2026年6月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する

溜めていたマイリストを消化しようと思ったのに新着リストを見ると面白そうな最新作が色々。マイリストに入れたが最後、観ないんじゃないか?もはや、マイリストに観たい映画を登録することが目的になってないか?と思いながらも新着に載っていた『アグリー・シスター 可愛いあの娘は醜いわたし』を観て、久々に食らう。

『アグリー・シスター~』は、シンデレラをモチーフにした(とても残酷な)フェアリーテイルだが、主人公はシンデレラではなく義理の姉妹の長女のほう。シンデレラの原作では姉妹たちの名前が設定されていないのだがディズニー版ではアナスタシア(長女)とドリゼラ(次女)という名前がつけられており、この映画ではディズニー版で言うところのアナスタシアが主役である。

王子様との結婚を無垢に夢見るエルヴィラ(主人公、演:リラ・マイレン)は母の再婚のため王国へ越してくる。義姉妹となるアグネス(演:テア・ソフィー・ロック・ネス)は目を見張るほど美しい娘で、新しいお父さんも朗らかで人は良さげ。厳かで美しいお城での新生活に胸ときめかせるエルヴィラだったが、同居を始めたその日に新しいお父さんは亡くなってしまう。ショックのあまり寝込んでしまったアグネスを見舞ったエルヴィラは、そこでアグネスから「この家にはお金が無い(だからあなたたちのお金を当て込んで父は再婚した)」と聞かされ、お互いがお互いの金目当てに再婚したことを知る。金持ちと再婚出来たと思ったらとんでもない間違い、すっかり素寒貧になってしまったと絶望する母レベッカ(演:アーネ・ダール・トルプ)に対して、「また再婚すればいいじゃない」と励ましの言葉をかけるエルヴィラだが、「こんな年増の垂れ乳女(※垂れ乳女は本当に言った)が再婚するのがどれほど難しいと思っているんだ」とむしろ逆ギレされてしまう。さめざめと泣き出す母を憐れに思ったエルヴィラは、「なら私が結婚する」と言うのだが…というのがあらすじ。

お城から舞踏会への招待状が届き、舞い上がったエルヴィラは早くも王子様とのロマンチックな出会いで頭がいっぱいになるのだが、母であるレベッカはエルヴィラに「そんなツラと体型じゃ…」という態度を隠さず、しかして娘が玉の輿に乗ってもらうことが母の悲願(だって金持ち男に養ってもらう生活は捨てられないから)、そこから母による母のための整形とダイエットをエルヴィラに強いていくことになるのだが、ここで描き切られたグロテスクさに骨の髄から打ちのめされて感動した。この痛みにこの踏み込み方が出来る脚本家は絶対に女性だと思ったが、やはり脚本兼監督はエミリア・ブリックフェルトさんという女性監督。この映画が長編デビュー作らしく、その才能の迸り方に感激してしまい私はすっかり彼女のファンである。

ご本人も言うように、映画にはクローネンバーグ的なボディホラーの要素がふんだんに盛り込まれているが、クローネンバーグほど「人間やめさせちゃお☆」に寄った作風ではない。人間の原型を留めるからこそ、破滅的なイメージが完成している。無麻酔で鼻の骨を砕いて整形し、虫を飲み込み、つけまつ毛を直接皮膚に縫い付け、ストレスで抜け落ちた毛はカツラで誤魔化す。美しさを追求するはずがどんどん美しさからかけ離れていく。こんなふうに変わりたいなんて、自分で願ったことなど一度もないはずなのに。

今月の頭に、「マンジャロ」という糖尿病治療薬を無許可で販売・転売目的で保管した疑いで男女3名が書類送検されたというニュースを読んだ。(日経新聞: https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUF0... )

この「マンジャロ」というのが、現代の痩身薬として一定の層から需要されているらしい。私ももちろん運動しないで痩せられるなら是非痩せたいし、腹筋しなくても腹筋が割れてくれるなら本当にありがたいし、寝転がっているだけでケツが引き締まるなら是非そうあってほしいし、どれだけ食べても消化の段階でカロリーを半分に圧縮してくれる胃袋があるなら嬉しいと真っ直ぐな気持ちで思う怠惰な市民のひとりだが、それは土台無理な話だと理解している。それなりに痩せたいと思ったら痩せるなりの努力が必要なわけだが、その「努力」というのは「運動」と「適度な摂生」を言うのであり、健康な体になんらかの薬品を流し込むこととはおそらく違う。

健康を投げ打ってまで得たい「美ボディ」というやつが自分には想像出来ない。絶食をするとか薬品に頼るとか、得られるものに対して支払いがデカすぎると感じるし、世の中の大抵の“良識派”は「痩せるにしたってやり方が…」と言うだろうから、健康な体に治療薬をブチ込むとその後どうなるか体を張った人体実験の参加者に金を払ってまでなりたいという奇特な感情を共感的に見るのは難しいかも知れないと思う一方、「美しさ」という観念が、主観的な「美」よりも客観的な「美」のほうに基準をおいている以上、「私はこれが美しいと思うので」という主張一本でボディポジティブを語っていくにはそれなりの胆力が必要なのも事実で、「デブ」や「ブス」、その他身体的特徴を揶揄する言葉がどれほど人の心を傷付け苛むか、身を持って知る女性の方が世の中多いのではないかとも思う。と考えると、糖尿病治療薬を使ってまで「痩せたい 」という願望に依存的なまでにのめり込み、痩せることが美への最短距離のはずだと妄信的に痩身を信奉している人達の心に、深く根を張っているのはコンプレックスというより恐怖心だろうというのは、別に突飛な想像とも言えないだろう。自分が他者からの心無い目に晒されること、無神経な言葉のひとつひとつに傷つけられること、そういう恐ろしいことから逃げたいのだ。惨たらしいのは、恐怖を感じている人の心につけ込むことがどれほど容易なことかを知っている人達が、嘘八百を並べ立てているに過ぎないのにそれをまるで魅力的な広告であるかのように装って、その恐怖心から金を巻き上げているという搾取の構造である。

「美」というのは実際のところかなり抽象的な概念なのだが、そこに「痩せ」だとか「二重」だとか目に見える確実性を求めてしまうのは、型に嵌められた存在でいたほうが突出した身体的特徴にスポットライトを当てられずに済むという回避的な意識もあるんじゃないかと思う。定義されている「美」を体現出来たなら、自分たちはこれ以上、「デブ」や「ブス」という言葉に苦しめられることはないだろう。相手の差別的な態度に悲しんだり、怒ったりする必要もなくなるだろう。と同時に、客観性が定めた「美しさ」という基準を満たすことは、自分を人生の成功者のように振る舞わせてくれる魔力と、そうすることでようやく対等に「権力」と並び立てるという、神話的な幻想を抱かせてくれる魔法を彼女達に与えてくれるのではないか。美しさは常に権力者との接点を作る上で重要な武器となってきた。換金可能な「美」は、「美」の基準として分かりやすい。“金になるほど美しい”!

エルヴィラは、いわば現代において「マンジャロ」を求める女性のひとりだ。彼女は淑女養成スクールに通って、選ばれし洗練されたお嬢様としての振る舞いを叩き込まれる。立ち姿から美しく、しなやかに、舞踏会ではダンスの相手に“選ばれる”女となるために、母親からのプレッシャーにも先生からの厳しい指導にも耐える。エルヴィラは、自分は将来的に“金になる女”だと母に証明しなくてはならない。綺麗な顔になって、痩せて、お金持ちの王子様と結婚する。美しさを換金する。そのためにサナダムシの卵も飲む。彼女を支えるのは、王子様との甘い出会い、甘い夢。

母の意向で整形手術に挑む時、エルヴィラはおそらくなんの覚悟も決まっていないまま椅子に縛り付けられる。無麻酔で出っ張った鼻の頭の骨を砕かれ悲鳴を上げて身悶えるエルヴィラに、慣れた様子で「アン、ドゥ、トロワ」とまるで魔法の呪文でも唱えるみたいに言いながらもう一度カナヅチを振るう美容外科医が、つまり現代でマンジャロをダイエット薬として転売する鬼畜商人の姿というわけだ。

美容整形のため鼻を砕かれ、その鼻をベルトで固定されているエルヴィラの姿が本作のキービジュアルにもなっている。彼女の本当の生き地獄は、この顔から始まる。

エルヴィラは妹のアルマ(演:フロー・ファゲーリ)とピクニックに出かけ、そこでアルマに「サナダムシダイエット」について打ち明けるのだが、アルマは「虫を飲むなんて気持ち悪い」と憤慨しエルヴィラを置いて帰ってしまう。置いていかれたエルヴィラはしばらく森を彷徨うが、そこでなんと偶然にも森に狩りへ来ていた王子様とその友人たちを見かけるのである。高鳴る胸の鼓動を抑えて彼らに近づくと、彼らの、ありえないくらい下品で下劣で聞くにたえないような会話が聞こえてくる。しかも、エルヴィラが想い焦がれる王子様はケツ丸出しで立小便までしている有様。物陰に隠れて彼らの様子を伺っていたエルヴィラは驚きと動揺で物音を立ててしまい、王子一行に見つかってしまうのだが、そこでエルヴィラにかけられたのは甘く優しい言葉などではなく…

本作の2人目の主人公とも言うべき、もう一人の地獄を生きるものがシンデレラにあたる義理の姉、アグネスである。初対面のエルヴィラですらうっとりしてしまうような、絵に描いたような美貌を持つ“プリンセス”。しかしアグネスは馬番をしているイサク(和名っぽい名前だが別に日本人ではない)という男と相思相愛の格差恋愛の真っ最中で、立場的に舞踏会に出て王子様を射止めるべきだと理解しつつも、自分の本当の愛はイサクのもので心から愛しているのはイサクだけだと痛切な想いをイサクに告げる。愛し合うふたりは馬小屋で怒涛のセックスをブチかますのだが、いつでもタイミングが最悪なことに定評があるエルヴィラがこれまた偶然にもふたりの生々しいまぐわいを目撃してしまうのである。日中に王子様の汚ぇケツを見たと思ったら、夜は馬小屋でイサクの無駄にキレイなケツを見る羽目に。涙が出ますよ。

コトが継母レベッカにバレ、馬番のイサクは全裸で野に追放、アグネスはここで原作通りの“灰かぶり”となり、彼女らの真剣恋愛はあまりにも空しい幕引きを迎えるのだった。お城のお嬢様から召使いに堕ちたアグネスは淑女養成スクールからも退校させられ、一方でレベッカのエルヴィラに対するプレッシャーはますます激しいものになっていく。

妹のアルマはこの狂った母娘の玉の輿大作戦にドン引きしていて、自分が「女性」として扱われること、また「女性」になることに抵抗感を感じているし、自分の母親が、「女は権力のある男の一番美しいアクセサリーでなければいけない(金持ちから選ばれる女にならなければいけない)」というような価値観が完全に内面化されてしまっていること、そしてその感性が無批判のまま放置された結果、母レベッカの中でそれは暴力的なほど強い支配的な価値観になってしまっていること、娘であるはずのエルヴィラを操り人形のように操作して、自分を代弁する装置にしようとしていることに、唯一気付いてる。母親の狂気に飲み込まれて崩壊していく姉を心から心配しているのもこのアルマだけで、彼女だけが、作中で唯一の良心として姉エルヴィラのことを見守っている。

いざ舞踏会の日がきてエルヴィラは念願の王子様と、(母親が金とコネの力で錬成した)キラキラ輝くうら若き乙女として対面を果たすが、この舞踏会に出てくる男性陣は目に余るほど露悪的な描かれ方をしていていっそ意地の悪い笑いを誘う。必見である。

客観性が評価の中心軸になっている「美」は、常に値踏みされる。客観性が評価の中心軸になっている「美」というのは、つまり誰かにとって都合よく扱える「美」のことだ。

そういう「美」においては、胸の大きさ、ウエストの細さ、顔の小ささ、手足の長さ、目の開き具合、二重の幅、鼻がついている位置、額の広さ、おしりは垂れていないか、脇毛は生えていないか、眉毛は整っているか、まつ毛は上がっているか、毛穴は閉じているか、皮脂は浮いていないか、髪の毛は艶を帯びて且つくし通りは滑らかか、肌は白いか、背中にニキビはないか、爪の形は綺麗か、ほうれい線はないか、歯は白く輝いているか、唇はひび割れていないか、体重は最低でも身長から-110をキープしているか、身長は低すぎず高すぎることもないか、デリケートゾーンの色素沈着はどうだ、歩き方はみっともなくないか、猫背ではないか、内股ではないか、座り方はどうだ、肩幅はどのくらいだ、髪の長さは理想的か、愛用しているアクセサリーのサイズは、好きなブランドは、使っているボディソープは、パーソナルカラーを意識した化粧品を使っているか、体型に似合った服を着ているか、エトセトラ、もっとたくさん、様々なことが評価の対象になり女性の査定になる。その査定を一体、誰がなんのためにしているのか。

『アグリー・シスター~』の物語では、そういう査定をする側の人間が、要するに権力勾配の上層にいる人間であることを明確に描いている。俺が興奮出来る女でいてくれ、自分に知的な劣等感を感じさせないアクセサリーでありトロフィーであってくれ、セックスするのにちょうどいいおっぱいであってくれ、やりやすい程度の頭の弱さを持っていてくれ、それでいて攻略しがいのある美しさを保っていてくれ、俺が触りたくなり犯したくなるような「女の子」でいてくれ。言外に伝えられる欲望が、舞踏会という場面で男性陣たちが見せる振る舞いの中に凝縮されている。下劣の煮凝りみたいな会話の応酬。こんなヤツらのために歩き方ひとつから指導され、他人に人生の主導権を自ら渡しに向かうエルヴィラ。そして、そんな男性たちのダダ漏れの欲望を浴びてなお、そう眼差されること、性的な価値こそが女の持つ重要な武器であり、その対価で優雅な暮らしが出来るのだと信じて疑わない女衒のような母親。おお、神よ。

女性の多くはおそらくこの物語の残酷さに、全体的とは言わないまでも部分的に、かなり共感が出来ると思う。なぜなら、私たちはどのような容姿や風貌をもって生まれていたとしても、他人からの値踏みに晒されなかったことなどないはずだからだ。生活においてそれを意識しようがしまいが、身長や体重、胸の大きさやウエストの細さ、瞳の大きさに至るすべてのパーツにおいて、私たちは何らかの完成と正解を自分以外の存在から求められているように感じることがある。逃れられない圧のようなものをただの一度も感じたことがないという人より、実際に自分が本当にそれを求められていたかどうかはともかくとして、空気感としてそういうプレッシャーを感じたことがある人はきっと少なくないはずだ。化粧禁止から一転、“出来なきゃおかしい”ことになったメイク、就活の時に履かされてそれ以外では一度も履かないパンプス、あたかもそれがマナーであるかのように語られる“正しい”アイシャドウやアイブロウの色、消耗品のストッキング、そういうものだって、みんな女性が空気感に強いられてきた社会的な「美」の模範だ。正解はコレだと教えられてきた。ただ矯正器具を嵌められているに過ぎないのに、それを「空気を読む」という行為の中に矮小化されてきた。男性が清潔感のためにヒゲを剃るのと同じだと。いいや違う。私たちもヒゲなら剃っている。女にもヒゲが生えることを知らないおじさまたち、同じ土俵に上がりたいならその濃いおヒゲで青くくすんだ月面みたいな肌にとっととファンデーションをお塗り!と何度も思ってきた。

私たちは「健康」や「清潔感」から切り離された極端な「美」、すなわち「ルッキズム」を賞賛するようメディアから語りかけられ、長いものに巻かれるようにして、そういう価値観を知らず知らずのうちに内面化している。それで生活に支障が出るわけではないけど、日々毛穴の開きや体毛の濃さや髪の毛のパサつき、午後になるとベトベトしてくる額や鼻筋がどうにかなってくれたらいいのにと思いながら過ごしている。自分の意思で美しくありたいと思うけど、一方で、なんで美しくあることが自分のためなんだ?とも思う。

「デブから一転、ダイエットで大変身」などと言ってダイエットを煽り、肥満をお笑いコンテンツ扱いするくせに、極端なダイエットにおける健康被害が若年層を中心に増加の傾向などと、一体なんのマッチポンプなんだよと思うような記事が踊るたび、時々ひどくバカバカしい。やれ何歳の女がカラコンなんてみっともないだの、やれいくつになっても好きなオシャレを楽しもうだの、出産後の体型維持だの、こんな髪色の女はイモっぽいだの、涙袋がどうだの、平行眉の流行は終わっただの、外野の声を一度でも聞いてしまったらなかなかそれが頭から離れない。聞く価値などないと一蹴しても、蹴り飛ばしたそばから違う意見が飛んでくる。なんて不毛なことだろう。それでもせっせとムダ毛の処理をして、顔の産毛を剃り、眉毛を懸命に整えて、金を払ってまつ毛を上向きにしにいく。野暮ったい自分の顔と折り合いをつけて生きていく。新しい化粧品を買えば気分があがり、好きな服がゲット出来たら嬉しいし、美容に熱をあげている時は、それはそれとして嘘偽りなく女の人生が楽しい。顔面に隕石でも激突したんかぇと思うような毛穴の開きを憂いながら、日々深くなっていくほうれい線を眺めながら、内田有紀さんのいくつになっても変わらない美しさに惚れ惚れしながら、自分なりに美しく歳をとりたいと願ってやまない。

多分重要なのは、それが自分の意思で選んだ行動かどうかというところだ。

しないよりしたほうが、自分のことを好きになれるかどうかだ。

エルヴィラの世界にはそういう「美」が存在しない。自己決定としての「美」、セルフケアとしての「美」がどこにもない。彼女達の視野を覆っているのは「自分のために美しくありたい」という願望ではなく、「他者から承認されるためのルッキズム」という地獄の景色である。

エルヴィラは母親のためにあるがままの自分を否定し、漂白しなくてはいけなかった。まるっこくて何が悪い。目がつぶらで何が悪い。スタイルが抜群じゃなくて何が悪い。野暮ったくて何が悪い。そういうことを何ひとつ言えず、そういう発想すらないような顔をしなくてはいけない。気付いてはいけないし、賢くなってはいけない。男性から下品な態度をとられても、拒否してはいけない。胸を掴まれても、それは自分のためだ。なぜ?と考えてはいけない。

極端な食事制限や腹の中でサナダムシを飼う行為はひるがえって彼女を隠れた過食に走らせ、豊かだった髪の毛はストレスのために抜け落ちた。眠れない痛みに耐え、サナダムシが腹の中を掻き回す気持ち悪さに耐え、キャパシティ以上の努力を精一杯詰め込んで、自分が“選ぶ”のではなく自分が“選ばれる”ための舞台に向かう。これだけのものを犠牲にして立つための精神的支柱は、もはや王子様との結婚しかない。

終盤に最も痛ましいシーンがある。創作におけるグロテスクさには慣れていると自負する私も、この話の流れで最後にこれがくるのかよと、みぞおちに一発パンチをもらうようなショックを受けて久しぶりに映画を観て痛みのために顔が歪んだ。というわけで、おおいに食らいました。

エルヴィラは舞踏会で数多の男に値踏みをされるが、エルヴィラを査定する男たちの顔や体は果たしてどうだったんだろう。ケツ丸出しで立ちションしていた王子様はケツの下から突然無駄毛が生え散らかしてて体毛アマゾンって感じだったけど、この映画が引き出す「汚さ」はそこを含めて本当にすごい。どれもこれもが痛烈に印象に残る。

こうした「女性とルッキズム」をテーマにした映画だと、近年では『ザブスタンス』(🇺🇸🇬🇧🇫🇷/'24)がアカデミー賞5部門にノミネートされるなどその脚光は記憶に新しい。こちらも女性監督がメガホンを撮り作り上げた快作である。こうした映画や物語が広く支持を受けるようになることで、女性を取り巻く環境がいまだ硬直性のある権力構造の中で作り上げられていることへの議論が活発になるだろうという期待がある一方、ルッキズムの弊害が可視化されればされるほど、これが世界共通の地獄であることを再認識することにもなる。女性にとっては、他人から文句無しに「A」と評価されるような「美」はもちろん永遠の憧れだ。そして、同時に足枷だ。『サブスタンス』は“かつては”若く美しかった女性が、その「美しさ」に囚われて瓦解していく様子を描くサイコなホラーである。人は老いる。生きた年数だけシワが刻まれ、白髪が増え、脂肪は重力に逆らえない。どれだけ栄華を極めても、いずれ自分の時代は去る。でもかつての栄光が老いを受け入れさせてくれない。過去の自分が今の自分を拒絶する。「そんなの私には分からない感覚だ」と、一体どんな人なら言えるだろう?

ルッキズムは私たちに生きづらさを強いてくるだけでなく、搾取とも密接だ。先述した糖尿病治療薬の件も結局は人の心につけ込む悪どい商売であって、ソリューションの提供でもなんでもない。記事を読んだ時これは本当に日本の話題なのかと思ったが、本当に日本の話題だった。そこまで「痩せる」ということに呪縛されてしまう人が居ることにも衝撃を受けるし、そこに商売性を見いだせる人の心がまるでない人間が平然と社会に生き、ダイエットビジネスなんて宣って、社長だとか、インルフエンサーだとかいう仕事をやっているということにもだいぶショックを受ける。こういう物事の延長線上にニードルパークとかが生まれる気がする。こんなことを商売にする人間だから、きっとまわりにいる人達も似たような人が多いのだろうし、おそらく誰も指摘をしないんだろうが、自分の倫理観が破綻していることに気付かないまま世に出て、その破綻した倫理観のケツを自分ではなく社会に持たせているという自覚がまるでない大人が、ルッキズムに呪われた若年層やあるいは物事にまったく無知な人達から金を巻き上げているのだから、世も末も末だ。金持ちの都合に合わせたバカになんてなるなよ。

ところで、ディズニー版のシンデレラにはOVAで発表された続編が2つあり、シンデレラ本編のサブキャラたちにスポットをあてた「2」、フェアリーゴッドマザーの魔法の杖がひょんなことから継母に奪われ、継母の邪悪な企みによりシンデレラが王子と結婚した歴史が改変されてしまいあわや大惨事の「3」、なんとその両方で長女アナスタシアは主役級の大抜擢を受けて活躍するのだが、これがそれぞれ、なかなか胸にくる話となっている。

「2」でのアナスタシアは過去の行いを反省し、シンデレラと距離を詰め、自分なりの幸せを掴む過程で母親との共依存的な関係を断ち切るのだが、「3」は時間軸でいうと「2」の手前にあたる物語で、継母がフェアリーゴットマザーから奪った魔法の杖を使って時間を戻し、王子たちに催眠をかけてアナスタシアを花嫁にしようと目論む物語だ。

「3」におけるアナスタシアは『アグリー・シスター~』におけるエルヴィラと似て、母親に対して従順だ。母親の言うことはなんでも正しく、言うことを聞いて約束を守れば幸せになれると信じている。母親の愛は本物だと思っているからだ。しかし母親は実際のところ娘たちのことを、金持ちと結婚させるための道具としか考えていないことが、次第に明らかになってくる。真実の愛とは何かを考える過程で、アナスタシアは人を騙して結婚しようとしている自分や、自分をとにかく王子と結婚させたがる母親に疑問を抱くようになる。

シンデレラは持ち前の負けん気とガッツで数々の逆境をネズミたちの力も借りながら乗り越えるのだが、何度心をへし折っても立ち上がってくる不屈のファイターシンデレラに対して恐るべき継母が最後に選んだ手段は、なんとアナスタシア自身の見た目をシンデレラにしてしまうという作戦だった。究極の全身整形。シンデレラ本編ではそこそこの悪役ぶりだったが、全シリーズを通してみるとシンデレラの継母は『ノートルダムの鐘』のフロローに匹敵するくらいかなりキマっている真のヴィランの迫力がある。

アナスタシアは葛藤するも、「自分自身を愛してくれる人と結婚したい」と言い最後は自らの意思で母親の願望を拒絶するのだが、「2」でのアナスタシアは母親が望むような金持ちと結婚するのではなく町のパン屋さんと結婚しており、彼女が見つけた等身大の愛の素朴さになぜか「3」を見たあとの方が涙を禁じ得ないというナゾの現象が起こる。シンデレラ2と3は、シンデレラの物語というよりアナスタシアがいかにして母親からの呪縛から解き放たれ、シンデレラという美しさの代名詞から「本当に必要な美しさとは何か」という哲学を取り戻す物語にもなっているという点で、実は隠れた良作なのである。

シンデレラはただ可憐で美しいがゆえに王子様に選ばれたわけではない。しかし、義理の妹たちであるアナスタシアとドリゼラはふたりとも深いほうれい線の刻まれた顔に団子っ鼻を乗せて、目は小さく髪の毛はごわごわとしていて、更には歌も下手で芸術的な才能に恵まれず、だからといって家事が出来るわけでもなく、性格もワガママで放埓で更には手足もデカイという、本当に散々な描かれ方をしていて、シンデレラとビジュアルや能力の面で明確な対比を取ろうとしていたことは明らかだ。ディズニーがシンデレラ「2」や「3」を制作したのは2000年代で、時代の進歩が既存の価値観に疑問を投げかけるようになり、そこからアナスタシアの再描写に繋がったのだと私は思っている。

次女のドリゼラについてはまったく性格的にも進歩がないまま終わっているので、いつかは彼女の成長譚も見たいところだったが、『アグリー・シスター~』では逆にこの次女の存在が救済そのものになっていて、私はラストシーンで思わず泣いた。私たちが獲得すべき真に「美しいもの」とは何かという答え、それはあのラストシーンに存在する。

かなり余談だが、『アグリー・シスター~』で体を張った主演を務めたリラ・マイレンさんは、好きな映画に『鉄男』(🇯🇵/'89)をあげており、なかなかエッヂの効いた趣味をお持ちであることが分かる。他、『RAW 少女のめざめ』(🇫🇷🇧🇪/'16)などが好きらしい。なんというか、すごく共感出来る趣味だ。じゃあこの映画の撮影は楽しんで臨めたのではないかと思い、その点で安心した。

こういう怪文書をつらつら書きつつ、他気になった映画を3本ほどシバいたら土曜の夜が終わり日曜日も終わった。イベント前にとっととpixivにサンプルをあげようと思っていたし会場に搬入する荷物もまとめようと思っていたのに何一つ終わっていない。怪文書を書くことをライフワークにしているせいだ。畳む
CATEGORY:映画感想
ユッケが好きだ。しかしステーキはウェルダンが好みだ。

1年前、動物公園でカンガルーを見た。コミカルなほど黒く大きな目と澄ました口元、大きなリボンのような耳、表情は「眠たそう」としか表現のしようがないが、面立ちはいたって可愛らしい。一方で、彼らの胸板は分厚く、肩から腰のラインにかけては安定した曲線が描かれている。いかにも堅強なシッポ、はじけそうな筋量がたくましい脚を力強く包み込んで、盛り上がった上半身を重量感たっぷりの下半身がしっかり支えているのが分かる。まさに地に足のついた生物。野生環境ではこの筋肉量が生死を分けるに違いない。

しかし、動物公園のこじんまりした放し飼いエリアに悠々とした態度で寝そべる彼らからは、「筋肉の鎧をまとった生物」というような例えからはかなり乖離した印象を受ける。なろうと思えば圧倒的な暴力装置になれる筋肉を誇りながら、そういうものにまるで頓着のない実に呑気な姿は、実家に帰省してだらしなくリビングに横たわってテレビを眺める無力で平和な人々のように怠惰で穏やかだった。カンガルーが午睡の代弁者であることは、彼らの下半身から完全に解き放たれ、もはや優雅な気品さえ感じさせる様子で足の隙間からハミ出したキンタマからも自明である。あれは、生殖よりも微睡みを思わせるキンタマだった。

カンガルーを食べた。

初夏の、あの汗ばむ陽気の、微睡みのキンタマから1年、ウェルダンで、カンガルー。

ということで、スズキ先生とカンガルーの肉を食べた。人生初のカンガルー肉である。それがまさか池袋にあるなんて。

カンガルーステーキの見た目は牛豚鶏で例えると牛ステーキに似ている。肉質は想像以上に柔らかい。牛肉とはまったく違う味わいだが、これを「そういう牛の部位」といって出されたら、信じるだろう。最初はレアで出てくるので、アッチアチの鉄板に肉を押し付けて火を通していく。わさびをつけて食べると肉の甘みが引き立ってうまい。米の進む味がする。脂が少なく、カルビがきつい年頃になりつつある乙女(※乙女)にもかなりオススメ出来る。肉を食べたという充足感と満足感はあるのに、胃に重たさが残らない。カルビを食べると翌日までダメージが残る乙女たち、カンガルーを食べなさい。

日々地道に努力を重ね、ものすごい肉体改造に成功しているスズキ先生は、「肉が食べたい」という欲求を満たすためにこのカンガルー肉にずいぶん世話になっていると仰っていた。いわく、2頭ぶんは食べたらしい。筋肉が筋肉に循環しているのだ。生物の垣根を超えた、マッチョの環である。

あの日動物公園で見たカンガルー。無邪気なほど全力で丸出しだった無防備のキンタマ。ぬいぐるみを濃いめのタレに漬けたような顔。劇画のようにマッチョフルな肉体。すべてがアンビバレントな魅力に包まれていたカンガルー。お前の肉がこんなに美味しいものだったなんて。

ありがとう、カンガルー。

お店を出たあとは巣鴨に移動した。週末の池袋に乙女(※乙女)の居場所はないのだ。

巣鴨から歩いて30分ほど、白山神社の紫陽花を見に行った。かなり盛況だった。紫陽花は満開で、あまり見たことない色や形のものもある。定番の赤や紫の紫陽花も美しい。pH値が生み出す自然の奇跡だ。色々な人たちがカメラを構えて紫陽花を撮影している。紫陽花の前でピースするお子さんを微笑ましく撮影する親御さん。恋人に撮影を頼まれてスマホを構える男性。かわいらしく着飾った女の子たちが伸ばす自撮り棒。こういう場所には、あらゆる類の「思い出」と「記念」がある。そしてぽえうぉこと異常独身女性もまた、おもむろにぬいぐるみを取り出し、撮影。あらゆる「思い出」と「記念」がある。あるのだ。

和太鼓部の学生さんが和太鼓を演奏していた。立派だった。私が彼ら彼女らの親ならあまりの立派ぶりに泣いていたと思う。赤の他人なので泣かず、心の中でたくさんの賞賛をおくり、神社をあとにした。一足先に夏祭りを体験出来てよかった。

スズキ先生と、再び巣鴨に向かって歩いた。日差しは眩しいが風はまだ涼しく日陰に入ると歩きやすい。良い散歩だった。

文京区というとなんとなく学校が多くやたらとバスが走っているイメージで、何かそういうような話をしながら歩いた。神社からほど近い場所に建っていた大学は建物が縦に長く、低層階で授業を受けた後に高層階に行かないといけないとなったら学生さんたちは移動が大変だろうね、エレベーターで移動だろうからね、とマジでおばちゃんみたいな会話をした。私もぼちぼち大学生の移動の心配より自分の足腰のために色々考えないといけないお年頃だが、スズキ先生は輝かんばかりの健康生活を送っていてとにかく努力の姿が素晴らしいので、お手本にして頑張りたいと思う。まずは高カロリーなものを食べる際に「お前は今からゼロカロリー」と言い聞かせてカロリーを消そうとする無意味な努力からやめたい。

大きな通りには様々なお店が面しているが、脇道に入るとすぐ住宅街が広がる。一方通行の多い東京では車の出入りが大変そうだなとどうでもいい感想をいだく。ところどころでキレイなカフェなども見かける。小洒落た本屋さんがあったので、立ち寄った。「食」と「旅」をテーマにした本屋さんということで、店内に置かれた本はそのどれもが「食」や「旅」、あるいはその「土地」に関連したものになっている。

店内の奥に、都道府県別に雑誌や本のおかれたコーナーがあった。埼玉コーナーには埼玉の観光地を案内する本のほかに古墳の本や三島由紀夫の「美しい星」などが並んでいた。「美しい星」を埼玉関連の本としてくれるところが面白い。

巣鴨に戻ったあとは、商店街を歩いた。激しい段差などがなく、道幅も広々としていてとにかく歩きやすい。とげぬき地蔵とはよく聞くが実際に訪れたことはなかったので、立ち寄れてよかった。また、あんぱんを買いに入ったパン屋さんのレジの後ろになぜか西武ライオンズグッズが並んでいて、どう考えても巣鴨と西武ライオンズに関連はないだろうから、間違いなくお店の方の趣味で陳列されていたのだろうが、埼玉在住の人間として西武ライオンズファンに出会うことがほぼないので新鮮な気持ちになったうえに地元のものが好かれているのはちょっと嬉しかった。なお私はまったく野球ファンなどではない。

ほどよく人がいて、またほどよく人がいない商店街を端から端まで歩いて、庚申塚駅に着いた。駅の甘味処でおはぎを食べたのだが、スズキ先生にとっては久しぶりの甘い食べ物だったそうでおはぎを前に「泣きそう」と言い感激してしばらくおはぎと見つめあっていた。おはぎもこんなに喜んでもらえてかなり嬉しかったはずだ。私は季節限定のよもぎおはぎを食べた。なんだかんだでずっと歩いていたから、甘いものが体に染みて本当に美味しかった。私の勤める会社には毎日おはぎを食べている異常なおじさんがいて、ハゲているせいで「おはげ」という身も蓋もないニックネームをつけられているのだが、おはぎと聞くとどうしてもその人がイメージの先頭に来ていた。でもこの日食べたおはぎのお陰で、おはぎのイメージの先頭がおはげと入れ替わった。人生で初めておはぎをテイクアウトした。スズキ先生も「一番おいしいおはぎだったかも」と言っていた。リム先生流に言うなら、「人生おはぎ」と言ったところか。

そのまま池袋まで歩いた。結局池袋に戻ってきた。

アニメイトに入ったが、キレイになったアニメイトは乙女(※乙女)の居られる空間ではなく、あの小汚いアニメイトが懐かしかった。池袋の景色も日々変わっていく。

カフェに入って、かき氷を食べ、この夏もたくさん遊びたいですねぇという話をし、帰った。帰りの電車で「カンガルー キンタマ」と検索したら、オーストラリアではカンガルーのキンタマは定番のお土産らしいということが分かり、カンガルーのキンタマはヘソの下あたりからぶら下がっているという知見を得た。また、オーストラリアに住むカンガルーは都民の数より多いらしいということも。

翌日、朝食に巣鴨で買ったあんぱんを食べた。どうしても牛乳と一緒に食べたかった。ひとりで家の張り込みが出来てよかった。そんでそのまま二度寝してしまい、目覚めたあともゴロゴロして10分おきに本読んで10分おきに横たわるみたいなことをやっていたら日曜日が終わった。かなり仕上がっている週末だった。畳む
CATEGORY:雑記
そういえばサイトを更新してました。
https://pewq315.com

更新というか同人誌を数本収容しただけですが、よければ是非。

初めてiPadで作った同人誌原稿(命のゆじ)をどこのファイルに入れたか忘れて見失っています。どこかには入れた。消してはいないはず。どこなの。気に入っているのに。命のゆじをサイトに載せたいよ。

あと、以前にもお知らせしたんですけど、この週末に下記のWebオンリーに参加します。

PICREA(ピクリエ)開催イベント 【個人サイトWebオンリー めぐる市】 https://picrea.jp/event/a306c73ff0f8e27b...

このWebオンリーを教えてもらっていなかったら、まだ当分サイトは完成してなかったと思います。教えてくだすった未捺彦先生に感謝。本当にありがとうございます。ようやく自分の根城が出来ました。これでいつでもひきこもって遊べます。
個人サイト文化をあまり知らないという方は、是非このイベントで色々な「ホームページ」を巡ってみてほしいです。今はコンテンツをアプリで楽しむのが普通で、SNSさえあれば片手間に様々な画像や動画の閲覧が出来る時代ですが、腰を据えてネットサーフィンするというのもなかなか趣きがあるというものです。(ネットサーフィンを「趣き」とかいう時代が来るなんてだいぶ信じられませんが)

サイト作りのキッカケも転がっているかも知れません。初めての同人誌作りと同じでサイト作りも「やるしかあんめぇ」となったら絶対完成しますので、少しでも「やるしかあんめぇ」の人が増えたらいいなぁと思うし、ブームが一巡してまた個人サイトが脚光を浴び、便利なサービスが勃興しまくったらいいなと思います。

最初未捺彦先生からこのイベントを教えて頂いた時、「満了してもスペース拡大してくださるみたいなんで、申し込みはゆっくりでもいいかもです」と仰っていたので、まあ今日日個人サイトと言ってもね…などとかなりナメたことを思っていたのですが(自分自身ネットサーフィンなんてほぼしなくなっている側の人間だから)、現実はなかなかの早さでスペース満了だったようで、まだまだ個人サイトの勢いは死んでないね‼️と、かなり嬉しい気持ちになりました。

思い立ったが吉日行動だけは早いので、聞きつけてすぐに申し込みしました。ついた火を消すのは下手ですが自分のケツに火をつけるのだけはやたら得意。自分のケツになら火を放ち放題。ケツ炙りにだけは自信がある。一生ケツを燃やしていく。

そういえば初めてTwitterのアカウント作ったのって何年くらい前になるんだっけ❓と思って色々遡ってみたら、私が初めてTwitterというものに触れたのは16年前でした。怖い。生まれたてほやのバブが最後の制服時代を楽しむお年頃になってしまうのと同じ時間を、私はあのSNSと共に過ごしています。私以外にもそういう人はたくさんたくさん居ると思います。あえて言いますが時間の使い方絶対間違っています。

Twitterをやり始めた時はSNSがどういう意味のなんなのかということを全く考えていなくて、当時サイトに設置していたメモ(alfoo)の代わりに使えたらいいなくらいの気持ちでした。全然用途違ったね。

alfooって今もあるのかな❓と思って調べたらサ終していました。いらんことをいっぱい書いていたので、これで完全にネットの海に沈んだと思うと切なさと安心が一挙に押し寄せてきます。中学生の頃から色々なウェブサービスに絶え間なく黒歴史を刻む人生でした。でも最後はみんなインターネットという大海の底に沈んでいきました。XもInstagramもThreadsもmixi2も、そう遠からぬ未来では海底に沈む珪藻類の死骸みたいになっていることでしょう。でもその代わりに新しいインターネットサービスが生まれて、我々は死ぬまで黒歴史を刻み続けるんだと思います。とことん黒光りさせていきたいです。畳む
CATEGORY:雑記

2026年5月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する

もともと雑記帳代わりにくるっぷを使っていて、それで特に不足を感じていないので、今後も基本的にはくるっぷにおります。こちらは くるっぷ に投げたなんらかの感想とかニュースへの雑感なんかを放り投げる備忘録として運用していく予定です。

折角設置したので、テスト代わりに先日くるっぷに投げた『肉は美し』の感想(の改訂版)をこちらにも。

『肉は美し』、本の帯に「Tiktokで話題沸騰」と書いてあるのを見て、私の中の悪いインターネットがTiktok愛好者に3行以上文章読めるヤツなんか居ないだろと唾棄すべき極めて差別的な偏見を囁いてきたので、それじゃあ一丁買って読むかという気になり購入を決めました。導入としては最低だと思います。

アルゼンチン発の「食人ディストピアSFホラー」というふうに紹介されているんですけど、難しい用語や複雑な設定なども出てこずかなり世界観を理解しやすいSFホラー入門編という感じ。グロテスクな部分は多分にあるのですがそこまで苛烈な描写ではなく、非常に淡々としていて読みやすいです。それでいて読後にちゃんと「毒を飲んだ」という感覚が残る。とても良かった。確かにTikTokで話題沸騰しそうだなとも思いました。こういうグロテスクさを大袈裟に広告するタイプのインフルエンサーは居るだろうなという意味で。

舞台は動物が人命を脅かす病原菌の保体となってしまった近未来、動物を食肉として生産・出荷・消費することが出来なくなり、人間を家畜として扱うことが合法的に認められた社会で、その家畜人間(作中ではこれを【人間】と表現することは法律で固く禁じられている)を屠殺する業務に従事しているマルコスという男が本作の主人公。

彼はもともと食肉加工(もちろん家畜の)業者だったのですが、現在はその知識を活かして人肉加工会社に勤めてそこそこの地位についているサラリーマン。しかし彼の生活は厳しいもので、社会が合法的に人間食っていいとかマジでワケ分かんないことを言い出して世の中がありえない狂い方したことに絶望したお父さんは認知症になっちゃうし、実の妹はボケた父親の介護にノンタッチで父親が入居する施設に会いに来ようともせず、マルコスはひとりで父親の介護負担を背負っており、不妊治療を続けてどうにか授かった子供も生まれてすぐに亡くなってしまって、そのせいで妻は精神的に病んで実家に戻っていて、人肉加工になんの罪悪感も持たないどころか嬉々として人の肉を切り刻むサイコパス経営者に囲まれて心労もハンパじゃないし、なんかもうにっちもさっちもいかなくてちょっと病んでる男なんですけど、そんな彼がある時、取引先の人間に食肉用に飼育された最高級人肉女性をプレゼントされるのですね。

マルコスという主人公は悲観的な男で、自分がどれほど悲劇的な人生を歩んでいるかということにもかなり自覚的です。自分の父親、妹という心理的距離が最も近いはずの家族が分裂している問題、苦労した末に授かった子を喪失してしまった父親として、その死を処理しきれない自分自身の精神の問題、また妻も同様に病んでしまい、そうした家庭の問題をも抱えなければいけないという多重の精神的負荷、加えて仕事においても安寧の時はなく、自分自身が抱える業務の違和感と経営者たちの臨む景色の間に深い断絶があることに絶望している。あらゆる方面から悲劇に見舞われている実に《悲劇的な》男マルコスは、自分とは即ち悲劇の男なんだという諦観の中に生き、日々を苛立ちと共に過ごしている。そんな主人公が、人肉として育てられて出荷を待っていた、『見た目は人間中身は家畜』という地獄名探偵(ヘル・コナン)みたいな決して《人として》扱ってはいけない存在と出会ってしまい…

『肉は美し』の世界において描写される社会というのは、「食べられなくなった動物の肉の代わりに人間の肉を食べる」という極端な選択をした社会です。つまり、需要を満たすためであれば究極的な超消費を肯定する、資本主義の最果てのような社会です。作中に描写される食用人間たちは肉の一枚とて無駄にはされず、その皮さえも加工品となります。実験動物の代わりでもある。人格はほぼないに等しいような描かれ方をされていて、同じなのは見た目だけ…という建付けです。でも誰も彼もがこの食事にありつけるわけではない。工場で管理されて生産された「美味しい人肉」を食べられるのは、ミドルクラス以上の人間たちだけということ。

動物性タンパク質がないなら人肉食べればいいじゃない。国家が(無論自分たちを含む)ブルジョワ様の【消費】のために超えてはならない一線を超えた社会、ここに描かれているのはいわば資本主義を限界まで加速させた結果倫理の崩壊を引き起こしている社会です。シリコンバレーの技術者の一部の集団が提唱している「加速主義」のようなカルト的な主張は、この資本主義の限界をテック企業が突き破ってこそ社会は前進するのだから、限りなく資本主義を拡大せよと謳っているけど、本作の舞台ではテクノロジーがこれを救いません。つまり技術革新は人を死に至らしめる病を克服出来ず、また動物性タンパク質の代替を生み出すことも出来ず、しかして消費に対する希求は留まることがなく、今ある資源の分配を拒否し、需要を満たすためであれば人倫を踏み越えることも厭わなくなった社会、文化や文明というものが【カネ】と【消費活動】にとって代わられた世界です。

設計としてかなりの無理のある【超消費】は、一部の富裕層にだけはやたらとカネが集まっているのに市場にはモノがないという状態の時にこそ起こる。一部にだけ富が集中してるってことは市井の人々の生活は困窮しているということで、作中では貧富の差が壮絶なものであるということが肉の消費を通じて描かれています。金持ちもヤバいけど貧困層もヤバい。

で、モノがなくなり需要を満たせず、著しく需給の均衡を欠く貧困社会では下記のような価値観がとても強い実行力を持っていて、『肉』という富の象徴はやはり富裕層を中心に消費されます。一部の限られた層の人たちへの分配だから、ここでは人としての倫理よりも消費のための倫理が優先されます。

・我々が需要する限りにおいて供給はされるべきであり(支払い能力がある以上、安全に肉を食べる権利がある)、

・需要を満たすため生産において限りなく合理的な手段をとることは、生命倫理とはまた切り分けて考えねばならない経済の問題で(肉として生まれたものを肉として消費することは悪ではないので、その過程において発生する諸問題は一切を免責されるべきである)、

・また、消費とは生活を過不足なく運用するために必要不可欠な文化的かつ文明的行為であり(美味しい肉を食べるために、肉そのものは安全な場所で管理されなければならず、その点において虐待は許されず、文明的な運用が義務付けられている、であるならば、それは肉そのものの権利すら包括的に保護しているということであり、この合理性を保持する以上、我々は文化的かつ人間的な価値観を喪失しえない)、

・需要を満たすための生産消費は雇用の創出にも繋がり、そのサイクルの中で経済を発展させ、また安定させるものでもあるのだから、仮にしばしば労働者が比重の偏った負担を強いられたとしても、その利益はいずれ労働者に還元される(自らの、受け取りたい/受け取りたくないという意思に関わらず、食肉は市場を潤し潤った市場の恩恵を国民はすべからく受け取っているのだから、その責任はすべてに分散され共有される)

文化や文明が人間の道徳を構成するのではなく、消費行動が人間の「善性」「善意」そのものの価値観まで支配するという考えです。だから人々は食人行為を「食“人”」とは言わない。あくまでもこれは「食事」という行為で、食べているものも「ヒト」ではなく「頭」(作中で食用人間は「頭」と呼ばれる)である。呼び方から強制し、情報統制を徹底する。これは【文化】なんですよ、というポーズ。ただの消費行動を文化的行為と見なすためには、言葉による書き換えがとても重要なんだなぁ。その書き換えがあってこそ、残虐な行為には大量の免罪符が与えられることになります。だって、人は肉を食わねばいきていけないし、動物性タンパク質がなければ健康が損なわれるし、食用の「頭」はそういう生き物として飼育されており、わざわざ痛めつけて殺すといったようなことはしないのだし、食用の「頭」に対する性的な虐待も無論罪に問われる行為で、食の楽しみを守るということは我々の基本的人権を守ることであり、食事は生活において不可欠な行為なのだから、正当性はある。したがって、合法的に肉を手に入れるために必要な手段を講じることは、「悪」ではない。

それが真実かどうかはひとまず置いておいて、そういう「御札」を貼るという行為は、それそのものの価値自体に大きく作用します。だけどマルコスは食肉加工会社で食用人間がどのような環境でどのように飼育され、どんな人間に何をされるか、またどのように処理されているかを知っている。実際に供される「肉」が実際には食肉用の人間だけではないという現実を知っている。そしてその肉がどういった人達に需要され、どういった用途のために使用されているのかも分かっている。マルコスの頭の中には、これを「肉」として見なければいけない自分と「しかしこれは人間の形をしている」と認識する自分がそれぞれに存在していて、常に矛盾を抱えています。本当に生きるために必要ならば納得が出来るかも知れない。それを職業と割り切ることも出来るかも知れない。実際、そう考えている仲間は居る。しかし、現実的にはこれはただの「食人」で、彼らはかつて人間の形をしていたものを食べている。人間が人間を食べるという一線を超えた人々にとって、人肉食のハードルはかなり下がってしまった。つまり、自分と同じ人間を傷つけるハードル、殺しのハードル、そういったものが以前よりずっと低くなってしまった。命の価値自体が変容してしまった。その一方で、マルコスは子供を喪ったら悲しく苦しいわけです。親がボケてまともに会話も出来なくなっていることを嘆く気持ちがあるわけです。妹が介護に参加せず協力的な態度を見せないことに冷酷さを感じるわけです。社会全体が命に対するハードルを下げたとしても、私個人にとっての命のハードルは変わらない。この矛盾が、マルコスを苦しめている。

主人公のマルコスは本当に悲劇的な人物で、 様々な不条理の中をもがく男として描かれているのですが、この人物描写は実に巧みです。

彼の描かれ方としてはこうなわけです。つまり、彼は今自分がやっていることをとても残酷で惨たらしいことだと感じているけど、父親の介護費用を賄うためにはこの選択に頼らざるを得ないから仕方なく仕事を引き受けているという立場で、喪った子供や病んだ妻のことを悼んだり思いやったりするといった心理的コストの支払いのためにはどこかに苛立ちをぶつける必要もあって、その苛立ちの捌け口のためには、エロい知り合いの女と乱暴なセックスもするし、そのエロい知り合いの女をエロがっている男の前で見せつけるようなプレイをすることで溜飲を下げてもいる。かつての彼は飼っていた犬を本当に愛していて、今でも犬に対しては格別の思い入れがあるんだけど、生き残った野犬たちが子供たちに虐待されているところに遭遇しても割り込んでいったりは出来ないし、犬一匹救えない。かといってそんな自分を責めたり哀れんだりといったようなことはなく、悪いのは自分という個人ではなくこういう社会の構造なんだと世の中に対する暗い怒りを抱えている。上司や取引先のお偉いさんには逆らえないが、特別苛立っている時には、女性のサイコパス研究者くらいになら嫌味な態度もとる。

マルコスはまるで「こちら側」の人間であるかのような描かれ方をします。悪の当事者ではなく、悪の傍観者という立場です。肉を捌くということに罪悪感があり悲しさがある。つらさがある。自分の仕事に違和感がある。おかしいと思っている。それを誰にも言えないでいる。死ぬことを恐れている。家族の尊厳が傷つくことを恐れている。どこにでもいる、小さくとも、確かな倫理観に基づいて思考することの出来る人物。「あなた」と同じ。「わたし」と同じ。最初はそういうふうに彼を読むことが出来る。しかし、マルコスは自分より強いものには逆らえない。現状を打破するための努力は出来ない。完全に人肉食や人肉加工を受け入れている取引先の人々にささやかな意思表示をすることも出来ない。子供たちが生き残った野犬を虐待する場面に遭遇してもただ見ているだけで何もしない。子供が死んでしまい心のバランスを崩す妻に寄り添えない。妹を憎んでいて、取引先の女を乱暴に抱き、女性の研究者相手にならストレートな苛立ちを見せる…彼は、今この瞬間に出来る最大限普通の振る舞いをして新しい常識から逸脱しない、ゆえに、彼は自分自身の「差別意識」に気付きもしません。

マルコスは家族や社会的地位に縛られています。食肉加工業者として日々「肉」を処理しながら、自分自身はそういう肉を決して食べないのは、その行為に生理的な極めて強い嫌悪感を覚えるからです。だから貢物として贈られた高級人肉女性のことも、“食べは”しません。

しかし、この物語で提示される「消費」は、食べるという行為をはるかに超えた、もっとグロテスクな行為であり…

マルコスの人間性は悲劇によって保たれています。子供を喪った父親という自分自身の悲劇が、彼に現状に対して不満を持ち、怒りと悲しみを覚える平凡な男の人格を与えています。この物語が明示するのは、「行き場のない怒り」や「途方もない悲しみ」こそが、実は人が「人」というものに大きく共感し、精神的な共鳴を送受信するアンテナになっているという事実です。では、その「悲劇」を克服した彼は、その代わりのアンテナをどこに求めるようになるのか。

マルコスと同じ「あなた」も「わたし」も、結局はこの超消費社会でひたすら滑車を回し続けている残酷な消費者でしかないとしたら。そしてその残酷さに、当事者ほど無自覚なのはなぜなのか。他人の誤った行いには強烈な忌々しさを感じるのに、自分の手だけはあんなふうに汚れていないと考えてしまうのはなぜなのか。人命を家畜と等しく扱う富裕層(遊びで人間狩りとかする)を心底下品と軽蔑しながら彼らを打倒しようとはせず、その日食うにも困っている最貧困の人々(腐った人肉を拾い集めて食ったりする)に憐れみより苛立ちを感じて常に攻撃の口実を探してしまうのはなぜなのか。

その矛盾の答えを、物語は最後の最後で明示してくれます。これ以上ないグロさをもって。

2026/05/14読了
肉は美し
アウグスティナ・バスティリカ著 宮崎真紀訳
河出書房新社畳む
CATEGORY:小説感想
学生時代にやっていた個人サイトは「骨とサーカス」という名前でした。その後、本格的に社会人生活が始まるタイミングで「血と骨と肉」という名前に変えました。当時はこういうのがクールだと思っていました。骨とか血とか書いておけば展示しているものの傾向も分かりやすいし。

私のテキストを読んだことがある人はなんとなく分かると思うのですが、そもそも当時の私が好んで書いていたのは暗い話の方で明るい話はあんまり書いてなかったんですね。大真面目に文章を書こうと思ったら、やっぱりハッピーエンドよりなんかどんよりした話の方が書きやすい。今でこそ堂々たるハピエン厨ですが、ハピエン厨に転向した理由は「社会人の疲れは学生の疲れより暗い話を書く体力を奪うタイプの疲れ」だったというのと、絵ではギャグっぽい話が描きやすいという気付きがあったからです。漫画で暗い話を描く気にならないように、文章で明るい話を書く気にもあまりならない。よほど書きたいものがあれば別かも知れないけど、文章で書きたいものは自分の技量ではとても絵に落とし込めない何かなんだと思います。

今回サイトを作るにあたって初心忘れるべからずと思い、また「骨とサーカス」という名前をつけようと思ったのですが、なんかもう骨とか言うような年頃じゃないことに気付きました。死を連想させることがカッコよかった学生時代はもうかなり遠い遠い過去で、今はもっと今の自分に近い言葉にしたいと思ってサイト名を「さんぽぽぽ」にしました。今の自分は結構自分のアイデンティティを「ぽ」のほうに託しているんだと思います。「えうぉ」ではなく。

この言葉が他で使われていないか確認してから名前をつけたらよかったんですが、思いついたら「これしかない‼️」となってしまい我を通してしまいました。検索するとアート展のタイトルが出てきてやっちまったと思ったんですが、まあこのサイトは一応検索避けもしておりますしご迷惑はならないだろうと。おいおい同人サイト系のサーチには登録しようかなぁと考えておりますが、身内に時々来てもらう用のサイトとして(あとは完全に自己満足として)細々やっていこうかなと思います。

「骨とサーカス」というサイトを運営していた頃の一番の思い出が、当時自分がサイトに展示していた作品を気に入ってくれたお姉様に「あなたの話を本にしたい」と言ってもらい本当に本を出してもらったことです。その本が本当に手の込んだ素敵なもので、お姉様がその表紙に手作業で赤いスワロフスキーを貼ってくれました。ペーペーの学生だった自分にはまだそのスゴさがあんまり分かっていなくて、今だったら感謝の五体投地でアスファルトを自分の額で削る気概なんですけど、当時は「嬉しいなぁ」くらいの感覚でした。あの頃の自分に会えたらぶっ飛ばすと思います。お前、もっと感謝しろと。

でもそうやって大切にしてもらった話は、今振り返って読んだ時にどれほど拙く感じても、やっぱり何がなんでも手元に残しておかなくちゃと思うもので、10年どころじゃない月日がたった今もこのお話だけはインターネットに残しています。
https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=...
死にたい雲雀シリーズというやつです。初出が2007年か2008年か。だからもう本当に20年近く前。

当時を振り返るとずいぶん熱心にサイトをやっていたなぁと思うし、サイトが本当に生活の一部でした。今同じ熱量でサイト作りが出来るかと言われたら無理です。しかし、二次創作的なコンテンツが軒並みpixivに収容されるようになってインターネットの景色が変わり、SNSが更に二次創作の裾野を広げてくれたのと同時に、狭いところでダンゴムシしていたオタクは実際のところ行き場をなくしてしまいました。ダンゴムシではなくてせめてイモムシくらいにはならないといけなかった。でもやっていることは二次創作だし、わざわざ表立って自分の存在をアピールしたいわけではない。石の下にいられるならそっちのほうがいい。注目を浴びたくはないが愛好者には自分の存在を知ってもらいたい。個人サイトはそういう需要を満たしてくれるものだと思います。

イーロン・マスクがインターネットで暴れるたびに「個人サイトへの回帰」がにわかに熱を帯びたりしますけど、サイト作りはやはり骨の折れる作業だったしハードルが低いとは言えないなと思います。管理も面倒くさいし、何よりスマホ一台で出来るのかと言われると、難しいと思う。とにかく一番これ、「スマホだけで完結しない」というのが時代に合っていない。サイト作りってPCがあることが前提だけど、今どきの子達はそもそもPCを持っているのだろうか。自分たちが同人作品を楽しむ時もわざわざPC開くよりスマホ片手に見る方が圧倒的に多いと思いますし、スマホで作業出来ない限り個人サイトは絶対流行らないだろうなと思います。もちろん今はスマホ一台でサイトが作れるサービスもあるんですけど、選択肢は少ないというのが現状です。

「個人サイト」というものが同人文化の一部として定着していた時代を通ってきた人と、pixivやSNSが同人文化の入口だった人とでは個人サイトというものに対する思い入れも違うと思いますし、「やってほしい」だけではなかなか重い腰は上がらないと思いますが、それでも是非興味があったらチャレンジしてほしいです。テンプレートを配布してくださっているサイトさんは今でもたくさんあって、今回私はすべてを配布サイトさんに頼りました。cssに関して自分が頑張ったことはほぼないです。素敵な配布サイトさんたちのお陰でやっと自分だけの石の下が出来ました。

サイト作りをやろうやろうと思いつつ全部後回しになっていたんですが、以前merciで未捺彦先生に「6月に個人サイトWebオンリーがあるんですよ〜」と教えて頂き、それに合わせて絶対サイトを完成させるぞ‼️という目標(締切とも言う)を立てることが出来たのもかなり大きかったです。
https://ma100.stars.ne.jp/meguruichi/

未捺彦先生に「ぽえうぉさんが出たらめぐゆじ取り扱いサイトが2件に増える」と言われて、ソイツはやるしかねぇと思いました。増えた方がいいからね、自カプサイトは。

目下の夢はサイトのリンクページをめぐゆじサイトまみれにすること。どういうサイトを参考したとかどんな記事を読んだとか、自分がやったことや自分のぶち当たった壁などは聞かれたら全部教えますので、どうか皆さんお願いします。夢を叶えさせてください‼️

SNSは便利だけど、どこへ行こうが結局は同じことが煩わしくなり同じことで悩まされるもの。なんでも使い方次第なんだから、SNSも含めてゆるくやっていこうと思います。どこで何をやっていたって私は絶対的に平和を支持。Xには課金しない。戦争反対。自カプは最高。

以上、よろしくお願い致します。
CATEGORY:雑記
  • Category
  • Hash tag
    • ハッシュタグは見つかりませんでした。(または、まだ集計されていません。)
  • Media

Calendar

2026年6月
123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
282930

Powered by てがろぐ Ver 4.8.0

/ skin by OSHATEN! / Admin