに絶望したお父さんは認知症になっちゃうし、実の妹はボケた父親の介護にノンタッチで父親が入居する施設に会いに来ようともせず、マルコスはひとりで父親の介護負担を背負っており、不妊治療を続けてどうにか授かった子供も生まれてすぐに亡くなってしまって、そのせいで妻は精神的に病んで実家に戻っていて、人肉加工になんの罪悪感も持たないどころか嬉々として人の肉を切り刻むサイコパス経営者に囲まれて心労もハンパじゃないし、なんかもうにっちもさっちもいかなくてちょっと病んでる男なんですけど、そんな彼がある時、取引先の人間に食肉用に飼育された最高級人肉女性をプレゼントされるのですね。
マルコスという主人公は悲観的な男で、自分がどれほど悲劇的な人生を歩んでいるかということにもかなり自覚的です。自分の父親、妹という心理的距離が最も近いはずの家族が分裂している問題、苦労した末に授かった子を喪失してしまった父親として、その死を処理しきれない自分自身の精神の問題、また妻も同様に病んでしまい、そうした家庭の問題をも抱えなければいけないという多重の精神的負荷、加えて仕事においても安寧の時はなく、自分自身が抱える業務の違和感と経営者たちの臨む景色の間に深い断絶があることに絶望している。あらゆる方面から悲劇に見舞われている実に《悲劇的な》男マルコスは、自分とは即ち悲劇の男なんだという諦観の中に生き、日々を苛立ちと共に過ごしている。そんな主人公が、人肉として育てられて出荷を待っていた、『見た目は人間中身は家畜』という地獄名探偵(ヘル・コナン)みたいな決して《人として》扱ってはいけない存在と出会ってしまい…
『肉は美し』の世界において描写される社会というのは、「食べられなくなった動物の肉の代わりに人間の肉を食べる」という極端な選択をした社会です。つまり、需要を満たすためであれば究極的な超消費を肯定する、資本主義の最果てのような社会です。作中に描写される食用人間たちは肉の一枚とて無駄にはされず、その皮さえも加工品となります。実験動物の代わりでもある。人格はほぼないに等しいような描かれ方をされていて、同じなのは見た目だけ…という建付けです。でも誰も彼もがこの食事にありつけるわけではない。工場で管理されて生産された「美味しい人肉」を食べられるのは、ミドルクラス以上の人間たちだけということ。
動物性タンパク質がないなら人肉食べればいいじゃない。国家が(無論自分たちを含む)ブルジョワ様の【消費】のために超えてはならない一線を超えた社会、ここに描かれているのはいわば資本主義を限界まで加速させた結果倫理の崩壊を引き起こしている社会です。シリコンバレーの技術者の一部の集団が提唱している「加速主義」のようなカルト的な主張は、この資本主義の限界をテック企業が突き破ってこそ社会は前進するのだから、限りなく資本主義を拡大せよと謳っているけど、本作の舞台ではテクノロジーがこれを救いません。つまり技術革新は人を死に至らしめる病を克服出来ず、また動物性タンパク質の代替を生み出すことも出来ず、しかして消費に対する希求は留まることがなく、今ある資源の分配を拒否し、需要を満たすためであれば人倫を踏み越えることも厭わなくなった社会、文化や文明というものが【カネ】と【消費活動】にとって代わられた世界です。
設計としてかなりの無理のある【超消費】は、一部の富裕層にだけはやたらとカネが集まっているのに市場にはモノがないという状態の時にこそ起こる。一部にだけ富が集中してるってことは市井の人々の生活は困窮しているということで、作中では貧富の差が壮絶なものであるということが肉の消費を通じて描かれています。金持ちもヤバいけど貧困層もヤバい。
で、モノがなくなり需要を満たせず、著しく需給の均衡を欠く貧困社会では下記のような価値観がとても強い実行力を持っていて、『肉』という富の象徴はやはり富裕層を中心に消費されます。一部の限られた層の人たちへの分配だから、ここでは人としての倫理よりも消費のための倫理が優先されます。
・我々が需要する限りにおいて供給はされるべきであり(支払い能力がある以上、安全に肉を食べる権利がある)、
・需要を満たすため生産において限りなく合理的な手段をとることは、生命倫理とはまた切り分けて考えねばならない経済の問題で(肉として生まれたものを肉として消費することは悪ではないので、その過程において発生する諸問題は一切を免責されるべきである)、
・また、消費とは生活を過不足なく運用するために必要不可欠な文化的かつ文明的行為であり(美味しい肉を食べるために、肉そのものは安全な場所で管理されなければならず、その点において虐待は許されず、文明的な運用が義務付けられている、であるならば、それは肉そのものの権利すら包括的に保護しているということであり、この合理性を保持する以上、我々は文化的かつ人間的な価値観を喪失しえない)、
・需要を満たすための生産消費は雇用の創出にも繋がり、そのサイクルの中で経済を発展させ、また安定させるものでもあるのだから、仮にしばしば労働者が比重の偏った負担を強いられたとしても、その利益はいずれ労働者に還元される(自らの、受け取りたい/受け取りたくないという意思に関わらず、食肉は市場を潤し潤った市場の恩恵を国民はすべからく受け取っているのだから、その責任はすべてに分散され共有される)
文化や文明が人間の道徳を構成するのではなく、消費行動が人間の「善性」「善意」そのものの価値観まで支配するという考えです。だから人々は食人行為を「食“人”」とは言わない。あくまでもこれは「食事」という行為で、食べているものも「ヒト」ではなく「頭」(作中で食用人間は「頭」と呼ばれる)である。呼び方から強制し、情報統制を徹底する。これは【文化】なんですよ、というポーズ。ただの消費行動を文化的行為と見なすためには、言葉による書き換えがとても重要なんだなぁ。その書き換えがあってこそ、残虐な行為には大量の免罪符が与えられることになります。だって、人は肉を食わねばいきていけないし、動物性タンパク質がなければ健康が損なわれるし、食用の「頭」はそういう生き物として飼育されており、わざわざ痛めつけて殺すといったようなことはしないのだし、食用の「頭」に対する性的な虐待も無論罪に問われる行為で、食の楽しみを守るということは我々の基本的人権を守ることであり、食事は生活において不可欠な行為なのだから、正当性はある。したがって、合法的に肉を手に入れるために必要な手段を講じることは、「悪」ではない。
それが真実かどうかはひとまず置いておいて、そういう「御札」を貼るという行為は、それそのものの価値自体に大きく作用します。だけどマルコスは食肉加工会社で食用人間がどのような環境でどのように飼育され、どんな人間に何をされるか、またどのように処理されているかを知っている。実際に供される「肉」が実際には食肉用の人間だけではないという現実を知っている。そしてその肉がどういった人達に需要され、どういった用途のために使用されているのかも分かっている。マルコスの頭の中には、これを「肉」として見なければいけない自分と「しかしこれは人間の形をしている」と認識する自分がそれぞれに存在していて、常に矛盾を抱えています。本当に生きるために必要ならば納得が出来るかも知れない。それを職業と割り切ることも出来るかも知れない。実際、そう考えている仲間は居る。しかし、現実的にはこれはただの「食人」で、彼らはかつて人間の形をしていたものを食べている。人間が人間を食べるという一線を超えた人々にとって、人肉食のハードルはかなり下がってしまった。つまり、自分と同じ人間を傷つけるハードル、殺しのハードル、そういったものが以前よりずっと低くなってしまった。命の価値自体が変容してしまった。その一方で、マルコスは子供を喪ったら悲しく苦しいわけです。親がボケてまともに会話も出来なくなっていることを嘆く気持ちがあるわけです。妹が介護に参加せず協力的な態度を見せないことに冷酷さを感じるわけです。社会全体が命に対するハードルを下げたとしても、私個人にとっての命のハードルは変わらない。この矛盾が、マルコスを苦しめている。
主人公のマルコスは本当に悲劇的な人物で、 様々な不条理の中をもがく男として描かれているのですが、この人物描写は実に巧みです。
彼の描かれ方としてはこうなわけです。つまり、彼は今自分がやっていることをとても残酷で惨たらしいことだと感じているけど、父親の介護費用を賄うためにはこの選択に頼らざるを得ないから仕方なく仕事を引き受けているという立場で、喪った子供や病んだ妻のことを悼んだり思いやったりするといった心理的コストの支払いのためにはどこかに苛立ちをぶつける必要もあって、その苛立ちの捌け口のためには、エロい知り合いの女と乱暴なセックスもするし、そのエロい知り合いの女をエロがっている男の前で見せつけるようなプレイをすることで溜飲を下げてもいる。かつての彼は飼っていた犬を本当に愛していて、今でも犬に対しては格別の思い入れがあるんだけど、生き残った野犬たちが子供たちに虐待されているところに遭遇しても割り込んでいったりは出来ないし、犬一匹救えない。かといってそんな自分を責めたり哀れんだりといったようなことはなく、悪いのは自分という個人ではなくこういう社会の構造なんだと世の中に対する暗い怒りを抱えている。上司や取引先のお偉いさんには逆らえないが、特別苛立っている時には、女性のサイコパス研究者くらいになら嫌味な態度もとる。
マルコスはまるで「こちら側」の人間であるかのような描かれ方をします。悪の当事者ではなく、悪の傍観者という立場です。肉を捌くということに罪悪感があり悲しさがある。つらさがある。自分の仕事に違和感がある。おかしいと思っている。それを誰にも言えないでいる。死ぬことを恐れている。家族の尊厳が傷つくことを恐れている。どこにでもいる、小さくとも、確かな倫理観に基づいて思考することの出来る人物。「あなた」と同じ。「わたし」と同じ。最初はそういうふうに彼を読むことが出来る。しかし、マルコスは自分より強いものには逆らえない。現状を打破するための努力は出来ない。完全に人肉食や人肉加工を受け入れている取引先の人々にささやかな意思表示をすることも出来ない。子供たちが生き残った野犬を虐待する場面に遭遇してもただ見ているだけで何もしない。子供が死んでしまい心のバランスを崩す妻に寄り添えない。妹を憎んでいて、取引先の女を乱暴に抱き、女性の研究者相手にならストレートな苛立ちを見せる…彼は、今この瞬間に出来る最大限普通の振る舞いをして新しい常識から逸脱しない、ゆえに、彼は自分自身の「差別意識」に気付きもしません。
マルコスは家族や社会的地位に縛られています。食肉加工業者として日々「肉」を処理しながら、自分自身はそういう肉を決して食べないのは、その行為に生理的な極めて強い嫌悪感を覚えるからです。だから貢物として贈られた高級人肉女性のことも、“食べは”しません。
しかし、この物語で提示される「消費」は、食べるという行為をはるかに超えた、もっとグロテスクな行為であり…
マルコスの人間性は悲劇によって保たれています。子供を喪った父親という自分自身の悲劇が、彼に現状に対して不満を持ち、怒りと悲しみを覚える平凡な男の人格を与えています。この物語が明示するのは、「行き場のない怒り」や「途方もない悲しみ」こそが、実は人が「人」というものに大きく共感し、精神的な共鳴を送受信するアンテナになっているという事実です。では、その「悲劇」を克服した彼は、その代わりのアンテナをどこに求めるようになるのか。
マルコスと同じ「あなた」も「わたし」も、結局はこの超消費社会でひたすら滑車を回し続けている残酷な消費者でしかないとしたら。そしてその残酷さに、当事者ほど無自覚なのはなぜなのか。他人の誤った行いには強烈な忌々しさを感じるのに、自分の手だけはあんなふうに汚れていないと考えてしまうのはなぜなのか。人命を家畜と等しく扱う富裕層(遊びで人間狩りとかする)を心底下品と軽蔑しながら彼らを打倒しようとはせず、その日食うにも困っている最貧困の人々(腐った人肉を拾い集めて食ったりする)に憐れみより苛立ちを感じて常に攻撃の口実を探してしまうのはなぜなのか。
その矛盾の答えを、物語は最後の最後で明示してくれます。これ以上ないグロさをもって。
2026/05/14読了
肉は美し
アウグスティナ・バスティリカ著 宮崎真紀訳
河出書房新社畳む