2026年8月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
「見て先生ッ!チンポだッ!」
私はハンドルを握りながら叫んだ。
「すごいチンポ!」
もう一度叫んだ。
「ありえないデカチンだ先生!」
大興奮の私に対して果たしてうに先生がどのような表情を浮かべていたのかは、チンポが視界に掠めたあとすぐに目線を正面に戻した私には伺い知ることが出来なかった。しかし、私の興奮に対してもうに先生の返事は極めてクールなものだった。
「ほんとだ」
山梨。
富士山。富士急。フルーツ。盆地。リニア工事に揺れる県であり、埼玉と同じく海なし県。日本住血吸虫を撲滅したところ、それから「フジマリモ」。山梨といえばそんなイメージ。
富士急には行ったことがある。戦慄迷宮で本気で泣いて腰が抜け、途中退場した時、おばけ役の人がおばけの体裁を保ちつつギリギリの態度で心配してくれたのを覚えている。ドドンパで首をしたたか打ち、ええじゃないかで内股に巨大な青あざを作った。あと山梨には一応親戚がいる。
うに先生が「山梨来るなら桃狩りする?」と誘ってくれた。予約をしてもらい、朝っぱらから甲府駅で待ち合わせ、現地へ向かう。甲府から石和、勝沼あたりへ移動。ゆく道にフルーツ畑がたくさん見える。直売所には旗が立ち、カラフルな果物の名前がはためく。そういえば、「勝沼ワイン」というのはお酒を飲まない私でも聞いたことがあるくらい有名だよな。
私は桃が好きだ。まず形が好きだ。桃がおしりに似たのか、おしりが桃に似たのか、どっちなのかは分からないが、とにかく好きな形をしすぎている。しかも色もかわいい。かおりもかわいい。毎年必ず食べているわけではないが、食べられたらかなり嬉しい果物上位に入るのが桃だ。
小さい頃頬に桃を擦り付け、桃の小さなトゲが刺さって大泣きした経験を持つ人は私以外にもきっと居るはず。祖母にありえない声量で「食べ物を顔にこすりつけるなんて、行儀がケモノにも劣る」とキレられ、病院の中でもキレられ、トラウマになるレベルでキレられたお陰で、以降二度と食べ物に頬擦りすることはなくなった。桃を見ると、あわせてそんな祖母との思い出も蘇る。
畑まで少し歩いて、大きなサイズの桃をもぐ。桃ってこんなふうになってるんだぁ。思っていたより大きな木だ。木になっているフルーツを見ると不思議な気分だ。現代のフルーツは、人間が安定的に、かつ美味しく食べるために研究され品種改良でムキムキになっているマッチョな食べ物だが、当たり前に自然の成り行きで実をつけている。お店に並ぶフルーツはサイズもほぼ均一で整然としているイメージだが、あるがままのフルーツは、大きさも形も色合いも、すべてがランダムですべてに個性があった。
私は歩く強欲の壺であるため、デカい桃をもぐため脚立まで借りて高いところの桃をもいだ。第一印象から君に決めてました。でっけぇ〜!私、ケツもモモもでかいほうが好きだな。脳内で架空のおしりフレンドにそう語りかける。
足元で、落ちた桃にアリたちが群がっている。山梨に住むアリは幸せだよ。うちの会社の近くに住んでたアリは殺鼠剤を巣に持ち帰って全滅したぜ。
畑のまわりにはトンボがたくさん飛んでいた。
畑まで案内してくれたお兄さんは、我々が桃をもいでいる間完全に姿どころか気配さえ消して居なくなっていたのに、私たちが桃をもぎ終えて歩き始めたらなぜか自然に前を歩いていてすごかった。
その後、食べ放題の桃を食べる。ちょっと硬めの桃と柔らかめの桃の食べ比べが出来る。歩く強欲の壺なのでもちろん両方食べた。柔らかめの桃は、甘さの奥に更にもう一段階の甘さが構えていた。うめぇ。甘くなった桃は触ると掌の熱で溶けそうなくらい柔らかい。食べ頃になると大体このくらいの柔らかさになるのか。先程もいだ桃はまだ若干硬いから、追熟させてから食べることにする。後からうに先生に聞いたところによると、3、4日で柔くなるらしい。
食べ放題ではあるが、桃は一日に2個食べたらかなり十分だった。お土産にシャインマスカット(700円)を買う。
桃狩りを終えたら私が前から行きたかった場所、「氷穴」に向かう。石和・勝沼方面からは大体1時間ほどのドライブだ。「氷穴」、ずっと行きたかった。
河口湖・山中湖周辺は自然公園法に基づき、景観維持のためコンビニやガソリンスタンドの看板が茶色い。突然街中にモノクロ2値で書き出されたようなセブンイレブンの看板が見えて驚き、うに先生に聞いたら周辺のコンビニなどはみんなこうだと教えてくれた。でもなぜかファミマだけは、どこの看板も茶色くないと言っていた。ファミマが元のカラーリングでいいならローソンなんかもっと元のカラーリングでいいだろ。アイツ青と白の2色だぞ。
山梨の道路沿い、ふと見ると「ハッピードリンクショップ」なる看板が目に入る。
「ハッピードリンクショップ⁉️」と目に入った文字を全部叫んだら、うに先生が「自販機並んでるところをハッピードリンクショップって呼んでる」と言っていた。
うに先生曰く、「あそこだけじゃなくて結構ある。走ってたら何個か見かけると思う。車が停車出来るスペースが確保されてるから休憩も出来る」らしい。実際、氷穴に向かって走る間に複数ハッピードリンクショップを発見した。ショップというが、並んでいる自販機は2つか3つである。それを「ショップ」とか言うのである。人間にもこのくらいのポジティブさが必要だと思う。
そして、氷穴がそろそろ近付いてきたな、というタイミングで、私は「とあるもの」……一度見たならみんな絶対に忘れられなくなるであろう「アレ」を発見する。
そう。
チンポである。
トウモロコシやシャインマスカットを売っている直売所の前に、チンポが(文字通り)立っていたのである。
話は冒頭に戻る。
「チンポだッ!」
私は狭い車内で叫んだ。
「見て先生ッ!チンポだッ!」
ちらと窓の外を見たのであろううに先生のリアクションは「ほんとだ」だった。え⁉️私は突如視界に生えたチンポに対する驚愕と同じくらい先生のリアクションにも驚いた。いや「ほんとだ」で済まないだろ、チンポだぞ。え⁉️先生、いきなりチンポだよ⁉️山梨の直売所にチンポはスタンダードなの⁉️絶対違うでしょ⁉️直売所とチンポに相関はないよね⁉️相関はないと言ってくれよ‼️
私の動揺をよそに、うに先生の口から次に出た言葉は、
「ごめん、お金下ろしたいからそこのローソン入ってもらっていい?」
だった。
チンポが今あったのに、明らかにあってはならぬ場所にチンポが(文字通り)立っていたのに、次の瞬間には「現金下ろさないとな」と、チンポ(しかも立っている)をとっとと捨ておくうに先生。もしかして私がおかしいのか?いやでもチンポだよ?直場所に。何を直売している場所だよ。あらぬ誤解が生まれるだろ。先程のチンポとローソンは歩いてせいぜい数十メートルという距離。駐車場に車をとめ、私はうに先生に言う。
「チンポの写真撮ってきていいですか?」
先生の返事は、
「え⁉️撮るの⁉️」
だった。
撮るだろ。
いきなり道端にチンポあったら撮るだろ。
しかも直売所に向かって勃起してるクソデカのチンポだぞ。撮るだろ。そんなのは。
「先生も撮りに行きましょうよ!ていうか着いてきてください」
気付くと私は必死だった。だって、さすがにひとりでチンフォトはチョトはずいもんね!そういうウブな心が、私にはまだちゃんとあるんだ。
お金を下ろしたあと、先生はちゃんと私に着いてきてくれた。やさしい。
ついに私は通りがかりに発見したクソデカチンポと対面を果たした。それは、トウモロコシを食べている坊主が自分の顔面よりデカいチンポをフル勃起させているという石像だった。
トウモロコシ←わかる
を食べている坊主←わかる
が自分の顔面よりデカいチンポをフル勃起させている石像←突然何もわからない
書き起こしてみたら文章の後半すべてが支離滅裂だ。
多分、この石像が伝えたいのは、このトウモロコシを食べるとこんなに元気になっちゃうぞ!みたいなニュアンスのことなのだと思うが、トウモロコシを食べると精力増強とかいう話はあまり聞いたことがなく、あまりというか聞いたことがなく、もしかすると実際にはそのような効用がトウモロコシにある可能性もあるが、トウモロコシと聞いた時に真っ先に「精力増強だねッ」という発想は出てこないと思うので、ということは実際そのような精力増強イメージがトウモロコシにあるわけではなく、結論としてトウモロコシと勃起には相関関係がないということで、だからつまり、なんなんだ。
なんなんだマジで。
だが単なるセクハラ的な意図で制作された石像出ないことだけは、その立派なクオリティからして確かなことだと思われた。石像のことには詳しくないが、とても丁寧に作られていたと思う。本当に圧巻のチンポだ。もしかして、なんらかの生殖器崇拝が実はこのあたりだと有名とか?私が知らないだけで、地元では名のある神がいるとか?分からない。「山梨 ちんぽ」とか「山梨 ちんぽ神」で検索してもエロお店しか出てこない。絶対関係ない。
そのチンポ石像の隣には、「休憩所」と書かれた看板が立っている。
怖すぎる。
このチンポ石像が設置されているせいで「休憩所」のニュアンスに変な偏りが出そうすぎる。
モザイクなしの超チンポで、明らかにチンポチンポしいチンポゆえに、道路に向かって立っていない、直売所に向かって立っている(文字通り)というところに絶妙に理性を感じるあたりもかえって怖い。なんなんだ、その妙なサイズ感の理性は。「トウモロコシかじり勃起坊主を石像にしよう‼️」という発想にはまるっきり理性があるように感じられないのに、「道路に向けて勃起してるのはよくないよね、公然わいせつ的に考えて」という判断が出来るあたりには確かな大人の存在を感じる。怖い。その中途半端な大人の理性が怖い。
ちなみに、うに先生は写真を撮っていなかった。
本当にチンポの写真を撮りに来た私に、ただ付き合ってくれたのだ。
うに先生は、真の大人の女性だ。これが大人というものだ。
私はこの年齢にして、まだこんな下ネタにはしゃいでいる。確かによく考えたら「なんか凄いものがあるなぁ」で済みそうなものではある。直売所に向かってとんでもない勃起をしている石像。スルーするので全然……
全然…………
「このチンポ像のお陰で、山梨来たこと一生忘れないと思います」
気付くと私はかなり真っ直ぐな気持ちでうに先生にそう言っていた。
だって有り得ないから。
こんな意味のわからないタイミングでこんな前提の分からないチンポ像が突如いるの、有り得ないから。
忘れられるわけないから。
うに先生は言った。
「これ、小学生の男の子とかが見たら、大はしゃぎじゃない?」
ン私ィ‼️ン私も大はしゃぎィ‼️
画像は無修正であまりにも露骨なので掲載を控える。興味がある方は個別にご連絡ください。
いやぁ凄いものを見ましたね、と言いながらついに氷穴に到着。とんでもない大勃起を見たあと氷ケツとは何か示唆的なものを感じるな、と思ったが、大人の女性なのでそういうことを口に出して言うのは控えた。正しい判断だと思う。
氷穴には絶対来たかった。真夏でも涼しいという氷の洞窟。寒いくらい、と聞いていたので、この氷穴のために長袖の服も準備していた。
来たかった理由は単純で、自分が生きているうち、あと何年この氷の洞窟に氷が存在し続けるのか分からないよなと思ったからだ。こういう洞窟を健康な足腰で歩ける間に見ておきたかった。
氷穴から車でわずかに進んだ先には風穴もあるが、こちらは時間の兼ね合いも考えて今回は断念している。
私は安全に対する意識が高いので、ヘルメットを着用して中に入った。すごい。洞窟に少し入っただけで、もう空気が冷たい。天然の冷蔵庫って本当だったんだ。感動。
洞窟の中は狭く、完全にしゃがまないと通れない箇所もある。事前の注意で乳幼児をお連れの方は入ることが出来ないと案内があったがなるほど、胸の前に何か大きなものを抱えながら移動するのは不可能だ。私の前をしゃがんで移動していた方が、「なんでこんなところを観光地にしたんだッ」とあまりの天井の低さと足元の覚束無いことに対してキレていて面白かった。階段というより“段差”があり、つま先で探り探り下りていくというような感じだった。
「地獄穴」を見る。江ノ島のほうまで続いているという伝説があるらしい。この穴の奥をじっと見た時、人間が生来的に備えているとしか思えない暗闇への恐怖感みたいなのが肌に立ち上ってきた。なんかすごい怖かった。
洞窟内は狭く、通路はひとり通るのがやっとの幅しかない一方通行、天井も低く、身長の高い人では移動にも一苦労しそうな程だが、中で喋っていても声が反響しない。それはこの洞窟が「玄武岩」というもので形成されているからで、玄武岩には音を吸収する性質があるのだそうだ。不思議だなぁ。
洞窟は青木ケ原樹海に囲まれている。車をとめたところから、少しだけ樹海の中を覗く。黙して木々を連ねる原生林はあまりに静謐であまりに美しく、「こういうところで死ねたら本望だろうな」とうっかり呟いたあと、違うんです!ここで死にたいとかそういう話ではないんです!と急に弁解がましい気持ちになり、慌てて「だって自分ちの墓に入るってなんか嫌じゃないですか?会ったことない親戚に死んだあと会って『あ、はじめまして』みたいな挨拶からやらないといけないの無理だし実質他人との同居…死後に…」と言ったら、うに先生が「そういえば知り合い(※実際には知り合いではなく、TLでそういうものを見かけたとのこと)がコミケで青木ケ原樹海の〇〇についての本出してた」みたいなことを言い出したので、むしろそっちのほうが気になった。青木ケ原樹海も、生きている間に必ず行きたい場所である。いつかはネイチャーガイドさんにお願いして、トレッキングとかやってみたいものだ。
氷穴を見終えた頃にはちょうどお昼時。先生からの提案で、是非吉田うどんを…ということでうどん屋目指して走っていた時、うにへ先生が富士吉田市で開催される「火祭り」(日本三奇祭のひとつらしい)のことを教えてくれた。ちょうど今走っているあたりでやる祭りだよ、もしかしたら準備されてる松明がもうあるかも…と言っていて、そういえばさっき看板で火祭りがあるから交通規制があるみたいな立て看板を見かけたなぁと思った。
交差点に差し掛かった時、うに先生が「あった!」と言う。指示されたほうを見たら、クソデカ松明が横たわっていた。デカッ!あれが燃えるってクォト⁉️
ホォ〜…と思いながら少し車を走らせると、なんと、そんな神事を催行する神社、北口本宮冨士浅間神社がすぐ右手に見えたのだ。
うに先生に「ココッ、入ってもッ、見てもッ、いいディすか⁉️」と慌てて許可をとって駐車場に車をとめる。予定にはなかったがまさかだ。見るっきゃない。
クソデカ鳥居に圧倒される。私はまあ、特に信仰心の厚いタイプというわけでもないのだが、鳥居を潜る時は少し緊張する。間違った作法で入るのもなぁと思う。が、正しい入り方をいつも忘れるので、とりあえず頭だけ下げてから入るような感じになる。
大きな松明が立っている。本当に大きい。2、3メートルはあったと思う。こんな大きな松明に火がついて、祭りの時には通りに出店なども出るということだったが、火事になったことは一度もないらしい。すごい。いつかは見てみたいなぁと思った。この松明に火がついているところを。
拝殿向かって左には、樹齢1000年を越す大木があった。「冨士太郎杉」というそうだ。右手には「冨士夫婦檜」という、二本が絡み合った大木が天高く伸びている。完全に深めの𝑲𝑰𝑺𝑺…を行っている感じの木だった。すごいセクシーな木。セク木ー。は?
参拝を終え、うどんに向かう。山梨のうどんに、「吉田うどん」と言うのがあるらしい。うに先生行きつけのお店に案内してもらい、食べる。天かすを自由にかけていいという最高サービスあり。朝食べてからかなり時間が経っていてお腹が空いていたので、一瞬かきあげも追加しようか迷う。
メニューが色々とあり、初手で食べるべき定番が分からなかったので、お店オススメの肉うどんを注文した。麺がふにゃふにゃしていない。かなりコシの強い麺だ。つるつるモチモチというより、しっかり噛んで食べるタイプの麺だったと思う。美味しかった。ものすごくよく噛んで食べたので、半分くらい食べた時点で結構お腹いっぱいになり、普段からこのくらいの咀嚼を心がけたいと思った。
腹ごしらえを終えて最後の移動場所、「森の中の水族館」へ向かう。
ここ、最高だった。
ご存知の通り山梨も埼玉と同じく海なし県。なので、ここは淡水魚専門の水族館となっている。
規模感としてはそこまで巨大ではなくローカルな魅力溢れる水族館なのだが、館内の真ん中に設置されていたドーナツ型水槽では巨うまそうな川魚が、生き急ぐ様子もなく悠然した様子で泳いでいて本当に美しかった。更には美味しそうだった。この、水族館に行って魚に対する感想に「美味しそう」を持ってくるギャグの感性、私は「おもんなギャグの筆頭」だと思っており自分で言うには気が引けるのだが、山梨と同じく海なし県埼玉育ち、川魚については本当によく食べてきた。祭りに行ったら鮎の塩焼き、ヤマメに、イトウに…。とにかく、うまい。脳に刷り込まれた味の記憶が、思わず私に「美味しそう」と言わせたというわけ。
回遊する魚たちの大きさは大小ばらばらで、食べたり食べられたりと事件が起こりそうでは?と思ったのだが、そういった様子は見られなかった。あれでうまく共存しているものなんだなぁと感心したのだが、あとから調べたらあのドーナツ型水槽は内外で区切られており、外側を大きな魚、内側を小さな魚が泳ぎ捕食を防いでいるとのことであった。まったく区切られているように見えなかった。富士の水はそれくらい透明ということらしい。
「横見水槽」というところでは、とても近くで魚たちを観察出来る。今までまじまじ見たことがない魚たちの、顔立ちやヒレの細部まで分かるのが良い。ベステルチョウザメというチョウザメは本当に愛嬌のある顔をしておりキュートだった。解説を読んだら、キャビアを多く取るため人工的に品種改良された種で、自然界には存在しないということだった。そうなのかぁ…。他にもシロチョウザメなどがいた。こいつのキャビアはめちゃくちゃ高級品らしい。
ドジョウもナマズもいた。アユもウグイも。実際に見るのと図鑑で見るのと魚屋で見るのとでは、やっぱり全然違う。魚は泳いでこそ美しい。
ブリブリのクソデカザリガニだかエビだかもいた。ブリブリにデカかった。デカァ‼️と興奮していたら、そいつがクルクルと体の向きを変えてすべての「面」を見せてくれ、まるで私がとんでもないケツフェチの異常者であることを予め知っていたかのように、「はいはいコレでしょ」と言わんばかりのスピーディさでケツを見せてくれた時には妙な感動さえあった。ザリガニ(仮称)のケツにこんなに興奮することがあるなんてね。ナイスヒップ‼️ナイスヒップ‼️と思いながらありがたく全身を拝んだ。地上で出会ったら、実際には無害でも殺人昆虫ばりの扱いを受けてもおかしくなさそうな見た目なのに、水の中にいるばかりにワンチャン食えるかも…な扱いを受ける甲殻類。カッコイイ。
あと、マリモというと丸いイメージがあるが、丸いマリモは実はレアマリモというのを知れてよかった。
自分が生きやすい環境を自ら生み出すものもあれば、そこで生きるために自らを改革するものもいる。暗い場所、明るい場所、開けた場所、狭い場所、暑い場所、寒い場所、集団で生きるもの、個で生きるもの、食べるものも住む場所も違う生き物たちが、環境に自ら適し、そうして何かを選んだり選ばれたりしながら大きな大きな生態系を作り上げているということを学ぶたび、生き方に正解があるはずないな…と思う。生態というのはかくも複雑で多様で、その複雑さと多様さこそが、結局は生命の美しさと尊さのすべてであるような気がする。何があってもおかしくないんだ。
ちょっとした休憩スポットには川や川魚、釣りなどに関する書籍が自由に読めるスペースなどもあり、そこに「釣りキチ三平」のマンガが3種類くらい置いてあった。棚の半分くらい釣りキチ三平だった可能性がある。少し座って休憩している間、私はうに先生に「セイムスコラボのお陰で失われていた“性”が帰ってきました」という有り得ない話をしていた。
時間をフルに使って山梨を楽しんだが、やはり一回きりですべてを見るというわけにはいかない。だから次回は是非郷土資料館などにも行ってみたい。神社でほんの少し富士信仰について説明を見たが、そのあたりについてはてんで詳しくないので、どういう歴史があるのか気になった。次はもう少し「富士山」に振った旅行がしたいと思う。あと可能なら博物館や美術館にも行きたいし、折角ならやっぱり「ハッピードリンクショップ」にも立ち寄ってみるべきだろう。色をぶっこ抜かれたコンビニも、また見たい。
一日付き合ってくださったうに先生、本当にありがとうございました。次はあのでっかいチンの謎…「トウモロコチンの謎」、解きましょう。畳む
私はハンドルを握りながら叫んだ。
「すごいチンポ!」
もう一度叫んだ。
「ありえないデカチンだ先生!」
大興奮の私に対して果たしてうに先生がどのような表情を浮かべていたのかは、チンポが視界に掠めたあとすぐに目線を正面に戻した私には伺い知ることが出来なかった。しかし、私の興奮に対してもうに先生の返事は極めてクールなものだった。
「ほんとだ」
山梨。
富士山。富士急。フルーツ。盆地。リニア工事に揺れる県であり、埼玉と同じく海なし県。日本住血吸虫を撲滅したところ、それから「フジマリモ」。山梨といえばそんなイメージ。
富士急には行ったことがある。戦慄迷宮で本気で泣いて腰が抜け、途中退場した時、おばけ役の人がおばけの体裁を保ちつつギリギリの態度で心配してくれたのを覚えている。ドドンパで首をしたたか打ち、ええじゃないかで内股に巨大な青あざを作った。あと山梨には一応親戚がいる。
うに先生が「山梨来るなら桃狩りする?」と誘ってくれた。予約をしてもらい、朝っぱらから甲府駅で待ち合わせ、現地へ向かう。甲府から石和、勝沼あたりへ移動。ゆく道にフルーツ畑がたくさん見える。直売所には旗が立ち、カラフルな果物の名前がはためく。そういえば、「勝沼ワイン」というのはお酒を飲まない私でも聞いたことがあるくらい有名だよな。
私は桃が好きだ。まず形が好きだ。桃がおしりに似たのか、おしりが桃に似たのか、どっちなのかは分からないが、とにかく好きな形をしすぎている。しかも色もかわいい。かおりもかわいい。毎年必ず食べているわけではないが、食べられたらかなり嬉しい果物上位に入るのが桃だ。
小さい頃頬に桃を擦り付け、桃の小さなトゲが刺さって大泣きした経験を持つ人は私以外にもきっと居るはず。祖母にありえない声量で「食べ物を顔にこすりつけるなんて、行儀がケモノにも劣る」とキレられ、病院の中でもキレられ、トラウマになるレベルでキレられたお陰で、以降二度と食べ物に頬擦りすることはなくなった。桃を見ると、あわせてそんな祖母との思い出も蘇る。
畑まで少し歩いて、大きなサイズの桃をもぐ。桃ってこんなふうになってるんだぁ。思っていたより大きな木だ。木になっているフルーツを見ると不思議な気分だ。現代のフルーツは、人間が安定的に、かつ美味しく食べるために研究され品種改良でムキムキになっているマッチョな食べ物だが、当たり前に自然の成り行きで実をつけている。お店に並ぶフルーツはサイズもほぼ均一で整然としているイメージだが、あるがままのフルーツは、大きさも形も色合いも、すべてがランダムですべてに個性があった。
私は歩く強欲の壺であるため、デカい桃をもぐため脚立まで借りて高いところの桃をもいだ。第一印象から君に決めてました。でっけぇ〜!私、ケツもモモもでかいほうが好きだな。脳内で架空のおしりフレンドにそう語りかける。
足元で、落ちた桃にアリたちが群がっている。山梨に住むアリは幸せだよ。うちの会社の近くに住んでたアリは殺鼠剤を巣に持ち帰って全滅したぜ。
畑のまわりにはトンボがたくさん飛んでいた。
畑まで案内してくれたお兄さんは、我々が桃をもいでいる間完全に姿どころか気配さえ消して居なくなっていたのに、私たちが桃をもぎ終えて歩き始めたらなぜか自然に前を歩いていてすごかった。
その後、食べ放題の桃を食べる。ちょっと硬めの桃と柔らかめの桃の食べ比べが出来る。歩く強欲の壺なのでもちろん両方食べた。柔らかめの桃は、甘さの奥に更にもう一段階の甘さが構えていた。うめぇ。甘くなった桃は触ると掌の熱で溶けそうなくらい柔らかい。食べ頃になると大体このくらいの柔らかさになるのか。先程もいだ桃はまだ若干硬いから、追熟させてから食べることにする。後からうに先生に聞いたところによると、3、4日で柔くなるらしい。
食べ放題ではあるが、桃は一日に2個食べたらかなり十分だった。お土産にシャインマスカット(700円)を買う。
桃狩りを終えたら私が前から行きたかった場所、「氷穴」に向かう。石和・勝沼方面からは大体1時間ほどのドライブだ。「氷穴」、ずっと行きたかった。
河口湖・山中湖周辺は自然公園法に基づき、景観維持のためコンビニやガソリンスタンドの看板が茶色い。突然街中にモノクロ2値で書き出されたようなセブンイレブンの看板が見えて驚き、うに先生に聞いたら周辺のコンビニなどはみんなこうだと教えてくれた。でもなぜかファミマだけは、どこの看板も茶色くないと言っていた。ファミマが元のカラーリングでいいならローソンなんかもっと元のカラーリングでいいだろ。アイツ青と白の2色だぞ。
山梨の道路沿い、ふと見ると「ハッピードリンクショップ」なる看板が目に入る。
「ハッピードリンクショップ⁉️」と目に入った文字を全部叫んだら、うに先生が「自販機並んでるところをハッピードリンクショップって呼んでる」と言っていた。
うに先生曰く、「あそこだけじゃなくて結構ある。走ってたら何個か見かけると思う。車が停車出来るスペースが確保されてるから休憩も出来る」らしい。実際、氷穴に向かって走る間に複数ハッピードリンクショップを発見した。ショップというが、並んでいる自販機は2つか3つである。それを「ショップ」とか言うのである。人間にもこのくらいのポジティブさが必要だと思う。
そして、氷穴がそろそろ近付いてきたな、というタイミングで、私は「とあるもの」……一度見たならみんな絶対に忘れられなくなるであろう「アレ」を発見する。
そう。
チンポである。
トウモロコシやシャインマスカットを売っている直売所の前に、チンポが(文字通り)立っていたのである。
話は冒頭に戻る。
「チンポだッ!」
私は狭い車内で叫んだ。
「見て先生ッ!チンポだッ!」
ちらと窓の外を見たのであろううに先生のリアクションは「ほんとだ」だった。え⁉️私は突如視界に生えたチンポに対する驚愕と同じくらい先生のリアクションにも驚いた。いや「ほんとだ」で済まないだろ、チンポだぞ。え⁉️先生、いきなりチンポだよ⁉️山梨の直売所にチンポはスタンダードなの⁉️絶対違うでしょ⁉️直売所とチンポに相関はないよね⁉️相関はないと言ってくれよ‼️
私の動揺をよそに、うに先生の口から次に出た言葉は、
「ごめん、お金下ろしたいからそこのローソン入ってもらっていい?」
だった。
チンポが今あったのに、明らかにあってはならぬ場所にチンポが(文字通り)立っていたのに、次の瞬間には「現金下ろさないとな」と、チンポ(しかも立っている)をとっとと捨ておくうに先生。もしかして私がおかしいのか?いやでもチンポだよ?直場所に。何を直売している場所だよ。あらぬ誤解が生まれるだろ。先程のチンポとローソンは歩いてせいぜい数十メートルという距離。駐車場に車をとめ、私はうに先生に言う。
「チンポの写真撮ってきていいですか?」
先生の返事は、
「え⁉️撮るの⁉️」
だった。
撮るだろ。
いきなり道端にチンポあったら撮るだろ。
しかも直売所に向かって勃起してるクソデカのチンポだぞ。撮るだろ。そんなのは。
「先生も撮りに行きましょうよ!ていうか着いてきてください」
気付くと私は必死だった。だって、さすがにひとりでチンフォトはチョトはずいもんね!そういうウブな心が、私にはまだちゃんとあるんだ。
お金を下ろしたあと、先生はちゃんと私に着いてきてくれた。やさしい。
ついに私は通りがかりに発見したクソデカチンポと対面を果たした。それは、トウモロコシを食べている坊主が自分の顔面よりデカいチンポをフル勃起させているという石像だった。
トウモロコシ←わかる
を食べている坊主←わかる
が自分の顔面よりデカいチンポをフル勃起させている石像←突然何もわからない
書き起こしてみたら文章の後半すべてが支離滅裂だ。
多分、この石像が伝えたいのは、このトウモロコシを食べるとこんなに元気になっちゃうぞ!みたいなニュアンスのことなのだと思うが、トウモロコシを食べると精力増強とかいう話はあまり聞いたことがなく、あまりというか聞いたことがなく、もしかすると実際にはそのような効用がトウモロコシにある可能性もあるが、トウモロコシと聞いた時に真っ先に「精力増強だねッ」という発想は出てこないと思うので、ということは実際そのような精力増強イメージがトウモロコシにあるわけではなく、結論としてトウモロコシと勃起には相関関係がないということで、だからつまり、なんなんだ。
なんなんだマジで。
だが単なるセクハラ的な意図で制作された石像出ないことだけは、その立派なクオリティからして確かなことだと思われた。石像のことには詳しくないが、とても丁寧に作られていたと思う。本当に圧巻のチンポだ。もしかして、なんらかの生殖器崇拝が実はこのあたりだと有名とか?私が知らないだけで、地元では名のある神がいるとか?分からない。「山梨 ちんぽ」とか「山梨 ちんぽ神」で検索してもエロお店しか出てこない。絶対関係ない。
そのチンポ石像の隣には、「休憩所」と書かれた看板が立っている。
怖すぎる。
このチンポ石像が設置されているせいで「休憩所」のニュアンスに変な偏りが出そうすぎる。
モザイクなしの超チンポで、明らかにチンポチンポしいチンポゆえに、道路に向かって立っていない、直売所に向かって立っている(文字通り)というところに絶妙に理性を感じるあたりもかえって怖い。なんなんだ、その妙なサイズ感の理性は。「トウモロコシかじり勃起坊主を石像にしよう‼️」という発想にはまるっきり理性があるように感じられないのに、「道路に向けて勃起してるのはよくないよね、公然わいせつ的に考えて」という判断が出来るあたりには確かな大人の存在を感じる。怖い。その中途半端な大人の理性が怖い。
ちなみに、うに先生は写真を撮っていなかった。
本当にチンポの写真を撮りに来た私に、ただ付き合ってくれたのだ。
うに先生は、真の大人の女性だ。これが大人というものだ。
私はこの年齢にして、まだこんな下ネタにはしゃいでいる。確かによく考えたら「なんか凄いものがあるなぁ」で済みそうなものではある。直売所に向かってとんでもない勃起をしている石像。スルーするので全然……
全然…………
「このチンポ像のお陰で、山梨来たこと一生忘れないと思います」
気付くと私はかなり真っ直ぐな気持ちでうに先生にそう言っていた。
だって有り得ないから。
こんな意味のわからないタイミングでこんな前提の分からないチンポ像が突如いるの、有り得ないから。
忘れられるわけないから。
うに先生は言った。
「これ、小学生の男の子とかが見たら、大はしゃぎじゃない?」
ン私ィ‼️ン私も大はしゃぎィ‼️
画像は無修正であまりにも露骨なので掲載を控える。興味がある方は個別にご連絡ください。
いやぁ凄いものを見ましたね、と言いながらついに氷穴に到着。とんでもない大勃起を見たあと氷ケツとは何か示唆的なものを感じるな、と思ったが、大人の女性なのでそういうことを口に出して言うのは控えた。正しい判断だと思う。
氷穴には絶対来たかった。真夏でも涼しいという氷の洞窟。寒いくらい、と聞いていたので、この氷穴のために長袖の服も準備していた。
来たかった理由は単純で、自分が生きているうち、あと何年この氷の洞窟に氷が存在し続けるのか分からないよなと思ったからだ。こういう洞窟を健康な足腰で歩ける間に見ておきたかった。
氷穴から車でわずかに進んだ先には風穴もあるが、こちらは時間の兼ね合いも考えて今回は断念している。
私は安全に対する意識が高いので、ヘルメットを着用して中に入った。すごい。洞窟に少し入っただけで、もう空気が冷たい。天然の冷蔵庫って本当だったんだ。感動。
洞窟の中は狭く、完全にしゃがまないと通れない箇所もある。事前の注意で乳幼児をお連れの方は入ることが出来ないと案内があったがなるほど、胸の前に何か大きなものを抱えながら移動するのは不可能だ。私の前をしゃがんで移動していた方が、「なんでこんなところを観光地にしたんだッ」とあまりの天井の低さと足元の覚束無いことに対してキレていて面白かった。階段というより“段差”があり、つま先で探り探り下りていくというような感じだった。
「地獄穴」を見る。江ノ島のほうまで続いているという伝説があるらしい。この穴の奥をじっと見た時、人間が生来的に備えているとしか思えない暗闇への恐怖感みたいなのが肌に立ち上ってきた。なんかすごい怖かった。
洞窟内は狭く、通路はひとり通るのがやっとの幅しかない一方通行、天井も低く、身長の高い人では移動にも一苦労しそうな程だが、中で喋っていても声が反響しない。それはこの洞窟が「玄武岩」というもので形成されているからで、玄武岩には音を吸収する性質があるのだそうだ。不思議だなぁ。
洞窟は青木ケ原樹海に囲まれている。車をとめたところから、少しだけ樹海の中を覗く。黙して木々を連ねる原生林はあまりに静謐であまりに美しく、「こういうところで死ねたら本望だろうな」とうっかり呟いたあと、違うんです!ここで死にたいとかそういう話ではないんです!と急に弁解がましい気持ちになり、慌てて「だって自分ちの墓に入るってなんか嫌じゃないですか?会ったことない親戚に死んだあと会って『あ、はじめまして』みたいな挨拶からやらないといけないの無理だし実質他人との同居…死後に…」と言ったら、うに先生が「そういえば知り合い(※実際には知り合いではなく、TLでそういうものを見かけたとのこと)がコミケで青木ケ原樹海の〇〇についての本出してた」みたいなことを言い出したので、むしろそっちのほうが気になった。青木ケ原樹海も、生きている間に必ず行きたい場所である。いつかはネイチャーガイドさんにお願いして、トレッキングとかやってみたいものだ。
氷穴を見終えた頃にはちょうどお昼時。先生からの提案で、是非吉田うどんを…ということでうどん屋目指して走っていた時、うにへ先生が富士吉田市で開催される「火祭り」(日本三奇祭のひとつらしい)のことを教えてくれた。ちょうど今走っているあたりでやる祭りだよ、もしかしたら準備されてる松明がもうあるかも…と言っていて、そういえばさっき看板で火祭りがあるから交通規制があるみたいな立て看板を見かけたなぁと思った。
交差点に差し掛かった時、うに先生が「あった!」と言う。指示されたほうを見たら、クソデカ松明が横たわっていた。デカッ!あれが燃えるってクォト⁉️
ホォ〜…と思いながら少し車を走らせると、なんと、そんな神事を催行する神社、北口本宮冨士浅間神社がすぐ右手に見えたのだ。
うに先生に「ココッ、入ってもッ、見てもッ、いいディすか⁉️」と慌てて許可をとって駐車場に車をとめる。予定にはなかったがまさかだ。見るっきゃない。
クソデカ鳥居に圧倒される。私はまあ、特に信仰心の厚いタイプというわけでもないのだが、鳥居を潜る時は少し緊張する。間違った作法で入るのもなぁと思う。が、正しい入り方をいつも忘れるので、とりあえず頭だけ下げてから入るような感じになる。
大きな松明が立っている。本当に大きい。2、3メートルはあったと思う。こんな大きな松明に火がついて、祭りの時には通りに出店なども出るということだったが、火事になったことは一度もないらしい。すごい。いつかは見てみたいなぁと思った。この松明に火がついているところを。
拝殿向かって左には、樹齢1000年を越す大木があった。「冨士太郎杉」というそうだ。右手には「冨士夫婦檜」という、二本が絡み合った大木が天高く伸びている。完全に深めの𝑲𝑰𝑺𝑺…を行っている感じの木だった。すごいセクシーな木。セク木ー。は?
参拝を終え、うどんに向かう。山梨のうどんに、「吉田うどん」と言うのがあるらしい。うに先生行きつけのお店に案内してもらい、食べる。天かすを自由にかけていいという最高サービスあり。朝食べてからかなり時間が経っていてお腹が空いていたので、一瞬かきあげも追加しようか迷う。
メニューが色々とあり、初手で食べるべき定番が分からなかったので、お店オススメの肉うどんを注文した。麺がふにゃふにゃしていない。かなりコシの強い麺だ。つるつるモチモチというより、しっかり噛んで食べるタイプの麺だったと思う。美味しかった。ものすごくよく噛んで食べたので、半分くらい食べた時点で結構お腹いっぱいになり、普段からこのくらいの咀嚼を心がけたいと思った。
腹ごしらえを終えて最後の移動場所、「森の中の水族館」へ向かう。
ここ、最高だった。
ご存知の通り山梨も埼玉と同じく海なし県。なので、ここは淡水魚専門の水族館となっている。
規模感としてはそこまで巨大ではなくローカルな魅力溢れる水族館なのだが、館内の真ん中に設置されていたドーナツ型水槽では巨うまそうな川魚が、生き急ぐ様子もなく悠然した様子で泳いでいて本当に美しかった。更には美味しそうだった。この、水族館に行って魚に対する感想に「美味しそう」を持ってくるギャグの感性、私は「おもんなギャグの筆頭」だと思っており自分で言うには気が引けるのだが、山梨と同じく海なし県埼玉育ち、川魚については本当によく食べてきた。祭りに行ったら鮎の塩焼き、ヤマメに、イトウに…。とにかく、うまい。脳に刷り込まれた味の記憶が、思わず私に「美味しそう」と言わせたというわけ。
回遊する魚たちの大きさは大小ばらばらで、食べたり食べられたりと事件が起こりそうでは?と思ったのだが、そういった様子は見られなかった。あれでうまく共存しているものなんだなぁと感心したのだが、あとから調べたらあのドーナツ型水槽は内外で区切られており、外側を大きな魚、内側を小さな魚が泳ぎ捕食を防いでいるとのことであった。まったく区切られているように見えなかった。富士の水はそれくらい透明ということらしい。
「横見水槽」というところでは、とても近くで魚たちを観察出来る。今までまじまじ見たことがない魚たちの、顔立ちやヒレの細部まで分かるのが良い。ベステルチョウザメというチョウザメは本当に愛嬌のある顔をしておりキュートだった。解説を読んだら、キャビアを多く取るため人工的に品種改良された種で、自然界には存在しないということだった。そうなのかぁ…。他にもシロチョウザメなどがいた。こいつのキャビアはめちゃくちゃ高級品らしい。
ドジョウもナマズもいた。アユもウグイも。実際に見るのと図鑑で見るのと魚屋で見るのとでは、やっぱり全然違う。魚は泳いでこそ美しい。
ブリブリのクソデカザリガニだかエビだかもいた。ブリブリにデカかった。デカァ‼️と興奮していたら、そいつがクルクルと体の向きを変えてすべての「面」を見せてくれ、まるで私がとんでもないケツフェチの異常者であることを予め知っていたかのように、「はいはいコレでしょ」と言わんばかりのスピーディさでケツを見せてくれた時には妙な感動さえあった。ザリガニ(仮称)のケツにこんなに興奮することがあるなんてね。ナイスヒップ‼️ナイスヒップ‼️と思いながらありがたく全身を拝んだ。地上で出会ったら、実際には無害でも殺人昆虫ばりの扱いを受けてもおかしくなさそうな見た目なのに、水の中にいるばかりにワンチャン食えるかも…な扱いを受ける甲殻類。カッコイイ。
あと、マリモというと丸いイメージがあるが、丸いマリモは実はレアマリモというのを知れてよかった。
自分が生きやすい環境を自ら生み出すものもあれば、そこで生きるために自らを改革するものもいる。暗い場所、明るい場所、開けた場所、狭い場所、暑い場所、寒い場所、集団で生きるもの、個で生きるもの、食べるものも住む場所も違う生き物たちが、環境に自ら適し、そうして何かを選んだり選ばれたりしながら大きな大きな生態系を作り上げているということを学ぶたび、生き方に正解があるはずないな…と思う。生態というのはかくも複雑で多様で、その複雑さと多様さこそが、結局は生命の美しさと尊さのすべてであるような気がする。何があってもおかしくないんだ。
ちょっとした休憩スポットには川や川魚、釣りなどに関する書籍が自由に読めるスペースなどもあり、そこに「釣りキチ三平」のマンガが3種類くらい置いてあった。棚の半分くらい釣りキチ三平だった可能性がある。少し座って休憩している間、私はうに先生に「セイムスコラボのお陰で失われていた“性”が帰ってきました」という有り得ない話をしていた。
時間をフルに使って山梨を楽しんだが、やはり一回きりですべてを見るというわけにはいかない。だから次回は是非郷土資料館などにも行ってみたい。神社でほんの少し富士信仰について説明を見たが、そのあたりについてはてんで詳しくないので、どういう歴史があるのか気になった。次はもう少し「富士山」に振った旅行がしたいと思う。あと可能なら博物館や美術館にも行きたいし、折角ならやっぱり「ハッピードリンクショップ」にも立ち寄ってみるべきだろう。色をぶっこ抜かれたコンビニも、また見たい。
一日付き合ってくださったうに先生、本当にありがとうございました。次はあのでっかいチンの謎…「トウモロコチンの謎」、解きましょう。畳む
CATEGORY:雑記
※2026年5月8日の記事の再掲です。
作業用BGMでコナンの映画を再度走っています。コナンの映画には全部に必ず「それは反則だろ」というツッコミどころがあるんですけど、犯人が分かった状態でもう一度頭から映画を見ると、その反則ぶりが初見時よりかなり面白いです。
米花町、凶器に指紋がついていた場合、指紋が一致した人を任意同行で事情聴取…とかじゃなく、秒で逮捕状請求して逮捕という流れでほんまに光の速さでしょっぴいてて笑った。人権という概念がかなり希薄である。高校生探偵がブイブイいわす世界線に謎の説得力がある。
「個人的な偏見を排除するのはいつも難しい。しかも偏見は真実を曇らせる。私は真実を知らないしだれにも分かるまい。9人は被告が無実だと思っている。でもこれは推理で間違いかもしれない。犯罪者を逃すのかもしれない。全く分からない。でも筋の通った疑問がある。そこが肝心な点で疑問がある限り有罪にはできない」というセリフは『十二人の怒れる男』という映画で陪審員8番の男が放つ映画の主題そのものなんだけど、米花町の警察たちにもこの観念が発生してほしい。
映画としてシンプルに面白いと思ったのは
️⭕️ベイカー街の亡霊
フーダニットが基本のコナンで唯一のホワイダニットなため。また、保守的な作品が多いコナンの中では、「ダメな権力者の世襲制をやめろ」とかなりストレートな社会批判を織り交ぜてもおり、特異な雰囲気を放っていて面白い。
️⭕️純黒の悪夢
天海祐希の演技が良いのと、前提の知識がなくてもなんとなく黒の組織がどういう脅威を持っているのかが分かりやすく対立構造が飲み込みやすい。登場キャラクターが多く華やか。スリルが終わったと思ったらまたスリルという、スリル全部乗せどんぶりなところがコナンらしくて良い。
️⭕️水平線上の陰謀
珍しく毛利のおっちゃんが推理面で活躍。それぞれの思惑の事件が絡み合い、ひとりを特定して終わりではないところが面白い。シンプルな復讐譚ではあるのだが、犯人側の筋も通っているように思う。
️⭕️紺青の拳
冒頭の吐血マーライオンで元がとれたと思った。あと個人的に京園が好きなので。
よくこんなクソやば犯人思いついたなと思ったのは
️⭕️戦慄の楽譜
逆恨みによって様々な人間に対して理不尽な怒りを抱え、建物の爆破を計画し数千人の命を危険に晒した罪は重い。4人もの命を奪い、その後も自分勝手な思い込みで暴行、傷害、脅迫、誘拐、拉致など罪状には枚挙にいとまがない。現行法では主文後回しを免れない重大犯罪である。コナン映画史の中でも屈指の凶悪犯。何が一番怖いかというと、犯人が心から一切反省していなさそうなところ。コナンたちも人死にまくってて感覚が鈍っているのか、犯人に対して激昂するなどの態度も見せず淡々と推理を語っており、怖い。
️⭕️11人目のストライカー
大好きだった虚弱サッカーショタが死んでしまい、その死の理由は毛利小五郎にあると逆恨みして毛利小五郎に復讐を決意。爆弾を作り、スタジアムに設置しまくり、これまた罪なき人々数万人の命を危険に晒すという「セカイを敵に回しても、俺だけは君を忘れない」という、血の繋がりも何もなく時々サッカーの練習に付き合って懐いてくれた程度の子供相手に寄せてはならない類の感情を寄せて悪いJPOPの概念そのものみたいになってしまった男が犯人。最後は自分も死んで虚弱サッカーショタの元に行くつもりだったと供述するが、そんなのは仏も頭抱える事案である。
「戦慄の楽譜」ではあまりにも犯人の気が狂っていてコナンサイドもワケ分からなくなってしまったのか、犯人相手に怒鳴り散らすということはなかったが、こちらのショタコンおじさんにはさすがのコナンもブチ切れていた。ここまで大声出して犯人にブチ切れるコナンくんは珍しい。余程のことである。
️⭕️沈黙の15分
犯人の外道ぶりがすごすぎて、子供向けの作品に出てきちゃダメだろというレベル。老人を殺して金品を奪い、その後(こちらは故意ではないにしろ)女性を轢き逃げ、出所後にかつて奪った金品を取り戻すため村ごと消滅させようとするサイコパス。なお子供の命を奪うことにも躊躇いがない様子。信じられないような鬼畜である。
犯人がどうとかではなく、そんなことあるんだ…と思ったのは
️️⭕️業火の向日葵
自分の認めるゴッホ以外は全部燃やすという自分の解釈過激派が世界的名画に火をつけようとする話。自分の作品のせいで人々の命が危険に晒されたと知ったらゴッホ泣くで。
️⭕️絶海の探偵
探偵と書いてプライベートアイと読ませる力技がスゴい。政治的に極めてセンシティブな部分に片足突っ込んでおり、悪い意味で緊張感がある。コナンにも人体の一部が欠損した遺体が出てくるんだ…と驚いたが、脚本が「相棒」などのドラマも手がける方と聞き納得。プロパガンダにならないギリギリ手前を狙ってしっかりプロパガンダになっているという塩梅。映画の終わりに唯一、「これフィクション‼️よろしく‼️ウソだからね‼️」とデカめの注釈が出る。
️⭕️探偵たちの鎮魂歌
コナンたちがデスゲームみたいなことする。本当です。畳む
作業用BGMでコナンの映画を再度走っています。コナンの映画には全部に必ず「それは反則だろ」というツッコミどころがあるんですけど、犯人が分かった状態でもう一度頭から映画を見ると、その反則ぶりが初見時よりかなり面白いです。
米花町、凶器に指紋がついていた場合、指紋が一致した人を任意同行で事情聴取…とかじゃなく、秒で逮捕状請求して逮捕という流れでほんまに光の速さでしょっぴいてて笑った。人権という概念がかなり希薄である。高校生探偵がブイブイいわす世界線に謎の説得力がある。
「個人的な偏見を排除するのはいつも難しい。しかも偏見は真実を曇らせる。私は真実を知らないしだれにも分かるまい。9人は被告が無実だと思っている。でもこれは推理で間違いかもしれない。犯罪者を逃すのかもしれない。全く分からない。でも筋の通った疑問がある。そこが肝心な点で疑問がある限り有罪にはできない」というセリフは『十二人の怒れる男』という映画で陪審員8番の男が放つ映画の主題そのものなんだけど、米花町の警察たちにもこの観念が発生してほしい。
映画としてシンプルに面白いと思ったのは
️⭕️ベイカー街の亡霊
フーダニットが基本のコナンで唯一のホワイダニットなため。また、保守的な作品が多いコナンの中では、「ダメな権力者の世襲制をやめろ」とかなりストレートな社会批判を織り交ぜてもおり、特異な雰囲気を放っていて面白い。
️⭕️純黒の悪夢
天海祐希の演技が良いのと、前提の知識がなくてもなんとなく黒の組織がどういう脅威を持っているのかが分かりやすく対立構造が飲み込みやすい。登場キャラクターが多く華やか。スリルが終わったと思ったらまたスリルという、スリル全部乗せどんぶりなところがコナンらしくて良い。
️⭕️水平線上の陰謀
珍しく毛利のおっちゃんが推理面で活躍。それぞれの思惑の事件が絡み合い、ひとりを特定して終わりではないところが面白い。シンプルな復讐譚ではあるのだが、犯人側の筋も通っているように思う。
️⭕️紺青の拳
冒頭の吐血マーライオンで元がとれたと思った。あと個人的に京園が好きなので。
よくこんなクソやば犯人思いついたなと思ったのは
️⭕️戦慄の楽譜
逆恨みによって様々な人間に対して理不尽な怒りを抱え、建物の爆破を計画し数千人の命を危険に晒した罪は重い。4人もの命を奪い、その後も自分勝手な思い込みで暴行、傷害、脅迫、誘拐、拉致など罪状には枚挙にいとまがない。現行法では主文後回しを免れない重大犯罪である。コナン映画史の中でも屈指の凶悪犯。何が一番怖いかというと、犯人が心から一切反省していなさそうなところ。コナンたちも人死にまくってて感覚が鈍っているのか、犯人に対して激昂するなどの態度も見せず淡々と推理を語っており、怖い。
️⭕️11人目のストライカー
大好きだった虚弱サッカーショタが死んでしまい、その死の理由は毛利小五郎にあると逆恨みして毛利小五郎に復讐を決意。爆弾を作り、スタジアムに設置しまくり、これまた罪なき人々数万人の命を危険に晒すという「セカイを敵に回しても、俺だけは君を忘れない」という、血の繋がりも何もなく時々サッカーの練習に付き合って懐いてくれた程度の子供相手に寄せてはならない類の感情を寄せて悪いJPOPの概念そのものみたいになってしまった男が犯人。最後は自分も死んで虚弱サッカーショタの元に行くつもりだったと供述するが、そんなのは仏も頭抱える事案である。
「戦慄の楽譜」ではあまりにも犯人の気が狂っていてコナンサイドもワケ分からなくなってしまったのか、犯人相手に怒鳴り散らすということはなかったが、こちらのショタコンおじさんにはさすがのコナンもブチ切れていた。ここまで大声出して犯人にブチ切れるコナンくんは珍しい。余程のことである。
️⭕️沈黙の15分
犯人の外道ぶりがすごすぎて、子供向けの作品に出てきちゃダメだろというレベル。老人を殺して金品を奪い、その後(こちらは故意ではないにしろ)女性を轢き逃げ、出所後にかつて奪った金品を取り戻すため村ごと消滅させようとするサイコパス。なお子供の命を奪うことにも躊躇いがない様子。信じられないような鬼畜である。
犯人がどうとかではなく、そんなことあるんだ…と思ったのは
️️⭕️業火の向日葵
自分の認めるゴッホ以外は全部燃やすという自分の解釈過激派が世界的名画に火をつけようとする話。自分の作品のせいで人々の命が危険に晒されたと知ったらゴッホ泣くで。
️⭕️絶海の探偵
探偵と書いてプライベートアイと読ませる力技がスゴい。政治的に極めてセンシティブな部分に片足突っ込んでおり、悪い意味で緊張感がある。コナンにも人体の一部が欠損した遺体が出てくるんだ…と驚いたが、脚本が「相棒」などのドラマも手がける方と聞き納得。プロパガンダにならないギリギリ手前を狙ってしっかりプロパガンダになっているという塩梅。映画の終わりに唯一、「これフィクション‼️よろしく‼️ウソだからね‼️」とデカめの注釈が出る。
️⭕️探偵たちの鎮魂歌
コナンたちがデスゲームみたいなことする。本当です。畳む
CATEGORY:映画感想
好きな芸術家をたずねられて、パッとすぐ頭に思いつく人物が3人いる。アンディ・ウォーホル、フェルナンド・ボテロ、マーク・ライデン。芸術方面に明るい方なら、フェルナンド・ボテロまでは間違いなくその存在を知っていると思う。
こうして好きな芸術家を並べてみると、私の趣味は非常に分かりやすい。テーマが市民的であること、色彩感覚が豊かでカラフルであること。ポップであり、コミック的であり、その中に風刺やアイロニーを感じるもの。人間を、性的な対象としてではなくセクシャルであり美しいものだと捉え、美をある種のグロテスクさと同居させているような。私はポップカルチャーとロウブロウを愛しているが、素晴らしい芸術には個人による個人への感傷から更に一歩踏み込んだ社会的な視座が重要だと思っている。“私のこと”から出発して、“社会のこと”を語る芸術家が好きだ。抽象画より具象画を好む傾向にある。そういう意味では、ピカソやフランシス・ベーコンの作品も好んで見る。
「テーマが市民的」というのは、私にとってはとても重要な要素だと思う。
中世の芸術は貴族や特権階級のための娯楽、あるいは教養だった。神話や王権についてが主なテーマで、主人公は“権力者”だ。絵画の世界は“市民”たちには関係なかった。絵も彫刻も音楽も、日がな一日土くれを弄って過ごす人々を楽しませるものではなく、畑を耕し、牛や羊をひいて生きる人々に必要だったのは、腹を満たさず喉を潤すことのない“芸術”より、その日口に含むためのパン一斤のほうだったからだ。だが、次第に時代が豊かになってくると、市民にも余暇が生まれるようになり、起きている間中食べ物の都合を考えなくていいようになり、学ぶ時間が増え、自分の時間に対してお金が使えるようにもなってきた。芸術は、そこでようやく“市民”にとっての娯楽たりえるものに変わった。
市民というのは、すなわち労働者だ。
ジャン=フランソワ・ミレーの『種をまく人』は『落穂拾い』と並ぶミレーの代表作で、まさしくそんな“労働者”の姿を描いている。それまでの絵画には、主人公として登場することがなかった人々。王権を肯定するための“神”ではなく、生活の糧を生み出す“土”と共に生きてきた人々。『種をまく人』の表情は険しくも、厳しくも、憂うようにも、諦めたようにも、日々をただ淡々とこなしているだけのようにも見える。そこに描かれているのは、崇高な神の姿でも勇ましい神話の世界でも権力の光暈に庇護された貴族の安らぎの表情でもなく、とある農家の一日だ。“食べるための”日々。すなわち労働者の日々。ミレーは、権力者たちの考える“神の完全性”とは切り離された世界に生きる人達の中にこそ、本当の神性というべきものを感じ取っていたのだと思う。ミレーがキャンバスに描きつけたかったものは、労働者たちにとって現実味のない空虚な神話などではなく、土に触れ、種をまき、手を泥だらけにする働き者の姿の方だった。それまでの作家たちが理想化し、景色としてしか扱ってこなかった“農民”たちを、ミレーは初めて“主人公”にした。
ミレーの絵に衝撃を受け、芸術を同じように切り取った画家がいる。ゴッホだ。
先日、『夜のカフェテラス』を眺めに出かけた。今回のチャンスを逃したら次にいつ『夜のカフェテラス』を鑑賞出来るか分からないから、これはもう無理を通してでも絶対行くと決めていた。リム先生が付き合ってくれた。先生はゴッホの絵の中で『夜のカフェテラス』が一番好きだと言う。最高の情報だ。行く甲斐しかない。
朝イチに集合した。こういう人気の展覧会はとにかく朝イチに入るのが良い。それで中に入ったら、先に目玉の展示を見る。目玉展示には長い行列が出来るものだし、見るのがあとになればなるほど混雑して大変だからだ。一旦展示におけるすべての文脈を無視して『夜のカフェテラス』という絵画だけを見に行く。考えることはみんな一緒なので、ほぼ一斉に目的の絵を目指して歩いている。
アイドルの握手会みたいに、スタッフの人達が鑑賞者を列へと誘導し、オブラート10枚で包んだ非常に柔らかめの言葉で「見て写真撮ったならとっとと歩け」というニュアンスのことを言っている。絵の前ではみんながカメラを構えて、待ちに待ったカフェテラスとの邂逅を記録に残そうと真剣な面持ちだ。私もスマホを掲げる。絵を見に来ているのか写真を撮りに来ているのか、そしてそれは鑑賞の態度として自分に認められる善き行為なのだろうかという葛藤がふと生じる。『夜のカフェテラス』を眺めて、目と脳に感動を焼き付けている時間はほんの僅かなものになりそうだ。写真を撮ったら次々人が横にスライドしていく。並んでいる間、人の頭と人の頭の隙間から絵を見る。順番を待って近くで見ることは出来ても遠くからこれを眺めることは出来ないだろうなと思う。
結局写真を撮ってしまう。ゴッホが向こうで「マジかお前ら」と言って笑ってくれていたらいいなと思うが、『夜のカフェテラス』とゴッホに申し訳ない気持ちもわいてくる。おそらく鑑賞者のほとんどが、同じ気持ちをいだいていただろう。
床には『夜のカフェテラス』の列誘導のテープが貼られていて、よく見たら、すごいところにまでテープが引かれている。最も人が入る時には、このくらい並ぶということなんだろうか。だとすると、他の展示を見るのも一苦労だろうな。こんな狭い館内で人の流れが滞ったら、酸欠を起こしそうだ。週末に入るのは人出の多さに面くらいそうでイヤだったので平日のチケットを取ったが、ゴッホ展は先日見に行ったチュリュリョーニス展のかるく5倍は人が居た。リム先生が「平日じゃないみたいだ」というようなことを言っていたが本当にそんな感じだった。
ゴッホの人生の回顧録のような展示だった。
ゴッホというと『星月夜』などに代表される、からくさ模様を連ねたような独特のタッチや、『ひまわり』のようにビビットな色使いが印象的な画家だが、本格的に絵を学び始めた頃のゴッホの作品はどれも暗い。
画商にもなれず、牧師への道も志半ばで閉ざされ失意の中にいたゴッホは、つらく厳しい現実を貧困に喘ぎながらも強かに生き抜こうとする労働者たちの中に、牧師であった父親が説いた信仰だけではない、人間の生来の尊さを感じて新しい人生の目標を定めた。画家になるという夢だ。展示内容を追っていくと、とにかくゴッホという人は影響を受けやすい人だったんだなという印象を受ける。
初期のゴッホに色濃い影響を与えていたのは、ハーグ派やバルビゾン派の画家たちの作品で、ゆえにこの頃のゴッホの絵はすべて落ち着いたトーンでまとめられている。そして彼は、ハーグ派やバルビゾン派の画家たちがそうであったように、室内で筆を取ることより屋外で絵を描くことを好み、大切にした。
ゴッホは父親との折り合いが悪くなってから、神という存在に懐疑的な立場をとるようになったようだ。聖書の世界よりも労働者たちの世界の方に、ゴッホは血の通った人間の精神を見たのだと思う。それは、彼が習作として描いた作品からも明らかだ。ゴッホは高貴なる神の御心よりも、労働者たちの実質的な生活に寄り添う人生のほうに意味や価値を感じた。無骨で寡黙な労働者の声なき声に耳を傾け、ゴッホは彼らを主人公として絵を描きまくった。
しかし、こうして一連の展示を通してゴッホの人生を辿ってみると、彼が若い頃から非常に優れた観察眼を持っていたことが分かるのと同時に、彼がいかに生きづらい人だったのかということもよく分かる。画商として成功せず、父親と同じ牧師を目指して勉強に励むも、貧しい人たちに心を寄せすぎて身銭まで切り始め、あまりにみすぼらしい姿でいたら「教会の評判を下げるから」という理由で解雇され、家族仲にも亀裂が走る。そこに愛はあるんか。そんな彼が失意の底で新たに見出した希望が、“労働者”だった。ゴッホは聖書の言葉より労働者たちの営みを信じた。
ゴッホは、恋愛もうまくいかず、友人関係でも問題を引き起こし、おおむね殆どの人間関係に躓いている。残された手紙から垣間見えるゴッホの人間性は、手放しに“良い人”とは評価し難い。人からの言葉によく耳を傾け、アドバイスにも素直に応じ、様々なものに感激を覚える純粋な人だが、その性質は翻って、高低差の激しい苛烈な気性にも直結していた。叔父から絵を依頼されるも締切までに作品を描きあげられずに怒られ、聖書のような絵を、と依頼されたのに、コッチの方がいいと言って客の依頼より自分の描きたい主張を通してしまう。もちろんすべてにおいて、ゴッホには悪気などない。よかれと思ってやっている。でも、それらすべてが尽く裏目に出る。人間社会に見切りをつけて山篭りしてもおかしくない経歴の持ち主なのに、彼は死ぬまで人と自然とを描く画家だった。このことが、とにかく私に衝撃を与える。
自然の光に満ち溢れた場所に、ゴッホは絶え間なく希望を見出しているように思える。今回の『夜のカフェテラス』を見てしみじみ思った。灰色と茶色の絵を何枚も描いたゴッホ。労働者と労働者の暮らしを見つめ続けたゴッホ。彼の絵の主役はずっと、“花”ではなく“ジャガイモ”だった。フランスに渡り、印象派から多大な影響を受け、市井の人々、暮らしと自然そのもの、「彩り」に目を向けるようになったゴッホ。きっと彼の心を奪ったのであろう、南仏の美しい夜と星。ゴッホは人々が人々だけで行う営為のすべてがきっと好きだったんだ。でもひとたび人間たちの社会に入ると、そこに馴染めない。労働者たちの疲れ果てた顔に神の姿を見るのに、自分は絶対、そんな“神”に近づけない。その性質を誰かに認められることも、慰められることもなかった。本当に、心底孤独だっただろう。弟のテオだけが唯一そんな彼に生涯寄り添ったが、彼の深い孤独を癒すことは出来なかった。
ゴッホの絵の履歴だけを追っていくと、彼の心はどんどん明るい方角に向かって解放されていったように見えるのに、実際にはどんどん心の均衡を失っていった。耳を切り落とすほど、切り落とした耳を好きな女性へ送り付けるほど、そして自らの胸を撃ち抜くほど。そういう人の手から生まれた作品が、これなんだ。それってすごく、言葉に出来ない。
果たして私のような芸術センスのない凡庸な俗人が、遠くから絵を見たところでアートの持つ本質的な意義や価値など分からないと思うし、したり顔して「フムこれは️●●が主題の云々かんぬん」と言ってもしゃらくさく鼻につくだけだと思うのだが、美術鑑賞が最も楽しい瞬間は絵を見ている時より見終わったあと、カフェであーでもないこーでもないとプロの絵に対して素人寸評を繰り出す時の方だという俗物なりの楽しみ方をやったって、それはそれで充分アートを楽しんでいると言えるはずだ。ロウブロウ、すなわち“無教養”でも楽しめるのが、我々のために拓かれた芸術の本来の形だからだ。主人公としての市民が描かれた作品を、作品の主人公である市民、我々が楽しむ。これが作品の本懐でないなら、何が本懐だと言うんだろう。だからたぶん、あの世でゴッホは喜んだりキレたり、ふつうにしていると思う。私たちが彼の絵から受ける印象とその影響について語ることは、ゴッホが生前、自分の絵に期待していたすべてだからだ。
ゴッホが拳銃自殺を図ったのは、7月の終わりだという。そしてその数週間前には、教会の絵を描いていたそうだ。私たちがゴッホを見に行った、その136年前の当日にも、まだゴッホはキャンバスに何かを描きつけていたかも知れない。そのキャンバスに向かい合っている時、彼は100年先の未来で、自分の作品がこんなにも多くの人々から支持を集め、ぬいぐるみにまでなるなどとはきっと夢にも思わなかったと思う。スマホ向けのゲームで美少女にされた上にクトゥルフ関係者にされるなんてもっと考えていなかったと思う。
今回の『夜のカフェテラス』、そして後期に展示される『アルルの跳ね橋』は両方ともオランダのクレラー=ミュラー美術館から貸し出されたものだ。もし、ヘレーネ・クレラー=ミュラーが、ゴッホという人物に深い共感を示さなかったら。彼の孤独にシンパシーを感じなかったら。ゴッホの才能は埋もれたまま、名もなき画家のひとりとしてきっと歴史に埋没していたと思う。資産家姉さん、こんな素晴らしいことにお金を使ってくれて、本当にありがとう。
芸術は自分の宇宙を歩くことだ。人から理解を得られるとは限らない。私が理解出来ることも少ない。だけど、作品があれば、その人が歩いた宇宙の記憶を誰とでも共有出来る。頭の引き出しの中に忍ばせるその記憶が、日常のちょっとした苦しさや淋しさに寄り添う。その事実が私の足元を少しだけ明るくする。地味だけど確かな救いになる。私も私の宇宙を歩く。
私は“市民的な”芸術が好きだ。つまり私たちが主人公の作品のことだ。ゴッホもまた極めて市民的な芸術家だった。彼の人生に、『カフェテラスの夜』のような素晴らしい一夜があったことを、私は非常に嬉しく思う。畳む
こうして好きな芸術家を並べてみると、私の趣味は非常に分かりやすい。テーマが市民的であること、色彩感覚が豊かでカラフルであること。ポップであり、コミック的であり、その中に風刺やアイロニーを感じるもの。人間を、性的な対象としてではなくセクシャルであり美しいものだと捉え、美をある種のグロテスクさと同居させているような。私はポップカルチャーとロウブロウを愛しているが、素晴らしい芸術には個人による個人への感傷から更に一歩踏み込んだ社会的な視座が重要だと思っている。“私のこと”から出発して、“社会のこと”を語る芸術家が好きだ。抽象画より具象画を好む傾向にある。そういう意味では、ピカソやフランシス・ベーコンの作品も好んで見る。
「テーマが市民的」というのは、私にとってはとても重要な要素だと思う。
中世の芸術は貴族や特権階級のための娯楽、あるいは教養だった。神話や王権についてが主なテーマで、主人公は“権力者”だ。絵画の世界は“市民”たちには関係なかった。絵も彫刻も音楽も、日がな一日土くれを弄って過ごす人々を楽しませるものではなく、畑を耕し、牛や羊をひいて生きる人々に必要だったのは、腹を満たさず喉を潤すことのない“芸術”より、その日口に含むためのパン一斤のほうだったからだ。だが、次第に時代が豊かになってくると、市民にも余暇が生まれるようになり、起きている間中食べ物の都合を考えなくていいようになり、学ぶ時間が増え、自分の時間に対してお金が使えるようにもなってきた。芸術は、そこでようやく“市民”にとっての娯楽たりえるものに変わった。
市民というのは、すなわち労働者だ。
ジャン=フランソワ・ミレーの『種をまく人』は『落穂拾い』と並ぶミレーの代表作で、まさしくそんな“労働者”の姿を描いている。それまでの絵画には、主人公として登場することがなかった人々。王権を肯定するための“神”ではなく、生活の糧を生み出す“土”と共に生きてきた人々。『種をまく人』の表情は険しくも、厳しくも、憂うようにも、諦めたようにも、日々をただ淡々とこなしているだけのようにも見える。そこに描かれているのは、崇高な神の姿でも勇ましい神話の世界でも権力の光暈に庇護された貴族の安らぎの表情でもなく、とある農家の一日だ。“食べるための”日々。すなわち労働者の日々。ミレーは、権力者たちの考える“神の完全性”とは切り離された世界に生きる人達の中にこそ、本当の神性というべきものを感じ取っていたのだと思う。ミレーがキャンバスに描きつけたかったものは、労働者たちにとって現実味のない空虚な神話などではなく、土に触れ、種をまき、手を泥だらけにする働き者の姿の方だった。それまでの作家たちが理想化し、景色としてしか扱ってこなかった“農民”たちを、ミレーは初めて“主人公”にした。
ミレーの絵に衝撃を受け、芸術を同じように切り取った画家がいる。ゴッホだ。
先日、『夜のカフェテラス』を眺めに出かけた。今回のチャンスを逃したら次にいつ『夜のカフェテラス』を鑑賞出来るか分からないから、これはもう無理を通してでも絶対行くと決めていた。リム先生が付き合ってくれた。先生はゴッホの絵の中で『夜のカフェテラス』が一番好きだと言う。最高の情報だ。行く甲斐しかない。
朝イチに集合した。こういう人気の展覧会はとにかく朝イチに入るのが良い。それで中に入ったら、先に目玉の展示を見る。目玉展示には長い行列が出来るものだし、見るのがあとになればなるほど混雑して大変だからだ。一旦展示におけるすべての文脈を無視して『夜のカフェテラス』という絵画だけを見に行く。考えることはみんな一緒なので、ほぼ一斉に目的の絵を目指して歩いている。
アイドルの握手会みたいに、スタッフの人達が鑑賞者を列へと誘導し、オブラート10枚で包んだ非常に柔らかめの言葉で「見て写真撮ったならとっとと歩け」というニュアンスのことを言っている。絵の前ではみんながカメラを構えて、待ちに待ったカフェテラスとの邂逅を記録に残そうと真剣な面持ちだ。私もスマホを掲げる。絵を見に来ているのか写真を撮りに来ているのか、そしてそれは鑑賞の態度として自分に認められる善き行為なのだろうかという葛藤がふと生じる。『夜のカフェテラス』を眺めて、目と脳に感動を焼き付けている時間はほんの僅かなものになりそうだ。写真を撮ったら次々人が横にスライドしていく。並んでいる間、人の頭と人の頭の隙間から絵を見る。順番を待って近くで見ることは出来ても遠くからこれを眺めることは出来ないだろうなと思う。
結局写真を撮ってしまう。ゴッホが向こうで「マジかお前ら」と言って笑ってくれていたらいいなと思うが、『夜のカフェテラス』とゴッホに申し訳ない気持ちもわいてくる。おそらく鑑賞者のほとんどが、同じ気持ちをいだいていただろう。
床には『夜のカフェテラス』の列誘導のテープが貼られていて、よく見たら、すごいところにまでテープが引かれている。最も人が入る時には、このくらい並ぶということなんだろうか。だとすると、他の展示を見るのも一苦労だろうな。こんな狭い館内で人の流れが滞ったら、酸欠を起こしそうだ。週末に入るのは人出の多さに面くらいそうでイヤだったので平日のチケットを取ったが、ゴッホ展は先日見に行ったチュリュリョーニス展のかるく5倍は人が居た。リム先生が「平日じゃないみたいだ」というようなことを言っていたが本当にそんな感じだった。
ゴッホの人生の回顧録のような展示だった。
ゴッホというと『星月夜』などに代表される、からくさ模様を連ねたような独特のタッチや、『ひまわり』のようにビビットな色使いが印象的な画家だが、本格的に絵を学び始めた頃のゴッホの作品はどれも暗い。
画商にもなれず、牧師への道も志半ばで閉ざされ失意の中にいたゴッホは、つらく厳しい現実を貧困に喘ぎながらも強かに生き抜こうとする労働者たちの中に、牧師であった父親が説いた信仰だけではない、人間の生来の尊さを感じて新しい人生の目標を定めた。画家になるという夢だ。展示内容を追っていくと、とにかくゴッホという人は影響を受けやすい人だったんだなという印象を受ける。
初期のゴッホに色濃い影響を与えていたのは、ハーグ派やバルビゾン派の画家たちの作品で、ゆえにこの頃のゴッホの絵はすべて落ち着いたトーンでまとめられている。そして彼は、ハーグ派やバルビゾン派の画家たちがそうであったように、室内で筆を取ることより屋外で絵を描くことを好み、大切にした。
ゴッホは父親との折り合いが悪くなってから、神という存在に懐疑的な立場をとるようになったようだ。聖書の世界よりも労働者たちの世界の方に、ゴッホは血の通った人間の精神を見たのだと思う。それは、彼が習作として描いた作品からも明らかだ。ゴッホは高貴なる神の御心よりも、労働者たちの実質的な生活に寄り添う人生のほうに意味や価値を感じた。無骨で寡黙な労働者の声なき声に耳を傾け、ゴッホは彼らを主人公として絵を描きまくった。
しかし、こうして一連の展示を通してゴッホの人生を辿ってみると、彼が若い頃から非常に優れた観察眼を持っていたことが分かるのと同時に、彼がいかに生きづらい人だったのかということもよく分かる。画商として成功せず、父親と同じ牧師を目指して勉強に励むも、貧しい人たちに心を寄せすぎて身銭まで切り始め、あまりにみすぼらしい姿でいたら「教会の評判を下げるから」という理由で解雇され、家族仲にも亀裂が走る。そこに愛はあるんか。そんな彼が失意の底で新たに見出した希望が、“労働者”だった。ゴッホは聖書の言葉より労働者たちの営みを信じた。
ゴッホは、恋愛もうまくいかず、友人関係でも問題を引き起こし、おおむね殆どの人間関係に躓いている。残された手紙から垣間見えるゴッホの人間性は、手放しに“良い人”とは評価し難い。人からの言葉によく耳を傾け、アドバイスにも素直に応じ、様々なものに感激を覚える純粋な人だが、その性質は翻って、高低差の激しい苛烈な気性にも直結していた。叔父から絵を依頼されるも締切までに作品を描きあげられずに怒られ、聖書のような絵を、と依頼されたのに、コッチの方がいいと言って客の依頼より自分の描きたい主張を通してしまう。もちろんすべてにおいて、ゴッホには悪気などない。よかれと思ってやっている。でも、それらすべてが尽く裏目に出る。人間社会に見切りをつけて山篭りしてもおかしくない経歴の持ち主なのに、彼は死ぬまで人と自然とを描く画家だった。このことが、とにかく私に衝撃を与える。
自然の光に満ち溢れた場所に、ゴッホは絶え間なく希望を見出しているように思える。今回の『夜のカフェテラス』を見てしみじみ思った。灰色と茶色の絵を何枚も描いたゴッホ。労働者と労働者の暮らしを見つめ続けたゴッホ。彼の絵の主役はずっと、“花”ではなく“ジャガイモ”だった。フランスに渡り、印象派から多大な影響を受け、市井の人々、暮らしと自然そのもの、「彩り」に目を向けるようになったゴッホ。きっと彼の心を奪ったのであろう、南仏の美しい夜と星。ゴッホは人々が人々だけで行う営為のすべてがきっと好きだったんだ。でもひとたび人間たちの社会に入ると、そこに馴染めない。労働者たちの疲れ果てた顔に神の姿を見るのに、自分は絶対、そんな“神”に近づけない。その性質を誰かに認められることも、慰められることもなかった。本当に、心底孤独だっただろう。弟のテオだけが唯一そんな彼に生涯寄り添ったが、彼の深い孤独を癒すことは出来なかった。
ゴッホの絵の履歴だけを追っていくと、彼の心はどんどん明るい方角に向かって解放されていったように見えるのに、実際にはどんどん心の均衡を失っていった。耳を切り落とすほど、切り落とした耳を好きな女性へ送り付けるほど、そして自らの胸を撃ち抜くほど。そういう人の手から生まれた作品が、これなんだ。それってすごく、言葉に出来ない。
果たして私のような芸術センスのない凡庸な俗人が、遠くから絵を見たところでアートの持つ本質的な意義や価値など分からないと思うし、したり顔して「フムこれは️●●が主題の云々かんぬん」と言ってもしゃらくさく鼻につくだけだと思うのだが、美術鑑賞が最も楽しい瞬間は絵を見ている時より見終わったあと、カフェであーでもないこーでもないとプロの絵に対して素人寸評を繰り出す時の方だという俗物なりの楽しみ方をやったって、それはそれで充分アートを楽しんでいると言えるはずだ。ロウブロウ、すなわち“無教養”でも楽しめるのが、我々のために拓かれた芸術の本来の形だからだ。主人公としての市民が描かれた作品を、作品の主人公である市民、我々が楽しむ。これが作品の本懐でないなら、何が本懐だと言うんだろう。だからたぶん、あの世でゴッホは喜んだりキレたり、ふつうにしていると思う。私たちが彼の絵から受ける印象とその影響について語ることは、ゴッホが生前、自分の絵に期待していたすべてだからだ。
ゴッホが拳銃自殺を図ったのは、7月の終わりだという。そしてその数週間前には、教会の絵を描いていたそうだ。私たちがゴッホを見に行った、その136年前の当日にも、まだゴッホはキャンバスに何かを描きつけていたかも知れない。そのキャンバスに向かい合っている時、彼は100年先の未来で、自分の作品がこんなにも多くの人々から支持を集め、ぬいぐるみにまでなるなどとはきっと夢にも思わなかったと思う。スマホ向けのゲームで美少女にされた上にクトゥルフ関係者にされるなんてもっと考えていなかったと思う。
今回の『夜のカフェテラス』、そして後期に展示される『アルルの跳ね橋』は両方ともオランダのクレラー=ミュラー美術館から貸し出されたものだ。もし、ヘレーネ・クレラー=ミュラーが、ゴッホという人物に深い共感を示さなかったら。彼の孤独にシンパシーを感じなかったら。ゴッホの才能は埋もれたまま、名もなき画家のひとりとしてきっと歴史に埋没していたと思う。資産家姉さん、こんな素晴らしいことにお金を使ってくれて、本当にありがとう。
芸術は自分の宇宙を歩くことだ。人から理解を得られるとは限らない。私が理解出来ることも少ない。だけど、作品があれば、その人が歩いた宇宙の記憶を誰とでも共有出来る。頭の引き出しの中に忍ばせるその記憶が、日常のちょっとした苦しさや淋しさに寄り添う。その事実が私の足元を少しだけ明るくする。地味だけど確かな救いになる。私も私の宇宙を歩く。
私は“市民的な”芸術が好きだ。つまり私たちが主人公の作品のことだ。ゴッホもまた極めて市民的な芸術家だった。彼の人生に、『カフェテラスの夜』のような素晴らしい一夜があったことを、私は非常に嬉しく思う。畳む
CATEGORY:雑記
お盆の最終日はうんことちんこで終わった。
長期休暇の終わりの日は、翌日から始まる労働の憂鬱さを少しでも忘れたくて、何か興味深いことをひとつでもやりたくなるものだ。というわけで、2022年公開の『Shit Saves the World』(邦題:『ウンチク うんこが世界を救う』)を観た。人類史とはうんことの共存の歴史であり、人間はありとあらゆる場所にうんこを撒き散らしてきた。文明はうんこと共にあり、政治もまたうんこと共にあったのだ。人間のクソ、動物のクソ、ありとあらゆる生物のクソ。途方もないクソに塗れた青い地球。ひとたびクソに汚染された水が体内に入れば、下痢に嘔吐に赤痢にチフス、ペストに黄旦腎不全となんでもござれだ。
それでもうんこには、信じられないほどのポテンシャルが秘められている。うんこはただの臭い厄介者なんかじゃない。この世で唯一尽きることのない肥料でありエネルギー…になる可能性があるのだ。火も風も化石燃料も万能ではないけれど、毎日自分たちのケツから算出される77億ぶんのうんこが本当にエネルギーになったなら、うんこの未来はWOW WOW WOW WOW。神より身近なうんこである。
うんこに対する見識が深まり、有意義な1時間半を過ごしたあと、アイスランドには世界で唯一の『ちんこ博物館』があることを知る。
アイスランドのレイキャビークには、世界で唯一の『ちんこ博物館』がある。本当である。正確には『アイスランドペニス博物館』という。そしてこのちんこ博物館を舞台にしたドキュメンタリーが、2012年公開の『The Final Member』(邦題:『最後の1本 ~ペニス博物館の珍コレクション~』)である。
もともとは学校の先生であったシッギさんは、友人からウシのペニスを贈られたことをキッカケに以降40年間かけて哺乳類のちんこを集め続けた。妻からの「もうチンポ博物館でもやれば?」という一言に背中を押されて博物館を開館。クジラのマクロペニスからハムスターのミクロペニスまで、ありとあらゆる種のちんこを集め続けたシッギさんには、どうしても最後の最後に博物館に収蔵したいちんこがあった。
そう、シッギさんが是が非でも収蔵したい「最後の1本」…それは、
✨HUMAN PENIS✨
即ちヒューペニである。
とはいえ、人間のちんこをそこら辺のご遺体から勝手にもぎ取ってくるわけにもいかない。ご検体からちんこだけを頂戴しようにも、これにも高いハードルがある。だがある時、悩めるシッギさんの元にふたりの男性から自分のペニスを是非寄贈したいという申し出が‼️
ひとりはアイスランドでは有名な冒険家、アラソンさん。既にご高齢で、死んだ先にはちんこなんか持っていけないという理由で寄贈を申し出た。ご本人は90を超えて未だにセクハラ発言を繰り返すコンプラアウトじいさんなのだが、自分の死後は自慢のイチモツを博物館に展示してもらい、是非後学に役立ててほしいとのこと。
そしてもうひとりが、目がイッてるアメリカ人のトム。
さて、シッギさんは人間のちんこを欲している。しかし、博物館に収蔵されるちんこはどんなちんこでもいいのか、というと、そうではない。
まず、ちんこは平常時で12.7センチ以上のサイズでなくてはいけない。
この12.7センチという数字には根拠がある。アイスランドには、ちんこに対して「法的な長さ」という概念があるからだ。
自分にはちんこがついてないので本当のところは分からないが、ちんこの平常時におけるサイズというのはおそらく生来的に決まっており、「デカなれ‼️」と祈るだけではデカくなったりしないだろう。にも関わらず、アイスランドにはちんこに対して「法的な長さ」という考えがあるというのである。とんだ人権問題、もといチン権問題だと思うのだが、この「法的な長さ」というのはシッギさんの趣味でも無から突如発生した概念でもない。アイスランドには、以下のような「昔話」があるのだ。
ある時老夫婦の妻が、夫と別れたいと代官に申し出てきた。なぜ夫と別れたいのかというと、夫のチンポのサイズが7.6センチくらいしかなくあまりに粗チン過ぎたためである。代官が「そのサイズじゃあかんのか?」と聞くと、妻は「コイツのチンポは親指の幅でいったら三本分しかない。使い物にならない。女性を気持ちよくさせるには、“法的な長さ”が必要です」と言うのである。
代官が「ほ、法的な長さったって、法律でチンポの長さは定められておりまへんがな…。ほな、どんくらいなら満足なんで?」と訊ねると、妻は「親指の幅、5本目からです。そいつが法的な長さです」と返し、これがちんこの「法的なサイズ」と定まったわけである。
なんとアイスランドには、これと同様の民話がやたらにあるそうなのである。ちんこのサイズが民法上の「婚姻を継続しがたい事由」になる民話が存在するアイスランド。粗チンに厳しい社会すぎる。
で、この昔話から、親指の幅5本分として12.7センチという数字を割り出し、シッギさんはこのサイズ以上のちんこでなければ収蔵が出来ないとしている。ちんこに対する妥協なき追究。
先述したふたりの候補者は、果たして様々な諸条件をクリアして、チン博にマイペニスを寄贈することが出来るのか…というのが、このドキュメンタリーのあらすじである。
自分のちんこを是非博物館に寄贈したいと願い出たふたりのうちのひとり、アメリカ人のトムは、特に寄贈に対して並々ならぬ情熱を燃やしている。どのくらい並々ならぬ情熱を燃やしているかというと、生きている間にちんこを切って寄贈しようとしているレベルである。
トムは自分のちんこに「エルモ」と名前をつけている。トムは自分のちんこ、否、エルモが大好きなのだ。大好きなエルモが世界で唯一のちんこ博物館に展示され、多くの人たちに感動を与えたならどんなにか素敵だろう。生きている間にちんこを切り取って、一刻も早くアイスランドに自分の巨根を届けたい。展示された「エルモ」はみんなを笑顔にするに違いないし、きっと見たもの全員を元気にするだろう。
早くちんこを展示して欲しいトムは、自ら展示方法を考えてシッギさんにしつこく連絡を繰り返す。シッギさんの顔と言葉から漏れ出る、「こんなマジキチアメリカ人を寄贈第1号にするのはほんまに嫌だ」という感情。出来ればアラソンさんに寄贈をしてもらいたいが…。
自分のエルモに夢中のトムは、エルモが展示される日のことを考えて胸のときめきがとまらない。みんなが私のエルモを見る時、エルモにアメリカの国旗が立ってたら素敵じゃない?ということで、アイスランドで天高くそそり立つであろうエルモを更にカッコよくするため、トムは亀頭にアメリカ国旗のタトゥーを入れたのだった。すな。
トムの暴走はとまらない。展示されるなら勃起状態を維持して欲しい!自分で展示ケースのデザインを手がけ、業者に相談するトム。自分のちんこが注目されて、たくさんの人に見てもらうのがトムの夢だ。だから、エルモをヒーローにしたマンガも描いて欲しい。トムの欲望はどんどん膨らんでいく。マンガのタイトルも決まっている。ずばり『エルモの大冒険』。ヒーローとなったちんこ、エルモがみんなを助ける物語だ。トム、お前は自分のちんこよりセサミストリートの寛大さに感謝して生きろ。
ブレーキが完全にブチ壊れているトムは、シッギさんに自分のちんこにサンタクロースの服を着せた写真や礼服を着せた写真を送り付けるなど奇行を越えた蛮行を働き、ちんこに脳みそを支配された人間(文字通りの意味)の行動は基本的に世界共通という圧倒的な現実を突きつける。
ただ純粋な学問の追究でちんこを集めていただけなのに、レベルの高すぎる変態に見つかってしまったばかりにとんでもないセクハラメッセージを連発される不幸なシッギさん。しかし、この時代から既にインターネットリテラシーバリ高のシッギさんは、トムのチンハラ(チンポハラスメント)を完全スルー。シカトこかれたトムはと言うと、「シッギさんは急に私への興味と敬意を失った」とご立腹の様子。更に、言うに事欠いて「人に迷惑をかけていないなら、自分の体をどう扱おうが自由」などと宣う。トムにとって、着せ替えちんこ画像は迷惑行為にカウントされていないようだ。お前は今すぐ病院に行け。
と思っていたら本当に病院に行ったトム。もちろん向かった場所は形成外科。そこより前に向かうべき科があるだろう。そんな私の思いを他所に、トムは生きている間にちんこを切り取って欲しいとドクターにお願いする。「なんの理由もないのに体の一部は切除出来ない」というドクター。切り取りたいなら合理的な理由を説明してくれと言われ、ちんこを骨折したんだと主張するトム。「ちんぽに骨はないけどね。ちんぽに骨はないけどね」と大事なことなので二度言うドクター。トム曰く、騎乗位に失敗され、上からケツが落下してきた衝撃でちんこが折れたとのこと。そのあとから尿道が狭くなり、尿の出が悪いのだと言う。
そして触診したドクターは、あることに気付く。
コイツ亀頭にアメリカ国旗彫っとる‼️‼️‼️‼️‼️
この映画は、シッギさんの物語のはずだ。世界で唯一の「ペニス博物館」が、ヒト科ヒト属人間のペニスを寄贈してもらえるかもらえないかというドキュメンタリーのはずだ。シッギさんは決してやましい理由で動物たちのペニスを収集しているのではない。すべては学問のためだ。変人扱いされても変質者扱いされても、シッギさんは自分の使命を信じて様々な種のペニスを収集してきた。学術界においてタブー視されがちな「男性器」というものに真正面から取り組むことによって、シッギさんは学問に禁忌などないということを証明したいのだ。生物に興味関心を寄せ、理解すること。自然と共生し、生態系を守るということ。シッギさんの理念には、恥じ入るべき点などひとつもない。
その彼が作り上げた博物館の、最後の収容物として求められた人間のペニス。果たしてシッギさんは、自分が館長を引退する前に人間のペニスを収蔵できるのか。ドキュメンタリーが追いかけるのは、シッギさんの人生である。
だが私はトムの奇行に完全に目を縫い付けられてしまった。トムは“ホンモノ”だ。自分のちんこを愛しすぎるがゆえに、生きている間に自分のちんこを切り取り、博物館に展示してもらうという夢に焦がれる男。自分の“エルモ”を勃起状態で飾ってもらい、博物館のオフシーズンには自分のちんこを送り返してほしいとシッギさんに注文までつける。亀頭に国旗を彫るという、国旗損壊罪なのか勃起損壊罪なのか問われるとしたら一体どちらの罪なのかという、国旗にとってもちんこにとっても百害しかない行為に及ぶ狂人。このドキュメンタリー映画の中には、いっそ仕込みであってくれと思うシーンが10はあった。もちろん全部トムだ。
2026年、夏。こうして私は、うんことちんこで大人の夏休みを締めくくった。畳む
長期休暇の終わりの日は、翌日から始まる労働の憂鬱さを少しでも忘れたくて、何か興味深いことをひとつでもやりたくなるものだ。というわけで、2022年公開の『Shit Saves the World』(邦題:『ウンチク うんこが世界を救う』)を観た。人類史とはうんことの共存の歴史であり、人間はありとあらゆる場所にうんこを撒き散らしてきた。文明はうんこと共にあり、政治もまたうんこと共にあったのだ。人間のクソ、動物のクソ、ありとあらゆる生物のクソ。途方もないクソに塗れた青い地球。ひとたびクソに汚染された水が体内に入れば、下痢に嘔吐に赤痢にチフス、ペストに黄旦腎不全となんでもござれだ。
それでもうんこには、信じられないほどのポテンシャルが秘められている。うんこはただの臭い厄介者なんかじゃない。この世で唯一尽きることのない肥料でありエネルギー…になる可能性があるのだ。火も風も化石燃料も万能ではないけれど、毎日自分たちのケツから算出される77億ぶんのうんこが本当にエネルギーになったなら、うんこの未来はWOW WOW WOW WOW。神より身近なうんこである。
うんこに対する見識が深まり、有意義な1時間半を過ごしたあと、アイスランドには世界で唯一の『ちんこ博物館』があることを知る。
アイスランドのレイキャビークには、世界で唯一の『ちんこ博物館』がある。本当である。正確には『アイスランドペニス博物館』という。そしてこのちんこ博物館を舞台にしたドキュメンタリーが、2012年公開の『The Final Member』(邦題:『最後の1本 ~ペニス博物館の珍コレクション~』)である。
もともとは学校の先生であったシッギさんは、友人からウシのペニスを贈られたことをキッカケに以降40年間かけて哺乳類のちんこを集め続けた。妻からの「もうチンポ博物館でもやれば?」という一言に背中を押されて博物館を開館。クジラのマクロペニスからハムスターのミクロペニスまで、ありとあらゆる種のちんこを集め続けたシッギさんには、どうしても最後の最後に博物館に収蔵したいちんこがあった。
そう、シッギさんが是が非でも収蔵したい「最後の1本」…それは、
✨HUMAN PENIS✨
即ちヒューペニである。
とはいえ、人間のちんこをそこら辺のご遺体から勝手にもぎ取ってくるわけにもいかない。ご検体からちんこだけを頂戴しようにも、これにも高いハードルがある。だがある時、悩めるシッギさんの元にふたりの男性から自分のペニスを是非寄贈したいという申し出が‼️
ひとりはアイスランドでは有名な冒険家、アラソンさん。既にご高齢で、死んだ先にはちんこなんか持っていけないという理由で寄贈を申し出た。ご本人は90を超えて未だにセクハラ発言を繰り返すコンプラアウトじいさんなのだが、自分の死後は自慢のイチモツを博物館に展示してもらい、是非後学に役立ててほしいとのこと。
そしてもうひとりが、目がイッてるアメリカ人のトム。
さて、シッギさんは人間のちんこを欲している。しかし、博物館に収蔵されるちんこはどんなちんこでもいいのか、というと、そうではない。
まず、ちんこは平常時で12.7センチ以上のサイズでなくてはいけない。
この12.7センチという数字には根拠がある。アイスランドには、ちんこに対して「法的な長さ」という概念があるからだ。
自分にはちんこがついてないので本当のところは分からないが、ちんこの平常時におけるサイズというのはおそらく生来的に決まっており、「デカなれ‼️」と祈るだけではデカくなったりしないだろう。にも関わらず、アイスランドにはちんこに対して「法的な長さ」という考えがあるというのである。とんだ人権問題、もといチン権問題だと思うのだが、この「法的な長さ」というのはシッギさんの趣味でも無から突如発生した概念でもない。アイスランドには、以下のような「昔話」があるのだ。
ある時老夫婦の妻が、夫と別れたいと代官に申し出てきた。なぜ夫と別れたいのかというと、夫のチンポのサイズが7.6センチくらいしかなくあまりに粗チン過ぎたためである。代官が「そのサイズじゃあかんのか?」と聞くと、妻は「コイツのチンポは親指の幅でいったら三本分しかない。使い物にならない。女性を気持ちよくさせるには、“法的な長さ”が必要です」と言うのである。
代官が「ほ、法的な長さったって、法律でチンポの長さは定められておりまへんがな…。ほな、どんくらいなら満足なんで?」と訊ねると、妻は「親指の幅、5本目からです。そいつが法的な長さです」と返し、これがちんこの「法的なサイズ」と定まったわけである。
なんとアイスランドには、これと同様の民話がやたらにあるそうなのである。ちんこのサイズが民法上の「婚姻を継続しがたい事由」になる民話が存在するアイスランド。粗チンに厳しい社会すぎる。
で、この昔話から、親指の幅5本分として12.7センチという数字を割り出し、シッギさんはこのサイズ以上のちんこでなければ収蔵が出来ないとしている。ちんこに対する妥協なき追究。
先述したふたりの候補者は、果たして様々な諸条件をクリアして、チン博にマイペニスを寄贈することが出来るのか…というのが、このドキュメンタリーのあらすじである。
自分のちんこを是非博物館に寄贈したいと願い出たふたりのうちのひとり、アメリカ人のトムは、特に寄贈に対して並々ならぬ情熱を燃やしている。どのくらい並々ならぬ情熱を燃やしているかというと、生きている間にちんこを切って寄贈しようとしているレベルである。
トムは自分のちんこに「エルモ」と名前をつけている。トムは自分のちんこ、否、エルモが大好きなのだ。大好きなエルモが世界で唯一のちんこ博物館に展示され、多くの人たちに感動を与えたならどんなにか素敵だろう。生きている間にちんこを切り取って、一刻も早くアイスランドに自分の巨根を届けたい。展示された「エルモ」はみんなを笑顔にするに違いないし、きっと見たもの全員を元気にするだろう。
早くちんこを展示して欲しいトムは、自ら展示方法を考えてシッギさんにしつこく連絡を繰り返す。シッギさんの顔と言葉から漏れ出る、「こんなマジキチアメリカ人を寄贈第1号にするのはほんまに嫌だ」という感情。出来ればアラソンさんに寄贈をしてもらいたいが…。
自分のエルモに夢中のトムは、エルモが展示される日のことを考えて胸のときめきがとまらない。みんなが私のエルモを見る時、エルモにアメリカの国旗が立ってたら素敵じゃない?ということで、アイスランドで天高くそそり立つであろうエルモを更にカッコよくするため、トムは亀頭にアメリカ国旗のタトゥーを入れたのだった。すな。
トムの暴走はとまらない。展示されるなら勃起状態を維持して欲しい!自分で展示ケースのデザインを手がけ、業者に相談するトム。自分のちんこが注目されて、たくさんの人に見てもらうのがトムの夢だ。だから、エルモをヒーローにしたマンガも描いて欲しい。トムの欲望はどんどん膨らんでいく。マンガのタイトルも決まっている。ずばり『エルモの大冒険』。ヒーローとなったちんこ、エルモがみんなを助ける物語だ。トム、お前は自分のちんこよりセサミストリートの寛大さに感謝して生きろ。
ブレーキが完全にブチ壊れているトムは、シッギさんに自分のちんこにサンタクロースの服を着せた写真や礼服を着せた写真を送り付けるなど奇行を越えた蛮行を働き、ちんこに脳みそを支配された人間(文字通りの意味)の行動は基本的に世界共通という圧倒的な現実を突きつける。
ただ純粋な学問の追究でちんこを集めていただけなのに、レベルの高すぎる変態に見つかってしまったばかりにとんでもないセクハラメッセージを連発される不幸なシッギさん。しかし、この時代から既にインターネットリテラシーバリ高のシッギさんは、トムのチンハラ(チンポハラスメント)を完全スルー。シカトこかれたトムはと言うと、「シッギさんは急に私への興味と敬意を失った」とご立腹の様子。更に、言うに事欠いて「人に迷惑をかけていないなら、自分の体をどう扱おうが自由」などと宣う。トムにとって、着せ替えちんこ画像は迷惑行為にカウントされていないようだ。お前は今すぐ病院に行け。
と思っていたら本当に病院に行ったトム。もちろん向かった場所は形成外科。そこより前に向かうべき科があるだろう。そんな私の思いを他所に、トムは生きている間にちんこを切り取って欲しいとドクターにお願いする。「なんの理由もないのに体の一部は切除出来ない」というドクター。切り取りたいなら合理的な理由を説明してくれと言われ、ちんこを骨折したんだと主張するトム。「ちんぽに骨はないけどね。ちんぽに骨はないけどね」と大事なことなので二度言うドクター。トム曰く、騎乗位に失敗され、上からケツが落下してきた衝撃でちんこが折れたとのこと。そのあとから尿道が狭くなり、尿の出が悪いのだと言う。
そして触診したドクターは、あることに気付く。
コイツ亀頭にアメリカ国旗彫っとる‼️‼️‼️‼️‼️
この映画は、シッギさんの物語のはずだ。世界で唯一の「ペニス博物館」が、ヒト科ヒト属人間のペニスを寄贈してもらえるかもらえないかというドキュメンタリーのはずだ。シッギさんは決してやましい理由で動物たちのペニスを収集しているのではない。すべては学問のためだ。変人扱いされても変質者扱いされても、シッギさんは自分の使命を信じて様々な種のペニスを収集してきた。学術界においてタブー視されがちな「男性器」というものに真正面から取り組むことによって、シッギさんは学問に禁忌などないということを証明したいのだ。生物に興味関心を寄せ、理解すること。自然と共生し、生態系を守るということ。シッギさんの理念には、恥じ入るべき点などひとつもない。
その彼が作り上げた博物館の、最後の収容物として求められた人間のペニス。果たしてシッギさんは、自分が館長を引退する前に人間のペニスを収蔵できるのか。ドキュメンタリーが追いかけるのは、シッギさんの人生である。
だが私はトムの奇行に完全に目を縫い付けられてしまった。トムは“ホンモノ”だ。自分のちんこを愛しすぎるがゆえに、生きている間に自分のちんこを切り取り、博物館に展示してもらうという夢に焦がれる男。自分の“エルモ”を勃起状態で飾ってもらい、博物館のオフシーズンには自分のちんこを送り返してほしいとシッギさんに注文までつける。亀頭に国旗を彫るという、国旗損壊罪なのか勃起損壊罪なのか問われるとしたら一体どちらの罪なのかという、国旗にとってもちんこにとっても百害しかない行為に及ぶ狂人。このドキュメンタリー映画の中には、いっそ仕込みであってくれと思うシーンが10はあった。もちろん全部トムだ。
2026年、夏。こうして私は、うんことちんこで大人の夏休みを締めくくった。畳む
CATEGORY:映画感想
ジル・マゴーン『騙し絵の檻』読了。読むのをここでやめたら3度目の挑戦はないだろうと思ったので、一気に読み切った。
結論から言うと私向けの作品ではなかった。
硬派な推理小説ぜんとしたラストの謎解きシーンには怒涛の疾走感とすべての伏線を回収してやるッ!という勢い込んだ迫力があり、圧倒された。「コイツが犯人⁉️いや、コイツ⁉️」と振り回される感じも堪らない。エンディングはいかにも“推理小説”らしい「まさか…」というセリフと共に、キレイにまとまったと見せかけて…?な後味も残り、そういう点で本書に不足はないと感じる。
張り巡らされた疑惑、浮き上がってくる真実、そういったものが複雑に絡み合いながら、それぞれの思惑のために事件はより暗く閉ざされ、ほんの僅かな穴を穿って真相に辿り着こうとする主人公たちの戦いは、それゆえに一進一退を繰り返すのだが、溜まったフラストレーションがラストにかけてどんどん晴れていくという展開は、王道にして正道。登場人物がみな腹にイチモツ抱えているので、正味なところ誰が犯人でも良いというか、誰が犯人だったとしても意外性こそないのだが、誰が犯人でもおかしくないからこその“謎”が過不足なく回収されていき、そのあたりはやはりジル・マゴーンという作家の素晴らしい力量によるところが大きいのだろう。
問題なのは主人公の相棒となるジャンが、主人公にとってあまりに都合のいい便利な女すぎて、主人公の魅力がかえって失われてしまっているという点。そしてあまりにも唐突かつあまりにも不要だった、主人公によるジャンへの性暴力シーン。本書が刊行された2000年代という時代背景をふまえた上でも、これはアウトだと思う。
主人公ホルトは無実の罪で16年間投獄され、真犯人を突き止めて殺すことを獄中で決意しその決意のみを生きるよすがとしてきた男。出所後、早速ホルトはかつての同僚たちをたずね、真相解明に乗り出すが…というのがあらすじ。
服役中にホルトは肉体的にも精神的にもシャバにいた頃よりだいぶ“タフネス”になったと自称するが、作品自体は本格的に硬派な推理小説なので、ホルトが筋肉にもの言わせてジェイソン・ステイサムするシーンはない。主人公が具体的かつ直接的な暴力行為に及んだのは、相棒であるジャンに対して八つ当たりで珍棒を突っ込んだシーンくらい。実刑16年の罪の重さを出所後にわざわざ回収すんなよ。
主人公より明らかにジャンのほうが探偵として有能で、謎解きのヒントはほとんどジャンが与えたものといっても過言ではない。ホルトがやったことといえば、引き出した情報を並べて考え、方々に向けて怒りを炸裂させながら、「自分の苦しみはこんなものじゃない…」みたいな顔を定期的に挟んでくるくらいである。
ホルトがついに犯人にあたりをつけ、復讐のため自分からジャンを引き離し、暗殺者として最後の計画を実行しようという時にも、ジャンは体を張ってホルトをとめる。文字通り体を張ったタイマンでホルトをとめるので、ここでジャンはホルトに性的暴行を加えられ、ホルトも自分の下衆すぎる行為に「あわ、あわわ」となるのだが、はっきり言ってこの辺の話の何が本編にとって重要なのか分からず、完全に無駄な章だったと感じる。しかし何が一番腹立ったかといえば、この一方的な暴力行為をジャンが結果として許し、その後のホルトに対してよしよしHまで用意するというバカバカしさのほうにである。
推理ものとしては本当に硬派で無駄な装飾がない真っ向勝負のミステリなぶん、このファンタジックで、もはや倒錯的とさえ表現出来る恋愛関係がひたすら悪目立ちしており、全体的に非常に大きなノイズになっている。そもそもなぜジャンがホルトに惹かれたのかというエピソードが「屋根の上から俺は無実だと叫んでいた姿を見た」くらいしかないのが怖い。
ホルトが初めからジャンに惹かれていたというのは、ジャンがホルトのもとをおとずれるたびに一々解説される「本日のジャンのファッション」の描写から明らかなのだが、そうなるとホルトもホルトで「俺は孤独に戦い抜く…俺はあの地獄の戦場から舞い戻った戦士なのだから…」みたいな顔して初手からジャンに甘勃起カマしていた男ということになり、なんかちょっと…という感じである。
要するに男女趣味がさすがにキショすぎないか?というのが、本作の骨太な推理路線とかなり噛み合っておらず、ふたりの関係性のメロドラマぶりが単なる“やかましさ”になっている。
どうも今回は翻訳との相性も悪く、上滑り状態で本書を読んでいたのもあり、主人公に対してあまり魅力を感じられなかったのが残念。謎解き前にビシッとした服に着替えたけど、茶色のシャツにしたら脇汗目立つ!白いシャツにしとけばよかった!とか考え出すシーンなども、「今はそういうのいらねぇだろ」としか思えず。
謎解きシーンは楽しかった。このシーンだけで元をとったと考えましょう。
2026/08/06読了
ジル・マゴーン
騙し絵の檻
中村有希 訳
創元推理文庫畳む
結論から言うと私向けの作品ではなかった。
硬派な推理小説ぜんとしたラストの謎解きシーンには怒涛の疾走感とすべての伏線を回収してやるッ!という勢い込んだ迫力があり、圧倒された。「コイツが犯人⁉️いや、コイツ⁉️」と振り回される感じも堪らない。エンディングはいかにも“推理小説”らしい「まさか…」というセリフと共に、キレイにまとまったと見せかけて…?な後味も残り、そういう点で本書に不足はないと感じる。
張り巡らされた疑惑、浮き上がってくる真実、そういったものが複雑に絡み合いながら、それぞれの思惑のために事件はより暗く閉ざされ、ほんの僅かな穴を穿って真相に辿り着こうとする主人公たちの戦いは、それゆえに一進一退を繰り返すのだが、溜まったフラストレーションがラストにかけてどんどん晴れていくという展開は、王道にして正道。登場人物がみな腹にイチモツ抱えているので、正味なところ誰が犯人でも良いというか、誰が犯人だったとしても意外性こそないのだが、誰が犯人でもおかしくないからこその“謎”が過不足なく回収されていき、そのあたりはやはりジル・マゴーンという作家の素晴らしい力量によるところが大きいのだろう。
問題なのは主人公の相棒となるジャンが、主人公にとってあまりに都合のいい便利な女すぎて、主人公の魅力がかえって失われてしまっているという点。そしてあまりにも唐突かつあまりにも不要だった、主人公によるジャンへの性暴力シーン。本書が刊行された2000年代という時代背景をふまえた上でも、これはアウトだと思う。
主人公ホルトは無実の罪で16年間投獄され、真犯人を突き止めて殺すことを獄中で決意しその決意のみを生きるよすがとしてきた男。出所後、早速ホルトはかつての同僚たちをたずね、真相解明に乗り出すが…というのがあらすじ。
服役中にホルトは肉体的にも精神的にもシャバにいた頃よりだいぶ“タフネス”になったと自称するが、作品自体は本格的に硬派な推理小説なので、ホルトが筋肉にもの言わせてジェイソン・ステイサムするシーンはない。主人公が具体的かつ直接的な暴力行為に及んだのは、相棒であるジャンに対して八つ当たりで珍棒を突っ込んだシーンくらい。実刑16年の罪の重さを出所後にわざわざ回収すんなよ。
主人公より明らかにジャンのほうが探偵として有能で、謎解きのヒントはほとんどジャンが与えたものといっても過言ではない。ホルトがやったことといえば、引き出した情報を並べて考え、方々に向けて怒りを炸裂させながら、「自分の苦しみはこんなものじゃない…」みたいな顔を定期的に挟んでくるくらいである。
ホルトがついに犯人にあたりをつけ、復讐のため自分からジャンを引き離し、暗殺者として最後の計画を実行しようという時にも、ジャンは体を張ってホルトをとめる。文字通り体を張ったタイマンでホルトをとめるので、ここでジャンはホルトに性的暴行を加えられ、ホルトも自分の下衆すぎる行為に「あわ、あわわ」となるのだが、はっきり言ってこの辺の話の何が本編にとって重要なのか分からず、完全に無駄な章だったと感じる。しかし何が一番腹立ったかといえば、この一方的な暴力行為をジャンが結果として許し、その後のホルトに対してよしよしHまで用意するというバカバカしさのほうにである。
推理ものとしては本当に硬派で無駄な装飾がない真っ向勝負のミステリなぶん、このファンタジックで、もはや倒錯的とさえ表現出来る恋愛関係がひたすら悪目立ちしており、全体的に非常に大きなノイズになっている。そもそもなぜジャンがホルトに惹かれたのかというエピソードが「屋根の上から俺は無実だと叫んでいた姿を見た」くらいしかないのが怖い。
ホルトが初めからジャンに惹かれていたというのは、ジャンがホルトのもとをおとずれるたびに一々解説される「本日のジャンのファッション」の描写から明らかなのだが、そうなるとホルトもホルトで「俺は孤独に戦い抜く…俺はあの地獄の戦場から舞い戻った戦士なのだから…」みたいな顔して初手からジャンに甘勃起カマしていた男ということになり、なんかちょっと…という感じである。
要するに男女趣味がさすがにキショすぎないか?というのが、本作の骨太な推理路線とかなり噛み合っておらず、ふたりの関係性のメロドラマぶりが単なる“やかましさ”になっている。
どうも今回は翻訳との相性も悪く、上滑り状態で本書を読んでいたのもあり、主人公に対してあまり魅力を感じられなかったのが残念。謎解き前にビシッとした服に着替えたけど、茶色のシャツにしたら脇汗目立つ!白いシャツにしとけばよかった!とか考え出すシーンなども、「今はそういうのいらねぇだろ」としか思えず。
謎解きシーンは楽しかった。このシーンだけで元をとったと考えましょう。
2026/08/06読了
ジル・マゴーン
騙し絵の檻
中村有希 訳
創元推理文庫畳む
CATEGORY:小説感想
『淑やかな悪夢』読了。
1800年代後半から1900年代前半にかけて活躍した英米女流作家のホラー小説アンソロジーということで、読むぞ〜と思いながら2年くらい積んでいた。最近はここ2年くらいで積んだ本の積み解消に向けて取り組んでおります。
収録作はどれも面白かったが、特に気に入ったのは『黄色い壁紙』(シャーロット・パーキンズ・ギルマン)の物語。訳者である西崎憲氏の解説にある通りフェミニズム批評的な観点から見ても重要な作品で、“霊的現象が引き起こす摩訶不思議な恐怖体験”を思わせる書き出しから、実は…と物語の真相が詳らかになるにつれ、この恐怖に共感出来ない“女性”は、確かにシャーロットが生きた時代には居なかっただろうと思わされた。
この物語に描きこまれた怖さというのは、霊的なもの、あるいは超自然的なものに対する恐怖ではなく、我々はこの主人公の苦悩を少しも「過去」に出来ていないという意味での恐怖だ。おそらくこの作品が発表された当時においても主人公は私たち女性の「隣人」のように、どこかには必ず居たであろう人物だったはずで、主人公の苦しみはそんな私たち「隣人」の苦しみだったはず。そしてこの「隣人」は、現代においてもまだ隣人のままだ。『黄色い壁紙』は「あの頃の話」ではなく、現代においてなお“ありふれた”恐怖である。自由を求めて発言したことを、神経症だとかヒステリーだとか言われてきた女たち。壁紙に閉じ込められてきた女たち。
主人公は精神的に落ち込んでおり、その療養のためとある家にしばらくの間夫とともに身を置くことになった。彼女は自分の現在の状況や症状などを実はノートに書き付けているのだが(これがそのまま小説の内容となっている)、夫は彼女がそんなことをしていると知ると機嫌を損ねるので、彼女は机の引き出しにこっそりノートを忍ばせて夫から隠れて日記をつけている。
夫いわく、彼女の病は働きすぎによるものだ。彼女には“何も考えない”時間が必要だと言う。君は色々考えてしまうからダメなのだ。とにかく、何もせずゆっくりしていたらいい。君は無駄なことを考えず、やらず、とにかく体と頭を休めることだけ考えていたらいいのだ。さらに夫は言う。私は君をとても愛している。とても心配している。君のためならなんでもしよう。
主人公は越してきた家を観察する。夫婦が寝室にしているのはかつて子供部屋として使用されていた部屋だが、主人公はどうもこの部屋の“黄色い壁紙”が不快で仕方がない。模様が常に蠢いて、気持ちが悪く、どこまで目で追っても果てがない。この部屋にいるだけで、かえって具合がどんどん悪くなりそうな感じである。
彼女の精神が錯乱しているからそう見えるのか?それとも、本当に壁紙が蠢いているのか?
主人公は不快感を夫に訴えるが、夫の答えはいつも決まっている。とにかく休め。考えるな。私はあなたを愛している。心配している。おお、私のかわいい人よ。しかし主人公は、やはりこの部屋の壁紙が不愉快でたまらない。壁紙がまるで自分を煽っているようにも感じられる。それに、家の中から外をみると、人影のようなものが這っているのを見かけたりする。正体の分からないモヤ。彼女は毎日の不安とどうしようもなさをノートにひたすら書きつける……
物語の主人公は「妻」だ。夫がいて、この夫は優しい。彼女を愛していて、彼女の療養のために色々と手を尽くしている。しかし彼女の病状は一向に快復せず、むしろどんどん悪化しているように見える。夫の献身のことを、妻も分かっている。だがどうしようもない。その罪悪感で、どんどん妻である彼女は追い詰められていく。そんな妻に夫は言う。「考えないで、何もやらないで、ただゆっくりしていればいい」。妻である主人公は、夫の言葉に従順だ。だが、それにしてもこの部屋の黄色い壁紙には耐えられない。
物語の主人公は「女性」だ。ひとりの自立した、自分の考えや生活に対して理想を持つ、ひとりの「女性」。外に出て働いたり、自分のためあらゆることを自分で“考え”、“行動する”、そういう女性だ。一見すると優しい態度、優しい言葉で夫に尽くされているように見えても、彼女は、実際にはただ支配されている。生活の実権を握られ、自分の意思表示をすべて「考えすぎ」だと言われる。ただふつうに、ひとりの人間として、自分の行動を自分自身で選択しようとすれば、それを「心気症」だとか「神経症」だとか言われる。心配のしすぎだと。だから、彼女をそういう見えない檻に閉じ込めるこの部屋の黄色い壁紙は、彼女にとって耐え難いのだ。今までにも同じように女性たちを閉じ込めてきたこの部屋で、壁紙に吸い込まれていってしまった女性たちの影が、彼女の目には見えるから。
この夫の行為には、現代になって名前がついた。「ガスライティング」という名前である。
相手の見ている確かな事実を否定し、自分に都合のいいように答えを誘導したり、騙したりする。その繰り返しで相手自身に自分の認識や認知能力を疑わせて、精神的に圧力をかける。「ガスライティング」とは、そういう「心理的虐待」を指す言葉だ。
主人公は、本当は病んでいない。ただ、外に出たいだけだ。だが夫は外に出たがる彼女に対し、「そんなことを言うのは君が“病んで”いるからだ」というポーズをとる。外に出たがるなんておかしい。君は外に出たがっている。つまり君はおかしい。夫は直接的な暴力などは振るわない。ただ夫は彼女の言葉を聞かない。自分の望んだ言葉以外何ひとつ受け入れない。おかしいのは私なのだ、と彼女は錯覚していく。夫はやさしい。やさしいはずだ。私を愛している。愛しているはずだ。夫はまったくその通りだと答える。君を傷つけるわけがないと。しかし、それはウソだ。
夫は、家の中で既にあなたは満ち足りているはずだ、という態度をとる。自分はせっせと家事をしろなどと言わないし、眠りたいなら眠っていていいと言う。休めるだけ休んで、何も考えなくていいと言う。“考えるのは私が代わりにやるのだから”と。この夫にとって、妻は人形と同じである。彼女がおとなしく従順でいることの対価に、生活を保護して“やっている”。
だから夫は、彼女が“文章を書く”なんて耐えられない。彼女がノートを隠しているのはそのせいだ。夫にとって、“賢い”妻は耐えられない。“自立する”妻は耐えられない。そんな女は“病んでいる”。
“病んだ”彼女は黄色い壁紙のその奥に、染み込んだ女性たちの苦悶の声を聞き姿を見る。それは果たして狂気なのか、真実なのか。
非常に怖い終わり方だった。これこそ、“ホラー”だ。
2026/08/02読了
淑やかな悪夢
シンシア・アスキス 他
倉阪鬼一郎/南條竹則/西崎憲 編訳
創元推理文庫畳む
1800年代後半から1900年代前半にかけて活躍した英米女流作家のホラー小説アンソロジーということで、読むぞ〜と思いながら2年くらい積んでいた。最近はここ2年くらいで積んだ本の積み解消に向けて取り組んでおります。
収録作はどれも面白かったが、特に気に入ったのは『黄色い壁紙』(シャーロット・パーキンズ・ギルマン)の物語。訳者である西崎憲氏の解説にある通りフェミニズム批評的な観点から見ても重要な作品で、“霊的現象が引き起こす摩訶不思議な恐怖体験”を思わせる書き出しから、実は…と物語の真相が詳らかになるにつれ、この恐怖に共感出来ない“女性”は、確かにシャーロットが生きた時代には居なかっただろうと思わされた。
この物語に描きこまれた怖さというのは、霊的なもの、あるいは超自然的なものに対する恐怖ではなく、我々はこの主人公の苦悩を少しも「過去」に出来ていないという意味での恐怖だ。おそらくこの作品が発表された当時においても主人公は私たち女性の「隣人」のように、どこかには必ず居たであろう人物だったはずで、主人公の苦しみはそんな私たち「隣人」の苦しみだったはず。そしてこの「隣人」は、現代においてもまだ隣人のままだ。『黄色い壁紙』は「あの頃の話」ではなく、現代においてなお“ありふれた”恐怖である。自由を求めて発言したことを、神経症だとかヒステリーだとか言われてきた女たち。壁紙に閉じ込められてきた女たち。
主人公は精神的に落ち込んでおり、その療養のためとある家にしばらくの間夫とともに身を置くことになった。彼女は自分の現在の状況や症状などを実はノートに書き付けているのだが(これがそのまま小説の内容となっている)、夫は彼女がそんなことをしていると知ると機嫌を損ねるので、彼女は机の引き出しにこっそりノートを忍ばせて夫から隠れて日記をつけている。
夫いわく、彼女の病は働きすぎによるものだ。彼女には“何も考えない”時間が必要だと言う。君は色々考えてしまうからダメなのだ。とにかく、何もせずゆっくりしていたらいい。君は無駄なことを考えず、やらず、とにかく体と頭を休めることだけ考えていたらいいのだ。さらに夫は言う。私は君をとても愛している。とても心配している。君のためならなんでもしよう。
主人公は越してきた家を観察する。夫婦が寝室にしているのはかつて子供部屋として使用されていた部屋だが、主人公はどうもこの部屋の“黄色い壁紙”が不快で仕方がない。模様が常に蠢いて、気持ちが悪く、どこまで目で追っても果てがない。この部屋にいるだけで、かえって具合がどんどん悪くなりそうな感じである。
彼女の精神が錯乱しているからそう見えるのか?それとも、本当に壁紙が蠢いているのか?
主人公は不快感を夫に訴えるが、夫の答えはいつも決まっている。とにかく休め。考えるな。私はあなたを愛している。心配している。おお、私のかわいい人よ。しかし主人公は、やはりこの部屋の壁紙が不愉快でたまらない。壁紙がまるで自分を煽っているようにも感じられる。それに、家の中から外をみると、人影のようなものが這っているのを見かけたりする。正体の分からないモヤ。彼女は毎日の不安とどうしようもなさをノートにひたすら書きつける……
物語の主人公は「妻」だ。夫がいて、この夫は優しい。彼女を愛していて、彼女の療養のために色々と手を尽くしている。しかし彼女の病状は一向に快復せず、むしろどんどん悪化しているように見える。夫の献身のことを、妻も分かっている。だがどうしようもない。その罪悪感で、どんどん妻である彼女は追い詰められていく。そんな妻に夫は言う。「考えないで、何もやらないで、ただゆっくりしていればいい」。妻である主人公は、夫の言葉に従順だ。だが、それにしてもこの部屋の黄色い壁紙には耐えられない。
物語の主人公は「女性」だ。ひとりの自立した、自分の考えや生活に対して理想を持つ、ひとりの「女性」。外に出て働いたり、自分のためあらゆることを自分で“考え”、“行動する”、そういう女性だ。一見すると優しい態度、優しい言葉で夫に尽くされているように見えても、彼女は、実際にはただ支配されている。生活の実権を握られ、自分の意思表示をすべて「考えすぎ」だと言われる。ただふつうに、ひとりの人間として、自分の行動を自分自身で選択しようとすれば、それを「心気症」だとか「神経症」だとか言われる。心配のしすぎだと。だから、彼女をそういう見えない檻に閉じ込めるこの部屋の黄色い壁紙は、彼女にとって耐え難いのだ。今までにも同じように女性たちを閉じ込めてきたこの部屋で、壁紙に吸い込まれていってしまった女性たちの影が、彼女の目には見えるから。
この夫の行為には、現代になって名前がついた。「ガスライティング」という名前である。
相手の見ている確かな事実を否定し、自分に都合のいいように答えを誘導したり、騙したりする。その繰り返しで相手自身に自分の認識や認知能力を疑わせて、精神的に圧力をかける。「ガスライティング」とは、そういう「心理的虐待」を指す言葉だ。
主人公は、本当は病んでいない。ただ、外に出たいだけだ。だが夫は外に出たがる彼女に対し、「そんなことを言うのは君が“病んで”いるからだ」というポーズをとる。外に出たがるなんておかしい。君は外に出たがっている。つまり君はおかしい。夫は直接的な暴力などは振るわない。ただ夫は彼女の言葉を聞かない。自分の望んだ言葉以外何ひとつ受け入れない。おかしいのは私なのだ、と彼女は錯覚していく。夫はやさしい。やさしいはずだ。私を愛している。愛しているはずだ。夫はまったくその通りだと答える。君を傷つけるわけがないと。しかし、それはウソだ。
夫は、家の中で既にあなたは満ち足りているはずだ、という態度をとる。自分はせっせと家事をしろなどと言わないし、眠りたいなら眠っていていいと言う。休めるだけ休んで、何も考えなくていいと言う。“考えるのは私が代わりにやるのだから”と。この夫にとって、妻は人形と同じである。彼女がおとなしく従順でいることの対価に、生活を保護して“やっている”。
だから夫は、彼女が“文章を書く”なんて耐えられない。彼女がノートを隠しているのはそのせいだ。夫にとって、“賢い”妻は耐えられない。“自立する”妻は耐えられない。そんな女は“病んでいる”。
“病んだ”彼女は黄色い壁紙のその奥に、染み込んだ女性たちの苦悶の声を聞き姿を見る。それは果たして狂気なのか、真実なのか。
非常に怖い終わり方だった。これこそ、“ホラー”だ。
2026/08/02読了
淑やかな悪夢
シンシア・アスキス 他
倉阪鬼一郎/南條竹則/西崎憲 編訳
創元推理文庫畳む
CATEGORY:小説感想
2026年7月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
ジェラルド・カーシュ『壜の中の手記』読了。※ネタバレを含みます。
先日購入した『灰の王』(S・A・コスビー)と共に新刊コーナーにあったのでなんとなく購入してみたもので、ジェラルド・カーシュという作家の名前は初めて聞いた。
スゴい。全部面白い。全編藤子・F・不二雄先生の絵柄で脳内再生される。読んでもらったら言っている意味が分かると思う。この本の内容が、そのまま藤子・F・不二雄先生の『異色短編集』に収録されていても違和感がない。
短編集なので読みやすく、寝る前のちょっとした読書にもちょうど良かった。また、SFや怪奇小説の入口としても非常に取っ掛りやすい感じる。とはいえ、ジェラルド・カーシュは1930年頃から50年頃にかけて最も精力的に活動した作家ということで、彼が文筆家を志し、小説家として生きていた当時の時代背景を考えると致し方ないにしても、中身に差別的かつかなりの偏見に基づいた人物や文化に対する認識、やや公平さに欠けた表現がしばしば出てくるので(特に人種に関しては)、やはりいくらかは大人向けかも知れない。巻末にジェラルド・カーシュの生い立ちから作家になるまでの生活など、短い伝記的なまとめがあり、読んでみると従軍記者として活動していた時期もあったようだ。本人はどうも体格に恵まれた人物だったようで、かつてはレスラーをやったこともあるらしい。(戦歴はあまりパッとしない)色々と、作家の口からあまり聞かないような経歴を持っている。
取っ付きやすく、テンポも良い。読みやすい。こんなに面白いのに一体今までどこに?と思って調べたら、2002年と2003年に晶文社から『壜の中の手記』『廃墟の歌声』の2冊が発刊、2006年と2008年には『壜の中の手記』『犯罪王カームジン あるいは世界一の大ぼら吹き』が今度は角川から発行されてそれきりだったことを知る。創元推理文庫から9月には『廃墟の歌声』も発売を予定されているようなので楽しみ。
収録されている話はどれも面白く甲乙つけがたいが、表題の作品以外では『ねじくれた骨』『ブライトンの怪物』『死こそわが同志』がお気に入りだ。
『死こそわが同志』は、あるセールスマンがひとつの屈折した感情、言ってしまえば個人的な怨嗟を晴らすために戦争兵器を売りさばく「武器商人」から「戦争屋」となり、老年となってなお儲けに儲けるが最期は…という話なのだが、読みながら様々なことが私の脳裏に過ぎった。時に空想は現実に先立つ。おそろしく残酷で、おそろしく生々しい男の歪んだ挫折の物語だった。
表題にもなっている『壜の中の手記』は、実在した作家、アンブローズ・ビアス失踪事件に着想を得ており、彼の失踪の真相を語るというていで物語が進む。途中からなんとなく“オチ”が読めてきて意外性はさほどないのだが、屋敷の装飾や使用人たちがまとう雰囲気、屋敷の主人の物腰などにものすごく“色気”があるように感じて脳内再生が楽しい。しかしこの手の話のオチが中盤で大体分かってしまうのは、『注文の多い料理店』の影響するところが大きいよなぁ。
「もてなされていると思ったら、それは実は自分を〇〇するための罠だった」というタイプの物語は、古今東西どの国どの歴史上にも類似するものがあるのだが(それこそヘンゼルとグレーテルなども)、被害者が男性だと結構もてなし期間が長いという特徴があるような気がする。あと基本的に食べ物でもてなされる。女性が被害者だとわりと早い段階で殺人鬼からのネタばらしがあって、挙句別の部屋で積み重なった死体目撃したり、主人公が実際の殺害現場を見てしまったりと、スリラーみたいな趣が出てくる。もてなしも、金銀財宝を与えるというものが多い。(青ひげ、盗賊の花嫁、フィッチャーの鳥等…)機転を利かせて困難を回避し、ラストはハッピーエンドというのは概ねほとんどの物語に共通しているが。ちなみに『壜の中の~』の主人公アンブローズ・ビアスはというと、美味い肉美味い酒に加えてビスケ(HUNTER×HUNTER)のマッサージばりの絶頂マッサージで最強になっている。
『注文の多い料理店』は、もともと猟師で動物を狩る側だった主人公たちが「料理店」では逆に狩られる側になるという立場逆転が皮肉効いてて面白いんだけど、『壜の中の手記』にはそうしたアイロニカルな含みや展開などはなく、物語の主人公であるアンブローズ・ビアスが、その観察眼と知性をもって事態を察し忍び寄る危険を回避しようと孤立無援の中戦う感じ(しかし欲望には揺れる)が怪奇小説的な趣たっぷりに描かれていて面白かった。このアンブローズ・ビアスを誘導するとある動物の存在も、よくよく考えると本当に恐ろしくて好きだ。
2026/07/27読了
壜の中の手記
ジェラルド・カーシュ著 西崎憲 他訳
創元推理文庫畳む
先日購入した『灰の王』(S・A・コスビー)と共に新刊コーナーにあったのでなんとなく購入してみたもので、ジェラルド・カーシュという作家の名前は初めて聞いた。
スゴい。全部面白い。全編藤子・F・不二雄先生の絵柄で脳内再生される。読んでもらったら言っている意味が分かると思う。この本の内容が、そのまま藤子・F・不二雄先生の『異色短編集』に収録されていても違和感がない。
短編集なので読みやすく、寝る前のちょっとした読書にもちょうど良かった。また、SFや怪奇小説の入口としても非常に取っ掛りやすい感じる。とはいえ、ジェラルド・カーシュは1930年頃から50年頃にかけて最も精力的に活動した作家ということで、彼が文筆家を志し、小説家として生きていた当時の時代背景を考えると致し方ないにしても、中身に差別的かつかなりの偏見に基づいた人物や文化に対する認識、やや公平さに欠けた表現がしばしば出てくるので(特に人種に関しては)、やはりいくらかは大人向けかも知れない。巻末にジェラルド・カーシュの生い立ちから作家になるまでの生活など、短い伝記的なまとめがあり、読んでみると従軍記者として活動していた時期もあったようだ。本人はどうも体格に恵まれた人物だったようで、かつてはレスラーをやったこともあるらしい。(戦歴はあまりパッとしない)色々と、作家の口からあまり聞かないような経歴を持っている。
取っ付きやすく、テンポも良い。読みやすい。こんなに面白いのに一体今までどこに?と思って調べたら、2002年と2003年に晶文社から『壜の中の手記』『廃墟の歌声』の2冊が発刊、2006年と2008年には『壜の中の手記』『犯罪王カームジン あるいは世界一の大ぼら吹き』が今度は角川から発行されてそれきりだったことを知る。創元推理文庫から9月には『廃墟の歌声』も発売を予定されているようなので楽しみ。
収録されている話はどれも面白く甲乙つけがたいが、表題の作品以外では『ねじくれた骨』『ブライトンの怪物』『死こそわが同志』がお気に入りだ。
『死こそわが同志』は、あるセールスマンがひとつの屈折した感情、言ってしまえば個人的な怨嗟を晴らすために戦争兵器を売りさばく「武器商人」から「戦争屋」となり、老年となってなお儲けに儲けるが最期は…という話なのだが、読みながら様々なことが私の脳裏に過ぎった。時に空想は現実に先立つ。おそろしく残酷で、おそろしく生々しい男の歪んだ挫折の物語だった。
表題にもなっている『壜の中の手記』は、実在した作家、アンブローズ・ビアス失踪事件に着想を得ており、彼の失踪の真相を語るというていで物語が進む。途中からなんとなく“オチ”が読めてきて意外性はさほどないのだが、屋敷の装飾や使用人たちがまとう雰囲気、屋敷の主人の物腰などにものすごく“色気”があるように感じて脳内再生が楽しい。しかしこの手の話のオチが中盤で大体分かってしまうのは、『注文の多い料理店』の影響するところが大きいよなぁ。
「もてなされていると思ったら、それは実は自分を〇〇するための罠だった」というタイプの物語は、古今東西どの国どの歴史上にも類似するものがあるのだが(それこそヘンゼルとグレーテルなども)、被害者が男性だと結構もてなし期間が長いという特徴があるような気がする。あと基本的に食べ物でもてなされる。女性が被害者だとわりと早い段階で殺人鬼からのネタばらしがあって、挙句別の部屋で積み重なった死体目撃したり、主人公が実際の殺害現場を見てしまったりと、スリラーみたいな趣が出てくる。もてなしも、金銀財宝を与えるというものが多い。(青ひげ、盗賊の花嫁、フィッチャーの鳥等…)機転を利かせて困難を回避し、ラストはハッピーエンドというのは概ねほとんどの物語に共通しているが。ちなみに『壜の中の~』の主人公アンブローズ・ビアスはというと、美味い肉美味い酒に加えてビスケ(HUNTER×HUNTER)のマッサージばりの絶頂マッサージで最強になっている。
『注文の多い料理店』は、もともと猟師で動物を狩る側だった主人公たちが「料理店」では逆に狩られる側になるという立場逆転が皮肉効いてて面白いんだけど、『壜の中の手記』にはそうしたアイロニカルな含みや展開などはなく、物語の主人公であるアンブローズ・ビアスが、その観察眼と知性をもって事態を察し忍び寄る危険を回避しようと孤立無援の中戦う感じ(しかし欲望には揺れる)が怪奇小説的な趣たっぷりに描かれていて面白かった。このアンブローズ・ビアスを誘導するとある動物の存在も、よくよく考えると本当に恐ろしくて好きだ。
2026/07/27読了
壜の中の手記
ジェラルド・カーシュ著 西崎憲 他訳
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CATEGORY:小説感想
◎1日目
一昨年京都の推し旅は架緒先生が案内を買って出てくださった。土地勘のある方に案内して頂いたお陰で、一日で本当にスムーズに現地を巡ることが出来た。ひとりだったら、訪問を諦めた場所もあったと思う。タクシーにスマホを置き去りにするなど随所でご迷惑をおかけすることもあって申し訳なかったが、先生たちと巡った京都は間違いなく私の走馬灯の一部になっている。鴨川で聞いた「言わないだろ…恵はそんなこと…」という解像度バカ低呪術廻戦も含めて、本当に本当に楽しい一日だった。
今回の名古屋旅も、近隣在住の先生たちにお付き合い頂いたお陰で、とてもスムーズに各所を巡ることが出来た。今回はしっかり泊まりがけで名古屋に訪問した。東京から1時間半、どうしても日帰りか中継地点としての利用が多くなる名古屋。旅行目的で名古屋に行くのは初めてだったので、きっかけをくれてありがとう推し旅というところ。私はどうしても喫茶店でモーニングが食べたかったので、待ち合わせは昼からだったが朝っぱらから名古屋に居た。
ひとつ大きな懸念材料だったのは、推し旅のページで私のスマホのGPSが感知されなかったこと。新幹線に乗っても現在位置を把握してくれず、結局音声が聞けなかった。オーマイ‼️(※やさしさパークタウン)で、案の定名古屋駅についてもGPSが無反応。旅の洗礼早すぎんだろ!と思ったが、当日はうに先生が各所の音声を聞かせてくれて神だった。本当にありがとうございました。(※なお、GPSが正しく反応していないことを説明し、新幹線の乗車証明を持参すれば、キディランドでの引き換えには問題ありませんでした。柔軟に対応してくださったキディランドの店員さんにも感謝)
初日はおしそ先生と合流して、名古屋城方面から攻めた。写真や映像ではよく見る名古屋城。「名古屋城は近代城だから、あんまり面白くないよ」などと聞かされたことがあり、そういうもんかと思っていたがそんなのまったくの大間違い。戦火による消失から再建築に至るまでの道のり、城を再建した職人たちの技巧、併設された資料館に見た石壁へのアツい想い、織田信長や加藤清正、前田慶次に扮した演者さんが、お客さんとトークを楽しんだり写真を撮ってくれるというエンタメ要素(なんとその日見た演者さんは、カツラではなく地毛であの髪型を再現していてスゴかった)、クソデカ鯱、景気が良すぎる金ピカ本丸御殿、とにかく見所はたくさんある。
ただ、本丸御殿の中には冷房がないため(送風機はあった)、とにかく激烈に暑い。建物内ではあるので直射日光に晒されるわけではないが、本当にずっとかなり暑い。外から差し込む白いほどの光で本丸も輝きを増していた。
音声ガイドもあり、手持ちのイヤホンがあれば無料でガイドを聞くことが出来る。案内人は春風亭昇太さんと徳川家康扮する人だった。徳川家康扮する人ってなんだ。
ひとつひとつの説明が丁寧で、暑ささえなければもっとじっくり観察しながら楽しみたかったところなのだが、何しろ人間を茹でダコにして殺したがっているとしか思えない暑さの中だったので、途中からは体力ゲージがぐっと減ったような感じで、集中力を欠いた箇所もある。涼しくなった頃に絶対リベンジしたい。
入ってすぐの大廊下が早速すごかった。一枚板で幅が6メートルあり、かつ最高の材質のものを使っていたそうだ。昔はここを大名たちがまず闊歩していたわけで、庶民にはまるで縁のない廊下だったはず。現代ではなんの位も地位もない私でもこの大廊下を歩けるのだから、本当に良い時代になった。徳川さん𝑇ℎ𝑎𝑛𝑘 𝑦𝑜𝑢燦々降り注ぐ太陽の舞。
大廊下を行くと「玄関一之間」がある。玄関というふうに名前はついているが、休憩所みたいなニュアンスで使用されていた場所らしい。襖の竹林屏風図(トラとかヒョウが描かれているヤツ)は狩野派の絵師たち(徳川幕府のお抱え絵師)が描いたもので、本丸御殿のものは復元模写なのだが、資料から精密に模写する技能って本当にすごいなと感動する。
本丸の屏風には、トラとヒョウが描かれていることが多かった。トラは東洋の絵や物語にも数多くそのモチーフが存在し、東アジアを代表する猛獣のイメージがあるのだが、ヒョウは一体なんだろう?と思ったら、当時はトラとヒョウが混同されていて、模様の違いは雌雄の差というふうに考えられていたようだ。
天井にも「格」があって、玄関の天井より表書院の天井の方が格の高い造りになっているという説明が面白かった。確かに、奥に進めば進むほど天井がどんどん豪華になっていく。特に、「鷺之廊下」から先は別世界の如くに絢爛なのだが、鷺之廊下の先、「上洛殿」は徳川家康の死後に増築された箇所で、徳川家光が名古屋城に滞在するための宿泊施設なのだそうだ。まあとにかくすべてが豪華金ピカ。英雄王もこれにはニッコリ間違いなし。本丸御殿に入る前、併設されていた資料館に入って現存する天井の一部を先に見ていたのだが、かつてはアレがコレだったのか!と思ったら感動も一入だった。
この「鷺之廊下」より手前は桃山文化を継承する建物で、金ピカ屏風や障壁画などはそれを代表する文化なのだそう。そして鷺之廊下より先にある「上洛殿」は、寛永文化という江戸の初めに発生した文化芸術を体現した内装となっていて、色使いも桃山文化時代の「金」を中心とした色彩から青や赤や黒などより濃く際立つ色彩へと変化し、日本や中国の古典を立体的な装飾として施すなど、教養重視のおもむきも随所に見られる。説明をしてくれた春風亭昇太さんと家康公(というていの方)、ほんまにありがとう。
襖や欄間の装飾には様々な動物たちが描かれたり彫られたりしていたが、トラやジャコウネコやサンジャク(鳥)は当時の日本には存在していなかった動物で、でもそれらすべて、なんらかの福をもたらすありがたい生き物と考えられていたらしい。昔からパンダ好きな国民性なんだなと思う。
この音声ガイドのすごく良いなと思ったところは、ガイドが文字起こしされていて文章でも読めるというところ。
名古屋城本丸御殿は、本当に歩く美術館みたいな感じだった。当時の人たちもここが完成した時には、「新築の匂いする(笑)」「飾りでか(笑)」「ここに刀飾ろうぜ(笑)」とか言って喜びまくっていたと思う。しらんけど
本来の名古屋城は戦火によって天守閣も本丸も焼失した。失われた数百年の歴史の上に、もう一度かつての姿を留めおこうと再建されたのが名古屋城である。明治に入り、城は陸軍所轄の軍事施設となり、「名古屋城」とすら呼ばれなくなった。城を残存させるための運動があり、姫路城とともに保存を決定されるも、濃尾地震が発生、城の一部が損壊し、本丸多聞櫓などは撤去を余儀なくされた…という、名古屋城が辿ってきた大凡の歴史は、名古屋城の公式サイトにその詳細が書かれているのだが、泰平の世を築いた徳川の命によって建城され、諍いだけではない江戸の平和をも見つめたであろう名古屋城が、明治に入った途端まさに戦争当事者による統治の現場になってしまうというのは本当に皮肉な話だと思った。
第二次世界大戦の戦争末期には、軍需産業の主要地点であったことからここ名古屋の地には大量の焼夷弾が降り注いだ。戦争によって姿形が奪われる前、城にまつわる様々な資料が残されていて本当によかったと思う。ここまで精密に城全体の再現が可能なほど大量の資料が残され、当時の城の内装(現物)の一部も疎開していたという話からは、いずれここも戦火に巻き込まれ、そうなれば城も無事では済まないだろうという当時の人々の危機感も伝わってくる。
過去数百年、数千年の時を超えて現代に残存するものを鑑賞することと、現代の地点から向こう数百年、数千年の未来に向けて残っていくであろうものを鑑賞することは、何かを観察したり考察したりする時に、まったく同じ志向性を持つわけではないと思う。再建された城は向こう数百年に向けて歴史を語り続けるもので、未来の地点から考えたら、今まさにこの美しさの本丸内部の様子を観察出来るというのは、非常に貴重な機会だと言える。未来人の気持ちになって城を見たら、それはなんと素晴らしい体験だろう。
というわけで、名古屋城は最高に楽しいお城だった。また行きたい。次回は武将グリーディングにも参加したい。
名古屋城を見終えて金シャチ横丁に行く頃には体が内側から燃えるように熱く、あらかたの体力を失っているまであった。日焼け止めを塗ってはいたが、本当に効果あるかな?というくらい陽射しが痛くて太陽から明らかな殺意感じた。
かなり余談なんだけど、当日の暑さの予報を見て初日はサンダルを履いていった。が!サンダルはもうあの暑さでは本当にオススメしない。絶対にやめたほうがいい。なぜならアスファルトの照り返しが足をめちゃくちゃ焼くからである‼️(日焼けするという意味ではなく文字通りの意味)足の暑さは、地味だが確実に人の体力を奪う。もちろん日焼け止めは塗っていったがそれでもうっすら日焼けしている。あの照り返しの中をサンダルで歩くのなら、より強力なSPF50が求められる。余談おわり。
悠仁のパネルが立っているところでコラボアイスを買い、日陰で食べたらなんと元気が出た。アイスは4種類ともめちゃくちゃ美味しかった。おしそ先生が「内側から体が冷えるって大事だなぁ」と言っていたが本当にその通りである。アイスを食べたら体感温度がリアルに下がった。
悠仁のパネルはなぜか乳首の位置に指でド突かれたっぽい凹みがあり、とんでもない狂いキモの乳首変態がかつてそこに立っていたことを匂わせていた。今更狂いキモの乳首変態に言っても遅いと思うけど、パネルの乳首をド突いて凹みを作るような迷惑行為は絶対にやめて頂きたい。パネルには発情しないように。
ちょっと遅めのお昼を食べて、名古屋城から灼熱の名城公園に移動。ゴーヤ先生と合流する。
名城公園は灼熱すぎて、ボイスを聴いて即撤退した。なぜなら、あそこにあれ以上立っていたら死ぬからである。
ちなみにボイスはかなりよかった。これは本当に妄言なのだが明らかに恵はすべてのセリフを悠仁に語りかけていた。恵はこういう遠回しな言い方じゃないとデートに誘えない男だからだ。常に悠仁からの「じゃあ、一緒に行く?」とか、「え、いいじゃん行こうよ」とか、「伏黒とだったら行っても楽しそう!」とかいう言葉を待ってしまうのが伏黒恵という男だからだ。自分から「デートするぞ」とはなかなか言えないのだ。そんなの恥ずかしいからだ。あと断られた時のことを考えると気まずいからだ。だから「ここにはこういうアレソレがあって、こういう歴史があって、憩いの場もあって、買い物にも困らなくて、楽しいらしい」みたいな話をチラチラして悠仁の気を引くのだ。泣けてきた。
時々「お前一体誰なんだよ…」という語彙がチラチラ覗くが、京都の恵のIQなさに比べると明らかに飛躍的に恵の知能指数が向上している。恵が賢くなっている‼️
ミライタワーに移動し、折角なので展望台に登る。日本に現存し、かつ稼働する唯一の手動式エレベーター。すごい。私は高いところが好きなので、高所には積極的に登りたい。
恋人たちの聖地としても有名らしく、スカイバルコニーにあがると恋人たちキーホルダーみたいなものがたくさん飾られている。今日一緒に来ている人の中で唯一の恋人同士は「ちみめゆ」しか居なかったため、「恋人の聖地」と書かれたオブジェの前でとりあえずキッスだけさせておいた。タワー内にはホテルもあり、結婚式も挙げられるとのこと。ちみめゆのヤル気がにわかに上昇するのを感じ取る。
オアシス21は大きめの商業施設というかんじだった。ここで明日原先生とも合流。オアシス21は今まで立ち寄ってきた場所の中で最も人が多い。というか、名古屋城からミライタワーまで、祝日感がまるでない人出すぎた。暑すぎたせいだと思う。直腸の温度は平均して37度だというから、37度の空間を歩くということはケツ中を歩いているのと同じ。暑さのせいで人そのものがンコになる。ハ⁉️⁉️⁉️⁉️
全然呪術旅と関係ないのだが、どんぐり共和国(ジブリのグッズがめちゃあるところ)を見つけたので入った。それぞれに好きなジブリ作品があり、思い入れポイントの話などをして楽しかった。最近魔女宅観て感銘を受けたばかりなので、8月の3週連続ジブリが今から楽しみです。
名駅に戻って夕飯。ここす先生とも合流。たくさんお話した中で特に記憶に残っているのは、ここす先生がケツバトラー愛好者だったということ。うれしくて、握手をしてしまいました。おしりに支配された人生。
行きがけに名駅周辺のお店を探していて、なんとなく目処をつけておいたお店に入ったがなかなか良いお店だった。帰りに「ご縁がありますように」の五円玉を頂き、そんな対応は初めてのことだったので、名古屋にはこういうのもあるんだ…と思った。(こちらの五円玉は、翌日の上野天満宮でお賽銭に使いました)
さて余談だが(余談が多い)、朝早くに名古屋駅についてモーニングを食べたあと、名古屋駅周辺を散歩することにした。とはいえ外を歩き回るのでは暑いので、なるべくは建物の中に入っていたい。それでふと、そういえば名古屋に来て金時計前で集合し、そのままタワー内に行くことはあっても高島屋に入ったことはなかったと思い、中に入ってみることにした。そこで私は感動した。高島屋が、上から下までしっかり「デパート」をやっているということに。
ここ最近はデパートというものに、あまり明るい話題を聞かない。私の地元のデパートも潰れて、よくあるファミリー向けの商業施設がその外観だけを引き継いだ。
近年デパート業はどこも経営が厳しいと聞く。ハイブランドのお店を展開する一方、若者向けの雑貨店やキャラクター系のコラボイベントなどを開催して顧客の間口を広げようとする動きが活発で、デパートというより「ハイブランドも入ってはいる」みたいな感じの施設になりつつある。渋谷の西武もコスメ売り場は盛況に見えても階を上がれば上がるほど人が閑散とする。閑散というレベルじゃない時もある。というか、あった。西武渋谷も閉店が決まっている。西武はデパートで生き残ることをどうも諦めたらしい。西武池袋も、自身の保有先であったセブン&アイHDに売られ、売られた先の海外ファンドが再開発をヨドバシHDに一任したことで、あの西武池袋がヨドバシカメラになってしまった。それで早速現場ではンコ漏らされてるんだから、ついたミソがデカすぎるってレベルじゃない。
そこそこの価格帯のお店が売り場を占めつつ、他方で若者でも買い物がしやすい店舗もラインナップされている都市型の商業施設はそのまま都市型商業施設と呼ぶべきもので、「デパート」とはまたおもむきが異なる。だから、例えばヒカリエや東急プラザといった施設はデパートとはまったく性質の違うものだと思っている。
で、名古屋の高島屋はどうだったかというと、私が小さい頃にめっちゃ憧れたデパートそのものだった。どの階を見ても、「気軽に手は出せない」という空気感がある。コリだよコリィ!と手を叩いて喜びたい気持ちとこんな格好で訪れてしまいすみませんという気持ち。当たり前に何も買えないが、こういうところで買うからこそ意味がある、こういうところで買いたい!と思わされるブランドの求心力が最大限に発揮されている。
翌日ふとその話を明日原先生とここす先生にしたところ、この高島屋の景気は悪くないらしい。ということは、まだ名古屋にはデパートで買い物をする人が居るということだ。デパートでものを買うという文化が、この都市の中心地には残っているということだ。それはなんていうか、すごく誇っていいことのような気がする。だからこそ、今更ながら名鉄百貨店の閉店は本当に強く惜しまれる。駅前の大規模再開発は、その土地がもつアドバンテージを十分に活かしたものにするべきだ。私は正直、都市型商業施設の未来はあまり明るくないと思っている。
名古屋城の近くには名古屋市役所があり、この市役所の外観があまりにも城すぎて、「この形の市役所は名古屋でないと無理ですよ、名古屋すぎますよ」とおしそ先生にも話した。街中に突然現れるオブジェ、奇抜な形のビル、どこを歩いていても「名古屋人」という精神性そのもののような何かと出会う。歩道の緑は東京よりもはるかに多く、市バスが多く走り、東山線の女性専用車両はなんと終日、店員さんの対応はどこも素晴らしく、旅行者として訪れる名古屋はなんて楽しいところだろう。
私は一日で名古屋が相当好きになった。私はこの金ピカ文化がかなり好きだ。住みたいまである。しかし道ゆく名古屋男性がコピペでもしたんかというくらい同じ格好をしていて全員が本当に同じ空気感をまとっていて怖すぎるという点がすべての名古屋の良さを相殺しかねないレベルだったので、移住はよくよく考えたい。名古屋は宇宙すぎる。素晴らしいものと恐ろしいものが渾然一体すぎるから。
とにかく、1日目の名古屋旅は本当に本当にめちゃくちゃ楽しかったです。一日お付き合いくださったうに先生とおしそ先生、そして合流してくれたゴーヤ先生、明日原先生、ここす先生、本当にありがとうございました‼️(翌日もうに先生と明日原先生とここす先生とは行動を共にしたのですが)
◎2日目
名古屋に行くぞ!と明日原先生に伝えたら、お手頃な価格帯のホテルを紹介してくれた。名駅からは少し離れるが決してアクセスの悪い場所ではなく、ホテルからほど近い場所で(本当にほど近い場所だった!)モーニングも提供が出来ると。更に先生は、推し旅地図まで作ってくれた。地図には、名駅から出発して各地を回るのに、駅でいうとどこが最寄りでそれが名駅からどの程度離れた場所にあるだとか、この辺は大体一気に周ることが出来るとか、そういうことが書き込んであった。
地下鉄の一日乗車券の話や、晩御飯を食べるなら駅直結の場所からは離れたほうが混雑していないかも知れないという話、土地勘のある人からしか得られない情報をたくさんくれた。
ご紹介頂いたホテルに宿泊を決めた。ホテルの方は、アットホームで本当に親切だった。明日原先生とモーニングを食べる約束をした。自分はわりと長くオタクをやっているほうだと思うし、ここ3年くらいは特に泊まりがけで遊びに出かけることも多かったが、先生たちとモーニングを食べるのは今回が初めてのことだった。一緒に朝食を食べるって嬉しい。
明日原先生が手配をしてくれて、本当にすごくすごく美味しいモーニングセットを提供して頂いた。美味しすぎて元気モリモリになるトーストだった。コーヒーも美味しかった。感謝しかありません。この場を借りて改めてお礼を申し上げたいです。本当にありがとうございました‼️
昼過ぎまでは一緒に行動出来るという話だったので、上野天満宮までは明日原先生ともご一緒した。いざ悟の親戚のもとへ…(悟の親戚のもとではない)
とてつもなく余談だが名古屋は関東とテレビの内容にあまり変わりがなかった。地方局の番組がないという意味ではなく、番組のテンションが同じという意味で、変わりがない。バラエティのテンポが同じというか、実際の制作会社の所在地はともかく出自が同じに感じに思える。
関西のホテルに泊まってテレビをつけると、「ああ、ここは関西なんだ!」と思う。バラエティが全部西のお笑い。吉本の天下国家ぶりが感じられる。個人的な感覚だと、関西のお笑いはロケと芸人による芸人トークが中心で、司会からゲストから全てが芸人さんだったとしてもそれのみで番組を成立させられるけど、関東のバラエティはゲームが主体ですぐ俳優やナゾの専門家と一緒にクイズやスポーツをやろうとする、みたいな…。あと関東のロケ番組はお笑いよりオシャレを優先しているので、麻布とか自由ヶ丘のオシャレ隠れ家カフェとかオシャレ牛一頭丸ごと買い焼肉屋を紹介して隠れ家要素をぶっ殺しまくっています。余談おわり。
名古屋の朝は自宅で迎える朝と同じだった。朝のニュースが同じだからだ。
そんな朝のニュースが、「余計な外出はするな」とかなりストレートに外出禁止令を発令していた。
埼玉もその日は熊谷で40度の予報だという。
週間予報は、東海地方が今週見舞われるでろう悪魔的な暑さを伝えている。名古屋・岐阜においては、7月中の40度は観測史上初らしい。なるほど命懸けの外出というわけだ。
命懸けで、オリたちは悟の親戚んちに(※親戚んちではない)行くんだ…!
前日に、上野天満宮まではバスでも行けるという話をここす先生から聞いており、調べたら駅から歩くよりかは近いということも分かった。帰りは最悪タクシーを拾って駅まで戻ろうという話をした。命は金で買う。
お昼くらいにここす先生とも合流し、名駅から市バスに乗る。バスの中で、なぜか私は池袋連続脱糞事件の話をしてしまう。私の精神年齢が低すぎるせいで、ンコの話ですぐ盛り上がってしまうんだ。
バスに乗って30分程度だったと思うが、上野天満宮最寄りに到着する。バスを降りた途端に降り注ぐ灼熱の太陽。頭上から差しているものはもうただの「光」などではなく「天罰」であり、夏とはもはやなんらかの贖罪のための季節であるということを、毛穴のひとつひとつを突き刺すようなこの暑さで理解する。
日傘を傾けてくださった先生たち、本当にありがとうございました。
この暑さだし平日だしで、人はまるきり居ない。苛烈なほどの太陽光が砂利に反射して目ん玉まで燃えるようだ。砂利の上に落ちる影が濃い。手水舎で手を冷やし、日陰で一旦涼をとる。昨日のうちに買っていたヒヤロンを握りつぶして首などに当てていたが、通常なら最低でも30分は冷たいヒヤロンが5分も経たないうちにただの水が入った邪魔袋に変化してしまった。泣くぞ。
夕飯を食べたところで帰りに頂いた五円玉を賽銭で投げ入れて参拝。
天満宮には「なで牛」という牛の像があり、頭を撫でると賢くなると言われているそうだ。バスの中で開口一番に池袋連続脱糞事件の話をしない程度には賢くしてもらおうと頭を撫でたら、太陽光を浴びまくった牛の体は猛烈に熱くなっており、触った人みな「ドゥワッ」というリアクションをしていた。しかしまあ、牛を焼くことの方が多い人生、たまには牛に焼かれることがあってもいいだろう。
待合室のような場所があり、そこへ入ると一気に体が生き返るほど涼しかった。昨日から、体力ゲージが減るたびに涼しい室内に入ってギリギリのHPを保ちながら移動するゲームをやっているみたいだ。
待合室には菅原道真公の像があった。凛々しいお顔立ちだった。
折角なので、おみくじを引いた。内容は吉。謙虚に生きようと思う。
売店には榎木淳弥と瀬戸麻沙美さんのサインが展示されていた。「撮影OK」とわざわざ札も立っていた。榎木淳弥の願いを見たら「みんなが領域展開出来るようになりますように」みたいなことが書いてあった。思考が羂索寄りすぎる。一方で瀬戸さんは「みんなの願いが叶いますように」みたいなことを書いている。優しい。瀬戸さんのほうが虎杖悠仁含有量が高い。
参拝を終えてデニーズで昼食をとった。ファミリー席みたいなところに座れて嬉しかった。マキバオーとケツバトラーの話をした。どうしてもンコとケツから離れられない。
明日原先生が色々調べてくれて、ファミレス正面のバスの時間がちょうどいいことが分かった。最後の最後まで本当にありがとう…。先生はこれからお仕事だから途中でバイバイだったが、最後は踊って見送ってくれた。私も次回先生とバイバイするときは「ば・く・れ・つ」と歌いながら踊ろうと思う。
うに先生とここす先生と栄に戻り、残されたスポットを回る。まずはフラリエに向かった。
フラリエは綺麗な庭園だった。レイヤーさんの撮影スポットとしても解放されているらしく、まどマギのレイヤーさんたちが撮影していた。洋風の庭園はどこも手入れが行き届いていてかわいかった。こんなとんでもない暑さでさえなければ散歩するのも楽しいだろうなと思った。次は涼しい頃にもう一度来たい。私は大量の人間より大量の草に囲まれている方が情緒の安定するタイプだ。それに、かわいいカフェもあった。次はあそこで茶をシバきたい。
屋外レストランでは名古屋のヤリラ、名古ラの集団がウェイしていた。
フラリエから歩いてキディランドに向かう。なぜか自分のスマホではGPSが探知されず(マップアプリなどでは問題なくGPSが反応するのに)、スタンプラリーがひとつも出来ないという悲しい事態が発生してしまったため特典が貰えるか不安だったのだが、GPSが反応しないことを説明して乗車券を見せたらお店の方がきちんと対応してくださり、キーホルダーをゲットすることが出来た。よかった。ありがとうございました。
最後はJRタワーで特大パネルを見てフィニッシュ。考えてみれば、呪術廻戦というジャンルともなかなか長い付き合いだなぁ…とひとりしんみり思ったが、うに先生やここす先生は私がハマるより前からずっと「めぐゆじ」なんだもんな…それって…それって…すごく…すごく………良いねッッッッッッ‼️まだまだめゆを好きでいててほしい。アニメでもいつかは本当の本当の最終回が来るけど…うちらはあの266に向かって、ひたすら祈りを捧げるだけ。信じるからなMAPPA。
帰りの新幹線の時間までカフェに入ってクソデカクリームソーダと格闘していた。金額的にも、もうワンサイズ小さい通常のクリームソーダを想像していたのに、デカイのが出てきてビビった。逆写真詐欺を久しぶりに味わった。美味しかったし体から熱が引いて体力も回復した。最後まで楽しいと美味しいがいっぱいだった。
通過地点として、または日帰り先としてなら何度も来た名古屋。初めて名古屋に来た時は名駅のトイレにトイレットペーパーがなく(※紙だけじゃなく、ホルダーごとない)おったまげた名古屋。河村市長が毀損したイメージは著しく、名古屋と聞くとどうしてもあの金メダル噛みつきジジイが頭を過ぎって今ひとつポジティブな印象がなかった。あそこは味噌と見栄の国。しかし、そんな印象だけで名古屋を捉えていたのはすべて過去の話だ。
それはもう、ものすごく楽しい2日間だった。推し旅を抜きにしても、単純に名古屋の街は歩きやすく、都心に緑が多く、建物は奇抜で、面白い。旅行先として、非常に優れた場所だった。
コンサートにしても展覧会にしても、「名古屋飛ばし」はわりと常態化しているというし、まわりの人に聞いてみても、名古屋に「旅行」しに行ったという人は少ない。メディアが語る名古屋のイメージは、味噌ときしめんとエビフライと中日ドラゴンズから特に変化も進歩もないし、行く前は、名古屋のことをこんなに好きになるとは微塵も思っていなかった。だが、とにかく、旅先の名古屋はいいところだった。推し旅、新しい発見の機会をくれてありがとう。
そういえば、名古屋城の展示の終わりには、募金箱の概念が覆るような募金箱が設置してあった。名古屋人の魂が、これをこうさせるのだと思った。街中にあるすべてが「名古屋」だった名古屋。また旅行に行きたい。
そして何よりこの2日間でたっぷり遊んでくださっためゆんちゅたち、本当に本当にありがとうございました!
現地の人達のアドバイスや協力のお陰で、すごく快適で楽しい旅を楽しめました。一緒に遊んでくれたことに感謝。持つべきものは友。埼玉に旅行しに来ることがあればすべて私にお任せ下さい。畳む
一昨年京都の推し旅は架緒先生が案内を買って出てくださった。土地勘のある方に案内して頂いたお陰で、一日で本当にスムーズに現地を巡ることが出来た。ひとりだったら、訪問を諦めた場所もあったと思う。タクシーにスマホを置き去りにするなど随所でご迷惑をおかけすることもあって申し訳なかったが、先生たちと巡った京都は間違いなく私の走馬灯の一部になっている。鴨川で聞いた「言わないだろ…恵はそんなこと…」という解像度バカ低呪術廻戦も含めて、本当に本当に楽しい一日だった。
今回の名古屋旅も、近隣在住の先生たちにお付き合い頂いたお陰で、とてもスムーズに各所を巡ることが出来た。今回はしっかり泊まりがけで名古屋に訪問した。東京から1時間半、どうしても日帰りか中継地点としての利用が多くなる名古屋。旅行目的で名古屋に行くのは初めてだったので、きっかけをくれてありがとう推し旅というところ。私はどうしても喫茶店でモーニングが食べたかったので、待ち合わせは昼からだったが朝っぱらから名古屋に居た。
ひとつ大きな懸念材料だったのは、推し旅のページで私のスマホのGPSが感知されなかったこと。新幹線に乗っても現在位置を把握してくれず、結局音声が聞けなかった。オーマイ‼️(※やさしさパークタウン)で、案の定名古屋駅についてもGPSが無反応。旅の洗礼早すぎんだろ!と思ったが、当日はうに先生が各所の音声を聞かせてくれて神だった。本当にありがとうございました。(※なお、GPSが正しく反応していないことを説明し、新幹線の乗車証明を持参すれば、キディランドでの引き換えには問題ありませんでした。柔軟に対応してくださったキディランドの店員さんにも感謝)
初日はおしそ先生と合流して、名古屋城方面から攻めた。写真や映像ではよく見る名古屋城。「名古屋城は近代城だから、あんまり面白くないよ」などと聞かされたことがあり、そういうもんかと思っていたがそんなのまったくの大間違い。戦火による消失から再建築に至るまでの道のり、城を再建した職人たちの技巧、併設された資料館に見た石壁へのアツい想い、織田信長や加藤清正、前田慶次に扮した演者さんが、お客さんとトークを楽しんだり写真を撮ってくれるというエンタメ要素(なんとその日見た演者さんは、カツラではなく地毛であの髪型を再現していてスゴかった)、クソデカ鯱、景気が良すぎる金ピカ本丸御殿、とにかく見所はたくさんある。
ただ、本丸御殿の中には冷房がないため(送風機はあった)、とにかく激烈に暑い。建物内ではあるので直射日光に晒されるわけではないが、本当にずっとかなり暑い。外から差し込む白いほどの光で本丸も輝きを増していた。
音声ガイドもあり、手持ちのイヤホンがあれば無料でガイドを聞くことが出来る。案内人は春風亭昇太さんと徳川家康扮する人だった。徳川家康扮する人ってなんだ。
ひとつひとつの説明が丁寧で、暑ささえなければもっとじっくり観察しながら楽しみたかったところなのだが、何しろ人間を茹でダコにして殺したがっているとしか思えない暑さの中だったので、途中からは体力ゲージがぐっと減ったような感じで、集中力を欠いた箇所もある。涼しくなった頃に絶対リベンジしたい。
入ってすぐの大廊下が早速すごかった。一枚板で幅が6メートルあり、かつ最高の材質のものを使っていたそうだ。昔はここを大名たちがまず闊歩していたわけで、庶民にはまるで縁のない廊下だったはず。現代ではなんの位も地位もない私でもこの大廊下を歩けるのだから、本当に良い時代になった。徳川さん𝑇ℎ𝑎𝑛𝑘 𝑦𝑜𝑢燦々降り注ぐ太陽の舞。
大廊下を行くと「玄関一之間」がある。玄関というふうに名前はついているが、休憩所みたいなニュアンスで使用されていた場所らしい。襖の竹林屏風図(トラとかヒョウが描かれているヤツ)は狩野派の絵師たち(徳川幕府のお抱え絵師)が描いたもので、本丸御殿のものは復元模写なのだが、資料から精密に模写する技能って本当にすごいなと感動する。
本丸の屏風には、トラとヒョウが描かれていることが多かった。トラは東洋の絵や物語にも数多くそのモチーフが存在し、東アジアを代表する猛獣のイメージがあるのだが、ヒョウは一体なんだろう?と思ったら、当時はトラとヒョウが混同されていて、模様の違いは雌雄の差というふうに考えられていたようだ。
天井にも「格」があって、玄関の天井より表書院の天井の方が格の高い造りになっているという説明が面白かった。確かに、奥に進めば進むほど天井がどんどん豪華になっていく。特に、「鷺之廊下」から先は別世界の如くに絢爛なのだが、鷺之廊下の先、「上洛殿」は徳川家康の死後に増築された箇所で、徳川家光が名古屋城に滞在するための宿泊施設なのだそうだ。まあとにかくすべてが豪華金ピカ。英雄王もこれにはニッコリ間違いなし。本丸御殿に入る前、併設されていた資料館に入って現存する天井の一部を先に見ていたのだが、かつてはアレがコレだったのか!と思ったら感動も一入だった。
この「鷺之廊下」より手前は桃山文化を継承する建物で、金ピカ屏風や障壁画などはそれを代表する文化なのだそう。そして鷺之廊下より先にある「上洛殿」は、寛永文化という江戸の初めに発生した文化芸術を体現した内装となっていて、色使いも桃山文化時代の「金」を中心とした色彩から青や赤や黒などより濃く際立つ色彩へと変化し、日本や中国の古典を立体的な装飾として施すなど、教養重視のおもむきも随所に見られる。説明をしてくれた春風亭昇太さんと家康公(というていの方)、ほんまにありがとう。
襖や欄間の装飾には様々な動物たちが描かれたり彫られたりしていたが、トラやジャコウネコやサンジャク(鳥)は当時の日本には存在していなかった動物で、でもそれらすべて、なんらかの福をもたらすありがたい生き物と考えられていたらしい。昔からパンダ好きな国民性なんだなと思う。
この音声ガイドのすごく良いなと思ったところは、ガイドが文字起こしされていて文章でも読めるというところ。
名古屋城本丸御殿は、本当に歩く美術館みたいな感じだった。当時の人たちもここが完成した時には、「新築の匂いする(笑)」「飾りでか(笑)」「ここに刀飾ろうぜ(笑)」とか言って喜びまくっていたと思う。しらんけど
本来の名古屋城は戦火によって天守閣も本丸も焼失した。失われた数百年の歴史の上に、もう一度かつての姿を留めおこうと再建されたのが名古屋城である。明治に入り、城は陸軍所轄の軍事施設となり、「名古屋城」とすら呼ばれなくなった。城を残存させるための運動があり、姫路城とともに保存を決定されるも、濃尾地震が発生、城の一部が損壊し、本丸多聞櫓などは撤去を余儀なくされた…という、名古屋城が辿ってきた大凡の歴史は、名古屋城の公式サイトにその詳細が書かれているのだが、泰平の世を築いた徳川の命によって建城され、諍いだけではない江戸の平和をも見つめたであろう名古屋城が、明治に入った途端まさに戦争当事者による統治の現場になってしまうというのは本当に皮肉な話だと思った。
第二次世界大戦の戦争末期には、軍需産業の主要地点であったことからここ名古屋の地には大量の焼夷弾が降り注いだ。戦争によって姿形が奪われる前、城にまつわる様々な資料が残されていて本当によかったと思う。ここまで精密に城全体の再現が可能なほど大量の資料が残され、当時の城の内装(現物)の一部も疎開していたという話からは、いずれここも戦火に巻き込まれ、そうなれば城も無事では済まないだろうという当時の人々の危機感も伝わってくる。
過去数百年、数千年の時を超えて現代に残存するものを鑑賞することと、現代の地点から向こう数百年、数千年の未来に向けて残っていくであろうものを鑑賞することは、何かを観察したり考察したりする時に、まったく同じ志向性を持つわけではないと思う。再建された城は向こう数百年に向けて歴史を語り続けるもので、未来の地点から考えたら、今まさにこの美しさの本丸内部の様子を観察出来るというのは、非常に貴重な機会だと言える。未来人の気持ちになって城を見たら、それはなんと素晴らしい体験だろう。
というわけで、名古屋城は最高に楽しいお城だった。また行きたい。次回は武将グリーディングにも参加したい。
名古屋城を見終えて金シャチ横丁に行く頃には体が内側から燃えるように熱く、あらかたの体力を失っているまであった。日焼け止めを塗ってはいたが、本当に効果あるかな?というくらい陽射しが痛くて太陽から明らかな殺意感じた。
かなり余談なんだけど、当日の暑さの予報を見て初日はサンダルを履いていった。が!サンダルはもうあの暑さでは本当にオススメしない。絶対にやめたほうがいい。なぜならアスファルトの照り返しが足をめちゃくちゃ焼くからである‼️(日焼けするという意味ではなく文字通りの意味)足の暑さは、地味だが確実に人の体力を奪う。もちろん日焼け止めは塗っていったがそれでもうっすら日焼けしている。あの照り返しの中をサンダルで歩くのなら、より強力なSPF50が求められる。余談おわり。
悠仁のパネルが立っているところでコラボアイスを買い、日陰で食べたらなんと元気が出た。アイスは4種類ともめちゃくちゃ美味しかった。おしそ先生が「内側から体が冷えるって大事だなぁ」と言っていたが本当にその通りである。アイスを食べたら体感温度がリアルに下がった。
悠仁のパネルはなぜか乳首の位置に指でド突かれたっぽい凹みがあり、とんでもない狂いキモの乳首変態がかつてそこに立っていたことを匂わせていた。今更狂いキモの乳首変態に言っても遅いと思うけど、パネルの乳首をド突いて凹みを作るような迷惑行為は絶対にやめて頂きたい。パネルには発情しないように。
ちょっと遅めのお昼を食べて、名古屋城から灼熱の名城公園に移動。ゴーヤ先生と合流する。
名城公園は灼熱すぎて、ボイスを聴いて即撤退した。なぜなら、あそこにあれ以上立っていたら死ぬからである。
ちなみにボイスはかなりよかった。これは本当に妄言なのだが明らかに恵はすべてのセリフを悠仁に語りかけていた。恵はこういう遠回しな言い方じゃないとデートに誘えない男だからだ。常に悠仁からの「じゃあ、一緒に行く?」とか、「え、いいじゃん行こうよ」とか、「伏黒とだったら行っても楽しそう!」とかいう言葉を待ってしまうのが伏黒恵という男だからだ。自分から「デートするぞ」とはなかなか言えないのだ。そんなの恥ずかしいからだ。あと断られた時のことを考えると気まずいからだ。だから「ここにはこういうアレソレがあって、こういう歴史があって、憩いの場もあって、買い物にも困らなくて、楽しいらしい」みたいな話をチラチラして悠仁の気を引くのだ。泣けてきた。
時々「お前一体誰なんだよ…」という語彙がチラチラ覗くが、京都の恵のIQなさに比べると明らかに飛躍的に恵の知能指数が向上している。恵が賢くなっている‼️
ミライタワーに移動し、折角なので展望台に登る。日本に現存し、かつ稼働する唯一の手動式エレベーター。すごい。私は高いところが好きなので、高所には積極的に登りたい。
恋人たちの聖地としても有名らしく、スカイバルコニーにあがると恋人たちキーホルダーみたいなものがたくさん飾られている。今日一緒に来ている人の中で唯一の恋人同士は「ちみめゆ」しか居なかったため、「恋人の聖地」と書かれたオブジェの前でとりあえずキッスだけさせておいた。タワー内にはホテルもあり、結婚式も挙げられるとのこと。ちみめゆのヤル気がにわかに上昇するのを感じ取る。
オアシス21は大きめの商業施設というかんじだった。ここで明日原先生とも合流。オアシス21は今まで立ち寄ってきた場所の中で最も人が多い。というか、名古屋城からミライタワーまで、祝日感がまるでない人出すぎた。暑すぎたせいだと思う。直腸の温度は平均して37度だというから、37度の空間を歩くということはケツ中を歩いているのと同じ。暑さのせいで人そのものがンコになる。ハ⁉️⁉️⁉️⁉️
全然呪術旅と関係ないのだが、どんぐり共和国(ジブリのグッズがめちゃあるところ)を見つけたので入った。それぞれに好きなジブリ作品があり、思い入れポイントの話などをして楽しかった。最近魔女宅観て感銘を受けたばかりなので、8月の3週連続ジブリが今から楽しみです。
名駅に戻って夕飯。ここす先生とも合流。たくさんお話した中で特に記憶に残っているのは、ここす先生がケツバトラー愛好者だったということ。うれしくて、握手をしてしまいました。おしりに支配された人生。
行きがけに名駅周辺のお店を探していて、なんとなく目処をつけておいたお店に入ったがなかなか良いお店だった。帰りに「ご縁がありますように」の五円玉を頂き、そんな対応は初めてのことだったので、名古屋にはこういうのもあるんだ…と思った。(こちらの五円玉は、翌日の上野天満宮でお賽銭に使いました)
さて余談だが(余談が多い)、朝早くに名古屋駅についてモーニングを食べたあと、名古屋駅周辺を散歩することにした。とはいえ外を歩き回るのでは暑いので、なるべくは建物の中に入っていたい。それでふと、そういえば名古屋に来て金時計前で集合し、そのままタワー内に行くことはあっても高島屋に入ったことはなかったと思い、中に入ってみることにした。そこで私は感動した。高島屋が、上から下までしっかり「デパート」をやっているということに。
ここ最近はデパートというものに、あまり明るい話題を聞かない。私の地元のデパートも潰れて、よくあるファミリー向けの商業施設がその外観だけを引き継いだ。
近年デパート業はどこも経営が厳しいと聞く。ハイブランドのお店を展開する一方、若者向けの雑貨店やキャラクター系のコラボイベントなどを開催して顧客の間口を広げようとする動きが活発で、デパートというより「ハイブランドも入ってはいる」みたいな感じの施設になりつつある。渋谷の西武もコスメ売り場は盛況に見えても階を上がれば上がるほど人が閑散とする。閑散というレベルじゃない時もある。というか、あった。西武渋谷も閉店が決まっている。西武はデパートで生き残ることをどうも諦めたらしい。西武池袋も、自身の保有先であったセブン&アイHDに売られ、売られた先の海外ファンドが再開発をヨドバシHDに一任したことで、あの西武池袋がヨドバシカメラになってしまった。それで早速現場ではンコ漏らされてるんだから、ついたミソがデカすぎるってレベルじゃない。
そこそこの価格帯のお店が売り場を占めつつ、他方で若者でも買い物がしやすい店舗もラインナップされている都市型の商業施設はそのまま都市型商業施設と呼ぶべきもので、「デパート」とはまたおもむきが異なる。だから、例えばヒカリエや東急プラザといった施設はデパートとはまったく性質の違うものだと思っている。
で、名古屋の高島屋はどうだったかというと、私が小さい頃にめっちゃ憧れたデパートそのものだった。どの階を見ても、「気軽に手は出せない」という空気感がある。コリだよコリィ!と手を叩いて喜びたい気持ちとこんな格好で訪れてしまいすみませんという気持ち。当たり前に何も買えないが、こういうところで買うからこそ意味がある、こういうところで買いたい!と思わされるブランドの求心力が最大限に発揮されている。
翌日ふとその話を明日原先生とここす先生にしたところ、この高島屋の景気は悪くないらしい。ということは、まだ名古屋にはデパートで買い物をする人が居るということだ。デパートでものを買うという文化が、この都市の中心地には残っているということだ。それはなんていうか、すごく誇っていいことのような気がする。だからこそ、今更ながら名鉄百貨店の閉店は本当に強く惜しまれる。駅前の大規模再開発は、その土地がもつアドバンテージを十分に活かしたものにするべきだ。私は正直、都市型商業施設の未来はあまり明るくないと思っている。
名古屋城の近くには名古屋市役所があり、この市役所の外観があまりにも城すぎて、「この形の市役所は名古屋でないと無理ですよ、名古屋すぎますよ」とおしそ先生にも話した。街中に突然現れるオブジェ、奇抜な形のビル、どこを歩いていても「名古屋人」という精神性そのもののような何かと出会う。歩道の緑は東京よりもはるかに多く、市バスが多く走り、東山線の女性専用車両はなんと終日、店員さんの対応はどこも素晴らしく、旅行者として訪れる名古屋はなんて楽しいところだろう。
私は一日で名古屋が相当好きになった。私はこの金ピカ文化がかなり好きだ。住みたいまである。しかし道ゆく名古屋男性がコピペでもしたんかというくらい同じ格好をしていて全員が本当に同じ空気感をまとっていて怖すぎるという点がすべての名古屋の良さを相殺しかねないレベルだったので、移住はよくよく考えたい。名古屋は宇宙すぎる。素晴らしいものと恐ろしいものが渾然一体すぎるから。
とにかく、1日目の名古屋旅は本当に本当にめちゃくちゃ楽しかったです。一日お付き合いくださったうに先生とおしそ先生、そして合流してくれたゴーヤ先生、明日原先生、ここす先生、本当にありがとうございました‼️(翌日もうに先生と明日原先生とここす先生とは行動を共にしたのですが)
◎2日目
名古屋に行くぞ!と明日原先生に伝えたら、お手頃な価格帯のホテルを紹介してくれた。名駅からは少し離れるが決してアクセスの悪い場所ではなく、ホテルからほど近い場所で(本当にほど近い場所だった!)モーニングも提供が出来ると。更に先生は、推し旅地図まで作ってくれた。地図には、名駅から出発して各地を回るのに、駅でいうとどこが最寄りでそれが名駅からどの程度離れた場所にあるだとか、この辺は大体一気に周ることが出来るとか、そういうことが書き込んであった。
地下鉄の一日乗車券の話や、晩御飯を食べるなら駅直結の場所からは離れたほうが混雑していないかも知れないという話、土地勘のある人からしか得られない情報をたくさんくれた。
ご紹介頂いたホテルに宿泊を決めた。ホテルの方は、アットホームで本当に親切だった。明日原先生とモーニングを食べる約束をした。自分はわりと長くオタクをやっているほうだと思うし、ここ3年くらいは特に泊まりがけで遊びに出かけることも多かったが、先生たちとモーニングを食べるのは今回が初めてのことだった。一緒に朝食を食べるって嬉しい。
明日原先生が手配をしてくれて、本当にすごくすごく美味しいモーニングセットを提供して頂いた。美味しすぎて元気モリモリになるトーストだった。コーヒーも美味しかった。感謝しかありません。この場を借りて改めてお礼を申し上げたいです。本当にありがとうございました‼️
昼過ぎまでは一緒に行動出来るという話だったので、上野天満宮までは明日原先生ともご一緒した。いざ悟の親戚のもとへ…(悟の親戚のもとではない)
とてつもなく余談だが名古屋は関東とテレビの内容にあまり変わりがなかった。地方局の番組がないという意味ではなく、番組のテンションが同じという意味で、変わりがない。バラエティのテンポが同じというか、実際の制作会社の所在地はともかく出自が同じに感じに思える。
関西のホテルに泊まってテレビをつけると、「ああ、ここは関西なんだ!」と思う。バラエティが全部西のお笑い。吉本の天下国家ぶりが感じられる。個人的な感覚だと、関西のお笑いはロケと芸人による芸人トークが中心で、司会からゲストから全てが芸人さんだったとしてもそれのみで番組を成立させられるけど、関東のバラエティはゲームが主体ですぐ俳優やナゾの専門家と一緒にクイズやスポーツをやろうとする、みたいな…。あと関東のロケ番組はお笑いよりオシャレを優先しているので、麻布とか自由ヶ丘のオシャレ隠れ家カフェとかオシャレ牛一頭丸ごと買い焼肉屋を紹介して隠れ家要素をぶっ殺しまくっています。余談おわり。
名古屋の朝は自宅で迎える朝と同じだった。朝のニュースが同じだからだ。
そんな朝のニュースが、「余計な外出はするな」とかなりストレートに外出禁止令を発令していた。
埼玉もその日は熊谷で40度の予報だという。
週間予報は、東海地方が今週見舞われるでろう悪魔的な暑さを伝えている。名古屋・岐阜においては、7月中の40度は観測史上初らしい。なるほど命懸けの外出というわけだ。
命懸けで、オリたちは悟の親戚んちに(※親戚んちではない)行くんだ…!
前日に、上野天満宮まではバスでも行けるという話をここす先生から聞いており、調べたら駅から歩くよりかは近いということも分かった。帰りは最悪タクシーを拾って駅まで戻ろうという話をした。命は金で買う。
お昼くらいにここす先生とも合流し、名駅から市バスに乗る。バスの中で、なぜか私は池袋連続脱糞事件の話をしてしまう。私の精神年齢が低すぎるせいで、ンコの話ですぐ盛り上がってしまうんだ。
バスに乗って30分程度だったと思うが、上野天満宮最寄りに到着する。バスを降りた途端に降り注ぐ灼熱の太陽。頭上から差しているものはもうただの「光」などではなく「天罰」であり、夏とはもはやなんらかの贖罪のための季節であるということを、毛穴のひとつひとつを突き刺すようなこの暑さで理解する。
日傘を傾けてくださった先生たち、本当にありがとうございました。
この暑さだし平日だしで、人はまるきり居ない。苛烈なほどの太陽光が砂利に反射して目ん玉まで燃えるようだ。砂利の上に落ちる影が濃い。手水舎で手を冷やし、日陰で一旦涼をとる。昨日のうちに買っていたヒヤロンを握りつぶして首などに当てていたが、通常なら最低でも30分は冷たいヒヤロンが5分も経たないうちにただの水が入った邪魔袋に変化してしまった。泣くぞ。
夕飯を食べたところで帰りに頂いた五円玉を賽銭で投げ入れて参拝。
天満宮には「なで牛」という牛の像があり、頭を撫でると賢くなると言われているそうだ。バスの中で開口一番に池袋連続脱糞事件の話をしない程度には賢くしてもらおうと頭を撫でたら、太陽光を浴びまくった牛の体は猛烈に熱くなっており、触った人みな「ドゥワッ」というリアクションをしていた。しかしまあ、牛を焼くことの方が多い人生、たまには牛に焼かれることがあってもいいだろう。
待合室のような場所があり、そこへ入ると一気に体が生き返るほど涼しかった。昨日から、体力ゲージが減るたびに涼しい室内に入ってギリギリのHPを保ちながら移動するゲームをやっているみたいだ。
待合室には菅原道真公の像があった。凛々しいお顔立ちだった。
折角なので、おみくじを引いた。内容は吉。謙虚に生きようと思う。
売店には榎木淳弥と瀬戸麻沙美さんのサインが展示されていた。「撮影OK」とわざわざ札も立っていた。榎木淳弥の願いを見たら「みんなが領域展開出来るようになりますように」みたいなことが書いてあった。思考が羂索寄りすぎる。一方で瀬戸さんは「みんなの願いが叶いますように」みたいなことを書いている。優しい。瀬戸さんのほうが虎杖悠仁含有量が高い。
参拝を終えてデニーズで昼食をとった。ファミリー席みたいなところに座れて嬉しかった。マキバオーとケツバトラーの話をした。どうしてもンコとケツから離れられない。
明日原先生が色々調べてくれて、ファミレス正面のバスの時間がちょうどいいことが分かった。最後の最後まで本当にありがとう…。先生はこれからお仕事だから途中でバイバイだったが、最後は踊って見送ってくれた。私も次回先生とバイバイするときは「ば・く・れ・つ」と歌いながら踊ろうと思う。
うに先生とここす先生と栄に戻り、残されたスポットを回る。まずはフラリエに向かった。
フラリエは綺麗な庭園だった。レイヤーさんの撮影スポットとしても解放されているらしく、まどマギのレイヤーさんたちが撮影していた。洋風の庭園はどこも手入れが行き届いていてかわいかった。こんなとんでもない暑さでさえなければ散歩するのも楽しいだろうなと思った。次は涼しい頃にもう一度来たい。私は大量の人間より大量の草に囲まれている方が情緒の安定するタイプだ。それに、かわいいカフェもあった。次はあそこで茶をシバきたい。
屋外レストランでは名古屋のヤリラ、名古ラの集団がウェイしていた。
フラリエから歩いてキディランドに向かう。なぜか自分のスマホではGPSが探知されず(マップアプリなどでは問題なくGPSが反応するのに)、スタンプラリーがひとつも出来ないという悲しい事態が発生してしまったため特典が貰えるか不安だったのだが、GPSが反応しないことを説明して乗車券を見せたらお店の方がきちんと対応してくださり、キーホルダーをゲットすることが出来た。よかった。ありがとうございました。
最後はJRタワーで特大パネルを見てフィニッシュ。考えてみれば、呪術廻戦というジャンルともなかなか長い付き合いだなぁ…とひとりしんみり思ったが、うに先生やここす先生は私がハマるより前からずっと「めぐゆじ」なんだもんな…それって…それって…すごく…すごく………良いねッッッッッッ‼️まだまだめゆを好きでいててほしい。アニメでもいつかは本当の本当の最終回が来るけど…うちらはあの266に向かって、ひたすら祈りを捧げるだけ。信じるからなMAPPA。
帰りの新幹線の時間までカフェに入ってクソデカクリームソーダと格闘していた。金額的にも、もうワンサイズ小さい通常のクリームソーダを想像していたのに、デカイのが出てきてビビった。逆写真詐欺を久しぶりに味わった。美味しかったし体から熱が引いて体力も回復した。最後まで楽しいと美味しいがいっぱいだった。
通過地点として、または日帰り先としてなら何度も来た名古屋。初めて名古屋に来た時は名駅のトイレにトイレットペーパーがなく(※紙だけじゃなく、ホルダーごとない)おったまげた名古屋。河村市長が毀損したイメージは著しく、名古屋と聞くとどうしてもあの金メダル噛みつきジジイが頭を過ぎって今ひとつポジティブな印象がなかった。あそこは味噌と見栄の国。しかし、そんな印象だけで名古屋を捉えていたのはすべて過去の話だ。
それはもう、ものすごく楽しい2日間だった。推し旅を抜きにしても、単純に名古屋の街は歩きやすく、都心に緑が多く、建物は奇抜で、面白い。旅行先として、非常に優れた場所だった。
コンサートにしても展覧会にしても、「名古屋飛ばし」はわりと常態化しているというし、まわりの人に聞いてみても、名古屋に「旅行」しに行ったという人は少ない。メディアが語る名古屋のイメージは、味噌ときしめんとエビフライと中日ドラゴンズから特に変化も進歩もないし、行く前は、名古屋のことをこんなに好きになるとは微塵も思っていなかった。だが、とにかく、旅先の名古屋はいいところだった。推し旅、新しい発見の機会をくれてありがとう。
そういえば、名古屋城の展示の終わりには、募金箱の概念が覆るような募金箱が設置してあった。名古屋人の魂が、これをこうさせるのだと思った。街中にあるすべてが「名古屋」だった名古屋。また旅行に行きたい。
そして何よりこの2日間でたっぷり遊んでくださっためゆんちゅたち、本当に本当にありがとうございました!
現地の人達のアドバイスや協力のお陰で、すごく快適で楽しい旅を楽しめました。一緒に遊んでくれたことに感謝。持つべきものは友。埼玉に旅行しに来ることがあればすべて私にお任せ下さい。畳む
CATEGORY:雑記
2024年7月、福岡へ行った。
指定の集合時間よりだいぶ早くに約束の場所についた私はベンチに座って「ケツでかい ゆじケツでかい クソでかい え?ホントでかい なにこわでっか」という短歌をしたためていた。集合場所に早く着きすぎていたし、スマホを弄ることくらいしかやれることがなかった。デカケツ短歌を投稿し、いきおいデカチチ短歌も書き上げた。「ゆーじくん!ちちまででかい!しぼれまそう!うそ すみません しぼりません 死」というデカチチ短歌をSNSに投稿し終え、満足して顔をあげると、目の前にうに先生が居た。羽田空港の思い出が何かあるかと問われたら、この日のことを話すしかなくなる。デカケツ短歌とデカチチ短歌とうに先生。
羽田空港は第1から第3までターミナルがあるが、第3ターミナルについてはほとんど何も知らない。だから、第3ターミナルに羽田エアポートガーデンという施設があることも知らなかった。呪術廻戦コラボのお陰で、空港に併設されている施設のことを知った。オタク、知との出会いがいつも自カプ。
ラーメン屋のコラボメニューに「抹茶スープラーメン」という謎のラーメンがあって、どうしても気になった。お店に入るまで抹茶スープラーメンを食べる気満々だったのだが、カップリング者と一緒にコラボをキメているなら自カプラーメンを作るべきではないか?と、脳内の自カプマナー講師に嘘のマナーを吹き込まれて急遽悠仁のラーメンのほうを頼み、テーブル上に自カプラーメンを生成した。抹茶スープラーメンに関してはちょっとだけ食べさせてもらったが、抹茶の自己主張は控えめで美味しかったと思う。悠仁のは肉まみれで味が濃かった。私が老人だったら味の濃さで死んでいた。
昼時に集合したのでお店には行列が出来ていたが、みんな分かりやすくコラボメニュー狙いだった。仲間がたくさんで心強い。机に祭壇を作り上げている方もいて、たいしたものだった。
食べ終えたあと物販やパネルを見た。小さい方のアクスタを買うつもりだったのに、自カプの攻め様があまりに攻め様の顔をしており、攻め様にしか許可されていない足の長さに感動してしまい結局大きい方のアクスタを買った。大は小を兼ねる。チンはポーを兼ねる。悠仁の腰つきが妖艶すぎて、しかも胸の主張も激しい。巨大な性のシンボルが、健全な週末の、健康的な日中の、聖なる空港において、堂々たるパイオツ展開を繰り出している。こんなことが、あっていいのか。どうなっている。困惑と同時に私は下心を隠しきれない。どれほど懸命に取り繕っても、私の中には妖怪下ネタおばさんが棲んでいるのだ。その妖怪下ネタおばさんが、むこう半年分くらいの下品な感想を並べ立てまくってくる。勘弁してくれよ。2年前に羽田で書いた、あのデカケツ短歌とデカチチ短歌を不意に思い出した。はからずしも、私は真実を書いてしまっていたようだ。
パネルは正面からの彼らしか描いていない。しかし私の第六感、否、悠仁のケツの存在感を捉えることにだけ特化した私の第七感は、悠仁の丸い無防備なケツが今、恵の前でプリプリと音を立てながら縦に横に動いていることを確実に予感した。あんな腰つきでケツがプリプリ言ってないわけがない。私たちの見えないところで言わせまくっているんだろう、ケツを。プリプリと。クソッ。アテンションプリプリプリーズ。当機は間もなくドカ尻空港に着陸します。ウワーッ!やかましすぎる。
許し難いほどプリプリしているケツを感じながらパネルを撮影した。特大パネルの方は上半身だけが切り抜かれていたが、どう考えても自カプが切り取られた画面下で手を繋いでおり、狙っているとしか思えない配置だ。
物販は七海のアクスタだけが総攫いされていて、納得感が強かった。七海、あまりに機長服が似合いすぎて、TL(ティーンズ・ラブ)の化身みたいになっていたものな。
食後におやつ(コラボドリンク)をキメていたところでスズキ先生と合流した。悠仁のマンゴーハニーナントカとかいうソフトクリームが乗ったドリンクで、これがかなり美味しかった。このまま一気に畳み掛けるしかないと思って、りんご飴も買った。カットしてもらっていたところ、見知らぬ子供たちがコラボりんご飴を見て「なんで黒いの?」と素朴な疑問を投げかけていて、確かにこの黒いのはなんなんだろうと思った。舐めても食べても特に味がしなかった。ただ黒い粉が降りかかったりんご飴だ。
充分グルメを楽しんで、エアポートガーデン内のお店をいくつか見て羽田を離脱した。羽田空港の思い出を振り返った時、デカケツ短歌とデカチチ短歌が真っ先に出てきた自分は土曜日をもって消えた。これからは、ドカ尻悠仁のプリプリ空港物語だ。虎杖プリケツエアラインだ。悠仁デカパイ線ターミナルだ。そして恵のドチンチンフライトだ。フゥーッ。助けてください。
ところで私は、先日金曜ロードショーで「魔女の宅急便」を観て泣いた。虎杖プリケツエアラインを爆誕させる一方で、私は魔女宅に感涙出来る脳みその持ち主でもある。期間限定でリバイバル上映をしているというから、この機会に先生たちとどうしても映画が観たかった。
映画館に行ったら、魔女宅のパンフレットも売っていた。やった!買った。1100円だった。ふと、当時のパンフレットは一冊いくらだったんだろうと思った。
宮崎駿はロリコンだという言説を、ご本人には本当に申し訳ないが私は額面通りに受け取っていた。なんとなくそういうイメージがあって、そのイメージが負の面に傾いて聞こえていたせいでジブリに対しては大人になってからもあまり興味がわかなかった。むしろ、大人になってからの方が興味がなかった。小さい頃には結構作品を観ていたが、私はどちらかというと賑やかで明るいパーティみたいなアニメが好きだったし、ジブリよりディズニーを好んだ。
それがふと金曜ロードショーで魔女宅の再放送を観た時、その物語のあまりの素晴らしさに泣いた。思春期の成長をこんなに鮮やかに切り取って、「こども」という存在をこんなにも主体的な個人として正面から描いた作品が他にあろうか。誰もが通るもどかしい時期、アイデンティティの揺らぎ、あの嵐のような感性の中、自力で岸を渡るこどもたち。そしてそんな子供の成長を見守る大人の、あたたかな眼差し。
子供の問題を子供だけの力で解決させようとする物語はこの世にたくさんある。子供には、そういう物語もまた必要だからだ。子供は大人になりたい。ならねばならない。彼らは大人としての意見を持ち、大人のような権利を求める。自由と葛藤。矛盾と義務。自分の問題を自分で解決したいと思うのに、そう出来ないもどかしさ。そのもどかしさと戦うために、その背中を押すために、あと一歩の勇気のために、子供たちが子供たちだけの世界で活躍する冒険譚がある。
でも魔女宅はそうではない。
キキはすべての困難を、知らず知らずのうちに差し伸べられた大人たちからの手によって乗り越える。彼女がたったひとりの力だけで成しえたことは、実は何もない。でも、彼女は常に努力の先頭に立とうとする。嵐の中を飛ぶ。様々な対話の中でヒントを掴み、生きるために必要なことを少しずつ学んでいく。感動もする。嫉妬もする。いろんな感情が同じ心の中で暴れ回っている。大人になるにはいつも痛みが伴う。その痛みに涙することだってある。魔女であるいぜんに、キキは少女であり女性なのだ。キキはかつての私たちで、今を生きる彼女たちで、これからの子供たちだ。
魔女宅の魅力はもちろんキキにある。不思議なもので、彼女の存在は大人になればなるほど身近だ。そしてそんな彼女と同じくらい、キキを取り巻く大人たちが素敵だ。キキのことを13歳の少女と認識しながら、それでも決して彼女を「こども」扱いしない。だけどキキは大人でもないから、周囲の大人たちは、大人として見られる面倒のすべてを当たり前のように見る。
キキのお父さんは、キキに対して「まだ早い」とは言わない。相手はもう13歳の女性だからだ。でも、彼女はまだ13歳の少女なのだ。だから「いつでも帰っておいで」と言う。“いつの間にかこんなに大きくなった”キキを抱きしめて。
私はもうこの冒頭でじゃぶじゃぶに泣く。愛だから。キキが旅立てるのは、この愛があるからだ。
そのあとも色々なところでじゃぶじゃぶに泣く。パン屋の亭主がキキのためにパンのリースみたいなのを店の窓にぶら下げてくれるところとか、ウルスラがキキと出会って絵を描きあげられたって話すところとか。キキは偉大なことを成功させているエリートじゃない。スーパーパワーを持っているわけでもないし、なんのカリスマでもない。でも彼女がただ「キキ」として生きているだけで救われる人の心ってものがある。そんでそれは多分、私たちだってみんなどこかで出会うことなんだ。そこに何かの「功績」なんかなくたって、自分が自分というものをただ生きているだけで、誰かの救いになることが、あるいは、誰かが誰かのままただ生きているだけで、私の心を救う瞬間が、人生には絶対にある。キキはまさにウルスラにとってそうだったし、ウルスラもまたキキにとってはそうだった。
特別な親切や思いやりではないもの、何かの返報を期待したわけじゃないもの、そういうものが自然、自分や自分以外の人の視野を不意に広げてくれることがある。なんでもないと思い込んでいる自分の行為や行動が、本当にただ無意味に終わっているかどうかなんて、一体誰になら分かるの?私の預かり知らないところで、人の想像の及ばぬほんの僅かな隙間で、それが小さい光になって灯る可能性がどうしてないなんて言えるの?私はキキとウルスラのお泊まり会のところでもこうしてじゃぶじゃぶになり、マスクの下にミクロな洪水を生み出すことしか出来ないのであった。
キキは友達作りが下手なタイプでは決してない。だって田舎では同世代の子達がお見送りしてくれたもんね。でも都会の垢抜けた空気感や、魔女のいない世界では自然と浮いてしまう自分では、なかなか同世代の子たちの輪の中に入れない。自分はどうやらみんなと違って、その差は誰かを喜ばせるものではどうやらないらしいということに戸惑いを覚えるわけですよね。そんな中、はじめて出来たトンボという友達が、なんかあんま好かんと思っている女の子とも仲が良いと知って、「なんでェなんでェ!」となってしまう。このいじらしさ。素直さ。こっちはもう「はじめてのおつかい」見ているのとあんまり変わらないマインドで泣いている。成長って痛いし、不安だし、怖いよね。キキはもう、そんなことで腹を立てている自分のこともイヤ。だからスランプに陥ってしまう。それまで自然に出来ていたことが、ぎこちなくなる。
そんな彼女がウルスラとの対話の中で、これは誰にだってあることなのかも、と考えるキッカケを得る。今出来ること、出来ないことに対して、ちょっとだけ冷静になる。そんでお泊まり会の帰りにあのニシンパイのおばあちゃんちに寄って、ただ純粋なやさしさを受け取る。これは、やっぱりおばあちゃんの、孫娘に向けるような素朴な愛情ですよね。キキは大人になろうとしているけど、心のもう片っぽでは子供の自分を大人に慰めてもらいてぇわけよ。複雑だよな子供って。誰もが通ってきた道だと思うよ。子供でいたくないし、大人になりたいし、でも子供として自分が寄りかかれる大人が傍にいないとまだ怖いんだよ。ひとりで歩くには地球があまりにデカすぎるんで。
そして気持ちが少し上向いてきた時に、トンボの危機を知る。キキがおじさんからデッキブラシ借りて飛び立つシーン、あのデッキブラシはまさにキキの心そのものですよね。真っ直ぐ飛べよ!もっと高く飛べよ!しっかりしろよ!自分が自分に一番言いたい。自分への叱咤激励。出来るだろ、やるんだよ、お前、と。葛藤を一旦キャンセルして、キキは飛び立つ。助けたいから。トンボはこの街で出来た初めての友達だから。
魔女宅の好きなところ、子供の成長物語にありがちな「冒険」や「恋愛」をストーリーに盛り込んでいないところ。キキは魔法世界に行ったり異世界に飛んだりしないし、トンボのことも別に恋愛対象として見ていない。それはトンボも同じだ。住んでいる街と自分。友達と自分。全部が自分の0地点から徒歩圏内。そこが、本当に好きだ。
宮崎駿は確かに「女の子」が好きだと思う。でもそれはセクシャルな事柄から眼差されたものではなく、おそらく、人の成長においてもっとも伸び代のあるこの時代、まさにこの世代の人達の営為そのものに夢やロマンを感じているんだと思う。本当に(所謂、性的な含みを持たせた性的趣向者としての)ロリコンなら、「胸は平べったいのが至高!」とか言ってナウシカのことも貧乳に描いたでしょう。でもそうではない。少女はいずれ大人の女性になる。その過程には葛藤がある。達観もある。情熱的でありながら冷静で、無鉄砲でありながら思慮深い。少女性と母性を右と左の手にそれぞれ携えてどちらも手放さないというような時代が、彼の目にはとてもロマンチックに映るのかも知れないと思う。魔女宅のキキはこどもでありながら、ひとりの人間として主体的に描かれている。大人に振り回されるこどもでも、大人を振り回すこどもでもない。幼稚じゃないがこどもっぽく笑い、大人ではないが成熟した人間観を持ってもいる。多面的な人間の、その中でも特に「善性」というものを、宮崎駿は信じているような気がする。
「だから宮崎駿は、光のロリコンなんですよ」
ぐずぐず鼻を鳴らしながらスズキ先生にそう言うと、スズキ先生は「はじめて聞いたよそんなの」と言って笑った。確かにと思った。なぜなら光のロリコンなんてものは存在しないからだ。光のロリコンとは「パンのお米」みたいに矛盾した言葉だ。ロリコンはロリコンというだけで業を背負う。だから闇のロリコンという言葉も存在しない。闇のロリコンという言葉は、「トウモロコシポップコーン」みたいな重言だからだ。
宮崎駿はなんか、よく分からないけど、怖いくらい真っ直ぐに人を見ていると思う。そうでなければ、こんなふうに子供の世界を切り取ったり出来ないと思う。親たる人の愛、親ではないが子供を見守る人の愛、そのやわらかな誠実さ。魔女宅にはキキやトンボという魅力的なこども以外に、素晴らしい大人たちがたくさん出てくる。魔女宅は子供たちの感性の中で瑞々しく光る物語でありながら、私たち大人たちに向けてもしっかりと骨太なメッセージを伝えてくれる。
今まであまり気にしたこともなかったが、背景美術や音楽の素晴らしさにも胸を打たれた。引き合いに出して申し訳ないが、ディズニーだったらあらゆるシーンで扇情的で壮大なBGMを流していたと思う。海外のアニメスタジオがキキのデッキブラシ爆走シーンを作ったら、絵だけではなく音楽でも物語を語ろうとしただろう。キキが悩むたびにドラマチックなメロディが、彼女の心情を代弁しただろう。でもジブリはそうではなかった。音楽は常に彼女達のささやかな日常を彩るものでしかなかったし、空と風と山と海のためのメロディだった。さざ波を運ぶ風の代わりに、市場の賑やかさやパンの甘いかおりの代わりに、高い空の澄み渡った空気の代わりに、町と町との結び目のように横たわる森の静寂の代わりに、鳥たちの羽ばたきの代わりに、太陽や月の代わりに、そういうものの代わりに音楽が語っていた。ドラマチックな演出を畳み掛けなくてもいいんだ…みたいな発見があった。
まあとにかく、魔女宅は最高だ。こんな素敵な映画が1989年に公開されていたということに、今も新鮮にびっくりする。公開から35年以上たった今、大画面で魔女宅を観ることが出来て本当によかった。付き合ってくれたうに先生とスズキ先生、本当にありがとうございました‼️
地元の駅についたら成人男性が別れ話を拒んで地べたに座り込んでガキのように駄々をこねており、「逆魔女宅‼️」と思いました。畳む
指定の集合時間よりだいぶ早くに約束の場所についた私はベンチに座って「ケツでかい ゆじケツでかい クソでかい え?ホントでかい なにこわでっか」という短歌をしたためていた。集合場所に早く着きすぎていたし、スマホを弄ることくらいしかやれることがなかった。デカケツ短歌を投稿し、いきおいデカチチ短歌も書き上げた。「ゆーじくん!ちちまででかい!しぼれまそう!うそ すみません しぼりません 死」というデカチチ短歌をSNSに投稿し終え、満足して顔をあげると、目の前にうに先生が居た。羽田空港の思い出が何かあるかと問われたら、この日のことを話すしかなくなる。デカケツ短歌とデカチチ短歌とうに先生。
羽田空港は第1から第3までターミナルがあるが、第3ターミナルについてはほとんど何も知らない。だから、第3ターミナルに羽田エアポートガーデンという施設があることも知らなかった。呪術廻戦コラボのお陰で、空港に併設されている施設のことを知った。オタク、知との出会いがいつも自カプ。
ラーメン屋のコラボメニューに「抹茶スープラーメン」という謎のラーメンがあって、どうしても気になった。お店に入るまで抹茶スープラーメンを食べる気満々だったのだが、カップリング者と一緒にコラボをキメているなら自カプラーメンを作るべきではないか?と、脳内の自カプマナー講師に嘘のマナーを吹き込まれて急遽悠仁のラーメンのほうを頼み、テーブル上に自カプラーメンを生成した。抹茶スープラーメンに関してはちょっとだけ食べさせてもらったが、抹茶の自己主張は控えめで美味しかったと思う。悠仁のは肉まみれで味が濃かった。私が老人だったら味の濃さで死んでいた。
昼時に集合したのでお店には行列が出来ていたが、みんな分かりやすくコラボメニュー狙いだった。仲間がたくさんで心強い。机に祭壇を作り上げている方もいて、たいしたものだった。
食べ終えたあと物販やパネルを見た。小さい方のアクスタを買うつもりだったのに、自カプの攻め様があまりに攻め様の顔をしており、攻め様にしか許可されていない足の長さに感動してしまい結局大きい方のアクスタを買った。大は小を兼ねる。チンはポーを兼ねる。悠仁の腰つきが妖艶すぎて、しかも胸の主張も激しい。巨大な性のシンボルが、健全な週末の、健康的な日中の、聖なる空港において、堂々たるパイオツ展開を繰り出している。こんなことが、あっていいのか。どうなっている。困惑と同時に私は下心を隠しきれない。どれほど懸命に取り繕っても、私の中には妖怪下ネタおばさんが棲んでいるのだ。その妖怪下ネタおばさんが、むこう半年分くらいの下品な感想を並べ立てまくってくる。勘弁してくれよ。2年前に羽田で書いた、あのデカケツ短歌とデカチチ短歌を不意に思い出した。はからずしも、私は真実を書いてしまっていたようだ。
パネルは正面からの彼らしか描いていない。しかし私の第六感、否、悠仁のケツの存在感を捉えることにだけ特化した私の第七感は、悠仁の丸い無防備なケツが今、恵の前でプリプリと音を立てながら縦に横に動いていることを確実に予感した。あんな腰つきでケツがプリプリ言ってないわけがない。私たちの見えないところで言わせまくっているんだろう、ケツを。プリプリと。クソッ。アテンションプリプリプリーズ。当機は間もなくドカ尻空港に着陸します。ウワーッ!やかましすぎる。
許し難いほどプリプリしているケツを感じながらパネルを撮影した。特大パネルの方は上半身だけが切り抜かれていたが、どう考えても自カプが切り取られた画面下で手を繋いでおり、狙っているとしか思えない配置だ。
物販は七海のアクスタだけが総攫いされていて、納得感が強かった。七海、あまりに機長服が似合いすぎて、TL(ティーンズ・ラブ)の化身みたいになっていたものな。
食後におやつ(コラボドリンク)をキメていたところでスズキ先生と合流した。悠仁のマンゴーハニーナントカとかいうソフトクリームが乗ったドリンクで、これがかなり美味しかった。このまま一気に畳み掛けるしかないと思って、りんご飴も買った。カットしてもらっていたところ、見知らぬ子供たちがコラボりんご飴を見て「なんで黒いの?」と素朴な疑問を投げかけていて、確かにこの黒いのはなんなんだろうと思った。舐めても食べても特に味がしなかった。ただ黒い粉が降りかかったりんご飴だ。
充分グルメを楽しんで、エアポートガーデン内のお店をいくつか見て羽田を離脱した。羽田空港の思い出を振り返った時、デカケツ短歌とデカチチ短歌が真っ先に出てきた自分は土曜日をもって消えた。これからは、ドカ尻悠仁のプリプリ空港物語だ。虎杖プリケツエアラインだ。悠仁デカパイ線ターミナルだ。そして恵のドチンチンフライトだ。フゥーッ。助けてください。
ところで私は、先日金曜ロードショーで「魔女の宅急便」を観て泣いた。虎杖プリケツエアラインを爆誕させる一方で、私は魔女宅に感涙出来る脳みその持ち主でもある。期間限定でリバイバル上映をしているというから、この機会に先生たちとどうしても映画が観たかった。
映画館に行ったら、魔女宅のパンフレットも売っていた。やった!買った。1100円だった。ふと、当時のパンフレットは一冊いくらだったんだろうと思った。
宮崎駿はロリコンだという言説を、ご本人には本当に申し訳ないが私は額面通りに受け取っていた。なんとなくそういうイメージがあって、そのイメージが負の面に傾いて聞こえていたせいでジブリに対しては大人になってからもあまり興味がわかなかった。むしろ、大人になってからの方が興味がなかった。小さい頃には結構作品を観ていたが、私はどちらかというと賑やかで明るいパーティみたいなアニメが好きだったし、ジブリよりディズニーを好んだ。
それがふと金曜ロードショーで魔女宅の再放送を観た時、その物語のあまりの素晴らしさに泣いた。思春期の成長をこんなに鮮やかに切り取って、「こども」という存在をこんなにも主体的な個人として正面から描いた作品が他にあろうか。誰もが通るもどかしい時期、アイデンティティの揺らぎ、あの嵐のような感性の中、自力で岸を渡るこどもたち。そしてそんな子供の成長を見守る大人の、あたたかな眼差し。
子供の問題を子供だけの力で解決させようとする物語はこの世にたくさんある。子供には、そういう物語もまた必要だからだ。子供は大人になりたい。ならねばならない。彼らは大人としての意見を持ち、大人のような権利を求める。自由と葛藤。矛盾と義務。自分の問題を自分で解決したいと思うのに、そう出来ないもどかしさ。そのもどかしさと戦うために、その背中を押すために、あと一歩の勇気のために、子供たちが子供たちだけの世界で活躍する冒険譚がある。
でも魔女宅はそうではない。
キキはすべての困難を、知らず知らずのうちに差し伸べられた大人たちからの手によって乗り越える。彼女がたったひとりの力だけで成しえたことは、実は何もない。でも、彼女は常に努力の先頭に立とうとする。嵐の中を飛ぶ。様々な対話の中でヒントを掴み、生きるために必要なことを少しずつ学んでいく。感動もする。嫉妬もする。いろんな感情が同じ心の中で暴れ回っている。大人になるにはいつも痛みが伴う。その痛みに涙することだってある。魔女であるいぜんに、キキは少女であり女性なのだ。キキはかつての私たちで、今を生きる彼女たちで、これからの子供たちだ。
魔女宅の魅力はもちろんキキにある。不思議なもので、彼女の存在は大人になればなるほど身近だ。そしてそんな彼女と同じくらい、キキを取り巻く大人たちが素敵だ。キキのことを13歳の少女と認識しながら、それでも決して彼女を「こども」扱いしない。だけどキキは大人でもないから、周囲の大人たちは、大人として見られる面倒のすべてを当たり前のように見る。
キキのお父さんは、キキに対して「まだ早い」とは言わない。相手はもう13歳の女性だからだ。でも、彼女はまだ13歳の少女なのだ。だから「いつでも帰っておいで」と言う。“いつの間にかこんなに大きくなった”キキを抱きしめて。
私はもうこの冒頭でじゃぶじゃぶに泣く。愛だから。キキが旅立てるのは、この愛があるからだ。
そのあとも色々なところでじゃぶじゃぶに泣く。パン屋の亭主がキキのためにパンのリースみたいなのを店の窓にぶら下げてくれるところとか、ウルスラがキキと出会って絵を描きあげられたって話すところとか。キキは偉大なことを成功させているエリートじゃない。スーパーパワーを持っているわけでもないし、なんのカリスマでもない。でも彼女がただ「キキ」として生きているだけで救われる人の心ってものがある。そんでそれは多分、私たちだってみんなどこかで出会うことなんだ。そこに何かの「功績」なんかなくたって、自分が自分というものをただ生きているだけで、誰かの救いになることが、あるいは、誰かが誰かのままただ生きているだけで、私の心を救う瞬間が、人生には絶対にある。キキはまさにウルスラにとってそうだったし、ウルスラもまたキキにとってはそうだった。
特別な親切や思いやりではないもの、何かの返報を期待したわけじゃないもの、そういうものが自然、自分や自分以外の人の視野を不意に広げてくれることがある。なんでもないと思い込んでいる自分の行為や行動が、本当にただ無意味に終わっているかどうかなんて、一体誰になら分かるの?私の預かり知らないところで、人の想像の及ばぬほんの僅かな隙間で、それが小さい光になって灯る可能性がどうしてないなんて言えるの?私はキキとウルスラのお泊まり会のところでもこうしてじゃぶじゃぶになり、マスクの下にミクロな洪水を生み出すことしか出来ないのであった。
キキは友達作りが下手なタイプでは決してない。だって田舎では同世代の子達がお見送りしてくれたもんね。でも都会の垢抜けた空気感や、魔女のいない世界では自然と浮いてしまう自分では、なかなか同世代の子たちの輪の中に入れない。自分はどうやらみんなと違って、その差は誰かを喜ばせるものではどうやらないらしいということに戸惑いを覚えるわけですよね。そんな中、はじめて出来たトンボという友達が、なんかあんま好かんと思っている女の子とも仲が良いと知って、「なんでェなんでェ!」となってしまう。このいじらしさ。素直さ。こっちはもう「はじめてのおつかい」見ているのとあんまり変わらないマインドで泣いている。成長って痛いし、不安だし、怖いよね。キキはもう、そんなことで腹を立てている自分のこともイヤ。だからスランプに陥ってしまう。それまで自然に出来ていたことが、ぎこちなくなる。
そんな彼女がウルスラとの対話の中で、これは誰にだってあることなのかも、と考えるキッカケを得る。今出来ること、出来ないことに対して、ちょっとだけ冷静になる。そんでお泊まり会の帰りにあのニシンパイのおばあちゃんちに寄って、ただ純粋なやさしさを受け取る。これは、やっぱりおばあちゃんの、孫娘に向けるような素朴な愛情ですよね。キキは大人になろうとしているけど、心のもう片っぽでは子供の自分を大人に慰めてもらいてぇわけよ。複雑だよな子供って。誰もが通ってきた道だと思うよ。子供でいたくないし、大人になりたいし、でも子供として自分が寄りかかれる大人が傍にいないとまだ怖いんだよ。ひとりで歩くには地球があまりにデカすぎるんで。
そして気持ちが少し上向いてきた時に、トンボの危機を知る。キキがおじさんからデッキブラシ借りて飛び立つシーン、あのデッキブラシはまさにキキの心そのものですよね。真っ直ぐ飛べよ!もっと高く飛べよ!しっかりしろよ!自分が自分に一番言いたい。自分への叱咤激励。出来るだろ、やるんだよ、お前、と。葛藤を一旦キャンセルして、キキは飛び立つ。助けたいから。トンボはこの街で出来た初めての友達だから。
魔女宅の好きなところ、子供の成長物語にありがちな「冒険」や「恋愛」をストーリーに盛り込んでいないところ。キキは魔法世界に行ったり異世界に飛んだりしないし、トンボのことも別に恋愛対象として見ていない。それはトンボも同じだ。住んでいる街と自分。友達と自分。全部が自分の0地点から徒歩圏内。そこが、本当に好きだ。
宮崎駿は確かに「女の子」が好きだと思う。でもそれはセクシャルな事柄から眼差されたものではなく、おそらく、人の成長においてもっとも伸び代のあるこの時代、まさにこの世代の人達の営為そのものに夢やロマンを感じているんだと思う。本当に(所謂、性的な含みを持たせた性的趣向者としての)ロリコンなら、「胸は平べったいのが至高!」とか言ってナウシカのことも貧乳に描いたでしょう。でもそうではない。少女はいずれ大人の女性になる。その過程には葛藤がある。達観もある。情熱的でありながら冷静で、無鉄砲でありながら思慮深い。少女性と母性を右と左の手にそれぞれ携えてどちらも手放さないというような時代が、彼の目にはとてもロマンチックに映るのかも知れないと思う。魔女宅のキキはこどもでありながら、ひとりの人間として主体的に描かれている。大人に振り回されるこどもでも、大人を振り回すこどもでもない。幼稚じゃないがこどもっぽく笑い、大人ではないが成熟した人間観を持ってもいる。多面的な人間の、その中でも特に「善性」というものを、宮崎駿は信じているような気がする。
「だから宮崎駿は、光のロリコンなんですよ」
ぐずぐず鼻を鳴らしながらスズキ先生にそう言うと、スズキ先生は「はじめて聞いたよそんなの」と言って笑った。確かにと思った。なぜなら光のロリコンなんてものは存在しないからだ。光のロリコンとは「パンのお米」みたいに矛盾した言葉だ。ロリコンはロリコンというだけで業を背負う。だから闇のロリコンという言葉も存在しない。闇のロリコンという言葉は、「トウモロコシポップコーン」みたいな重言だからだ。
宮崎駿はなんか、よく分からないけど、怖いくらい真っ直ぐに人を見ていると思う。そうでなければ、こんなふうに子供の世界を切り取ったり出来ないと思う。親たる人の愛、親ではないが子供を見守る人の愛、そのやわらかな誠実さ。魔女宅にはキキやトンボという魅力的なこども以外に、素晴らしい大人たちがたくさん出てくる。魔女宅は子供たちの感性の中で瑞々しく光る物語でありながら、私たち大人たちに向けてもしっかりと骨太なメッセージを伝えてくれる。
今まであまり気にしたこともなかったが、背景美術や音楽の素晴らしさにも胸を打たれた。引き合いに出して申し訳ないが、ディズニーだったらあらゆるシーンで扇情的で壮大なBGMを流していたと思う。海外のアニメスタジオがキキのデッキブラシ爆走シーンを作ったら、絵だけではなく音楽でも物語を語ろうとしただろう。キキが悩むたびにドラマチックなメロディが、彼女の心情を代弁しただろう。でもジブリはそうではなかった。音楽は常に彼女達のささやかな日常を彩るものでしかなかったし、空と風と山と海のためのメロディだった。さざ波を運ぶ風の代わりに、市場の賑やかさやパンの甘いかおりの代わりに、高い空の澄み渡った空気の代わりに、町と町との結び目のように横たわる森の静寂の代わりに、鳥たちの羽ばたきの代わりに、太陽や月の代わりに、そういうものの代わりに音楽が語っていた。ドラマチックな演出を畳み掛けなくてもいいんだ…みたいな発見があった。
まあとにかく、魔女宅は最高だ。こんな素敵な映画が1989年に公開されていたということに、今も新鮮にびっくりする。公開から35年以上たった今、大画面で魔女宅を観ることが出来て本当によかった。付き合ってくれたうに先生とスズキ先生、本当にありがとうございました‼️
地元の駅についたら成人男性が別れ話を拒んで地べたに座り込んでガキのように駄々をこねており、「逆魔女宅‼️」と思いました。畳む
ジョルジュ・シムノン『猫』読了。
ジョルジュ・シムノンといえばメグレシリーズでお馴染みの推理小説作家ですが彼の著作は本当に点数が多く内容も多岐に渡っていて、その中には推理小説とは趣の異なる作品(ロマン・デュール)などもありまして、『猫』はそうした小説群における代表作のひとつです。老夫婦が、ある出来事をきっかけにお互いを強く意識しあいながらもまるで互いなど存在しないかのように無視をしあって生活するという、老いの残酷と哀愁とを抱えたふたりの老人の愛憎劇をシニカルに描き出した小説です。
猫が死んでオウムが死にます。罪なき動物が死ぬのには耐えられないという人には読むのがかなりつらいと思います。
身も蓋もない言い方をすると、もともとは石工で職人気質な男と小金持ちの地主の女がそれぞれ妻と夫に先立たれ、男やもめと未亡人になり数年が経った頃にいよいよ老後の孤独を想像してなんとなく漠然とした不安にかられていたところ、ひょんなことからふたりは知り合いになり、「ひとりで居るよかいいか」というような、愛の再発見ではなく妥協で再婚するのですが、これがマジでうまくいかなかった、みたいな話です。
もちろん出会ったばかりのふたりはお互いに対してほんのりとした好意を持っている、しかしいざ生活を共にしてみると、無骨な職人の男とお上品な令嬢の生活はまったくもって噛み合わないものであって、それぞれの性格の違いや生活習慣の違いなど、価値観の相違が顕著になってくるたびに互いへの反感が強まっていき、ついには互いのペットを手にかけてしまう。そしてひとつ屋根の下で暮らしながらもふたりはお互いを憎みあうようになって、様々な方法で相手にプレッシャーを与えようとするのです。
怒りのあまりにふたりは、お互いを透明人間のように扱って会話のひとつさえしなくなるんだけど、そうすればそうするほどかえって相手の輪郭がはっきりしてきて、どんどん無視出来ない存在になっていくという皮肉な現実、そしてその緊張感にじっと耐えねばならない生活を互いに強いるうちに、どんどん「老いる」という退けようのない未来や、振り返ざるをえぬ過去などが迫ってくる…相手を切り捨てるに切り捨てられず、いっそ自分が自分を捨て去ってしまいたいような気持ちにさえなるのに自分を諦められず、別れるに別れられない老人の哀切は、「老い」の過程において決して回避出来ない孤独の本質を鋭く突いていると思います。孤独にはなりたくないが、他人が自分の築き上げてきた領域に足を踏み入れてくることにも、自分が生活の一部を譲ることにも、要するに相手の勝手気ままな振る舞いのすべてをそっくりそのまま受け入れることが出来ず、むなしい気持ちになる。かつての夫婦生活ではどうとでもなっていたことが新しい相手とではどうにもならず、かといって、今更妥協点を探ることも難しい。
主人公たちは70手前のおじいさんとおばあさん同士で再婚をするのですが、夫となるエミールはなんとそんな老人になってもまだ「性欲」なるものがありまして、初夜に再婚相手のマルグリットを抱こうとするんですよね。むしろ、そうすることが一種の礼儀でさえあるかのような振る舞いで、夫婦生活というものはそういうものだと思っている。前の妻とも盛んだったし。ところがマルグリットのほうはドン引きというか、「まあ夫には妻を抱く権利ありますものね…」みたいな感じでセックスを「耐えるもの」として受け入れようとするから、エミールは勃起を維持できずにその後は一度も夫婦の営みなどなく年月が流れ、お互いの価値観を冷静に擦り合わせる時間を持てないまま、結局ふたりはペット殺しという手段で擬似的にお互いを殺し合うちゅーわけです。
手前としては、正直70手前のじいさんにまだそんな気力が残っていると考えるとそれだけでだいぶ気持ちが悪いな…と思ってしまうんだけど、シムノンって本人が「女1万人抱いたった」みたいなトンデモドスケべおじさんなので、おそらく本人としては70手前でも現役なのは当たり前というか変な設定とは微塵とも思わなかったのかなと思います。作中でもエミールは70歳を過ぎてなお現役すぎて、妻の無言の圧力から逃れるために駆け込んだ飲み屋の女店主とやっちゃうし。でもここで描かれるエミールの性って、男性の欲望としての生々しい影を背負うものではなく、老いることや客観的に自分を見てしまうことへの恐れなんかをどうにか忘れようとする、かつての自分を部分的にでも取り戻そうとする老人の痛切な叫びのようなものがあり、痛ましい。何が痛ましいって、エミールの男として夫としての自尊心は既にボロ切れのような状態なのに、まだ自分には勃起的なもの、即ち自分の能力に対するプライドがあって、少なくとも妻/女性とは「対等」に綱引きが出来るはずだと思っているのに、いざ女店主とやった時/やったあとに残ったものは、「自分は彼女のご厚意に受け入れてもらっている、許して頂いている」という受け身の自分だけで…。
一方妻のマルグリットも、夫に対する当てこすりのためにそれまでの自分だったら絶対に付き合わないような下品な人を友人として家に招いたりして、もはや生きる目的が夫を苦しめることになりつつあるというか、「神に誓ったから離婚しない」のではなく、離婚することをなんらかの挫折、敗北と認めていて、自分の人生において「孤独」を勝者とすることは、夫を精神的に追い込むことや自分が今何をやっているのか分からなくなること、狂気じみたあらゆる行為よりもずっと最悪なことなんだろうなと。
このふたりというのは、どちらかの収入に頼らねば生きていけない人達ではないんですよね。ふたりとも余生を過ごすには足りるお金を持っていて、自分で料理することも外食することも出来る。文化的な活動もひとりで楽しめる。だから、「この人が居なくなったら生活が金銭面で苦しくなる」というようなことはなく、そういう意味では満ち足りているはずなのです。にも関わらず、彼らはお互いの精神にどうにかして干渉し続ける人生を選んでいるわけで、ここにシムノンの残酷な指摘があると思います。
老いるということは孤独との並走です。生き別れ、死に別れの繰り返し。そして「老い」というものは逃れようのない人生のさだめです。だから、人間は本質的に「孤独」というものと常に連帯しているのであって、孤独感というものは別に敵でも味方でもなくただの標準装備なわけです。若い頃はこの装備を取り扱うための体力がある。新しい人間関係や経験が何をせずとも目の前に現れる、考え事を処理するための体力もある、選択肢もある。ところが人はいずれ仕事を辞め、家庭に戻ります。定年を迎えて社会人としての役目に区切りをつける、人間関係はそれ以上広がらず最小単位に留まり、その維持とメンテナンスを続ける体力も徐々に失い、遠出をするのも億劫になる。ある時、経験そのものが負担に変わる瞬間がやってくる。次第に両肩にのしかかる孤独が重たさを増したと感じる。いや、孤独が重たくなったのではない、自分の肩があまりに小さくなったのだ、その重みに耐えられる体力を失いつつあるのだ…と、こういう感じで、孤独を脅威とみなせば立ち所に孤独は人の心を蝕みます。
老夫婦はひとりでいることの厄介さを知っています。それはつらいことです。不安なことです。だから、共依存出来る宛先として他者を自分の人生に招き入れます。愛ではないもので人と繋がろうとします。でも目的は愛し合うことではなく、共依存です。ゆえにどんなに相手に腹が立っても、どれほど相手の所業が許せなくても、別れられない。別れるつもりもない。なぜなら、ふたりの目的はそういう意味では既に達成されているからです。そしてこういう問題の解決には、「自分ひとりが生きていくのに充分なお金」なんてなんの役にも立たないのです。人に依存しないで生きていくために最も重要なアイテムは、実はお金よりもまず自分がどう孤独と連帯していくか、その方法を記載したルールブックだからです。
孤独にならない方法はどれもが難しい。実践するためには、たくさんのリソースを割かなければいけないから。でも孤独を“感じずに”生きる方法はそれより容易い。意地が悪かろうと虚しかろうと、様々な方法で自分という存在を相手に意識させ続ければいいんだから。誰かから意識され続けている以上、自分は決して「孤独」には陥らない。
夫婦はどちらが怒りのイニシアチブを握るかで毎日を苛立たしく過ごすけど、その苛立ちにこそ孤独の解決方法を認めている。それは複雑で、実に解きほぐしがたい歪な絆なのです。
2026/07/10読了
猫
ジョルジュ・シムノン著 三輪秀彦訳
創元社推理文庫畳む
ジョルジュ・シムノンといえばメグレシリーズでお馴染みの推理小説作家ですが彼の著作は本当に点数が多く内容も多岐に渡っていて、その中には推理小説とは趣の異なる作品(ロマン・デュール)などもありまして、『猫』はそうした小説群における代表作のひとつです。老夫婦が、ある出来事をきっかけにお互いを強く意識しあいながらもまるで互いなど存在しないかのように無視をしあって生活するという、老いの残酷と哀愁とを抱えたふたりの老人の愛憎劇をシニカルに描き出した小説です。
猫が死んでオウムが死にます。罪なき動物が死ぬのには耐えられないという人には読むのがかなりつらいと思います。
身も蓋もない言い方をすると、もともとは石工で職人気質な男と小金持ちの地主の女がそれぞれ妻と夫に先立たれ、男やもめと未亡人になり数年が経った頃にいよいよ老後の孤独を想像してなんとなく漠然とした不安にかられていたところ、ひょんなことからふたりは知り合いになり、「ひとりで居るよかいいか」というような、愛の再発見ではなく妥協で再婚するのですが、これがマジでうまくいかなかった、みたいな話です。
もちろん出会ったばかりのふたりはお互いに対してほんのりとした好意を持っている、しかしいざ生活を共にしてみると、無骨な職人の男とお上品な令嬢の生活はまったくもって噛み合わないものであって、それぞれの性格の違いや生活習慣の違いなど、価値観の相違が顕著になってくるたびに互いへの反感が強まっていき、ついには互いのペットを手にかけてしまう。そしてひとつ屋根の下で暮らしながらもふたりはお互いを憎みあうようになって、様々な方法で相手にプレッシャーを与えようとするのです。
怒りのあまりにふたりは、お互いを透明人間のように扱って会話のひとつさえしなくなるんだけど、そうすればそうするほどかえって相手の輪郭がはっきりしてきて、どんどん無視出来ない存在になっていくという皮肉な現実、そしてその緊張感にじっと耐えねばならない生活を互いに強いるうちに、どんどん「老いる」という退けようのない未来や、振り返ざるをえぬ過去などが迫ってくる…相手を切り捨てるに切り捨てられず、いっそ自分が自分を捨て去ってしまいたいような気持ちにさえなるのに自分を諦められず、別れるに別れられない老人の哀切は、「老い」の過程において決して回避出来ない孤独の本質を鋭く突いていると思います。孤独にはなりたくないが、他人が自分の築き上げてきた領域に足を踏み入れてくることにも、自分が生活の一部を譲ることにも、要するに相手の勝手気ままな振る舞いのすべてをそっくりそのまま受け入れることが出来ず、むなしい気持ちになる。かつての夫婦生活ではどうとでもなっていたことが新しい相手とではどうにもならず、かといって、今更妥協点を探ることも難しい。
主人公たちは70手前のおじいさんとおばあさん同士で再婚をするのですが、夫となるエミールはなんとそんな老人になってもまだ「性欲」なるものがありまして、初夜に再婚相手のマルグリットを抱こうとするんですよね。むしろ、そうすることが一種の礼儀でさえあるかのような振る舞いで、夫婦生活というものはそういうものだと思っている。前の妻とも盛んだったし。ところがマルグリットのほうはドン引きというか、「まあ夫には妻を抱く権利ありますものね…」みたいな感じでセックスを「耐えるもの」として受け入れようとするから、エミールは勃起を維持できずにその後は一度も夫婦の営みなどなく年月が流れ、お互いの価値観を冷静に擦り合わせる時間を持てないまま、結局ふたりはペット殺しという手段で擬似的にお互いを殺し合うちゅーわけです。
手前としては、正直70手前のじいさんにまだそんな気力が残っていると考えるとそれだけでだいぶ気持ちが悪いな…と思ってしまうんだけど、シムノンって本人が「女1万人抱いたった」みたいなトンデモドスケべおじさんなので、おそらく本人としては70手前でも現役なのは当たり前というか変な設定とは微塵とも思わなかったのかなと思います。作中でもエミールは70歳を過ぎてなお現役すぎて、妻の無言の圧力から逃れるために駆け込んだ飲み屋の女店主とやっちゃうし。でもここで描かれるエミールの性って、男性の欲望としての生々しい影を背負うものではなく、老いることや客観的に自分を見てしまうことへの恐れなんかをどうにか忘れようとする、かつての自分を部分的にでも取り戻そうとする老人の痛切な叫びのようなものがあり、痛ましい。何が痛ましいって、エミールの男として夫としての自尊心は既にボロ切れのような状態なのに、まだ自分には勃起的なもの、即ち自分の能力に対するプライドがあって、少なくとも妻/女性とは「対等」に綱引きが出来るはずだと思っているのに、いざ女店主とやった時/やったあとに残ったものは、「自分は彼女のご厚意に受け入れてもらっている、許して頂いている」という受け身の自分だけで…。
一方妻のマルグリットも、夫に対する当てこすりのためにそれまでの自分だったら絶対に付き合わないような下品な人を友人として家に招いたりして、もはや生きる目的が夫を苦しめることになりつつあるというか、「神に誓ったから離婚しない」のではなく、離婚することをなんらかの挫折、敗北と認めていて、自分の人生において「孤独」を勝者とすることは、夫を精神的に追い込むことや自分が今何をやっているのか分からなくなること、狂気じみたあらゆる行為よりもずっと最悪なことなんだろうなと。
このふたりというのは、どちらかの収入に頼らねば生きていけない人達ではないんですよね。ふたりとも余生を過ごすには足りるお金を持っていて、自分で料理することも外食することも出来る。文化的な活動もひとりで楽しめる。だから、「この人が居なくなったら生活が金銭面で苦しくなる」というようなことはなく、そういう意味では満ち足りているはずなのです。にも関わらず、彼らはお互いの精神にどうにかして干渉し続ける人生を選んでいるわけで、ここにシムノンの残酷な指摘があると思います。
老いるということは孤独との並走です。生き別れ、死に別れの繰り返し。そして「老い」というものは逃れようのない人生のさだめです。だから、人間は本質的に「孤独」というものと常に連帯しているのであって、孤独感というものは別に敵でも味方でもなくただの標準装備なわけです。若い頃はこの装備を取り扱うための体力がある。新しい人間関係や経験が何をせずとも目の前に現れる、考え事を処理するための体力もある、選択肢もある。ところが人はいずれ仕事を辞め、家庭に戻ります。定年を迎えて社会人としての役目に区切りをつける、人間関係はそれ以上広がらず最小単位に留まり、その維持とメンテナンスを続ける体力も徐々に失い、遠出をするのも億劫になる。ある時、経験そのものが負担に変わる瞬間がやってくる。次第に両肩にのしかかる孤独が重たさを増したと感じる。いや、孤独が重たくなったのではない、自分の肩があまりに小さくなったのだ、その重みに耐えられる体力を失いつつあるのだ…と、こういう感じで、孤独を脅威とみなせば立ち所に孤独は人の心を蝕みます。
老夫婦はひとりでいることの厄介さを知っています。それはつらいことです。不安なことです。だから、共依存出来る宛先として他者を自分の人生に招き入れます。愛ではないもので人と繋がろうとします。でも目的は愛し合うことではなく、共依存です。ゆえにどんなに相手に腹が立っても、どれほど相手の所業が許せなくても、別れられない。別れるつもりもない。なぜなら、ふたりの目的はそういう意味では既に達成されているからです。そしてこういう問題の解決には、「自分ひとりが生きていくのに充分なお金」なんてなんの役にも立たないのです。人に依存しないで生きていくために最も重要なアイテムは、実はお金よりもまず自分がどう孤独と連帯していくか、その方法を記載したルールブックだからです。
孤独にならない方法はどれもが難しい。実践するためには、たくさんのリソースを割かなければいけないから。でも孤独を“感じずに”生きる方法はそれより容易い。意地が悪かろうと虚しかろうと、様々な方法で自分という存在を相手に意識させ続ければいいんだから。誰かから意識され続けている以上、自分は決して「孤独」には陥らない。
夫婦はどちらが怒りのイニシアチブを握るかで毎日を苛立たしく過ごすけど、その苛立ちにこそ孤独の解決方法を認めている。それは複雑で、実に解きほぐしがたい歪な絆なのです。
2026/07/10読了
猫
ジョルジュ・シムノン著 三輪秀彦訳
創元社推理文庫畳む
CATEGORY:小説感想
フランシス・アイルズ『殺意』読了。
犯人と犯行の手口が先に明かされて、その犯人視点から物語が進むいわゆる「倒述ミステリー」の傑作と言われている本なんですけど、本当にバチくそおもしろい。作者のフランシス・アイルズはもともとがユーモア作家なんだけど、「ミステリ書いた方が儲かるやんけ」ということで『レイトン・コートの謎』という処女作を皮切りに次々作品を発表して、『殺意』は彼がフランシス・アイルズという名義で初めて出した本だそう。ともかく、もともとがユーモア作家ということで、内容にかなりブラックな笑いが効いていてめちゃくちゃ良い。
主人公のビクリー(犯人)は、自尊心だけはやたらに高いが本当は自分の身長が小さいことや学歴が立派ではないことがコンプレックスで、他人の地位や社会的な実績、相手が自分のことをどのように評価してくれるのかばかりを気にしている、実際にはとても臆病で卑屈な性格の持ち主で、そんな男が「殺人」という凶行にあまりにも身勝手な理由で手を染めたことを懸命に自己正当化しつづけるうち、自己憐憫が過ぎるあまりにすべての「殺意」は自分のために公平性と限りない正当性を持つに違いないのだから自分が裁かれるはずがないと思い込み、殺人をとんでもない悪事であり過ちと認める一方で、自分の犯した罪をまるで当然の権利を行使したとばかりに正当化する様を皮肉たっぷりに描いているところが、現代にもまったく同じような思考回路をもつ人間はいるよなぁという点で、非常に興味深く読めた。インターネットにゴロゴロおるで、擬似ビクリー。
ビクリーという男がどういう存在なのかというのをすべて掘り下げて描いていくんだけど、その書き出しが「37歳、チビ」みたいな感じで笑ってしまった。身長が靴をはいて170センチくらいしかなくて、それがビクリーにとってはものすごいコンプレックスで、しかも学歴も育ちもまわりの上流階級とは全然違うからそういうことも本人は気にしていて、コンプレックスの塊だから特に女性と話す時には妙に緊張しちゃうタイプで、なんだけどこのコンプレックスがひるがえって好みの女性を見るとすぐに腰ヘコヘコしだすみたいな最悪のクセがある。夜寝る前は「クラスに突然テロリストが現れて、それを俺はギッタバッタとなぎ倒し…」みたいな妄想で自分を慰めて、それが彼にとってのささやかな楽しみになっているというのも生々しい。奥さんは7つ年上で自分とは性的関係にないどころか形式上は夫婦みたいな冷めきった関係で、自分より若い女の子に「この子こそ俺の理想の女の子だッ!」と熱をあげて一方的に両思いと思い込んでキスをせがんで全力でフラれて、拒絶された途端に「アイツはビッチ!俺の心を弄んだ!」つって逆恨みするタイプで本当に情けなさすぎて泣けてくるんだが、ビクリーは小さな田舎町の開業医なので周囲からの人望はそこそこに厚いんですね。仕事はちゃんとやるタイプ。
そんなビクリーがこの田舎町に引っ越してきたマドレインという、自分より10も年下の女性に熱をあげまくって「だいちゅき結婚すゅ!」となり、マドレインに「余計なこと奥さんに言ったらあかんよ、こういうのはふたりの秘密にしとこうや」と言われたにも関わらず、それでは誠意がなさすぎる!と勝手に盛り上がり、奥さんのジュリアに「そういうわけだから離婚してくだちい」とわざわざ告げてしまう。このあたりからも、自己中心的で思い込みが激しくマドレインという(その時点では)最愛の人の言葉の真意も届かない、自分の自尊心が傷つくことを過度に恐れるあまりなんでも自己解釈で都合よく捉えてしまうところがビクリーにはある、と読める。
冷静な奥さんに「お前の恋愛とかにほんまに微塵も興味ないけどな、でもまあその関係が一年続いて、女のほうもお前と結婚したがってるっちゅーなら離婚したるわ」つって、この寛容さにビクリーもビックリーするんですが、「若い娘エロがんなよ」みたいなこと言われた瞬間「アナタはそんなことしか考えられないんですかぁ?引くんですけど」みたいなこと考えてかなりまともなこと言ってるジュリアに嫌悪感を向ける、この認知の歪みっぷりが「いるいるいるいるこいうヤツ!」という感じで心にグサグサくる。端的にいうと、ビクリーはコンカフェ嬢やホステスにのめり込んで勝手に自滅したのに被害妄想だけは人一倍強くてすぐキレるタイプのおじさんである。
ビクリーはコンプレックスが強すぎて、本当は自分に自信がない。結婚だって燃え上がるような恋愛で…とかじゃなく、社会的に自分がどう見えるかを気にしてのこと。とにかく相手から拒絶されることを過度に恐れていて、自分に対する批判が怖い。単なる思い込みで一方的に相手を好きになったくせに、脳内では勝手にお相手との両想いのバラ色生活が始まっていて、これが真の愛なのだと妄想する。相手から自分が望んだとおりの返報がないと逆ギレし、自分を責めるのではなくなんの非もない相手をなじる。自分を受け入れてくれない女が嫌い。自分は常に弱い立場で尊重されていないし、被害者なのはむしろこっちだと本気で思っている。
フランシス・アイルズはこの手の男に何か断罪を加えてやろうと思ってこの話を書いたのではなく特濃の皮肉を込めてこの物語を描いたんだろうけど、ビクリーと対比される(と読める)男性たちがみんなビクリーとは真逆(確固たる地位がある、地位はなくとも人は良い、若くハツラツ等…)なあたり、「もっと手心というか…」と思ってしまう。ラスト2ページのどんでん返しにもちょっと度肝を抜かれました。
前半、なかなか人が死なず若干退屈なのですが、ビクリーがマドレインと一方的な真剣恋愛(と本人が思い込んでいる何か)を始めたあたりからの加速がエグい。
ビクリー、自分の中に「これだけは手放しで褒められることだ、自分の自信になった経歴だ、これだけの積み重ねが今の自分を作っているんだ、自分はその点で立派だ」みたいな、自分の核というべき経験がなさすぎて、「殺人」という行為そのものに人生における実績みたいな価値を感じちゃってんだよな。自己陶酔と自己肥大化の両方を殺人が後押ししてしまった。自分が好きすぎるのに自分が空っぽ。むしろ今の時代にこそみんなが読んでおくべき良著では…と思いました。これがまた1931年に発表されている作品だというのがもう…。現代にも、たくさんのビクリー予備軍がおりますから。
2026/06/17読了
殺意
フランシス・アイルズ著 大久保康夫訳
創元社推理文庫畳む
犯人と犯行の手口が先に明かされて、その犯人視点から物語が進むいわゆる「倒述ミステリー」の傑作と言われている本なんですけど、本当にバチくそおもしろい。作者のフランシス・アイルズはもともとがユーモア作家なんだけど、「ミステリ書いた方が儲かるやんけ」ということで『レイトン・コートの謎』という処女作を皮切りに次々作品を発表して、『殺意』は彼がフランシス・アイルズという名義で初めて出した本だそう。ともかく、もともとがユーモア作家ということで、内容にかなりブラックな笑いが効いていてめちゃくちゃ良い。
主人公のビクリー(犯人)は、自尊心だけはやたらに高いが本当は自分の身長が小さいことや学歴が立派ではないことがコンプレックスで、他人の地位や社会的な実績、相手が自分のことをどのように評価してくれるのかばかりを気にしている、実際にはとても臆病で卑屈な性格の持ち主で、そんな男が「殺人」という凶行にあまりにも身勝手な理由で手を染めたことを懸命に自己正当化しつづけるうち、自己憐憫が過ぎるあまりにすべての「殺意」は自分のために公平性と限りない正当性を持つに違いないのだから自分が裁かれるはずがないと思い込み、殺人をとんでもない悪事であり過ちと認める一方で、自分の犯した罪をまるで当然の権利を行使したとばかりに正当化する様を皮肉たっぷりに描いているところが、現代にもまったく同じような思考回路をもつ人間はいるよなぁという点で、非常に興味深く読めた。インターネットにゴロゴロおるで、擬似ビクリー。
ビクリーという男がどういう存在なのかというのをすべて掘り下げて描いていくんだけど、その書き出しが「37歳、チビ」みたいな感じで笑ってしまった。身長が靴をはいて170センチくらいしかなくて、それがビクリーにとってはものすごいコンプレックスで、しかも学歴も育ちもまわりの上流階級とは全然違うからそういうことも本人は気にしていて、コンプレックスの塊だから特に女性と話す時には妙に緊張しちゃうタイプで、なんだけどこのコンプレックスがひるがえって好みの女性を見るとすぐに腰ヘコヘコしだすみたいな最悪のクセがある。夜寝る前は「クラスに突然テロリストが現れて、それを俺はギッタバッタとなぎ倒し…」みたいな妄想で自分を慰めて、それが彼にとってのささやかな楽しみになっているというのも生々しい。奥さんは7つ年上で自分とは性的関係にないどころか形式上は夫婦みたいな冷めきった関係で、自分より若い女の子に「この子こそ俺の理想の女の子だッ!」と熱をあげて一方的に両思いと思い込んでキスをせがんで全力でフラれて、拒絶された途端に「アイツはビッチ!俺の心を弄んだ!」つって逆恨みするタイプで本当に情けなさすぎて泣けてくるんだが、ビクリーは小さな田舎町の開業医なので周囲からの人望はそこそこに厚いんですね。仕事はちゃんとやるタイプ。
そんなビクリーがこの田舎町に引っ越してきたマドレインという、自分より10も年下の女性に熱をあげまくって「だいちゅき結婚すゅ!」となり、マドレインに「余計なこと奥さんに言ったらあかんよ、こういうのはふたりの秘密にしとこうや」と言われたにも関わらず、それでは誠意がなさすぎる!と勝手に盛り上がり、奥さんのジュリアに「そういうわけだから離婚してくだちい」とわざわざ告げてしまう。このあたりからも、自己中心的で思い込みが激しくマドレインという(その時点では)最愛の人の言葉の真意も届かない、自分の自尊心が傷つくことを過度に恐れるあまりなんでも自己解釈で都合よく捉えてしまうところがビクリーにはある、と読める。
冷静な奥さんに「お前の恋愛とかにほんまに微塵も興味ないけどな、でもまあその関係が一年続いて、女のほうもお前と結婚したがってるっちゅーなら離婚したるわ」つって、この寛容さにビクリーもビックリーするんですが、「若い娘エロがんなよ」みたいなこと言われた瞬間「アナタはそんなことしか考えられないんですかぁ?引くんですけど」みたいなこと考えてかなりまともなこと言ってるジュリアに嫌悪感を向ける、この認知の歪みっぷりが「いるいるいるいるこいうヤツ!」という感じで心にグサグサくる。端的にいうと、ビクリーはコンカフェ嬢やホステスにのめり込んで勝手に自滅したのに被害妄想だけは人一倍強くてすぐキレるタイプのおじさんである。
ビクリーはコンプレックスが強すぎて、本当は自分に自信がない。結婚だって燃え上がるような恋愛で…とかじゃなく、社会的に自分がどう見えるかを気にしてのこと。とにかく相手から拒絶されることを過度に恐れていて、自分に対する批判が怖い。単なる思い込みで一方的に相手を好きになったくせに、脳内では勝手にお相手との両想いのバラ色生活が始まっていて、これが真の愛なのだと妄想する。相手から自分が望んだとおりの返報がないと逆ギレし、自分を責めるのではなくなんの非もない相手をなじる。自分を受け入れてくれない女が嫌い。自分は常に弱い立場で尊重されていないし、被害者なのはむしろこっちだと本気で思っている。
フランシス・アイルズはこの手の男に何か断罪を加えてやろうと思ってこの話を書いたのではなく特濃の皮肉を込めてこの物語を描いたんだろうけど、ビクリーと対比される(と読める)男性たちがみんなビクリーとは真逆(確固たる地位がある、地位はなくとも人は良い、若くハツラツ等…)なあたり、「もっと手心というか…」と思ってしまう。ラスト2ページのどんでん返しにもちょっと度肝を抜かれました。
前半、なかなか人が死なず若干退屈なのですが、ビクリーがマドレインと一方的な真剣恋愛(と本人が思い込んでいる何か)を始めたあたりからの加速がエグい。
ビクリー、自分の中に「これだけは手放しで褒められることだ、自分の自信になった経歴だ、これだけの積み重ねが今の自分を作っているんだ、自分はその点で立派だ」みたいな、自分の核というべき経験がなさすぎて、「殺人」という行為そのものに人生における実績みたいな価値を感じちゃってんだよな。自己陶酔と自己肥大化の両方を殺人が後押ししてしまった。自分が好きすぎるのに自分が空っぽ。むしろ今の時代にこそみんなが読んでおくべき良著では…と思いました。これがまた1931年に発表されている作品だというのがもう…。現代にも、たくさんのビクリー予備軍がおりますから。
2026/06/17読了
殺意
フランシス・アイルズ著 大久保康夫訳
創元社推理文庫畳む
CATEGORY:小説感想
S・A・コスビーの『すべての罪は血を流す』を店頭でなんとなく買ってしばらく積んでいたのだが、ふと読んだら恐ろしい速度でハマった。失われていた読書への熱がぶり返し、活字だ!もっと活字をくれ!となってから、去年と今年は最も本を読んでいた学生時代と同じくらいのペースで読書が出来ている。
ただ、そもそも私は年間の読書量がそもそもまったく多くないタイプだし、読むのが早いというわけでもない。最もたくさん読んでいた時期でも、1ヶ月に1冊というペース。社会人になってからはそれより減って、年間で読む量は2冊から4冊というところで、それも分厚い本は避けていた。新しく、更には膨大な情報量を受け取るのが非常に億劫という時代がここ5、6年くらいあり、複雑な推理小説や犯罪小説からは距離を置いていたし、もっと噛み砕きやすいエンタメ寄りの小説、浅田次郎や西村京太郎などを好んで読むという感じだった。特に浅田次郎作品にはお世話になりました。壬生義士伝は傑作です。
そんな感じでほぼ溶けた氷みたいな読書勢だったのが、S・A・コスビーと出会って側頭部をガツンとイカれた。面白すぎて文字を読むというより気付いたら飲んでいた。すぐに既刊をすべて買った。自分が液体から個体に戻ろうとしている感覚だった。
この『灰の王』もどれほど心待ちにしていたか。私をもう一度「本を読む」という面白さと楽しさの深いぬくもりに包み込んでくれたS・A・コスビーに最大の賞賛と賛辞を送りながら、1ページ1ページ大切に読んで、出来れば1週間くらい楽しむぞ…と思っていたのに興奮と好奇心がそれを許してくれなかった。かぶりつくように読んで、そして泣いた。感動とかではなく、物語の登場人物たちのあまりにも深くあまりにも健気で、あまりにも無力であまりにも空回った愛の虚しさに…。本当につらい。呪術廻戦のつらさを1呪術廻戦とすると今回の話は1.5呪術廻戦くらいのつらさがある。
S・A・コスビーは「家族」を書く。自分たちの体の中に流れている確かな「血」を書く。『灰の王』は犯罪小説でありながら、家族の在り方と罪とを問うドラマでもある。登場人物たちはみな家族を愛している。自分の人生を投げ打ってもいいと思えるほど心から、すべてを捧げても構わないと思えるほど、家族を愛している。兄。姉。弟。きょうだい。真剣で痛いほど一途な愛。でも、彼らは愛し方が分からない。愛だけ知っていて、やり方だけを知らない。
S・A・コスビーが活写してきた今までの主人公は、すでに闇社会からは手を切っている/またはすでに公権力の側にあるが、悪を排除するため暴力という過剰なエネルギーの迸る世界に再び足を踏み入れるというパターンが多かった。正義が正義を実行するのではなく、悪の中にいびつに花開くもう片方の悪が、さながらゲームセンターに置かれたメダルプッシャーのように農場の生活を脅かす野獣たちを押し出して排除するという物語。
一方『灰の王』では、主人公ローマンはビジネスで成功した金持ちではあるものの、反社会的行為に加担などしていない「一般人」で、ある程度好き勝手出来る金を持ってはいるがバットマンなどではない男だ。しかし、弟のダンテが麻薬ディーラーに“なりそこねた”せいで、ローマンは財力ではなく自分のビジネスセンスでバットケイブを作り上げなくてはならなくなった。ただし、それは絶対的な悪に対して正義の鉄槌を下すためなどではなく、ただ家族を守るためにである。
ローマンには弟ダンテの他に妹のネヴェアがおり、彼女もまた悪徳警官チョーンシーとの不倫や家族への疑心など、後暗い秘密を抱えている。彼ら三兄弟が幼い頃に“失踪”した母親と、ダンテへの“見せしめ”として寝たきりにさせられた父親。両親につきまとう影と噂。三者三様の愛が複雑に絡み合い、それが相手に安らぎや恋しさを覚えさせるのではなく常に不安と猜疑心に変換されてしまう。
南部ノワールとしての舞台設定も完璧だ。コミュニティはその深い絆のために常に犠牲者を選び、対価を支払わなければならない。沈黙を選び続けることは出来ない。
また登場人物たちの魅力も深い。脳内では完全に主人公をマイケル・B・ジョーダンの顔で再生している。
今年もコスビーはゴールドダガー賞にノミネートされていたが、受賞はアビゲイル・ディーンの『The Death Of Us』となったようだ。こちらもいずれ読みたい。
S・A・コスビーの好きなところ、カーチェイスや銃撃戦の描写が凄まじい疾走感と重量をたたえて描かれているところなのだが、これは無駄な冗長性をこのシーン(カーチェイスや銃撃戦、その他暴力の現場)において一切排しているからなんだな、と思った。例えばボストン・テランなんかは、もはや描き出すというより暴き出すって感じの強烈な気迫に満ちた文章が特徴的だけど、テランの場合は暴力描写の中に詩的なほど鮮やかな人物描写や時間と一体化した空間を書き込んでしまうことで、すべてのシーンがスローモーションに読める。
ボストン・テランは『暴力の教義』と『神は銃弾』しか読んだことないので詳しいわけではないんだけど、両作とも冨樫義博が描き出すような人間のエグみが好きな人にはオススメ出来ると思う。『暴力の教義』も映画化する話があったがあれは結局立ち消えたのかな。『神は銃弾』のほうは2023年に映画化されていたらしくて(知らなかった)観たいような、あの苛烈な暴力描写を知っているうえで改めて映像として観たいかと言われると悩ましいような。
コスビーの作品も映画化の権利だけはどこぞの会社が押さえていると聞いたので、5年後になるか10年後になるかはたまた20年後になるかは分からないが、映像化が楽しみではある。
暴力と砂漠って死ぬほど相性がいいよな。呪われるなら村、霊に出会うなら屋敷、怪異と出会うなら山、人を埋めるなら森、死にに行くなら海、人を銃で殺すなら砂漠。私はそのように思います。
2026/07/02読了
灰の王
S・A・コスビー著 加賀山卓朗訳
ハーパーBOOKS畳む
ただ、そもそも私は年間の読書量がそもそもまったく多くないタイプだし、読むのが早いというわけでもない。最もたくさん読んでいた時期でも、1ヶ月に1冊というペース。社会人になってからはそれより減って、年間で読む量は2冊から4冊というところで、それも分厚い本は避けていた。新しく、更には膨大な情報量を受け取るのが非常に億劫という時代がここ5、6年くらいあり、複雑な推理小説や犯罪小説からは距離を置いていたし、もっと噛み砕きやすいエンタメ寄りの小説、浅田次郎や西村京太郎などを好んで読むという感じだった。特に浅田次郎作品にはお世話になりました。壬生義士伝は傑作です。
そんな感じでほぼ溶けた氷みたいな読書勢だったのが、S・A・コスビーと出会って側頭部をガツンとイカれた。面白すぎて文字を読むというより気付いたら飲んでいた。すぐに既刊をすべて買った。自分が液体から個体に戻ろうとしている感覚だった。
この『灰の王』もどれほど心待ちにしていたか。私をもう一度「本を読む」という面白さと楽しさの深いぬくもりに包み込んでくれたS・A・コスビーに最大の賞賛と賛辞を送りながら、1ページ1ページ大切に読んで、出来れば1週間くらい楽しむぞ…と思っていたのに興奮と好奇心がそれを許してくれなかった。かぶりつくように読んで、そして泣いた。感動とかではなく、物語の登場人物たちのあまりにも深くあまりにも健気で、あまりにも無力であまりにも空回った愛の虚しさに…。本当につらい。呪術廻戦のつらさを1呪術廻戦とすると今回の話は1.5呪術廻戦くらいのつらさがある。
S・A・コスビーは「家族」を書く。自分たちの体の中に流れている確かな「血」を書く。『灰の王』は犯罪小説でありながら、家族の在り方と罪とを問うドラマでもある。登場人物たちはみな家族を愛している。自分の人生を投げ打ってもいいと思えるほど心から、すべてを捧げても構わないと思えるほど、家族を愛している。兄。姉。弟。きょうだい。真剣で痛いほど一途な愛。でも、彼らは愛し方が分からない。愛だけ知っていて、やり方だけを知らない。
S・A・コスビーが活写してきた今までの主人公は、すでに闇社会からは手を切っている/またはすでに公権力の側にあるが、悪を排除するため暴力という過剰なエネルギーの迸る世界に再び足を踏み入れるというパターンが多かった。正義が正義を実行するのではなく、悪の中にいびつに花開くもう片方の悪が、さながらゲームセンターに置かれたメダルプッシャーのように農場の生活を脅かす野獣たちを押し出して排除するという物語。
一方『灰の王』では、主人公ローマンはビジネスで成功した金持ちではあるものの、反社会的行為に加担などしていない「一般人」で、ある程度好き勝手出来る金を持ってはいるがバットマンなどではない男だ。しかし、弟のダンテが麻薬ディーラーに“なりそこねた”せいで、ローマンは財力ではなく自分のビジネスセンスでバットケイブを作り上げなくてはならなくなった。ただし、それは絶対的な悪に対して正義の鉄槌を下すためなどではなく、ただ家族を守るためにである。
ローマンには弟ダンテの他に妹のネヴェアがおり、彼女もまた悪徳警官チョーンシーとの不倫や家族への疑心など、後暗い秘密を抱えている。彼ら三兄弟が幼い頃に“失踪”した母親と、ダンテへの“見せしめ”として寝たきりにさせられた父親。両親につきまとう影と噂。三者三様の愛が複雑に絡み合い、それが相手に安らぎや恋しさを覚えさせるのではなく常に不安と猜疑心に変換されてしまう。
南部ノワールとしての舞台設定も完璧だ。コミュニティはその深い絆のために常に犠牲者を選び、対価を支払わなければならない。沈黙を選び続けることは出来ない。
また登場人物たちの魅力も深い。脳内では完全に主人公をマイケル・B・ジョーダンの顔で再生している。
今年もコスビーはゴールドダガー賞にノミネートされていたが、受賞はアビゲイル・ディーンの『The Death Of Us』となったようだ。こちらもいずれ読みたい。
S・A・コスビーの好きなところ、カーチェイスや銃撃戦の描写が凄まじい疾走感と重量をたたえて描かれているところなのだが、これは無駄な冗長性をこのシーン(カーチェイスや銃撃戦、その他暴力の現場)において一切排しているからなんだな、と思った。例えばボストン・テランなんかは、もはや描き出すというより暴き出すって感じの強烈な気迫に満ちた文章が特徴的だけど、テランの場合は暴力描写の中に詩的なほど鮮やかな人物描写や時間と一体化した空間を書き込んでしまうことで、すべてのシーンがスローモーションに読める。
ボストン・テランは『暴力の教義』と『神は銃弾』しか読んだことないので詳しいわけではないんだけど、両作とも冨樫義博が描き出すような人間のエグみが好きな人にはオススメ出来ると思う。『暴力の教義』も映画化する話があったがあれは結局立ち消えたのかな。『神は銃弾』のほうは2023年に映画化されていたらしくて(知らなかった)観たいような、あの苛烈な暴力描写を知っているうえで改めて映像として観たいかと言われると悩ましいような。
コスビーの作品も映画化の権利だけはどこぞの会社が押さえていると聞いたので、5年後になるか10年後になるかはたまた20年後になるかは分からないが、映像化が楽しみではある。
暴力と砂漠って死ぬほど相性がいいよな。呪われるなら村、霊に出会うなら屋敷、怪異と出会うなら山、人を埋めるなら森、死にに行くなら海、人を銃で殺すなら砂漠。私はそのように思います。
2026/07/02読了
灰の王
S・A・コスビー著 加賀山卓朗訳
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CATEGORY:小説感想
2年前、U-NEXTがHBO(ワーナー)と提携したことで、それまで有料配信だったハリーポッターシリーズが見放題配信へと切り替わった。見放題なら一度見てみるかと、シリーズ第1作目の『賢者の石』を再生した時には、ハリーポッターシリーズを物語として楽しむというよりまだ年若い頃の俳優たちを見て楽しむという感じで、聞きかじったことのあるストーリーの辻褄を合わせながら鑑賞していた。なんなら、改めて鑑賞した『賢者の石』は、小中学生くらいの子供も見ることを前提とした映画のわりには、陰気だし、話も長いわりに進行が遅く、退屈ささえ感じるとさえ思った。続く『秘密の部屋』も、合間合間に緊張が走る展開はありつつもそこまで話を面白いとは感じておらず、物語より魔法世界の美術などに興味を惹かれる感じだった。
突如ギアが上がったのは、第4作目の『炎のゴブレット』を見た時だった。『アズカバンの囚人』は“ハリー・ポッター”として面白いというより、魔法やタイムリープなどのギミックがうまく回収されていく映画的な面白さのほうが勝っていて、ハリーポッターを見たというより映画を見たという感想の方が自分の感覚に近かったのだが、『炎のゴブレット』はそれまでの映画シリーズとは明らかに一線を画す、本当の意味での“ハリー・ポッター”の世界という感じがした。
『アズカバンの囚人』までは、ヴォルデモートは「不気味で、なんか悪くて怖いやつ」というイメージだったし、勝手に脳内で少年漫画的な敵役を想像してしまっていた。「悪のカリスマ」であることは間違いないんだろうし、カリスマと言われるくらいなんだからきっと悪としての美学か何か、思わず心掴まれてしまう主義や主張があるんだろうと、無意識に決めつけて見ていた。ところが、『炎のゴブレット』でいよいよ姿を現したヴォルデモートは、「やらないなら殺す、出来ないなら殺す、不快なら殺す、とにかく殺す」という、超絶シンプルに「脅す」という手法で悪の元締をやっていたのである。なんの衒いもない。“他者の命をも支配する暴力”で世界を歪める悪がヴォルデモートだった。
セドリックが死なねばならなかった理由がないという一点にまず驚き、理由なき暴力、理不尽な簒奪、沈黙の中にただ沈み、近しい人や愛する人に別れの言葉さえ交わすことが出来ない最期、人生、命を奪われるということが一体どういうことなのかというストレートにも程がある“死”を、映画を通じて、おそらくたくさんの“子供たち”をターゲットにした物語でやるという展開に、突然後頭部を撃ち抜かれるくらいの衝撃を受けた。ついこの間までホグワーツ魔法学校の校内でアトラクションみたいな冒険をやっていたハリーたちが、いよいよここから本格的な「戦争」に巻き込まれていく。
ただの圧倒的な暴力装置としての悪なのに、ヴォルデモート本人はいかにも育ちのよさげな紳士的な態度を相手に見せてくるというギャップも良かった。
セドリックの遺体とハリーがホグワーツに戻ってきて、セドリックのお父さんが「My boy」と言いながらセドリックに駆け寄ってくるところで毎回泣く。セドリックは父にとっていくつになっても「My boy」なのだ。その「My boy」が冷たくなって帰ってくる。生きている時にふたりが最後に交わした最後の言葉は、決して死などを予感させるものではなかっただろう。明日も今日と同じような挨拶を交わせるはずだと当たり前に信じて息子を見送った父のことを思うと、つらすぎる。
『アズカバンの囚人』までが前振りで、『炎のゴブレット』以降がハリーポッターの戦いの本番になり、本当に原作は児童書なんですよね…?と確認したくなるようなキャラクターも続々出てくる。ドローレス・アンブリッジの邪悪さは筆舌に尽くし難い。映画で初めてアンブリッジと邂逅した時は、こんな“ホンモノ”を児童書に出すのってアリなんだ…とものすごい衝撃を受けた。
大人になりきれないまま大人になってしまった人達のままならなさ、子供でいさせなければならない年頃の子供たちを大人と同じように扱わねばならない過酷さなど、映画の中でしか私はハリーポッターの登場人物と出会ってないんだけど、それでも回を追うごとにキャラクターたちの一挙手一投足に興奮したり絶望したりして、それぞれの解釈の奥行に感動した。余談ですが私はシリーズの中で『謎のプリンス』が一番好きです。フォイがあまりにフォイしているため。
そういうわけで、2年前に突如ハリーポッターの映画シリーズにハマり、この世にはそんなハリーポッターの映画の裏側を見ることの出来る施設があるということを知り、是が非でも行きたいと思った。ハリーポッターファンのめゆんちゅ(YADA茶先生)についてきてもらって、初めてスタジオツアーに訪れた時の感動、ローブを買って、人生で初めてコスプレまがいのことをした時の高揚、そして映画製作の裏側、湯水のようにカネを使ってカネを生むという本気の取り組みなどを見て、改めて「ワーナー」というメジャースタジオのパワーを思い知った。そして、映画の舞台裏でこれほど多くの人たちが、下手したらたった数秒しか映りこまないシーンのために、様々なアイディアを総動員して魔法世界に説得力を持たせようとしていることに純粋に圧倒された。
すっかりスタジオツアーが好きになり、半年に1回くらいのペースで施設を訪れている。今回で4回目の訪問になった。
当日は台風の上陸が予報されていて朝からひどい雨風になるかも知れず、電車が動かない可能性もあった。本当はローブを持っていきたかったが(魔法使いのローブなんてこういう場所以外で着込む機会がないため)、そんな天気が予報されている日には荷物の持ち運びも一筋縄ではいかないだろうと思って、ローブを持っていくのは諦めた。
家を出る前は雨も風もまったくひどくはなく、よくある雨の日という感じだった。電車も通常通り動いていて、待ち合わせの時間に十分間に合った。よかった。いつ雨がひどくなるかとヒヤヒヤしたが現地に到着しても雨風はいっこうに強くならず、拍子抜けしたくらいだ。こんなことならローブを持ってくればよかったな〜と思った。ローブがあるのとないのでは如実に入り込み具合に差が出るのだ。
スタジオツアーの入場料は今年からまた少し値上がりしている。週末は7000円と、ジェットコースターだのお化け屋敷だのがあるわけでもない施設なのになかなか強気なチケット料金だ。しかも今月からクロークでの手荷物預かりサービスが終了し、荷物はロッカーに預けなくてはいけなくなった。先にショップで買い物をして、買ったお土産やグッズをクロークに預けてからツアーに行くのがよかったのに!チケット代金が値上がりしたのにサービスの質が低下するのはどない⁉️と思いながら入場。
前回来た時と、ホールの展示が若干変わっている。賢者の石公開25周年ということで、ショップには関連グッズなども並ぶ。今回はハグリッドがハリーをお祝いした例のケーキ(ハペーバスダェ ハリーのケーキ)が、どんだけハグリッドのケーキが好きなんだというレベルで大量にグッズ化していた。ぬいにもなってた。ちなみにスタジオツアーのグッズショップでは、こんなんぬいぐるみにするのアリなんだみたいなものまでぬいぐるみ化している。バタービールとか。どうしろというんだ、バタービールのぬいぐるみ。
ほぼ朝イチでの入場。カフェで朝食を食べた。スタジオツアー内の飲食物はどれもこれも高いが、味は普通に美味しい。スタジオツアーに行ったなら、なんでもいいから是非コラボメニューを食べてみてほしい。スタジオツアー4回目にしてはじめてのブレックファーストだったが大満足だった。一体どんな味なんだ…という興味から注文したパンプキンソーダも本当に美味しかった。朝早かったこともあり、レア席を確保出来たのも嬉しい。朝活は最高である。
朝食をとりながら、やっ先生に、ここ最近の近況やモジュロについて話すなどをした。台風の日に相応しく、荒ぶるモジュロトーク。
スタジオツアーの展示の中だと、私は後半の展示である魔法省のところが一番好きなのだが、前半の展示の図書室のところも大好きだ。ホグワーツ魔法学校の教科書などが展示されているのだが、この装丁のひとつひとつが本当にオシャレでカッコいい。今回、実ははじめてぬいを連れてきたので、隙を見て写真を撮るなどをする。
初来訪の時に意外に思ったが、スタジオツアーではぬい撮りなどをする人はパッと見たかんじかなり少ない。よく考えたらそりゃそうなのだが(スタジオツアーはハリーポッターの施設であり、他のコンテンツとは関係がないので)、ここに訪れる人達が、みんな「ハリー・ポッター」という映画の世界観に入り込んだり映画の舞台裏を見て純粋に驚いたり楽しんだりしているという事実は、映画ファンとして非常に嬉しいことだ。
知りたいのはハリーポッターのことで、見たいのは映画の舞台裏で、こんなにも現実的な製作過程を見ているのに、その工程を知るごとに私たちには映画という魔法がかけられていく。細かな美術ひとつひとつに宿るクリエイティブに感動し、物語に説得力を出すためにどんな検討や努力がされたのかを垣間見て、彼らの10年に渡る長い物語の旅路に想いを馳せる。スタジオツアーはそういう時間のための施設なのだ。映画ファンが映画について考えて、展示を見ながら興奮していいし、愛を語っていい場所なのだ。なので自分も今日までぬいの写真は撮らなかったのだが、先日我が家に来たちみめゆがあまりにもかわいいのでちょっとくらいは一緒に出かけた思い出を残しておこうと思って撮り始めたら止まらなくなった。ぬいぐるみってかわE。ぬいも感動したと申しております。
前回来た時より明らかにクオリティが上がっていると感じたのは圧倒的に館内のキャストさんたちの質だった。館内サービスからクロークは失われたが、その代わりキャストさんたちの説明力と接客力が増している。チケットが値上がったぶんはこっちのサービスに転化されているようだ。許した。
実際に行って楽しんでほしい気持ちが強いのでネタバレは避けるが、同じ展示内容でも飽きがこないよう色々工夫があって偉いなと思う。周年に合わせて展示が変わったり、追加の説明や解説があったりするので。
途中、カフェに入って一生喋っていた。私が喋っている間に地球の歴史が一度終わってまた再生していたと思う。展示を見終わってホールのカフェに入り、また地球の歴史が2巡くらいするレベルで喋った。舞台「呪いの子」の大プレゼンを行い、ハリーが…息子が…車内販売ババアが…とやっているうち夜になった。雨は去っていた。
やっ先生と、また半年後とかに来ましょう!と約束して別れた。長いのに嘘みたいにあっという間に過ぎ去った1日だった。本当にありがとうございました‼️
翌日が普通にOTAKUイベントで、同人誌を渡したり受け取ったりして満面テカり散らかし笑顔を地球に見せたあと、アフターに行って再び舞台「呪いの子」のプレゼンを行ったところ、なぜかゴーヤ先生に車内販売ババアの存在が刺さり一緒に舞台に行こうと約束出来た。ありがとう、車内販売ババア!畳む
突如ギアが上がったのは、第4作目の『炎のゴブレット』を見た時だった。『アズカバンの囚人』は“ハリー・ポッター”として面白いというより、魔法やタイムリープなどのギミックがうまく回収されていく映画的な面白さのほうが勝っていて、ハリーポッターを見たというより映画を見たという感想の方が自分の感覚に近かったのだが、『炎のゴブレット』はそれまでの映画シリーズとは明らかに一線を画す、本当の意味での“ハリー・ポッター”の世界という感じがした。
『アズカバンの囚人』までは、ヴォルデモートは「不気味で、なんか悪くて怖いやつ」というイメージだったし、勝手に脳内で少年漫画的な敵役を想像してしまっていた。「悪のカリスマ」であることは間違いないんだろうし、カリスマと言われるくらいなんだからきっと悪としての美学か何か、思わず心掴まれてしまう主義や主張があるんだろうと、無意識に決めつけて見ていた。ところが、『炎のゴブレット』でいよいよ姿を現したヴォルデモートは、「やらないなら殺す、出来ないなら殺す、不快なら殺す、とにかく殺す」という、超絶シンプルに「脅す」という手法で悪の元締をやっていたのである。なんの衒いもない。“他者の命をも支配する暴力”で世界を歪める悪がヴォルデモートだった。
セドリックが死なねばならなかった理由がないという一点にまず驚き、理由なき暴力、理不尽な簒奪、沈黙の中にただ沈み、近しい人や愛する人に別れの言葉さえ交わすことが出来ない最期、人生、命を奪われるということが一体どういうことなのかというストレートにも程がある“死”を、映画を通じて、おそらくたくさんの“子供たち”をターゲットにした物語でやるという展開に、突然後頭部を撃ち抜かれるくらいの衝撃を受けた。ついこの間までホグワーツ魔法学校の校内でアトラクションみたいな冒険をやっていたハリーたちが、いよいよここから本格的な「戦争」に巻き込まれていく。
ただの圧倒的な暴力装置としての悪なのに、ヴォルデモート本人はいかにも育ちのよさげな紳士的な態度を相手に見せてくるというギャップも良かった。
セドリックの遺体とハリーがホグワーツに戻ってきて、セドリックのお父さんが「My boy」と言いながらセドリックに駆け寄ってくるところで毎回泣く。セドリックは父にとっていくつになっても「My boy」なのだ。その「My boy」が冷たくなって帰ってくる。生きている時にふたりが最後に交わした最後の言葉は、決して死などを予感させるものではなかっただろう。明日も今日と同じような挨拶を交わせるはずだと当たり前に信じて息子を見送った父のことを思うと、つらすぎる。
『アズカバンの囚人』までが前振りで、『炎のゴブレット』以降がハリーポッターの戦いの本番になり、本当に原作は児童書なんですよね…?と確認したくなるようなキャラクターも続々出てくる。ドローレス・アンブリッジの邪悪さは筆舌に尽くし難い。映画で初めてアンブリッジと邂逅した時は、こんな“ホンモノ”を児童書に出すのってアリなんだ…とものすごい衝撃を受けた。
大人になりきれないまま大人になってしまった人達のままならなさ、子供でいさせなければならない年頃の子供たちを大人と同じように扱わねばならない過酷さなど、映画の中でしか私はハリーポッターの登場人物と出会ってないんだけど、それでも回を追うごとにキャラクターたちの一挙手一投足に興奮したり絶望したりして、それぞれの解釈の奥行に感動した。余談ですが私はシリーズの中で『謎のプリンス』が一番好きです。フォイがあまりにフォイしているため。
そういうわけで、2年前に突如ハリーポッターの映画シリーズにハマり、この世にはそんなハリーポッターの映画の裏側を見ることの出来る施設があるということを知り、是が非でも行きたいと思った。ハリーポッターファンのめゆんちゅ(YADA茶先生)についてきてもらって、初めてスタジオツアーに訪れた時の感動、ローブを買って、人生で初めてコスプレまがいのことをした時の高揚、そして映画製作の裏側、湯水のようにカネを使ってカネを生むという本気の取り組みなどを見て、改めて「ワーナー」というメジャースタジオのパワーを思い知った。そして、映画の舞台裏でこれほど多くの人たちが、下手したらたった数秒しか映りこまないシーンのために、様々なアイディアを総動員して魔法世界に説得力を持たせようとしていることに純粋に圧倒された。
すっかりスタジオツアーが好きになり、半年に1回くらいのペースで施設を訪れている。今回で4回目の訪問になった。
当日は台風の上陸が予報されていて朝からひどい雨風になるかも知れず、電車が動かない可能性もあった。本当はローブを持っていきたかったが(魔法使いのローブなんてこういう場所以外で着込む機会がないため)、そんな天気が予報されている日には荷物の持ち運びも一筋縄ではいかないだろうと思って、ローブを持っていくのは諦めた。
家を出る前は雨も風もまったくひどくはなく、よくある雨の日という感じだった。電車も通常通り動いていて、待ち合わせの時間に十分間に合った。よかった。いつ雨がひどくなるかとヒヤヒヤしたが現地に到着しても雨風はいっこうに強くならず、拍子抜けしたくらいだ。こんなことならローブを持ってくればよかったな〜と思った。ローブがあるのとないのでは如実に入り込み具合に差が出るのだ。
スタジオツアーの入場料は今年からまた少し値上がりしている。週末は7000円と、ジェットコースターだのお化け屋敷だのがあるわけでもない施設なのになかなか強気なチケット料金だ。しかも今月からクロークでの手荷物預かりサービスが終了し、荷物はロッカーに預けなくてはいけなくなった。先にショップで買い物をして、買ったお土産やグッズをクロークに預けてからツアーに行くのがよかったのに!チケット代金が値上がりしたのにサービスの質が低下するのはどない⁉️と思いながら入場。
前回来た時と、ホールの展示が若干変わっている。賢者の石公開25周年ということで、ショップには関連グッズなども並ぶ。今回はハグリッドがハリーをお祝いした例のケーキ(ハペーバスダェ ハリーのケーキ)が、どんだけハグリッドのケーキが好きなんだというレベルで大量にグッズ化していた。ぬいにもなってた。ちなみにスタジオツアーのグッズショップでは、こんなんぬいぐるみにするのアリなんだみたいなものまでぬいぐるみ化している。バタービールとか。どうしろというんだ、バタービールのぬいぐるみ。
ほぼ朝イチでの入場。カフェで朝食を食べた。スタジオツアー内の飲食物はどれもこれも高いが、味は普通に美味しい。スタジオツアーに行ったなら、なんでもいいから是非コラボメニューを食べてみてほしい。スタジオツアー4回目にしてはじめてのブレックファーストだったが大満足だった。一体どんな味なんだ…という興味から注文したパンプキンソーダも本当に美味しかった。朝早かったこともあり、レア席を確保出来たのも嬉しい。朝活は最高である。
朝食をとりながら、やっ先生に、ここ最近の近況やモジュロについて話すなどをした。台風の日に相応しく、荒ぶるモジュロトーク。
スタジオツアーの展示の中だと、私は後半の展示である魔法省のところが一番好きなのだが、前半の展示の図書室のところも大好きだ。ホグワーツ魔法学校の教科書などが展示されているのだが、この装丁のひとつひとつが本当にオシャレでカッコいい。今回、実ははじめてぬいを連れてきたので、隙を見て写真を撮るなどをする。
初来訪の時に意外に思ったが、スタジオツアーではぬい撮りなどをする人はパッと見たかんじかなり少ない。よく考えたらそりゃそうなのだが(スタジオツアーはハリーポッターの施設であり、他のコンテンツとは関係がないので)、ここに訪れる人達が、みんな「ハリー・ポッター」という映画の世界観に入り込んだり映画の舞台裏を見て純粋に驚いたり楽しんだりしているという事実は、映画ファンとして非常に嬉しいことだ。
知りたいのはハリーポッターのことで、見たいのは映画の舞台裏で、こんなにも現実的な製作過程を見ているのに、その工程を知るごとに私たちには映画という魔法がかけられていく。細かな美術ひとつひとつに宿るクリエイティブに感動し、物語に説得力を出すためにどんな検討や努力がされたのかを垣間見て、彼らの10年に渡る長い物語の旅路に想いを馳せる。スタジオツアーはそういう時間のための施設なのだ。映画ファンが映画について考えて、展示を見ながら興奮していいし、愛を語っていい場所なのだ。なので自分も今日までぬいの写真は撮らなかったのだが、先日我が家に来たちみめゆがあまりにもかわいいのでちょっとくらいは一緒に出かけた思い出を残しておこうと思って撮り始めたら止まらなくなった。ぬいぐるみってかわE。ぬいも感動したと申しております。
前回来た時より明らかにクオリティが上がっていると感じたのは圧倒的に館内のキャストさんたちの質だった。館内サービスからクロークは失われたが、その代わりキャストさんたちの説明力と接客力が増している。チケットが値上がったぶんはこっちのサービスに転化されているようだ。許した。
実際に行って楽しんでほしい気持ちが強いのでネタバレは避けるが、同じ展示内容でも飽きがこないよう色々工夫があって偉いなと思う。周年に合わせて展示が変わったり、追加の説明や解説があったりするので。
途中、カフェに入って一生喋っていた。私が喋っている間に地球の歴史が一度終わってまた再生していたと思う。展示を見終わってホールのカフェに入り、また地球の歴史が2巡くらいするレベルで喋った。舞台「呪いの子」の大プレゼンを行い、ハリーが…息子が…車内販売ババアが…とやっているうち夜になった。雨は去っていた。
やっ先生と、また半年後とかに来ましょう!と約束して別れた。長いのに嘘みたいにあっという間に過ぎ去った1日だった。本当にありがとうございました‼️
翌日が普通にOTAKUイベントで、同人誌を渡したり受け取ったりして満面テカり散らかし笑顔を地球に見せたあと、アフターに行って再び舞台「呪いの子」のプレゼンを行ったところ、なぜかゴーヤ先生に車内販売ババアの存在が刺さり一緒に舞台に行こうと約束出来た。ありがとう、車内販売ババア!畳む
CATEGORY:雑記
2026年6月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
おもち先生と抹茶尽くしのアフタヌーンティーを食べに出かけた。なんかジュレみたいなコンソメスープが美味しくて、夏の間はずっとコレを食べていたいなと思った。家に到着したばかりのちみめゆを持っていくつもりが忘れてしまい、うまそうなヌン茶をぬいぐるみに見せつけるという、成人女性がやる行為の中で最も特殊な部類に入る儀式は叶わなかったが、ほどよく涼しい日で、去年とはまるで過ごしやすさが違う一日、本当によかった。
東京都写真美術館では現在、地下の展示室で「ソニーワールドフォトグラフィーアワード2026」が開催中で、なんとこれが入場無料である。折角なのでということで、アフタヌーンティー後に立ち寄った。展示は4つのセクションに分かれていて、それぞれで時代や歴史、民族的アイデンティティ、文化、動植物、コミュニティ、継承、痛み、悲しみ、怒り、喜び、世界各地の様々なモノやヒトやコトにまつわる色彩豊かな感情や生活を写真を通じて観察し、また洞察することが出来るようになっている。
展示はナチスの収容所で命を落とした精神疾患者たちへの追悼作品から始まる。既にこの世から失われていても、かつてそこに確かにあったものたちの存在証明。時と、覆すことの出来ない「死」を越えて、その写真は人類が永劫忘れてはならない課題を炙り出している。
https://www.worldphoto.org/sony-world-ph...
そのセクションで展示されていた作品の中に、くり抜かれた顔に何か自然的な画像(空間、太陽や空など)がはめ込まれた人々の写真があった。パブロ・ラモスさんという方の制作した作品で、解説を読んでひっくり返るかと思った。いわく、メキシコでは13万人以上が「行方不明」となっていて、約40分ごとに新たな失踪者が報告されていること、2024年には約13000件という過去最多の失踪者が発生したこと。この写真は過去に撮られた写真のアーカイブから「失踪者のアルバム」というべきものを再編集しており、当たり前に営んでいるはずの生活から隣人が消えていくことが「日常」となっていることや、制度が不可視化され不在が当たり前となってしまったことに対する抵抗の意思として制作されたもののようだ。
いや約40分ごとに新たな失踪者てサッカー1試合の間に2人消えてんじゃん。
W杯に沸き立つ太陽の国が見せるもうひとつの表情が、あまりに深く濃い闇を広げていることに改めて衝撃を受ける。国と国とがスポーツを通じて交流を深め、今まさに熱戦を繰り広げている一方で、政治機能が部分的に完全な不能状態に陥っているというメキシコの暗黒面を、写真は静かに物語っている。
https://www.worldphoto.org/sony-world-ph...
韓国人写真家キム・スンホさんの作品は、韓国が直面している課題を親としての視点であたたかく、またやさしく、コミカルに取り上げている。韓国では出生率が女性ひとりあたり0.72と過去最低(2023年)を記録する一方で、犬を飼う世帯は600万世帯以上。人と暮らすか犬と暮らすか、という選択肢が“家族を持つ”という行為として同列のものと認識されつつある社会で、彼がフィルムにおさめるものは我が子と犬がともに生活している「暮らし」そのものである。眼差しのやさしさと、ささやかな幸福にあふれた写真から、人が何かと関わり合いながら生きるということへの力強い賛美を感じる。それが子供だろうが、犬だろうが、あるいはその両方とだろうが。愛を持って生きることは素晴らしい。
https://www.worldphoto.org/sony-world-ph...
世界の広さを心から思い知った一枚は、トッド・アンソニーさんが撮影したタジキスタンのとある競技風景である。競技の名前を「ブズカシ」といい、これは馬に乗った競技者が“ボール”となるものを抱え、それを奪い合い、逃げ切ることがルールという競技なのだが、ここで“ボール”として扱われるものがなんなのかというと、なんと「内臓を抜かれ首を落とされたヤギの死骸」である。なぜだ‼️思わず心の中で絶叫した。もっと他に選択肢あるだろ‼️ヤギに見立てた藁人形とか‼️さすがにヤギの死骸は写真で確認出来ないものの(よかったです)やっていることの迫力に慄いた。世界は広い。本当に広い。
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マチュー・モインドロンさんが撮影した、仙台の夜も興味深い。これは一日の労働が終わったあと、最低限のあかりだけを灯して沈黙する建築物の様子である。私たちが日常的に見て、過ごし、触れている景色から「人」という存在が消えた瞬間、そこは生活の情景から非日常的で工学的な色彩の舞台へと変化する。傷心に染み入るような感傷的な表情とともに、この青い無機質さが美しい。
https://www.worldphoto.org/sony-world-ph...
アニタ・プシャール・セラさんが映し出した、ブラジルはブエノスアイレスにおけるカピバラ最前線には考えさせられるものがあった。ブエノスアイレスのノルデルタは高級住宅地で、もともとはカピバラの住処であった湿地を埋め立てる形でその都市開発が進んだ。結果、カピバラが住宅街で繁殖して手に負えないほど頭数を増やし、このままではカピバラの死因第1位が事故死になりかねないような事態となっているらしい。住民たちもまた、カピバラ派と反カピバラ派とで対立を深めており、このカピバラ狂想曲は都市と自然の共存について人々に様々な問題意識を投げかけることとなっている。パッケージングされた「売り物としての都市」に一番必要なイメージは「利便性が高く清潔である」ということだ。生活を脅かすほど数を増やした動物というのは、それが仮に凶暴なものでなくとも「都市生活」のイメージを毀損する場合がある。人間にとっては金脈の眠る開発地区でも、動物たちにとってそこはただの住処に過ぎない…と人間がいくらことを難しく考えても、カピバラのこの表情を見ると気持ちがちょっと丸くなる。彼らをかつての幸せな野生生活に戻せるなら戻してやりたい気持ちになるのも道理だ。
https://www.worldphoto.org/sony-world-ph...
カピバラというと、以前スズキ先生たちと遊びに行った動物園で彼らを見た。カピバラというとファンシーグッズとしてのイメージも強いが(※カピバラさん)、現物を見ると意外と大きくてビビる。飼育場所にはカピバラ専用の小さいプールのような場所が設けられていて、1匹のカピバラが開いているんだか瞑っているんだか分からない、例のうっとりしたような目をしてプールに浸かっていたところ、もう1匹のカピバラが重たいのか軽いのか分からない足取りでプールにやってきて、仲良く水遊びでもするのかと思ったらおもむろに仲間が涼を楽しんでいるプールに向かってう️⭕️こをし始め、プールに浸かっていたカピバラが撤退するという現場を目撃し、法から解き放たれたホンモノの「自由」の、そのあまりの迫力に胸が震えたことを思い出した。そのう️⭕️このお陰で、あそこが果たしてプールだったのかトイレだったのか分からなくなってしまった。なお、カピバラがう️⭕️こをする様子はぼのぼのに出てくるクズリくんのう️⭕️こシーンとほぼ同じだった。余談おわり。
展示されている写真を撮ったカメラマンの方がちょうど在廊されており、撮った写真について直接ご説明を頂く機会もあった。そのカメラマンの方が撮影したというのが、石川県能登の「あばれ祭」というお祭りの写真だった。名前の通り暴れれば暴れるほど喜ぶ神様なので、神様のために神輿を燃やしまくると仰っていた。ポストカードを頂いた。無料でそんな、いいんすか、と思いながらありがたく頂戴した。
最後におもち先生と気になった写真を教え合って退室。私がやや抽象的な観念や風景、遠影などを好むのに対して、先生は人間の自然の営み、自然な動作を切り取った日常的な1枚が好きなようだった。
「画材屋さんに行きたい」というリクエストを頂いていたので、その後は画材屋さんに移動した。おもち先生から画材の解説をしてもらいながら、色々な道具を見る。具体的にどの部分に使うのか想像も出来ないような形の筆があったり、毛がクジャクの羽というのもあった。水彩用の絵の具よりパステルの方が安価で、思ったより手頃な価格なんだなと思ったら、パステルは一度に消費する量が多いのでコスパ的には水彩のほうがずっといいですよと教えてもらった。パステルは1回で半分くらい消えることもあるらしい。見たことない形の硯も見た。カッコよかった。そこに何か書きつけたいというわけじゃないが、和紙の触り心地が好きだ。金箔というと金色ばかりをイメージするが(何しろ金箔と名乗るくらいだ)、実際には多様なバリエーションがあり金箔とはもはやそういう概念であることを知った。
書道パフォーマンス用の筆は約270,000円だった。あれはピンからキリでいうところのピンなのかキリなのか、その中間なのかどれだろう。
デジダルでしか絵を描かず、絵というよりお手軽サイズの二次創作漫画を描くのが好きなだけの私でも、知らない道具や色や創作方法などを知ると自然とモチベがあがるもので、まずはイオンの文具売り場で水彩絵の具買ってみようかな‼️という気になった。
おもち先生は水彩用の絵の具を購入(これがまたスゴいプロ向けのカラーしか入っていないようなヤツ)「次のイベントに向けて何か描きたい」とアツいコメントを頂戴する。新作が楽しみすぎる。
思ったより時間が余ったので、結局いつもの銀ブラ作戦(※行くところに困ったら一旦銀座に出て、とりあえず何かしようとする行為)に出ることに。「お姉様(※)の遊び方しか知らず、若者の喜ぶようなところ知らなくてごめんね」とお姉様(※)を通り越しておばあさんみたいなことを言ったら、「私も動物園とか水族館とか植物見ているほうが好きです」と話を合わせてくれて、気遣い…っ、年下に…っ‼️感謝…っ‼️とカイジみたいな顔面になった。
(※)…ミドサーから先は確実におばさんである。諦めるべし。しかし、おばさんは自らを卑下する時以外、ババアと名乗ってはならない。「お姉様」「乙女」などと言い換え、歌って踊って歳をとるべし。
カフェに入って、たくさんお話をした。その中で、非常に参考になる絵の話があったので、おもち先生からの許可も貰い共有したいと思う。
絵の上達方法についてである。
ご存知の通り、おもち先生はとてもすごい絵をお描きになる。先生が絵の練習をする上で実践していることをいくつか教えてもらったので、上達願望人(じょうたつ-したいんちゅ)は是非参考にしてください。
①雑誌を使う
よくあるポーズデッサンの本ではなく、雑誌(人が写っている任意のもの、ファッション雑誌などでなくて良い)に出てくる人を頭から描いていく。ファッション雑誌は洋服やアクセサリーやメイクが強調されるようなポージングをしているので、人の自然の動きを描く練習にはむしろそれ以外の雑誌のほうが向いている(散歩の達人的な)
②最初は「絵」を見て描かない
最初は「絵」ではなく、実際の人物をよく見て描くこと。絵から絵をトレースするとトレース元の描き方になってしまうため。ある程度描けるようになってから、絵を参考にすること。要するに、何かを「なぞって」描こうとしないこと。
③よく観察する
描く前によく観察すること。描きながらよく観察すること。よく眺めること。
④描ききる
失敗しても描ききる。中途半端にやめないこと。出来なかったことや描けなかったことから得ようとすること。必ず得られるものがあるため。
おもち先生が絵を練習する上で実際にやっていることは、大きくまとめると上記のようなことらしい。
先生は、「例えば水面を描く時に、それを“水”とだけ捉えるのではなく、“なぜ揺れるのか”や“これって本当に水だろうか”と色々なことを考えて観察する(※おそらく、物質的なことだけを見るのではなく、観察する対象物に付随する様々な現象や要因のことにまで感覚を拡げるということだと思います)」と仰っていて、観察に奥行きを持たせることが大切なのだろうとも思った。また、それを聞いて、あの表現力にすごい説得力が出る‼️と思った。
以前おもち先生のスケッチブックを見せてもらったことがある。福岡のイベント会場にて、「そろそろ全部使い切れそうで」と言いながら彼女が取り出したスケッチブックには、たくさんの人物画が描かれていた。老若男女、あらゆる人の絵だった。あのスケッチブックは先生の練習帳だった。あまりに緻密な描きこみ方に、「私だったら全部インターネッツにあげて神絵師の名を欲しいままにしてるよ‼️」と言ったら、先生は「これはたくさんの人には見せられない」と照れていた。えぇ〜❓どこがぁ〜❓たくさんの人に見てもらおうよぉ〜❓上手だよぉ〜❓と当時は心から思ったが、先日初めて彼女の地道な練習方法や自分の作品と向き合うスタンスを伺って、すべてが時間をかけた積み重ねの結果だったんだと思ったら、そういう軽口で彼女の時間を消費者として軽々と扱うのは間違いだったと思って反省した。
彼女の絵は本当に本当にすごい。書き込みの量や1枚の中に凝縮された情報量に圧倒される。人物を描いていると言うより、人物を通じて暴き出された雰囲気や空気感という「目に見えない」もののほうが、もはや彼女の絵の主題とさえ言えてしまう。そういうセンスを私なんかは安易に「才能」と言いすぎる。いや、間違いなく生来的な「絵」の感性が彼女にはあり、それを才能と言い換えることはなんら誤解を生む表現ではないと思うのだが、その土壌に水と肥料を与えて育てているのは彼女の努力であり、研鑽である。
最後に印象的だったのが、彼女が「最初は面白くない絵を描く」と言っていたことだった。
面白くない絵、というのは、要するに「見たままの絵」のことらしい。まずは雑誌を開いてそこにいる人を見たまま描く。見たままの絵にする。表現ではなく情報を描く。そこは別に、面白くない。でも、ここにちょっとの「嘘」を混ぜる。画像に描かれていないもの、いわば少し現実的ではない何かを混ぜると、それが情報から表現になる。
その話を聞いた時に、何かがビタッ‼️とハマるような感じがして、この人は絵を描くために生きていくんだろうなと思った。
絵を描き続けていきたいと言っていた。彼女に、ずっとそうあってほしいと心から思う。
私の月収が今より100万ほど上がったなら、私はいろんな人に自分のために絵を描いてもらうと思う。私のために文章を綴ってもらったり、私のために写真を撮ったりしてもらうと思う。自分が価値ある作品を生み出すことよりも、自分にとって価値ある作品とは何かを見定めて、そういうものにお金を使える人生を過ごしたい。私は実際のところ、何かを生み出すより蒐集するほうが好きだ。パトロンに養われる人生に憧れる皆さん、どうか私の月収がブチ上がる未来を応援してください。よろしくお願い致します。畳む
東京都写真美術館では現在、地下の展示室で「ソニーワールドフォトグラフィーアワード2026」が開催中で、なんとこれが入場無料である。折角なのでということで、アフタヌーンティー後に立ち寄った。展示は4つのセクションに分かれていて、それぞれで時代や歴史、民族的アイデンティティ、文化、動植物、コミュニティ、継承、痛み、悲しみ、怒り、喜び、世界各地の様々なモノやヒトやコトにまつわる色彩豊かな感情や生活を写真を通じて観察し、また洞察することが出来るようになっている。
展示はナチスの収容所で命を落とした精神疾患者たちへの追悼作品から始まる。既にこの世から失われていても、かつてそこに確かにあったものたちの存在証明。時と、覆すことの出来ない「死」を越えて、その写真は人類が永劫忘れてはならない課題を炙り出している。
https://www.worldphoto.org/sony-world-ph...
そのセクションで展示されていた作品の中に、くり抜かれた顔に何か自然的な画像(空間、太陽や空など)がはめ込まれた人々の写真があった。パブロ・ラモスさんという方の制作した作品で、解説を読んでひっくり返るかと思った。いわく、メキシコでは13万人以上が「行方不明」となっていて、約40分ごとに新たな失踪者が報告されていること、2024年には約13000件という過去最多の失踪者が発生したこと。この写真は過去に撮られた写真のアーカイブから「失踪者のアルバム」というべきものを再編集しており、当たり前に営んでいるはずの生活から隣人が消えていくことが「日常」となっていることや、制度が不可視化され不在が当たり前となってしまったことに対する抵抗の意思として制作されたもののようだ。
いや約40分ごとに新たな失踪者てサッカー1試合の間に2人消えてんじゃん。
W杯に沸き立つ太陽の国が見せるもうひとつの表情が、あまりに深く濃い闇を広げていることに改めて衝撃を受ける。国と国とがスポーツを通じて交流を深め、今まさに熱戦を繰り広げている一方で、政治機能が部分的に完全な不能状態に陥っているというメキシコの暗黒面を、写真は静かに物語っている。
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韓国人写真家キム・スンホさんの作品は、韓国が直面している課題を親としての視点であたたかく、またやさしく、コミカルに取り上げている。韓国では出生率が女性ひとりあたり0.72と過去最低(2023年)を記録する一方で、犬を飼う世帯は600万世帯以上。人と暮らすか犬と暮らすか、という選択肢が“家族を持つ”という行為として同列のものと認識されつつある社会で、彼がフィルムにおさめるものは我が子と犬がともに生活している「暮らし」そのものである。眼差しのやさしさと、ささやかな幸福にあふれた写真から、人が何かと関わり合いながら生きるということへの力強い賛美を感じる。それが子供だろうが、犬だろうが、あるいはその両方とだろうが。愛を持って生きることは素晴らしい。
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世界の広さを心から思い知った一枚は、トッド・アンソニーさんが撮影したタジキスタンのとある競技風景である。競技の名前を「ブズカシ」といい、これは馬に乗った競技者が“ボール”となるものを抱え、それを奪い合い、逃げ切ることがルールという競技なのだが、ここで“ボール”として扱われるものがなんなのかというと、なんと「内臓を抜かれ首を落とされたヤギの死骸」である。なぜだ‼️思わず心の中で絶叫した。もっと他に選択肢あるだろ‼️ヤギに見立てた藁人形とか‼️さすがにヤギの死骸は写真で確認出来ないものの(よかったです)やっていることの迫力に慄いた。世界は広い。本当に広い。
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マチュー・モインドロンさんが撮影した、仙台の夜も興味深い。これは一日の労働が終わったあと、最低限のあかりだけを灯して沈黙する建築物の様子である。私たちが日常的に見て、過ごし、触れている景色から「人」という存在が消えた瞬間、そこは生活の情景から非日常的で工学的な色彩の舞台へと変化する。傷心に染み入るような感傷的な表情とともに、この青い無機質さが美しい。
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アニタ・プシャール・セラさんが映し出した、ブラジルはブエノスアイレスにおけるカピバラ最前線には考えさせられるものがあった。ブエノスアイレスのノルデルタは高級住宅地で、もともとはカピバラの住処であった湿地を埋め立てる形でその都市開発が進んだ。結果、カピバラが住宅街で繁殖して手に負えないほど頭数を増やし、このままではカピバラの死因第1位が事故死になりかねないような事態となっているらしい。住民たちもまた、カピバラ派と反カピバラ派とで対立を深めており、このカピバラ狂想曲は都市と自然の共存について人々に様々な問題意識を投げかけることとなっている。パッケージングされた「売り物としての都市」に一番必要なイメージは「利便性が高く清潔である」ということだ。生活を脅かすほど数を増やした動物というのは、それが仮に凶暴なものでなくとも「都市生活」のイメージを毀損する場合がある。人間にとっては金脈の眠る開発地区でも、動物たちにとってそこはただの住処に過ぎない…と人間がいくらことを難しく考えても、カピバラのこの表情を見ると気持ちがちょっと丸くなる。彼らをかつての幸せな野生生活に戻せるなら戻してやりたい気持ちになるのも道理だ。
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カピバラというと、以前スズキ先生たちと遊びに行った動物園で彼らを見た。カピバラというとファンシーグッズとしてのイメージも強いが(※カピバラさん)、現物を見ると意外と大きくてビビる。飼育場所にはカピバラ専用の小さいプールのような場所が設けられていて、1匹のカピバラが開いているんだか瞑っているんだか分からない、例のうっとりしたような目をしてプールに浸かっていたところ、もう1匹のカピバラが重たいのか軽いのか分からない足取りでプールにやってきて、仲良く水遊びでもするのかと思ったらおもむろに仲間が涼を楽しんでいるプールに向かってう️⭕️こをし始め、プールに浸かっていたカピバラが撤退するという現場を目撃し、法から解き放たれたホンモノの「自由」の、そのあまりの迫力に胸が震えたことを思い出した。そのう️⭕️このお陰で、あそこが果たしてプールだったのかトイレだったのか分からなくなってしまった。なお、カピバラがう️⭕️こをする様子はぼのぼのに出てくるクズリくんのう️⭕️こシーンとほぼ同じだった。余談おわり。
展示されている写真を撮ったカメラマンの方がちょうど在廊されており、撮った写真について直接ご説明を頂く機会もあった。そのカメラマンの方が撮影したというのが、石川県能登の「あばれ祭」というお祭りの写真だった。名前の通り暴れれば暴れるほど喜ぶ神様なので、神様のために神輿を燃やしまくると仰っていた。ポストカードを頂いた。無料でそんな、いいんすか、と思いながらありがたく頂戴した。
最後におもち先生と気になった写真を教え合って退室。私がやや抽象的な観念や風景、遠影などを好むのに対して、先生は人間の自然の営み、自然な動作を切り取った日常的な1枚が好きなようだった。
「画材屋さんに行きたい」というリクエストを頂いていたので、その後は画材屋さんに移動した。おもち先生から画材の解説をしてもらいながら、色々な道具を見る。具体的にどの部分に使うのか想像も出来ないような形の筆があったり、毛がクジャクの羽というのもあった。水彩用の絵の具よりパステルの方が安価で、思ったより手頃な価格なんだなと思ったら、パステルは一度に消費する量が多いのでコスパ的には水彩のほうがずっといいですよと教えてもらった。パステルは1回で半分くらい消えることもあるらしい。見たことない形の硯も見た。カッコよかった。そこに何か書きつけたいというわけじゃないが、和紙の触り心地が好きだ。金箔というと金色ばかりをイメージするが(何しろ金箔と名乗るくらいだ)、実際には多様なバリエーションがあり金箔とはもはやそういう概念であることを知った。
書道パフォーマンス用の筆は約270,000円だった。あれはピンからキリでいうところのピンなのかキリなのか、その中間なのかどれだろう。
デジダルでしか絵を描かず、絵というよりお手軽サイズの二次創作漫画を描くのが好きなだけの私でも、知らない道具や色や創作方法などを知ると自然とモチベがあがるもので、まずはイオンの文具売り場で水彩絵の具買ってみようかな‼️という気になった。
おもち先生は水彩用の絵の具を購入(これがまたスゴいプロ向けのカラーしか入っていないようなヤツ)「次のイベントに向けて何か描きたい」とアツいコメントを頂戴する。新作が楽しみすぎる。
思ったより時間が余ったので、結局いつもの銀ブラ作戦(※行くところに困ったら一旦銀座に出て、とりあえず何かしようとする行為)に出ることに。「お姉様(※)の遊び方しか知らず、若者の喜ぶようなところ知らなくてごめんね」とお姉様(※)を通り越しておばあさんみたいなことを言ったら、「私も動物園とか水族館とか植物見ているほうが好きです」と話を合わせてくれて、気遣い…っ、年下に…っ‼️感謝…っ‼️とカイジみたいな顔面になった。
(※)…ミドサーから先は確実におばさんである。諦めるべし。しかし、おばさんは自らを卑下する時以外、ババアと名乗ってはならない。「お姉様」「乙女」などと言い換え、歌って踊って歳をとるべし。
カフェに入って、たくさんお話をした。その中で、非常に参考になる絵の話があったので、おもち先生からの許可も貰い共有したいと思う。
絵の上達方法についてである。
ご存知の通り、おもち先生はとてもすごい絵をお描きになる。先生が絵の練習をする上で実践していることをいくつか教えてもらったので、上達願望人(じょうたつ-したいんちゅ)は是非参考にしてください。
①雑誌を使う
よくあるポーズデッサンの本ではなく、雑誌(人が写っている任意のもの、ファッション雑誌などでなくて良い)に出てくる人を頭から描いていく。ファッション雑誌は洋服やアクセサリーやメイクが強調されるようなポージングをしているので、人の自然の動きを描く練習にはむしろそれ以外の雑誌のほうが向いている(散歩の達人的な)
②最初は「絵」を見て描かない
最初は「絵」ではなく、実際の人物をよく見て描くこと。絵から絵をトレースするとトレース元の描き方になってしまうため。ある程度描けるようになってから、絵を参考にすること。要するに、何かを「なぞって」描こうとしないこと。
③よく観察する
描く前によく観察すること。描きながらよく観察すること。よく眺めること。
④描ききる
失敗しても描ききる。中途半端にやめないこと。出来なかったことや描けなかったことから得ようとすること。必ず得られるものがあるため。
おもち先生が絵を練習する上で実際にやっていることは、大きくまとめると上記のようなことらしい。
先生は、「例えば水面を描く時に、それを“水”とだけ捉えるのではなく、“なぜ揺れるのか”や“これって本当に水だろうか”と色々なことを考えて観察する(※おそらく、物質的なことだけを見るのではなく、観察する対象物に付随する様々な現象や要因のことにまで感覚を拡げるということだと思います)」と仰っていて、観察に奥行きを持たせることが大切なのだろうとも思った。また、それを聞いて、あの表現力にすごい説得力が出る‼️と思った。
以前おもち先生のスケッチブックを見せてもらったことがある。福岡のイベント会場にて、「そろそろ全部使い切れそうで」と言いながら彼女が取り出したスケッチブックには、たくさんの人物画が描かれていた。老若男女、あらゆる人の絵だった。あのスケッチブックは先生の練習帳だった。あまりに緻密な描きこみ方に、「私だったら全部インターネッツにあげて神絵師の名を欲しいままにしてるよ‼️」と言ったら、先生は「これはたくさんの人には見せられない」と照れていた。えぇ〜❓どこがぁ〜❓たくさんの人に見てもらおうよぉ〜❓上手だよぉ〜❓と当時は心から思ったが、先日初めて彼女の地道な練習方法や自分の作品と向き合うスタンスを伺って、すべてが時間をかけた積み重ねの結果だったんだと思ったら、そういう軽口で彼女の時間を消費者として軽々と扱うのは間違いだったと思って反省した。
彼女の絵は本当に本当にすごい。書き込みの量や1枚の中に凝縮された情報量に圧倒される。人物を描いていると言うより、人物を通じて暴き出された雰囲気や空気感という「目に見えない」もののほうが、もはや彼女の絵の主題とさえ言えてしまう。そういうセンスを私なんかは安易に「才能」と言いすぎる。いや、間違いなく生来的な「絵」の感性が彼女にはあり、それを才能と言い換えることはなんら誤解を生む表現ではないと思うのだが、その土壌に水と肥料を与えて育てているのは彼女の努力であり、研鑽である。
最後に印象的だったのが、彼女が「最初は面白くない絵を描く」と言っていたことだった。
面白くない絵、というのは、要するに「見たままの絵」のことらしい。まずは雑誌を開いてそこにいる人を見たまま描く。見たままの絵にする。表現ではなく情報を描く。そこは別に、面白くない。でも、ここにちょっとの「嘘」を混ぜる。画像に描かれていないもの、いわば少し現実的ではない何かを混ぜると、それが情報から表現になる。
その話を聞いた時に、何かがビタッ‼️とハマるような感じがして、この人は絵を描くために生きていくんだろうなと思った。
絵を描き続けていきたいと言っていた。彼女に、ずっとそうあってほしいと心から思う。
私の月収が今より100万ほど上がったなら、私はいろんな人に自分のために絵を描いてもらうと思う。私のために文章を綴ってもらったり、私のために写真を撮ったりしてもらうと思う。自分が価値ある作品を生み出すことよりも、自分にとって価値ある作品とは何かを見定めて、そういうものにお金を使える人生を過ごしたい。私は実際のところ、何かを生み出すより蒐集するほうが好きだ。パトロンに養われる人生に憧れる皆さん、どうか私の月収がブチ上がる未来を応援してください。よろしくお願い致します。畳む
CATEGORY:雑記
溜めていたマイリストを消化しようと思ったのに新着リストを見ると面白そうな最新作が色々。マイリストに入れたが最後、観ないんじゃないか?もはや、マイリストに観たい映画を登録することが目的になってないか?と思いながらも新着に載っていた『アグリー・シスター 可愛いあの娘は醜いわたし』を観て、久々に食らう。
『アグリー・シスター~』は、シンデレラをモチーフにした(とても残酷な)フェアリーテイルだが、主人公はシンデレラではなく義理の姉妹の長女のほう。シンデレラの原作では姉妹たちの名前が設定されていないのだがディズニー版ではアナスタシア(長女)とドリゼラ(次女)という名前がつけられており、この映画ではディズニー版で言うところのアナスタシアが主役である。
王子様との結婚を無垢に夢見るエルヴィラ(主人公、演:リラ・マイレン)は母の再婚のため王国へ越してくる。義姉妹となるアグネス(演:テア・ソフィー・ロック・ネス)は目を見張るほど美しい娘で、新しいお父さんも朗らかで人は良さげ。厳かで美しいお城での新生活に胸ときめかせるエルヴィラだったが、同居を始めたその日に新しいお父さんは亡くなってしまう。ショックのあまり寝込んでしまったアグネスを見舞ったエルヴィラは、そこでアグネスから「この家にはお金が無い(だからあなたたちのお金を当て込んで父は再婚した)」と聞かされ、お互いがお互いの金目当てに再婚したことを知る。金持ちと再婚出来たと思ったらとんでもない間違い、すっかり素寒貧になってしまったと絶望する母レベッカ(演:アーネ・ダール・トルプ)に対して、「また再婚すればいいじゃない」と励ましの言葉をかけるエルヴィラだが、「こんな年増の垂れ乳女(※垂れ乳女は本当に言った)が再婚するのがどれほど難しいと思っているんだ」とむしろ逆ギレされてしまう。さめざめと泣き出す母を憐れに思ったエルヴィラは、「なら私が結婚する」と言うのだが…というのがあらすじ。
お城から舞踏会への招待状が届き、舞い上がったエルヴィラは早くも王子様とのロマンチックな出会いで頭がいっぱいになるのだが、母であるレベッカはエルヴィラに「そんなツラと体型じゃ…」という態度を隠さず、しかして娘が玉の輿に乗ってもらうことが母の悲願(だって金持ち男に養ってもらう生活は捨てられないから)、そこから母による母のための整形とダイエットをエルヴィラに強いていくことになるのだが、ここで描き切られたグロテスクさに骨の髄から打ちのめされて感動した。この痛みにこの踏み込み方が出来る脚本家は絶対に女性だと思ったが、やはり脚本兼監督はエミリア・ブリックフェルトさんという女性監督。この映画が長編デビュー作らしく、その才能の迸り方に感激してしまい私はすっかり彼女のファンである。
ご本人も言うように、映画にはクローネンバーグ的なボディホラーの要素がふんだんに盛り込まれているが、クローネンバーグほど「人間やめさせちゃお☆」に寄った作風ではない。人間の原型を留めるからこそ、破滅的なイメージが完成している。無麻酔で鼻の骨を砕いて整形し、虫を飲み込み、つけまつ毛を直接皮膚に縫い付け、ストレスで抜け落ちた毛はカツラで誤魔化す。美しさを追求するはずがどんどん美しさからかけ離れていく。こんなふうに変わりたいなんて、自分で願ったことなど一度もないはずなのに。
今月の頭に、「マンジャロ」という糖尿病治療薬を無許可で販売・転売目的で保管した疑いで男女3名が書類送検されたというニュースを読んだ。(日経新聞: https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUF0... )
この「マンジャロ」というのが、現代の痩身薬として一定の層から需要されているらしい。私ももちろん運動しないで痩せられるなら是非痩せたいし、腹筋しなくても腹筋が割れてくれるなら本当にありがたいし、寝転がっているだけでケツが引き締まるなら是非そうあってほしいし、どれだけ食べても消化の段階でカロリーを半分に圧縮してくれる胃袋があるなら嬉しいと真っ直ぐな気持ちで思う怠惰な市民のひとりだが、それは土台無理な話だと理解している。それなりに痩せたいと思ったら痩せるなりの努力が必要なわけだが、その「努力」というのは「運動」と「適度な摂生」を言うのであり、健康な体になんらかの薬品を流し込むこととはおそらく違う。
健康を投げ打ってまで得たい「美ボディ」というやつが自分には想像出来ない。絶食をするとか薬品に頼るとか、得られるものに対して支払いがデカすぎると感じるし、世の中の大抵の“良識派”は「痩せるにしたってやり方が…」と言うだろうから、健康な体に治療薬をブチ込むとその後どうなるか体を張った人体実験の参加者に金を払ってまでなりたいという奇特な感情を共感的に見るのは難しいかも知れないと思う一方、「美しさ」という観念が、主観的な「美」よりも客観的な「美」のほうに基準をおいている以上、「私はこれが美しいと思うので」という主張一本でボディポジティブを語っていくにはそれなりの胆力が必要なのも事実で、「デブ」や「ブス」、その他身体的特徴を揶揄する言葉がどれほど人の心を傷付け苛むか、身を持って知る女性の方が世の中多いのではないかとも思う。と考えると、糖尿病治療薬を使ってまで「痩せたい 」という願望に依存的なまでにのめり込み、痩せることが美への最短距離のはずだと妄信的に痩身を信奉している人達の心に、深く根を張っているのはコンプレックスというより恐怖心だろうというのは、別に突飛な想像とも言えないだろう。自分が他者からの心無い目に晒されること、無神経な言葉のひとつひとつに傷つけられること、そういう恐ろしいことから逃げたいのだ。惨たらしいのは、恐怖を感じている人の心につけ込むことがどれほど容易なことかを知っている人達が、嘘八百を並べ立てているに過ぎないのにそれをまるで魅力的な広告であるかのように装って、その恐怖心から金を巻き上げているという搾取の構造である。
「美」というのは実際のところかなり抽象的な概念なのだが、そこに「痩せ」だとか「二重」だとか目に見える確実性を求めてしまうのは、型に嵌められた存在でいたほうが突出した身体的特徴にスポットライトを当てられずに済むという回避的な意識もあるんじゃないかと思う。定義されている「美」を体現出来たなら、自分たちはこれ以上、「デブ」や「ブス」という言葉に苦しめられることはないだろう。相手の差別的な態度に悲しんだり、怒ったりする必要もなくなるだろう。と同時に、客観性が定めた「美しさ」という基準を満たすことは、自分を人生の成功者のように振る舞わせてくれる魔力と、そうすることでようやく対等に「権力」と並び立てるという、神話的な幻想を抱かせてくれる魔法を彼女達に与えてくれるのではないか。美しさは常に権力者との接点を作る上で重要な武器となってきた。換金可能な「美」は、「美」の基準として分かりやすい。“金になるほど美しい”!
エルヴィラは、いわば現代において「マンジャロ」を求める女性のひとりだ。彼女は淑女養成スクールに通って、選ばれし洗練されたお嬢様としての振る舞いを叩き込まれる。立ち姿から美しく、しなやかに、舞踏会ではダンスの相手に“選ばれる”女となるために、母親からのプレッシャーにも先生からの厳しい指導にも耐える。エルヴィラは、自分は将来的に“金になる女”だと母に証明しなくてはならない。綺麗な顔になって、痩せて、お金持ちの王子様と結婚する。美しさを換金する。そのためにサナダムシの卵も飲む。彼女を支えるのは、王子様との甘い出会い、甘い夢。
母の意向で整形手術に挑む時、エルヴィラはおそらくなんの覚悟も決まっていないまま椅子に縛り付けられる。無麻酔で出っ張った鼻の頭の骨を砕かれ悲鳴を上げて身悶えるエルヴィラに、慣れた様子で「アン、ドゥ、トロワ」とまるで魔法の呪文でも唱えるみたいに言いながらもう一度カナヅチを振るう美容外科医が、つまり現代でマンジャロをダイエット薬として転売する鬼畜商人の姿というわけだ。
美容整形のため鼻を砕かれ、その鼻をベルトで固定されているエルヴィラの姿が本作のキービジュアルにもなっている。彼女の本当の生き地獄は、この顔から始まる。
エルヴィラは妹のアルマ(演:フロー・ファゲーリ)とピクニックに出かけ、そこでアルマに「サナダムシダイエット」について打ち明けるのだが、アルマは「虫を飲むなんて気持ち悪い」と憤慨しエルヴィラを置いて帰ってしまう。置いていかれたエルヴィラはしばらく森を彷徨うが、そこでなんと偶然にも森に狩りへ来ていた王子様とその友人たちを見かけるのである。高鳴る胸の鼓動を抑えて彼らに近づくと、彼らの、ありえないくらい下品で下劣で聞くにたえないような会話が聞こえてくる。しかも、エルヴィラが想い焦がれる王子様はケツ丸出しで立小便までしている有様。物陰に隠れて彼らの様子を伺っていたエルヴィラは驚きと動揺で物音を立ててしまい、王子一行に見つかってしまうのだが、そこでエルヴィラにかけられたのは甘く優しい言葉などではなく…
本作の2人目の主人公とも言うべき、もう一人の地獄を生きるものがシンデレラにあたる義理の姉、アグネスである。初対面のエルヴィラですらうっとりしてしまうような、絵に描いたような美貌を持つ“プリンセス”。しかしアグネスは馬番をしているイサク(和名っぽい名前だが別に日本人ではない)という男と相思相愛の格差恋愛の真っ最中で、立場的に舞踏会に出て王子様を射止めるべきだと理解しつつも、自分の本当の愛はイサクのもので心から愛しているのはイサクだけだと痛切な想いをイサクに告げる。愛し合うふたりは馬小屋で怒涛のセックスをブチかますのだが、いつでもタイミングが最悪なことに定評があるエルヴィラがこれまた偶然にもふたりの生々しいまぐわいを目撃してしまうのである。日中に王子様の汚ぇケツを見たと思ったら、夜は馬小屋でイサクの無駄にキレイなケツを見る羽目に。涙が出ますよ。
コトが継母レベッカにバレ、馬番のイサクは全裸で野に追放、アグネスはここで原作通りの“灰かぶり”となり、彼女らの真剣恋愛はあまりにも空しい幕引きを迎えるのだった。お城のお嬢様から召使いに堕ちたアグネスは淑女養成スクールからも退校させられ、一方でレベッカのエルヴィラに対するプレッシャーはますます激しいものになっていく。
妹のアルマはこの狂った母娘の玉の輿大作戦にドン引きしていて、自分が「女性」として扱われること、また「女性」になることに抵抗感を感じているし、自分の母親が、「女は権力のある男の一番美しいアクセサリーでなければいけない(金持ちから選ばれる女にならなければいけない)」というような価値観が完全に内面化されてしまっていること、そしてその感性が無批判のまま放置された結果、母レベッカの中でそれは暴力的なほど強い支配的な価値観になってしまっていること、娘であるはずのエルヴィラを操り人形のように操作して、自分を代弁する装置にしようとしていることに、唯一気付いてる。母親の狂気に飲み込まれて崩壊していく姉を心から心配しているのもこのアルマだけで、彼女だけが、作中で唯一の良心として姉エルヴィラのことを見守っている。
いざ舞踏会の日がきてエルヴィラは念願の王子様と、(母親が金とコネの力で錬成した)キラキラ輝くうら若き乙女として対面を果たすが、この舞踏会に出てくる男性陣は目に余るほど露悪的な描かれ方をしていていっそ意地の悪い笑いを誘う。必見である。
客観性が評価の中心軸になっている「美」は、常に値踏みされる。客観性が評価の中心軸になっている「美」というのは、つまり誰かにとって都合よく扱える「美」のことだ。
そういう「美」においては、胸の大きさ、ウエストの細さ、顔の小ささ、手足の長さ、目の開き具合、二重の幅、鼻がついている位置、額の広さ、おしりは垂れていないか、脇毛は生えていないか、眉毛は整っているか、まつ毛は上がっているか、毛穴は閉じているか、皮脂は浮いていないか、髪の毛は艶を帯びて且つくし通りは滑らかか、肌は白いか、背中にニキビはないか、爪の形は綺麗か、ほうれい線はないか、歯は白く輝いているか、唇はひび割れていないか、体重は最低でも身長から-110をキープしているか、身長は低すぎず高すぎることもないか、デリケートゾーンの色素沈着はどうだ、歩き方はみっともなくないか、猫背ではないか、内股ではないか、座り方はどうだ、肩幅はどのくらいだ、髪の長さは理想的か、愛用しているアクセサリーのサイズは、好きなブランドは、使っているボディソープは、パーソナルカラーを意識した化粧品を使っているか、体型に似合った服を着ているか、エトセトラ、もっとたくさん、様々なことが評価の対象になり女性の査定になる。その査定を一体、誰がなんのためにしているのか。
『アグリー・シスター~』の物語では、そういう査定をする側の人間が、要するに権力勾配の上層にいる人間であることを明確に描いている。俺が興奮出来る女でいてくれ、自分に知的な劣等感を感じさせないアクセサリーでありトロフィーであってくれ、セックスするのにちょうどいいおっぱいであってくれ、やりやすい程度の頭の弱さを持っていてくれ、それでいて攻略しがいのある美しさを保っていてくれ、俺が触りたくなり犯したくなるような「女の子」でいてくれ。言外に伝えられる欲望が、舞踏会という場面で男性陣たちが見せる振る舞いの中に凝縮されている。下劣の煮凝りみたいな会話の応酬。こんなヤツらのために歩き方ひとつから指導され、他人に人生の主導権を自ら渡しに向かうエルヴィラ。そして、そんな男性たちのダダ漏れの欲望を浴びてなお、そう眼差されること、性的な価値こそが女の持つ重要な武器であり、その対価で優雅な暮らしが出来るのだと信じて疑わない女衒のような母親。おお、神よ。
女性の多くはおそらくこの物語の残酷さに、全体的とは言わないまでも部分的に、かなり共感が出来ると思う。なぜなら、私たちはどのような容姿や風貌をもって生まれていたとしても、他人からの値踏みに晒されなかったことなどないはずだからだ。生活においてそれを意識しようがしまいが、身長や体重、胸の大きさやウエストの細さ、瞳の大きさに至るすべてのパーツにおいて、私たちは何らかの完成と正解を自分以外の存在から求められているように感じることがある。逃れられない圧のようなものをただの一度も感じたことがないという人より、実際に自分が本当にそれを求められていたかどうかはともかくとして、空気感としてそういうプレッシャーを感じたことがある人はきっと少なくないはずだ。化粧禁止から一転、“出来なきゃおかしい”ことになったメイク、就活の時に履かされてそれ以外では一度も履かないパンプス、あたかもそれがマナーであるかのように語られる“正しい”アイシャドウやアイブロウの色、消耗品のストッキング、そういうものだって、みんな女性が空気感に強いられてきた社会的な「美」の模範だ。正解はコレだと教えられてきた。ただ矯正器具を嵌められているに過ぎないのに、それを「空気を読む」という行為の中に矮小化されてきた。男性が清潔感のためにヒゲを剃るのと同じだと。いいや違う。私たちもヒゲなら剃っている。女にもヒゲが生えることを知らないおじさまたち、同じ土俵に上がりたいならその濃いおヒゲで青くくすんだ月面みたいな肌にとっととファンデーションをお塗り!と何度も思ってきた。
私たちは「健康」や「清潔感」から切り離された極端な「美」、すなわち「ルッキズム」を賞賛するようメディアから語りかけられ、長いものに巻かれるようにして、そういう価値観を知らず知らずのうちに内面化している。それで生活に支障が出るわけではないけど、日々毛穴の開きや体毛の濃さや髪の毛のパサつき、午後になるとベトベトしてくる額や鼻筋がどうにかなってくれたらいいのにと思いながら過ごしている。自分の意思で美しくありたいと思うけど、一方で、なんで美しくあることが自分のためなんだ?とも思う。
「デブから一転、ダイエットで大変身」などと言ってダイエットを煽り、肥満をお笑いコンテンツ扱いするくせに、極端なダイエットにおける健康被害が若年層を中心に増加の傾向などと、一体なんのマッチポンプなんだよと思うような記事が踊るたび、時々ひどくバカバカしい。やれ何歳の女がカラコンなんてみっともないだの、やれいくつになっても好きなオシャレを楽しもうだの、出産後の体型維持だの、こんな髪色の女はイモっぽいだの、涙袋がどうだの、平行眉の流行は終わっただの、外野の声を一度でも聞いてしまったらなかなかそれが頭から離れない。聞く価値などないと一蹴しても、蹴り飛ばしたそばから違う意見が飛んでくる。なんて不毛なことだろう。それでもせっせとムダ毛の処理をして、顔の産毛を剃り、眉毛を懸命に整えて、金を払ってまつ毛を上向きにしにいく。野暮ったい自分の顔と折り合いをつけて生きていく。新しい化粧品を買えば気分があがり、好きな服がゲット出来たら嬉しいし、美容に熱をあげている時は、それはそれとして嘘偽りなく女の人生が楽しい。顔面に隕石でも激突したんかぇと思うような毛穴の開きを憂いながら、日々深くなっていくほうれい線を眺めながら、内田有紀さんのいくつになっても変わらない美しさに惚れ惚れしながら、自分なりに美しく歳をとりたいと願ってやまない。
多分重要なのは、それが自分の意思で選んだ行動かどうかというところだ。
しないよりしたほうが、自分のことを好きになれるかどうかだ。
エルヴィラの世界にはそういう「美」が存在しない。自己決定としての「美」、セルフケアとしての「美」がどこにもない。彼女達の視野を覆っているのは「自分のために美しくありたい」という願望ではなく、「他者から承認されるためのルッキズム」という地獄の景色である。
エルヴィラは母親のためにあるがままの自分を否定し、漂白しなくてはいけなかった。まるっこくて何が悪い。目がつぶらで何が悪い。スタイルが抜群じゃなくて何が悪い。野暮ったくて何が悪い。そういうことを何ひとつ言えず、そういう発想すらないような顔をしなくてはいけない。気付いてはいけないし、賢くなってはいけない。男性から下品な態度をとられても、拒否してはいけない。胸を掴まれても、それは自分のためだ。なぜ?と考えてはいけない。
極端な食事制限や腹の中でサナダムシを飼う行為はひるがえって彼女を隠れた過食に走らせ、豊かだった髪の毛はストレスのために抜け落ちた。眠れない痛みに耐え、サナダムシが腹の中を掻き回す気持ち悪さに耐え、キャパシティ以上の努力を精一杯詰め込んで、自分が“選ぶ”のではなく自分が“選ばれる”ための舞台に向かう。これだけのものを犠牲にして立つための精神的支柱は、もはや王子様との結婚しかない。
終盤に最も痛ましいシーンがある。創作におけるグロテスクさには慣れていると自負する私も、この話の流れで最後にこれがくるのかよと、みぞおちに一発パンチをもらうようなショックを受けて久しぶりに映画を観て痛みのために顔が歪んだ。というわけで、おおいに食らいました。
エルヴィラは舞踏会で数多の男に値踏みをされるが、エルヴィラを査定する男たちの顔や体は果たしてどうだったんだろう。ケツ丸出しで立ちションしていた王子様はケツの下から突然無駄毛が生え散らかしてて体毛アマゾンって感じだったけど、この映画が引き出す「汚さ」はそこを含めて本当にすごい。どれもこれもが痛烈に印象に残る。
こうした「女性とルッキズム」をテーマにした映画だと、近年では『ザブスタンス』(🇺🇸🇬🇧🇫🇷/'24)がアカデミー賞5部門にノミネートされるなどその脚光は記憶に新しい。こちらも女性監督がメガホンを撮り作り上げた快作である。こうした映画や物語が広く支持を受けるようになることで、女性を取り巻く環境がいまだ硬直性のある権力構造の中で作り上げられていることへの議論が活発になるだろうという期待がある一方、ルッキズムの弊害が可視化されればされるほど、これが世界共通の地獄であることを再認識することにもなる。女性にとっては、他人から文句無しに「A」と評価されるような「美」はもちろん永遠の憧れだ。そして、同時に足枷だ。『サブスタンス』は“かつては”若く美しかった女性が、その「美しさ」に囚われて瓦解していく様子を描くサイコなホラーである。人は老いる。生きた年数だけシワが刻まれ、白髪が増え、脂肪は重力に逆らえない。どれだけ栄華を極めても、いずれ自分の時代は去る。でもかつての栄光が老いを受け入れさせてくれない。過去の自分が今の自分を拒絶する。「そんなの私には分からない感覚だ」と、一体どんな人なら言えるだろう?
ルッキズムは私たちに生きづらさを強いてくるだけでなく、搾取とも密接だ。先述した糖尿病治療薬の件も結局は人の心につけ込む悪どい商売であって、ソリューションの提供でもなんでもない。記事を読んだ時これは本当に日本の話題なのかと思ったが、本当に日本の話題だった。そこまで「痩せる」ということに呪縛されてしまう人が居ることにも衝撃を受けるし、そこに商売性を見いだせる人の心がまるでない人間が平然と社会に生き、ダイエットビジネスなんて宣って、社長だとか、インルフエンサーだとかいう仕事をやっているということにもだいぶショックを受ける。こういう物事の延長線上にニードルパークとかが生まれる気がする。こんなことを商売にする人間だから、きっとまわりにいる人達も似たような人が多いのだろうし、おそらく誰も指摘をしないんだろうが、自分の倫理観が破綻していることに気付かないまま世に出て、その破綻した倫理観のケツを自分ではなく社会に持たせているという自覚がまるでない大人が、ルッキズムに呪われた若年層やあるいは物事にまったく無知な人達から金を巻き上げているのだから、世も末も末だ。金持ちの都合に合わせたバカになんてなるなよ。
ところで、ディズニー版のシンデレラにはOVAで発表された続編が2つあり、シンデレラ本編のサブキャラたちにスポットをあてた「2」、フェアリーゴッドマザーの魔法の杖がひょんなことから継母に奪われ、継母の邪悪な企みによりシンデレラが王子と結婚した歴史が改変されてしまいあわや大惨事の「3」、なんとその両方で長女アナスタシアは主役級の大抜擢を受けて活躍するのだが、これがそれぞれ、なかなか胸にくる話となっている。
「2」でのアナスタシアは過去の行いを反省し、シンデレラと距離を詰め、自分なりの幸せを掴む過程で母親との共依存的な関係を断ち切るのだが、「3」は時間軸でいうと「2」の手前にあたる物語で、継母がフェアリーゴットマザーから奪った魔法の杖を使って時間を戻し、王子たちに催眠をかけてアナスタシアを花嫁にしようと目論む物語だ。
「3」におけるアナスタシアは『アグリー・シスター~』におけるエルヴィラと似て、母親に対して従順だ。母親の言うことはなんでも正しく、言うことを聞いて約束を守れば幸せになれると信じている。母親の愛は本物だと思っているからだ。しかし母親は実際のところ娘たちのことを、金持ちと結婚させるための道具としか考えていないことが、次第に明らかになってくる。真実の愛とは何かを考える過程で、アナスタシアは人を騙して結婚しようとしている自分や、自分をとにかく王子と結婚させたがる母親に疑問を抱くようになる。
シンデレラは持ち前の負けん気とガッツで数々の逆境をネズミたちの力も借りながら乗り越えるのだが、何度心をへし折っても立ち上がってくる不屈のファイターシンデレラに対して恐るべき継母が最後に選んだ手段は、なんとアナスタシア自身の見た目をシンデレラにしてしまうという作戦だった。究極の全身整形。シンデレラ本編ではそこそこの悪役ぶりだったが、全シリーズを通してみるとシンデレラの継母は『ノートルダムの鐘』のフロローに匹敵するくらいかなりキマっている真のヴィランの迫力がある。
アナスタシアは葛藤するも、「自分自身を愛してくれる人と結婚したい」と言い最後は自らの意思で母親の願望を拒絶するのだが、「2」でのアナスタシアは母親が望むような金持ちと結婚するのではなく町のパン屋さんと結婚しており、彼女が見つけた等身大の愛の素朴さになぜか「3」を見たあとの方が涙を禁じ得ないというナゾの現象が起こる。シンデレラ2と3は、シンデレラの物語というよりアナスタシアがいかにして母親からの呪縛から解き放たれ、シンデレラという美しさの代名詞から「本当に必要な美しさとは何か」という哲学を取り戻す物語にもなっているという点で、実は隠れた良作なのである。
シンデレラはただ可憐で美しいがゆえに王子様に選ばれたわけではない。しかし、義理の妹たちであるアナスタシアとドリゼラはふたりとも深いほうれい線の刻まれた顔に団子っ鼻を乗せて、目は小さく髪の毛はごわごわとしていて、更には歌も下手で芸術的な才能に恵まれず、だからといって家事が出来るわけでもなく、性格もワガママで放埓で更には手足もデカイという、本当に散々な描かれ方をしていて、シンデレラとビジュアルや能力の面で明確な対比を取ろうとしていたことは明らかだ。ディズニーがシンデレラ「2」や「3」を制作したのは2000年代で、時代の進歩が既存の価値観に疑問を投げかけるようになり、そこからアナスタシアの再描写に繋がったのだと私は思っている。
次女のドリゼラについてはまったく性格的にも進歩がないまま終わっているので、いつかは彼女の成長譚も見たいところだったが、『アグリー・シスター~』では逆にこの次女の存在が救済そのものになっていて、私はラストシーンで思わず泣いた。私たちが獲得すべき真に「美しいもの」とは何かという答え、それはあのラストシーンに存在する。
かなり余談だが、『アグリー・シスター~』で体を張った主演を務めたリラ・マイレンさんは、好きな映画に『鉄男』(🇯🇵/'89)をあげており、なかなかエッヂの効いた趣味をお持ちであることが分かる。他、『RAW 少女のめざめ』(🇫🇷🇧🇪/'16)などが好きらしい。なんというか、すごく共感出来る趣味だ。じゃあこの映画の撮影は楽しんで臨めたのではないかと思い、その点で安心した。
こういう怪文書をつらつら書きつつ、他気になった映画を3本ほどシバいたら土曜の夜が終わり日曜日も終わった。イベント前にとっととpixivにサンプルをあげようと思っていたし会場に搬入する荷物もまとめようと思っていたのに何一つ終わっていない。怪文書を書くことをライフワークにしているせいだ。畳む
『アグリー・シスター~』は、シンデレラをモチーフにした(とても残酷な)フェアリーテイルだが、主人公はシンデレラではなく義理の姉妹の長女のほう。シンデレラの原作では姉妹たちの名前が設定されていないのだがディズニー版ではアナスタシア(長女)とドリゼラ(次女)という名前がつけられており、この映画ではディズニー版で言うところのアナスタシアが主役である。
王子様との結婚を無垢に夢見るエルヴィラ(主人公、演:リラ・マイレン)は母の再婚のため王国へ越してくる。義姉妹となるアグネス(演:テア・ソフィー・ロック・ネス)は目を見張るほど美しい娘で、新しいお父さんも朗らかで人は良さげ。厳かで美しいお城での新生活に胸ときめかせるエルヴィラだったが、同居を始めたその日に新しいお父さんは亡くなってしまう。ショックのあまり寝込んでしまったアグネスを見舞ったエルヴィラは、そこでアグネスから「この家にはお金が無い(だからあなたたちのお金を当て込んで父は再婚した)」と聞かされ、お互いがお互いの金目当てに再婚したことを知る。金持ちと再婚出来たと思ったらとんでもない間違い、すっかり素寒貧になってしまったと絶望する母レベッカ(演:アーネ・ダール・トルプ)に対して、「また再婚すればいいじゃない」と励ましの言葉をかけるエルヴィラだが、「こんな年増の垂れ乳女(※垂れ乳女は本当に言った)が再婚するのがどれほど難しいと思っているんだ」とむしろ逆ギレされてしまう。さめざめと泣き出す母を憐れに思ったエルヴィラは、「なら私が結婚する」と言うのだが…というのがあらすじ。
お城から舞踏会への招待状が届き、舞い上がったエルヴィラは早くも王子様とのロマンチックな出会いで頭がいっぱいになるのだが、母であるレベッカはエルヴィラに「そんなツラと体型じゃ…」という態度を隠さず、しかして娘が玉の輿に乗ってもらうことが母の悲願(だって金持ち男に養ってもらう生活は捨てられないから)、そこから母による母のための整形とダイエットをエルヴィラに強いていくことになるのだが、ここで描き切られたグロテスクさに骨の髄から打ちのめされて感動した。この痛みにこの踏み込み方が出来る脚本家は絶対に女性だと思ったが、やはり脚本兼監督はエミリア・ブリックフェルトさんという女性監督。この映画が長編デビュー作らしく、その才能の迸り方に感激してしまい私はすっかり彼女のファンである。
ご本人も言うように、映画にはクローネンバーグ的なボディホラーの要素がふんだんに盛り込まれているが、クローネンバーグほど「人間やめさせちゃお☆」に寄った作風ではない。人間の原型を留めるからこそ、破滅的なイメージが完成している。無麻酔で鼻の骨を砕いて整形し、虫を飲み込み、つけまつ毛を直接皮膚に縫い付け、ストレスで抜け落ちた毛はカツラで誤魔化す。美しさを追求するはずがどんどん美しさからかけ離れていく。こんなふうに変わりたいなんて、自分で願ったことなど一度もないはずなのに。
今月の頭に、「マンジャロ」という糖尿病治療薬を無許可で販売・転売目的で保管した疑いで男女3名が書類送検されたというニュースを読んだ。(日経新聞: https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUF0... )
この「マンジャロ」というのが、現代の痩身薬として一定の層から需要されているらしい。私ももちろん運動しないで痩せられるなら是非痩せたいし、腹筋しなくても腹筋が割れてくれるなら本当にありがたいし、寝転がっているだけでケツが引き締まるなら是非そうあってほしいし、どれだけ食べても消化の段階でカロリーを半分に圧縮してくれる胃袋があるなら嬉しいと真っ直ぐな気持ちで思う怠惰な市民のひとりだが、それは土台無理な話だと理解している。それなりに痩せたいと思ったら痩せるなりの努力が必要なわけだが、その「努力」というのは「運動」と「適度な摂生」を言うのであり、健康な体になんらかの薬品を流し込むこととはおそらく違う。
健康を投げ打ってまで得たい「美ボディ」というやつが自分には想像出来ない。絶食をするとか薬品に頼るとか、得られるものに対して支払いがデカすぎると感じるし、世の中の大抵の“良識派”は「痩せるにしたってやり方が…」と言うだろうから、健康な体に治療薬をブチ込むとその後どうなるか体を張った人体実験の参加者に金を払ってまでなりたいという奇特な感情を共感的に見るのは難しいかも知れないと思う一方、「美しさ」という観念が、主観的な「美」よりも客観的な「美」のほうに基準をおいている以上、「私はこれが美しいと思うので」という主張一本でボディポジティブを語っていくにはそれなりの胆力が必要なのも事実で、「デブ」や「ブス」、その他身体的特徴を揶揄する言葉がどれほど人の心を傷付け苛むか、身を持って知る女性の方が世の中多いのではないかとも思う。と考えると、糖尿病治療薬を使ってまで「痩せたい 」という願望に依存的なまでにのめり込み、痩せることが美への最短距離のはずだと妄信的に痩身を信奉している人達の心に、深く根を張っているのはコンプレックスというより恐怖心だろうというのは、別に突飛な想像とも言えないだろう。自分が他者からの心無い目に晒されること、無神経な言葉のひとつひとつに傷つけられること、そういう恐ろしいことから逃げたいのだ。惨たらしいのは、恐怖を感じている人の心につけ込むことがどれほど容易なことかを知っている人達が、嘘八百を並べ立てているに過ぎないのにそれをまるで魅力的な広告であるかのように装って、その恐怖心から金を巻き上げているという搾取の構造である。
「美」というのは実際のところかなり抽象的な概念なのだが、そこに「痩せ」だとか「二重」だとか目に見える確実性を求めてしまうのは、型に嵌められた存在でいたほうが突出した身体的特徴にスポットライトを当てられずに済むという回避的な意識もあるんじゃないかと思う。定義されている「美」を体現出来たなら、自分たちはこれ以上、「デブ」や「ブス」という言葉に苦しめられることはないだろう。相手の差別的な態度に悲しんだり、怒ったりする必要もなくなるだろう。と同時に、客観性が定めた「美しさ」という基準を満たすことは、自分を人生の成功者のように振る舞わせてくれる魔力と、そうすることでようやく対等に「権力」と並び立てるという、神話的な幻想を抱かせてくれる魔法を彼女達に与えてくれるのではないか。美しさは常に権力者との接点を作る上で重要な武器となってきた。換金可能な「美」は、「美」の基準として分かりやすい。“金になるほど美しい”!
エルヴィラは、いわば現代において「マンジャロ」を求める女性のひとりだ。彼女は淑女養成スクールに通って、選ばれし洗練されたお嬢様としての振る舞いを叩き込まれる。立ち姿から美しく、しなやかに、舞踏会ではダンスの相手に“選ばれる”女となるために、母親からのプレッシャーにも先生からの厳しい指導にも耐える。エルヴィラは、自分は将来的に“金になる女”だと母に証明しなくてはならない。綺麗な顔になって、痩せて、お金持ちの王子様と結婚する。美しさを換金する。そのためにサナダムシの卵も飲む。彼女を支えるのは、王子様との甘い出会い、甘い夢。
母の意向で整形手術に挑む時、エルヴィラはおそらくなんの覚悟も決まっていないまま椅子に縛り付けられる。無麻酔で出っ張った鼻の頭の骨を砕かれ悲鳴を上げて身悶えるエルヴィラに、慣れた様子で「アン、ドゥ、トロワ」とまるで魔法の呪文でも唱えるみたいに言いながらもう一度カナヅチを振るう美容外科医が、つまり現代でマンジャロをダイエット薬として転売する鬼畜商人の姿というわけだ。
美容整形のため鼻を砕かれ、その鼻をベルトで固定されているエルヴィラの姿が本作のキービジュアルにもなっている。彼女の本当の生き地獄は、この顔から始まる。
エルヴィラは妹のアルマ(演:フロー・ファゲーリ)とピクニックに出かけ、そこでアルマに「サナダムシダイエット」について打ち明けるのだが、アルマは「虫を飲むなんて気持ち悪い」と憤慨しエルヴィラを置いて帰ってしまう。置いていかれたエルヴィラはしばらく森を彷徨うが、そこでなんと偶然にも森に狩りへ来ていた王子様とその友人たちを見かけるのである。高鳴る胸の鼓動を抑えて彼らに近づくと、彼らの、ありえないくらい下品で下劣で聞くにたえないような会話が聞こえてくる。しかも、エルヴィラが想い焦がれる王子様はケツ丸出しで立小便までしている有様。物陰に隠れて彼らの様子を伺っていたエルヴィラは驚きと動揺で物音を立ててしまい、王子一行に見つかってしまうのだが、そこでエルヴィラにかけられたのは甘く優しい言葉などではなく…
本作の2人目の主人公とも言うべき、もう一人の地獄を生きるものがシンデレラにあたる義理の姉、アグネスである。初対面のエルヴィラですらうっとりしてしまうような、絵に描いたような美貌を持つ“プリンセス”。しかしアグネスは馬番をしているイサク(和名っぽい名前だが別に日本人ではない)という男と相思相愛の格差恋愛の真っ最中で、立場的に舞踏会に出て王子様を射止めるべきだと理解しつつも、自分の本当の愛はイサクのもので心から愛しているのはイサクだけだと痛切な想いをイサクに告げる。愛し合うふたりは馬小屋で怒涛のセックスをブチかますのだが、いつでもタイミングが最悪なことに定評があるエルヴィラがこれまた偶然にもふたりの生々しいまぐわいを目撃してしまうのである。日中に王子様の汚ぇケツを見たと思ったら、夜は馬小屋でイサクの無駄にキレイなケツを見る羽目に。涙が出ますよ。
コトが継母レベッカにバレ、馬番のイサクは全裸で野に追放、アグネスはここで原作通りの“灰かぶり”となり、彼女らの真剣恋愛はあまりにも空しい幕引きを迎えるのだった。お城のお嬢様から召使いに堕ちたアグネスは淑女養成スクールからも退校させられ、一方でレベッカのエルヴィラに対するプレッシャーはますます激しいものになっていく。
妹のアルマはこの狂った母娘の玉の輿大作戦にドン引きしていて、自分が「女性」として扱われること、また「女性」になることに抵抗感を感じているし、自分の母親が、「女は権力のある男の一番美しいアクセサリーでなければいけない(金持ちから選ばれる女にならなければいけない)」というような価値観が完全に内面化されてしまっていること、そしてその感性が無批判のまま放置された結果、母レベッカの中でそれは暴力的なほど強い支配的な価値観になってしまっていること、娘であるはずのエルヴィラを操り人形のように操作して、自分を代弁する装置にしようとしていることに、唯一気付いてる。母親の狂気に飲み込まれて崩壊していく姉を心から心配しているのもこのアルマだけで、彼女だけが、作中で唯一の良心として姉エルヴィラのことを見守っている。
いざ舞踏会の日がきてエルヴィラは念願の王子様と、(母親が金とコネの力で錬成した)キラキラ輝くうら若き乙女として対面を果たすが、この舞踏会に出てくる男性陣は目に余るほど露悪的な描かれ方をしていていっそ意地の悪い笑いを誘う。必見である。
客観性が評価の中心軸になっている「美」は、常に値踏みされる。客観性が評価の中心軸になっている「美」というのは、つまり誰かにとって都合よく扱える「美」のことだ。
そういう「美」においては、胸の大きさ、ウエストの細さ、顔の小ささ、手足の長さ、目の開き具合、二重の幅、鼻がついている位置、額の広さ、おしりは垂れていないか、脇毛は生えていないか、眉毛は整っているか、まつ毛は上がっているか、毛穴は閉じているか、皮脂は浮いていないか、髪の毛は艶を帯びて且つくし通りは滑らかか、肌は白いか、背中にニキビはないか、爪の形は綺麗か、ほうれい線はないか、歯は白く輝いているか、唇はひび割れていないか、体重は最低でも身長から-110をキープしているか、身長は低すぎず高すぎることもないか、デリケートゾーンの色素沈着はどうだ、歩き方はみっともなくないか、猫背ではないか、内股ではないか、座り方はどうだ、肩幅はどのくらいだ、髪の長さは理想的か、愛用しているアクセサリーのサイズは、好きなブランドは、使っているボディソープは、パーソナルカラーを意識した化粧品を使っているか、体型に似合った服を着ているか、エトセトラ、もっとたくさん、様々なことが評価の対象になり女性の査定になる。その査定を一体、誰がなんのためにしているのか。
『アグリー・シスター~』の物語では、そういう査定をする側の人間が、要するに権力勾配の上層にいる人間であることを明確に描いている。俺が興奮出来る女でいてくれ、自分に知的な劣等感を感じさせないアクセサリーでありトロフィーであってくれ、セックスするのにちょうどいいおっぱいであってくれ、やりやすい程度の頭の弱さを持っていてくれ、それでいて攻略しがいのある美しさを保っていてくれ、俺が触りたくなり犯したくなるような「女の子」でいてくれ。言外に伝えられる欲望が、舞踏会という場面で男性陣たちが見せる振る舞いの中に凝縮されている。下劣の煮凝りみたいな会話の応酬。こんなヤツらのために歩き方ひとつから指導され、他人に人生の主導権を自ら渡しに向かうエルヴィラ。そして、そんな男性たちのダダ漏れの欲望を浴びてなお、そう眼差されること、性的な価値こそが女の持つ重要な武器であり、その対価で優雅な暮らしが出来るのだと信じて疑わない女衒のような母親。おお、神よ。
女性の多くはおそらくこの物語の残酷さに、全体的とは言わないまでも部分的に、かなり共感が出来ると思う。なぜなら、私たちはどのような容姿や風貌をもって生まれていたとしても、他人からの値踏みに晒されなかったことなどないはずだからだ。生活においてそれを意識しようがしまいが、身長や体重、胸の大きさやウエストの細さ、瞳の大きさに至るすべてのパーツにおいて、私たちは何らかの完成と正解を自分以外の存在から求められているように感じることがある。逃れられない圧のようなものをただの一度も感じたことがないという人より、実際に自分が本当にそれを求められていたかどうかはともかくとして、空気感としてそういうプレッシャーを感じたことがある人はきっと少なくないはずだ。化粧禁止から一転、“出来なきゃおかしい”ことになったメイク、就活の時に履かされてそれ以外では一度も履かないパンプス、あたかもそれがマナーであるかのように語られる“正しい”アイシャドウやアイブロウの色、消耗品のストッキング、そういうものだって、みんな女性が空気感に強いられてきた社会的な「美」の模範だ。正解はコレだと教えられてきた。ただ矯正器具を嵌められているに過ぎないのに、それを「空気を読む」という行為の中に矮小化されてきた。男性が清潔感のためにヒゲを剃るのと同じだと。いいや違う。私たちもヒゲなら剃っている。女にもヒゲが生えることを知らないおじさまたち、同じ土俵に上がりたいならその濃いおヒゲで青くくすんだ月面みたいな肌にとっととファンデーションをお塗り!と何度も思ってきた。
私たちは「健康」や「清潔感」から切り離された極端な「美」、すなわち「ルッキズム」を賞賛するようメディアから語りかけられ、長いものに巻かれるようにして、そういう価値観を知らず知らずのうちに内面化している。それで生活に支障が出るわけではないけど、日々毛穴の開きや体毛の濃さや髪の毛のパサつき、午後になるとベトベトしてくる額や鼻筋がどうにかなってくれたらいいのにと思いながら過ごしている。自分の意思で美しくありたいと思うけど、一方で、なんで美しくあることが自分のためなんだ?とも思う。
「デブから一転、ダイエットで大変身」などと言ってダイエットを煽り、肥満をお笑いコンテンツ扱いするくせに、極端なダイエットにおける健康被害が若年層を中心に増加の傾向などと、一体なんのマッチポンプなんだよと思うような記事が踊るたび、時々ひどくバカバカしい。やれ何歳の女がカラコンなんてみっともないだの、やれいくつになっても好きなオシャレを楽しもうだの、出産後の体型維持だの、こんな髪色の女はイモっぽいだの、涙袋がどうだの、平行眉の流行は終わっただの、外野の声を一度でも聞いてしまったらなかなかそれが頭から離れない。聞く価値などないと一蹴しても、蹴り飛ばしたそばから違う意見が飛んでくる。なんて不毛なことだろう。それでもせっせとムダ毛の処理をして、顔の産毛を剃り、眉毛を懸命に整えて、金を払ってまつ毛を上向きにしにいく。野暮ったい自分の顔と折り合いをつけて生きていく。新しい化粧品を買えば気分があがり、好きな服がゲット出来たら嬉しいし、美容に熱をあげている時は、それはそれとして嘘偽りなく女の人生が楽しい。顔面に隕石でも激突したんかぇと思うような毛穴の開きを憂いながら、日々深くなっていくほうれい線を眺めながら、内田有紀さんのいくつになっても変わらない美しさに惚れ惚れしながら、自分なりに美しく歳をとりたいと願ってやまない。
多分重要なのは、それが自分の意思で選んだ行動かどうかというところだ。
しないよりしたほうが、自分のことを好きになれるかどうかだ。
エルヴィラの世界にはそういう「美」が存在しない。自己決定としての「美」、セルフケアとしての「美」がどこにもない。彼女達の視野を覆っているのは「自分のために美しくありたい」という願望ではなく、「他者から承認されるためのルッキズム」という地獄の景色である。
エルヴィラは母親のためにあるがままの自分を否定し、漂白しなくてはいけなかった。まるっこくて何が悪い。目がつぶらで何が悪い。スタイルが抜群じゃなくて何が悪い。野暮ったくて何が悪い。そういうことを何ひとつ言えず、そういう発想すらないような顔をしなくてはいけない。気付いてはいけないし、賢くなってはいけない。男性から下品な態度をとられても、拒否してはいけない。胸を掴まれても、それは自分のためだ。なぜ?と考えてはいけない。
極端な食事制限や腹の中でサナダムシを飼う行為はひるがえって彼女を隠れた過食に走らせ、豊かだった髪の毛はストレスのために抜け落ちた。眠れない痛みに耐え、サナダムシが腹の中を掻き回す気持ち悪さに耐え、キャパシティ以上の努力を精一杯詰め込んで、自分が“選ぶ”のではなく自分が“選ばれる”ための舞台に向かう。これだけのものを犠牲にして立つための精神的支柱は、もはや王子様との結婚しかない。
終盤に最も痛ましいシーンがある。創作におけるグロテスクさには慣れていると自負する私も、この話の流れで最後にこれがくるのかよと、みぞおちに一発パンチをもらうようなショックを受けて久しぶりに映画を観て痛みのために顔が歪んだ。というわけで、おおいに食らいました。
エルヴィラは舞踏会で数多の男に値踏みをされるが、エルヴィラを査定する男たちの顔や体は果たしてどうだったんだろう。ケツ丸出しで立ちションしていた王子様はケツの下から突然無駄毛が生え散らかしてて体毛アマゾンって感じだったけど、この映画が引き出す「汚さ」はそこを含めて本当にすごい。どれもこれもが痛烈に印象に残る。
こうした「女性とルッキズム」をテーマにした映画だと、近年では『ザブスタンス』(🇺🇸🇬🇧🇫🇷/'24)がアカデミー賞5部門にノミネートされるなどその脚光は記憶に新しい。こちらも女性監督がメガホンを撮り作り上げた快作である。こうした映画や物語が広く支持を受けるようになることで、女性を取り巻く環境がいまだ硬直性のある権力構造の中で作り上げられていることへの議論が活発になるだろうという期待がある一方、ルッキズムの弊害が可視化されればされるほど、これが世界共通の地獄であることを再認識することにもなる。女性にとっては、他人から文句無しに「A」と評価されるような「美」はもちろん永遠の憧れだ。そして、同時に足枷だ。『サブスタンス』は“かつては”若く美しかった女性が、その「美しさ」に囚われて瓦解していく様子を描くサイコなホラーである。人は老いる。生きた年数だけシワが刻まれ、白髪が増え、脂肪は重力に逆らえない。どれだけ栄華を極めても、いずれ自分の時代は去る。でもかつての栄光が老いを受け入れさせてくれない。過去の自分が今の自分を拒絶する。「そんなの私には分からない感覚だ」と、一体どんな人なら言えるだろう?
ルッキズムは私たちに生きづらさを強いてくるだけでなく、搾取とも密接だ。先述した糖尿病治療薬の件も結局は人の心につけ込む悪どい商売であって、ソリューションの提供でもなんでもない。記事を読んだ時これは本当に日本の話題なのかと思ったが、本当に日本の話題だった。そこまで「痩せる」ということに呪縛されてしまう人が居ることにも衝撃を受けるし、そこに商売性を見いだせる人の心がまるでない人間が平然と社会に生き、ダイエットビジネスなんて宣って、社長だとか、インルフエンサーだとかいう仕事をやっているということにもだいぶショックを受ける。こういう物事の延長線上にニードルパークとかが生まれる気がする。こんなことを商売にする人間だから、きっとまわりにいる人達も似たような人が多いのだろうし、おそらく誰も指摘をしないんだろうが、自分の倫理観が破綻していることに気付かないまま世に出て、その破綻した倫理観のケツを自分ではなく社会に持たせているという自覚がまるでない大人が、ルッキズムに呪われた若年層やあるいは物事にまったく無知な人達から金を巻き上げているのだから、世も末も末だ。金持ちの都合に合わせたバカになんてなるなよ。
ところで、ディズニー版のシンデレラにはOVAで発表された続編が2つあり、シンデレラ本編のサブキャラたちにスポットをあてた「2」、フェアリーゴッドマザーの魔法の杖がひょんなことから継母に奪われ、継母の邪悪な企みによりシンデレラが王子と結婚した歴史が改変されてしまいあわや大惨事の「3」、なんとその両方で長女アナスタシアは主役級の大抜擢を受けて活躍するのだが、これがそれぞれ、なかなか胸にくる話となっている。
「2」でのアナスタシアは過去の行いを反省し、シンデレラと距離を詰め、自分なりの幸せを掴む過程で母親との共依存的な関係を断ち切るのだが、「3」は時間軸でいうと「2」の手前にあたる物語で、継母がフェアリーゴットマザーから奪った魔法の杖を使って時間を戻し、王子たちに催眠をかけてアナスタシアを花嫁にしようと目論む物語だ。
「3」におけるアナスタシアは『アグリー・シスター~』におけるエルヴィラと似て、母親に対して従順だ。母親の言うことはなんでも正しく、言うことを聞いて約束を守れば幸せになれると信じている。母親の愛は本物だと思っているからだ。しかし母親は実際のところ娘たちのことを、金持ちと結婚させるための道具としか考えていないことが、次第に明らかになってくる。真実の愛とは何かを考える過程で、アナスタシアは人を騙して結婚しようとしている自分や、自分をとにかく王子と結婚させたがる母親に疑問を抱くようになる。
シンデレラは持ち前の負けん気とガッツで数々の逆境をネズミたちの力も借りながら乗り越えるのだが、何度心をへし折っても立ち上がってくる不屈のファイターシンデレラに対して恐るべき継母が最後に選んだ手段は、なんとアナスタシア自身の見た目をシンデレラにしてしまうという作戦だった。究極の全身整形。シンデレラ本編ではそこそこの悪役ぶりだったが、全シリーズを通してみるとシンデレラの継母は『ノートルダムの鐘』のフロローに匹敵するくらいかなりキマっている真のヴィランの迫力がある。
アナスタシアは葛藤するも、「自分自身を愛してくれる人と結婚したい」と言い最後は自らの意思で母親の願望を拒絶するのだが、「2」でのアナスタシアは母親が望むような金持ちと結婚するのではなく町のパン屋さんと結婚しており、彼女が見つけた等身大の愛の素朴さになぜか「3」を見たあとの方が涙を禁じ得ないというナゾの現象が起こる。シンデレラ2と3は、シンデレラの物語というよりアナスタシアがいかにして母親からの呪縛から解き放たれ、シンデレラという美しさの代名詞から「本当に必要な美しさとは何か」という哲学を取り戻す物語にもなっているという点で、実は隠れた良作なのである。
シンデレラはただ可憐で美しいがゆえに王子様に選ばれたわけではない。しかし、義理の妹たちであるアナスタシアとドリゼラはふたりとも深いほうれい線の刻まれた顔に団子っ鼻を乗せて、目は小さく髪の毛はごわごわとしていて、更には歌も下手で芸術的な才能に恵まれず、だからといって家事が出来るわけでもなく、性格もワガママで放埓で更には手足もデカイという、本当に散々な描かれ方をしていて、シンデレラとビジュアルや能力の面で明確な対比を取ろうとしていたことは明らかだ。ディズニーがシンデレラ「2」や「3」を制作したのは2000年代で、時代の進歩が既存の価値観に疑問を投げかけるようになり、そこからアナスタシアの再描写に繋がったのだと私は思っている。
次女のドリゼラについてはまったく性格的にも進歩がないまま終わっているので、いつかは彼女の成長譚も見たいところだったが、『アグリー・シスター~』では逆にこの次女の存在が救済そのものになっていて、私はラストシーンで思わず泣いた。私たちが獲得すべき真に「美しいもの」とは何かという答え、それはあのラストシーンに存在する。
かなり余談だが、『アグリー・シスター~』で体を張った主演を務めたリラ・マイレンさんは、好きな映画に『鉄男』(🇯🇵/'89)をあげており、なかなかエッヂの効いた趣味をお持ちであることが分かる。他、『RAW 少女のめざめ』(🇫🇷🇧🇪/'16)などが好きらしい。なんというか、すごく共感出来る趣味だ。じゃあこの映画の撮影は楽しんで臨めたのではないかと思い、その点で安心した。
こういう怪文書をつらつら書きつつ、他気になった映画を3本ほどシバいたら土曜の夜が終わり日曜日も終わった。イベント前にとっととpixivにサンプルをあげようと思っていたし会場に搬入する荷物もまとめようと思っていたのに何一つ終わっていない。怪文書を書くことをライフワークにしているせいだ。畳む
CATEGORY:映画感想
ユッケが好きだ。しかしステーキはウェルダンが好みだ。
1年前、動物公園でカンガルーを見た。コミカルなほど黒く大きな目と澄ました口元、大きなリボンのような耳、表情は「眠たそう」としか表現のしようがないが、面立ちはいたって可愛らしい。一方で、彼らの胸板は分厚く、肩から腰のラインにかけては安定した曲線が描かれている。いかにも堅強なシッポ、はじけそうな筋量がたくましい脚を力強く包み込んで、盛り上がった上半身を重量感たっぷりの下半身がしっかり支えているのが分かる。まさに地に足のついた生物。野生環境ではこの筋肉量が生死を分けるに違いない。
しかし、動物公園のこじんまりした放し飼いエリアに悠々とした態度で寝そべる彼らからは、「筋肉の鎧をまとった生物」というような例えからはかなり乖離した印象を受ける。なろうと思えば圧倒的な暴力装置になれる筋肉を誇りながら、そういうものにまるで頓着のない実に呑気な姿は、実家に帰省してだらしなくリビングに横たわってテレビを眺める無力で平和な人々のように怠惰で穏やかだった。カンガルーが午睡の代弁者であることは、彼らの下半身から完全に解き放たれ、もはや優雅な気品さえ感じさせる様子で足の隙間からハミ出したキンタマからも自明である。あれは、生殖よりも微睡みを思わせるキンタマだった。
カンガルーを食べた。
初夏の、あの汗ばむ陽気の、微睡みのキンタマから1年、ウェルダンで、カンガルー。
ということで、スズキ先生とカンガルーの肉を食べた。人生初のカンガルー肉である。それがまさか池袋にあるなんて。
カンガルーステーキの見た目は牛豚鶏で例えると牛ステーキに似ている。肉質は想像以上に柔らかい。牛肉とはまったく違う味わいだが、これを「そういう牛の部位」といって出されたら、信じるだろう。最初はレアで出てくるので、アッチアチの鉄板に肉を押し付けて火を通していく。わさびをつけて食べると肉の甘みが引き立ってうまい。米の進む味がする。脂が少なく、カルビがきつい年頃になりつつある乙女(※乙女)にもかなりオススメ出来る。肉を食べたという充足感と満足感はあるのに、胃に重たさが残らない。カルビを食べると翌日までダメージが残る乙女たち、カンガルーを食べなさい。
日々地道に努力を重ね、ものすごい肉体改造に成功しているスズキ先生は、「肉が食べたい」という欲求を満たすためにこのカンガルー肉にずいぶん世話になっていると仰っていた。いわく、2頭ぶんは食べたらしい。筋肉が筋肉に循環しているのだ。生物の垣根を超えた、マッチョの環である。
あの日動物公園で見たカンガルー。無邪気なほど全力で丸出しだった無防備のキンタマ。ぬいぐるみを濃いめのタレに漬けたような顔。劇画のようにマッチョフルな肉体。すべてがアンビバレントな魅力に包まれていたカンガルー。お前の肉がこんなに美味しいものだったなんて。
ありがとう、カンガルー。
お店を出たあとは巣鴨に移動した。週末の池袋に乙女(※乙女)の居場所はないのだ。
巣鴨から歩いて30分ほど、白山神社の紫陽花を見に行った。かなり盛況だった。紫陽花は満開で、あまり見たことない色や形のものもある。定番の赤や紫の紫陽花も美しい。pH値が生み出す自然の奇跡だ。色々な人たちがカメラを構えて紫陽花を撮影している。紫陽花の前でピースするお子さんを微笑ましく撮影する親御さん。恋人に撮影を頼まれてスマホを構える男性。かわいらしく着飾った女の子たちが伸ばす自撮り棒。こういう場所には、あらゆる類の「思い出」と「記念」がある。そしてぽえうぉこと異常独身女性もまた、おもむろにぬいぐるみを取り出し、撮影。あらゆる「思い出」と「記念」がある。あるのだ。
和太鼓部の学生さんが和太鼓を演奏していた。立派だった。私が彼ら彼女らの親ならあまりの立派ぶりに泣いていたと思う。赤の他人なので泣かず、心の中でたくさんの賞賛をおくり、神社をあとにした。一足先に夏祭りを体験出来てよかった。
スズキ先生と、再び巣鴨に向かって歩いた。日差しは眩しいが風はまだ涼しく日陰に入ると歩きやすい。良い散歩だった。
文京区というとなんとなく学校が多くやたらとバスが走っているイメージで、何かそういうような話をしながら歩いた。神社からほど近い場所に建っていた大学は建物が縦に長く、低層階で授業を受けた後に高層階に行かないといけないとなったら学生さんたちは移動が大変だろうね、エレベーターで移動だろうからね、とマジでおばちゃんみたいな会話をした。私もぼちぼち大学生の移動の心配より自分の足腰のために色々考えないといけないお年頃だが、スズキ先生は輝かんばかりの健康生活を送っていてとにかく努力の姿が素晴らしいので、お手本にして頑張りたいと思う。まずは高カロリーなものを食べる際に「お前は今からゼロカロリー」と言い聞かせてカロリーを消そうとする無意味な努力からやめたい。
大きな通りには様々なお店が面しているが、脇道に入るとすぐ住宅街が広がる。一方通行の多い東京では車の出入りが大変そうだなとどうでもいい感想をいだく。ところどころでキレイなカフェなども見かける。小洒落た本屋さんがあったので、立ち寄った。「食」と「旅」をテーマにした本屋さんということで、店内に置かれた本はそのどれもが「食」や「旅」、あるいはその「土地」に関連したものになっている。
店内の奥に、都道府県別に雑誌や本のおかれたコーナーがあった。埼玉コーナーには埼玉の観光地を案内する本のほかに古墳の本や三島由紀夫の「美しい星」などが並んでいた。「美しい星」を埼玉関連の本としてくれるところが面白い。
巣鴨に戻ったあとは、商店街を歩いた。激しい段差などがなく、道幅も広々としていてとにかく歩きやすい。とげぬき地蔵とはよく聞くが実際に訪れたことはなかったので、立ち寄れてよかった。また、あんぱんを買いに入ったパン屋さんのレジの後ろになぜか西武ライオンズグッズが並んでいて、どう考えても巣鴨と西武ライオンズに関連はないだろうから、間違いなくお店の方の趣味で陳列されていたのだろうが、埼玉在住の人間として西武ライオンズファンに出会うことがほぼないので新鮮な気持ちになったうえに地元のものが好かれているのはちょっと嬉しかった。なお私はまったく野球ファンなどではない。
ほどよく人がいて、またほどよく人がいない商店街を端から端まで歩いて、庚申塚駅に着いた。駅の甘味処でおはぎを食べたのだが、スズキ先生にとっては久しぶりの甘い食べ物だったそうでおはぎを前に「泣きそう」と言い感激してしばらくおはぎと見つめあっていた。おはぎもこんなに喜んでもらえてかなり嬉しかったはずだ。私は季節限定のよもぎおはぎを食べた。なんだかんだでずっと歩いていたから、甘いものが体に染みて本当に美味しかった。私の勤める会社には毎日おはぎを食べている異常なおじさんがいて、ハゲているせいで「おはげ」という身も蓋もないニックネームをつけられているのだが、おはぎと聞くとどうしてもその人がイメージの先頭に来ていた。でもこの日食べたおはぎのお陰で、おはぎのイメージの先頭がおはげと入れ替わった。人生で初めておはぎをテイクアウトした。スズキ先生も「一番おいしいおはぎだったかも」と言っていた。リム先生流に言うなら、「人生おはぎ」と言ったところか。
そのまま池袋まで歩いた。結局池袋に戻ってきた。
アニメイトに入ったが、キレイになったアニメイトは乙女(※乙女)の居られる空間ではなく、あの小汚いアニメイトが懐かしかった。池袋の景色も日々変わっていく。
カフェに入って、かき氷を食べ、この夏もたくさん遊びたいですねぇという話をし、帰った。帰りの電車で「カンガルー キンタマ」と検索したら、オーストラリアではカンガルーのキンタマは定番のお土産らしいということが分かり、カンガルーのキンタマはヘソの下あたりからぶら下がっているという知見を得た。また、オーストラリアに住むカンガルーは都民の数より多いらしいということも。
翌日、朝食に巣鴨で買ったあんぱんを食べた。どうしても牛乳と一緒に食べたかった。ひとりで家の張り込みが出来てよかった。そんでそのまま二度寝してしまい、目覚めたあともゴロゴロして10分おきに本読んで10分おきに横たわるみたいなことをやっていたら日曜日が終わった。かなり仕上がっている週末だった。畳む
1年前、動物公園でカンガルーを見た。コミカルなほど黒く大きな目と澄ました口元、大きなリボンのような耳、表情は「眠たそう」としか表現のしようがないが、面立ちはいたって可愛らしい。一方で、彼らの胸板は分厚く、肩から腰のラインにかけては安定した曲線が描かれている。いかにも堅強なシッポ、はじけそうな筋量がたくましい脚を力強く包み込んで、盛り上がった上半身を重量感たっぷりの下半身がしっかり支えているのが分かる。まさに地に足のついた生物。野生環境ではこの筋肉量が生死を分けるに違いない。
しかし、動物公園のこじんまりした放し飼いエリアに悠々とした態度で寝そべる彼らからは、「筋肉の鎧をまとった生物」というような例えからはかなり乖離した印象を受ける。なろうと思えば圧倒的な暴力装置になれる筋肉を誇りながら、そういうものにまるで頓着のない実に呑気な姿は、実家に帰省してだらしなくリビングに横たわってテレビを眺める無力で平和な人々のように怠惰で穏やかだった。カンガルーが午睡の代弁者であることは、彼らの下半身から完全に解き放たれ、もはや優雅な気品さえ感じさせる様子で足の隙間からハミ出したキンタマからも自明である。あれは、生殖よりも微睡みを思わせるキンタマだった。
カンガルーを食べた。
初夏の、あの汗ばむ陽気の、微睡みのキンタマから1年、ウェルダンで、カンガルー。
ということで、スズキ先生とカンガルーの肉を食べた。人生初のカンガルー肉である。それがまさか池袋にあるなんて。
カンガルーステーキの見た目は牛豚鶏で例えると牛ステーキに似ている。肉質は想像以上に柔らかい。牛肉とはまったく違う味わいだが、これを「そういう牛の部位」といって出されたら、信じるだろう。最初はレアで出てくるので、アッチアチの鉄板に肉を押し付けて火を通していく。わさびをつけて食べると肉の甘みが引き立ってうまい。米の進む味がする。脂が少なく、カルビがきつい年頃になりつつある乙女(※乙女)にもかなりオススメ出来る。肉を食べたという充足感と満足感はあるのに、胃に重たさが残らない。カルビを食べると翌日までダメージが残る乙女たち、カンガルーを食べなさい。
日々地道に努力を重ね、ものすごい肉体改造に成功しているスズキ先生は、「肉が食べたい」という欲求を満たすためにこのカンガルー肉にずいぶん世話になっていると仰っていた。いわく、2頭ぶんは食べたらしい。筋肉が筋肉に循環しているのだ。生物の垣根を超えた、マッチョの環である。
あの日動物公園で見たカンガルー。無邪気なほど全力で丸出しだった無防備のキンタマ。ぬいぐるみを濃いめのタレに漬けたような顔。劇画のようにマッチョフルな肉体。すべてがアンビバレントな魅力に包まれていたカンガルー。お前の肉がこんなに美味しいものだったなんて。
ありがとう、カンガルー。
お店を出たあとは巣鴨に移動した。週末の池袋に乙女(※乙女)の居場所はないのだ。
巣鴨から歩いて30分ほど、白山神社の紫陽花を見に行った。かなり盛況だった。紫陽花は満開で、あまり見たことない色や形のものもある。定番の赤や紫の紫陽花も美しい。pH値が生み出す自然の奇跡だ。色々な人たちがカメラを構えて紫陽花を撮影している。紫陽花の前でピースするお子さんを微笑ましく撮影する親御さん。恋人に撮影を頼まれてスマホを構える男性。かわいらしく着飾った女の子たちが伸ばす自撮り棒。こういう場所には、あらゆる類の「思い出」と「記念」がある。そしてぽえうぉこと異常独身女性もまた、おもむろにぬいぐるみを取り出し、撮影。あらゆる「思い出」と「記念」がある。あるのだ。
和太鼓部の学生さんが和太鼓を演奏していた。立派だった。私が彼ら彼女らの親ならあまりの立派ぶりに泣いていたと思う。赤の他人なので泣かず、心の中でたくさんの賞賛をおくり、神社をあとにした。一足先に夏祭りを体験出来てよかった。
スズキ先生と、再び巣鴨に向かって歩いた。日差しは眩しいが風はまだ涼しく日陰に入ると歩きやすい。良い散歩だった。
文京区というとなんとなく学校が多くやたらとバスが走っているイメージで、何かそういうような話をしながら歩いた。神社からほど近い場所に建っていた大学は建物が縦に長く、低層階で授業を受けた後に高層階に行かないといけないとなったら学生さんたちは移動が大変だろうね、エレベーターで移動だろうからね、とマジでおばちゃんみたいな会話をした。私もぼちぼち大学生の移動の心配より自分の足腰のために色々考えないといけないお年頃だが、スズキ先生は輝かんばかりの健康生活を送っていてとにかく努力の姿が素晴らしいので、お手本にして頑張りたいと思う。まずは高カロリーなものを食べる際に「お前は今からゼロカロリー」と言い聞かせてカロリーを消そうとする無意味な努力からやめたい。
大きな通りには様々なお店が面しているが、脇道に入るとすぐ住宅街が広がる。一方通行の多い東京では車の出入りが大変そうだなとどうでもいい感想をいだく。ところどころでキレイなカフェなども見かける。小洒落た本屋さんがあったので、立ち寄った。「食」と「旅」をテーマにした本屋さんということで、店内に置かれた本はそのどれもが「食」や「旅」、あるいはその「土地」に関連したものになっている。
店内の奥に、都道府県別に雑誌や本のおかれたコーナーがあった。埼玉コーナーには埼玉の観光地を案内する本のほかに古墳の本や三島由紀夫の「美しい星」などが並んでいた。「美しい星」を埼玉関連の本としてくれるところが面白い。
巣鴨に戻ったあとは、商店街を歩いた。激しい段差などがなく、道幅も広々としていてとにかく歩きやすい。とげぬき地蔵とはよく聞くが実際に訪れたことはなかったので、立ち寄れてよかった。また、あんぱんを買いに入ったパン屋さんのレジの後ろになぜか西武ライオンズグッズが並んでいて、どう考えても巣鴨と西武ライオンズに関連はないだろうから、間違いなくお店の方の趣味で陳列されていたのだろうが、埼玉在住の人間として西武ライオンズファンに出会うことがほぼないので新鮮な気持ちになったうえに地元のものが好かれているのはちょっと嬉しかった。なお私はまったく野球ファンなどではない。
ほどよく人がいて、またほどよく人がいない商店街を端から端まで歩いて、庚申塚駅に着いた。駅の甘味処でおはぎを食べたのだが、スズキ先生にとっては久しぶりの甘い食べ物だったそうでおはぎを前に「泣きそう」と言い感激してしばらくおはぎと見つめあっていた。おはぎもこんなに喜んでもらえてかなり嬉しかったはずだ。私は季節限定のよもぎおはぎを食べた。なんだかんだでずっと歩いていたから、甘いものが体に染みて本当に美味しかった。私の勤める会社には毎日おはぎを食べている異常なおじさんがいて、ハゲているせいで「おはげ」という身も蓋もないニックネームをつけられているのだが、おはぎと聞くとどうしてもその人がイメージの先頭に来ていた。でもこの日食べたおはぎのお陰で、おはぎのイメージの先頭がおはげと入れ替わった。人生で初めておはぎをテイクアウトした。スズキ先生も「一番おいしいおはぎだったかも」と言っていた。リム先生流に言うなら、「人生おはぎ」と言ったところか。
そのまま池袋まで歩いた。結局池袋に戻ってきた。
アニメイトに入ったが、キレイになったアニメイトは乙女(※乙女)の居られる空間ではなく、あの小汚いアニメイトが懐かしかった。池袋の景色も日々変わっていく。
カフェに入って、かき氷を食べ、この夏もたくさん遊びたいですねぇという話をし、帰った。帰りの電車で「カンガルー キンタマ」と検索したら、オーストラリアではカンガルーのキンタマは定番のお土産らしいということが分かり、カンガルーのキンタマはヘソの下あたりからぶら下がっているという知見を得た。また、オーストラリアに住むカンガルーは都民の数より多いらしいということも。
翌日、朝食に巣鴨で買ったあんぱんを食べた。どうしても牛乳と一緒に食べたかった。ひとりで家の張り込みが出来てよかった。そんでそのまま二度寝してしまい、目覚めたあともゴロゴロして10分おきに本読んで10分おきに横たわるみたいなことをやっていたら日曜日が終わった。かなり仕上がっている週末だった。畳む
CATEGORY:雑記
そういえばサイトを更新してました。
https://pewq315.com
更新というか同人誌を数本収容しただけですが、よければ是非。
初めてiPadで作った同人誌原稿(命のゆじ)をどこのファイルに入れたか忘れて見失っています。どこかには入れた。消してはいないはず。どこなの。気に入っているのに。命のゆじをサイトに載せたいよ。
あと、以前にもお知らせしたんですけど、この週末に下記のWebオンリーに参加します。
PICREA(ピクリエ)開催イベント 【個人サイトWebオンリー めぐる市】 https://picrea.jp/event/a306c73ff0f8e27b...
このWebオンリーを教えてもらっていなかったら、まだ当分サイトは完成してなかったと思います。教えてくだすった未捺彦先生に感謝。本当にありがとうございます。ようやく自分の根城が出来ました。これでいつでもひきこもって遊べます。
個人サイト文化をあまり知らないという方は、是非このイベントで色々な「ホームページ」を巡ってみてほしいです。今はコンテンツをアプリで楽しむのが普通で、SNSさえあれば片手間に様々な画像や動画の閲覧が出来る時代ですが、腰を据えてネットサーフィンするというのもなかなか趣きがあるというものです。(ネットサーフィンを「趣き」とかいう時代が来るなんてだいぶ信じられませんが)
サイト作りのキッカケも転がっているかも知れません。初めての同人誌作りと同じでサイト作りも「やるしかあんめぇ」となったら絶対完成しますので、少しでも「やるしかあんめぇ」の人が増えたらいいなぁと思うし、ブームが一巡してまた個人サイトが脚光を浴び、便利なサービスが勃興しまくったらいいなと思います。
最初未捺彦先生からこのイベントを教えて頂いた時、「満了してもスペース拡大してくださるみたいなんで、申し込みはゆっくりでもいいかもです」と仰っていたので、まあ今日日個人サイトと言ってもね…などとかなりナメたことを思っていたのですが(自分自身ネットサーフィンなんてほぼしなくなっている側の人間だから)、現実はなかなかの早さでスペース満了だったようで、まだまだ個人サイトの勢いは死んでないね‼️と、かなり嬉しい気持ちになりました。
思い立ったが吉日行動だけは早いので、聞きつけてすぐに申し込みしました。ついた火を消すのは下手ですが自分のケツに火をつけるのだけはやたら得意。自分のケツになら火を放ち放題。ケツ炙りにだけは自信がある。一生ケツを燃やしていく。
そういえば初めてTwitterのアカウント作ったのって何年くらい前になるんだっけ❓と思って色々遡ってみたら、私が初めてTwitterというものに触れたのは16年前でした。怖い。生まれたてほやのバブが最後の制服時代を楽しむお年頃になってしまうのと同じ時間を、私はあのSNSと共に過ごしています。私以外にもそういう人はたくさんたくさん居ると思います。あえて言いますが時間の使い方絶対間違っています。
Twitterをやり始めた時はSNSがどういう意味のなんなのかということを全く考えていなくて、当時サイトに設置していたメモ(alfoo)の代わりに使えたらいいなくらいの気持ちでした。全然用途違ったね。
alfooって今もあるのかな❓と思って調べたらサ終していました。いらんことをいっぱい書いていたので、これで完全にネットの海に沈んだと思うと切なさと安心が一挙に押し寄せてきます。中学生の頃から色々なウェブサービスに絶え間なく黒歴史を刻む人生でした。でも最後はみんなインターネットという大海の底に沈んでいきました。XもInstagramもThreadsもmixi2も、そう遠からぬ未来では海底に沈む珪藻類の死骸みたいになっていることでしょう。でもその代わりに新しいインターネットサービスが生まれて、我々は死ぬまで黒歴史を刻み続けるんだと思います。とことん黒光りさせていきたいです。畳む
https://pewq315.com
更新というか同人誌を数本収容しただけですが、よければ是非。
初めてiPadで作った同人誌原稿(命のゆじ)をどこのファイルに入れたか忘れて見失っています。どこかには入れた。消してはいないはず。どこなの。気に入っているのに。命のゆじをサイトに載せたいよ。
あと、以前にもお知らせしたんですけど、この週末に下記のWebオンリーに参加します。
PICREA(ピクリエ)開催イベント 【個人サイトWebオンリー めぐる市】 https://picrea.jp/event/a306c73ff0f8e27b...
このWebオンリーを教えてもらっていなかったら、まだ当分サイトは完成してなかったと思います。教えてくだすった未捺彦先生に感謝。本当にありがとうございます。ようやく自分の根城が出来ました。これでいつでもひきこもって遊べます。
個人サイト文化をあまり知らないという方は、是非このイベントで色々な「ホームページ」を巡ってみてほしいです。今はコンテンツをアプリで楽しむのが普通で、SNSさえあれば片手間に様々な画像や動画の閲覧が出来る時代ですが、腰を据えてネットサーフィンするというのもなかなか趣きがあるというものです。(ネットサーフィンを「趣き」とかいう時代が来るなんてだいぶ信じられませんが)
サイト作りのキッカケも転がっているかも知れません。初めての同人誌作りと同じでサイト作りも「やるしかあんめぇ」となったら絶対完成しますので、少しでも「やるしかあんめぇ」の人が増えたらいいなぁと思うし、ブームが一巡してまた個人サイトが脚光を浴び、便利なサービスが勃興しまくったらいいなと思います。
最初未捺彦先生からこのイベントを教えて頂いた時、「満了してもスペース拡大してくださるみたいなんで、申し込みはゆっくりでもいいかもです」と仰っていたので、まあ今日日個人サイトと言ってもね…などとかなりナメたことを思っていたのですが(自分自身ネットサーフィンなんてほぼしなくなっている側の人間だから)、現実はなかなかの早さでスペース満了だったようで、まだまだ個人サイトの勢いは死んでないね‼️と、かなり嬉しい気持ちになりました。
思い立ったが吉日行動だけは早いので、聞きつけてすぐに申し込みしました。ついた火を消すのは下手ですが自分のケツに火をつけるのだけはやたら得意。自分のケツになら火を放ち放題。ケツ炙りにだけは自信がある。一生ケツを燃やしていく。
そういえば初めてTwitterのアカウント作ったのって何年くらい前になるんだっけ❓と思って色々遡ってみたら、私が初めてTwitterというものに触れたのは16年前でした。怖い。生まれたてほやのバブが最後の制服時代を楽しむお年頃になってしまうのと同じ時間を、私はあのSNSと共に過ごしています。私以外にもそういう人はたくさんたくさん居ると思います。あえて言いますが時間の使い方絶対間違っています。
Twitterをやり始めた時はSNSがどういう意味のなんなのかということを全く考えていなくて、当時サイトに設置していたメモ(alfoo)の代わりに使えたらいいなくらいの気持ちでした。全然用途違ったね。
alfooって今もあるのかな❓と思って調べたらサ終していました。いらんことをいっぱい書いていたので、これで完全にネットの海に沈んだと思うと切なさと安心が一挙に押し寄せてきます。中学生の頃から色々なウェブサービスに絶え間なく黒歴史を刻む人生でした。でも最後はみんなインターネットという大海の底に沈んでいきました。XもInstagramもThreadsもmixi2も、そう遠からぬ未来では海底に沈む珪藻類の死骸みたいになっていることでしょう。でもその代わりに新しいインターネットサービスが生まれて、我々は死ぬまで黒歴史を刻み続けるんだと思います。とことん黒光りさせていきたいです。畳む
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2026年5月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
もともと雑記帳代わりにくるっぷを使っていて、それで特に不足を感じていないので、今後も基本的にはくるっぷにおります。こちらは くるっぷ に投げたなんらかの感想とかニュースへの雑感なんかを放り投げる備忘録として運用していく予定です。
折角設置したので、テスト代わりに先日くるっぷに投げた『肉は美し』の感想(の改訂版)をこちらにも。
『肉は美し』、本の帯に「Tiktokで話題沸騰」と書いてあるのを見て、私の中の悪いインターネットがTiktok愛好者に3行以上文章読めるヤツなんか居ないだろと唾棄すべき極めて差別的な偏見を囁いてきたので、それじゃあ一丁買って読むかという気になり購入を決めました。導入としては最低だと思います。
アルゼンチン発の「食人ディストピアSFホラー」というふうに紹介されているんですけど、難しい用語や複雑な設定なども出てこずかなり世界観を理解しやすいSFホラー入門編という感じ。グロテスクな部分は多分にあるのですがそこまで苛烈な描写ではなく、非常に淡々としていて読みやすいです。それでいて読後にちゃんと「毒を飲んだ」という感覚が残る。とても良かった。確かにTikTokで話題沸騰しそうだなとも思いました。こういうグロテスクさを大袈裟に広告するタイプのインフルエンサーは居るだろうなという意味で。
舞台は動物が人命を脅かす病原菌の保体となってしまった近未来、動物を食肉として生産・出荷・消費することが出来なくなり、人間を家畜として扱うことが合法的に認められた社会で、その家畜人間(作中ではこれを【人間】と表現することは法律で固く禁じられている)を屠殺する業務に従事しているマルコスという男が本作の主人公。
彼はもともと食肉加工(もちろん家畜の)業者だったのですが、現在はその知識を活かして人肉加工会社に勤めてそこそこの地位についているサラリーマン。しかし彼の生活は厳しいもので、社会が合法的に人間食っていいとかマジでワケ分かんないことを言い出して世の中がありえない狂い方したことに絶望したお父さんは認知症になっちゃうし、実の妹はボケた父親の介護にノンタッチで父親が入居する施設に会いに来ようともせず、マルコスはひとりで父親の介護負担を背負っており、不妊治療を続けてどうにか授かった子供も生まれてすぐに亡くなってしまって、そのせいで妻は精神的に病んで実家に戻っていて、人肉加工になんの罪悪感も持たないどころか嬉々として人の肉を切り刻むサイコパス経営者に囲まれて心労もハンパじゃないし、なんかもうにっちもさっちもいかなくてちょっと病んでる男なんですけど、そんな彼がある時、取引先の人間に食肉用に飼育された最高級人肉女性をプレゼントされるのですね。
マルコスという主人公は悲観的な男で、自分がどれほど悲劇的な人生を歩んでいるかということにもかなり自覚的です。自分の父親、妹という心理的距離が最も近いはずの家族が分裂している問題、苦労した末に授かった子を喪失してしまった父親として、その死を処理しきれない自分自身の精神の問題、また妻も同様に病んでしまい、そうした家庭の問題をも抱えなければいけないという多重の精神的負荷、加えて仕事においても安寧の時はなく、自分自身が抱える業務の違和感と経営者たちの臨む景色の間に深い断絶があることに絶望している。あらゆる方面から悲劇に見舞われている実に《悲劇的な》男マルコスは、自分とは即ち悲劇の男なんだという諦観の中に生き、日々を苛立ちと共に過ごしている。そんな主人公が、人肉として育てられて出荷を待っていた、『見た目は人間中身は家畜』という地獄名探偵(ヘル・コナン)みたいな決して《人として》扱ってはいけない存在と出会ってしまい…
『肉は美し』の世界において描写される社会というのは、「食べられなくなった動物の肉の代わりに人間の肉を食べる」という極端な選択をした社会です。つまり、需要を満たすためであれば究極的な超消費を肯定する、資本主義の最果てのような社会です。作中に描写される食用人間たちは肉の一枚とて無駄にはされず、その皮さえも加工品となります。実験動物の代わりでもある。人格はほぼないに等しいような描かれ方をされていて、同じなのは見た目だけ…という建付けです。でも誰も彼もがこの食事にありつけるわけではない。工場で管理されて生産された「美味しい人肉」を食べられるのは、ミドルクラス以上の人間たちだけということ。
動物性タンパク質がないなら人肉食べればいいじゃない。国家が(無論自分たちを含む)ブルジョワ様の【消費】のために超えてはならない一線を超えた社会、ここに描かれているのはいわば資本主義を限界まで加速させた結果倫理の崩壊を引き起こしている社会です。シリコンバレーの技術者の一部の集団が提唱している「加速主義」のようなカルト的な主張は、この資本主義の限界をテック企業が突き破ってこそ社会は前進するのだから、限りなく資本主義を拡大せよと謳っているけど、本作の舞台ではテクノロジーがこれを救いません。つまり技術革新は人を死に至らしめる病を克服出来ず、また動物性タンパク質の代替を生み出すことも出来ず、しかして消費に対する希求は留まることがなく、今ある資源の分配を拒否し、需要を満たすためであれば人倫を踏み越えることも厭わなくなった社会、文化や文明というものが【カネ】と【消費活動】にとって代わられた世界です。
設計としてかなりの無理のある【超消費】は、一部の富裕層にだけはやたらとカネが集まっているのに市場にはモノがないという状態の時にこそ起こる。一部にだけ富が集中してるってことは市井の人々の生活は困窮しているということで、作中では貧富の差が壮絶なものであるということが肉の消費を通じて描かれています。金持ちもヤバいけど貧困層もヤバい。
で、モノがなくなり需要を満たせず、著しく需給の均衡を欠く貧困社会では下記のような価値観がとても強い実行力を持っていて、『肉』という富の象徴はやはり富裕層を中心に消費されます。一部の限られた層の人たちへの分配だから、ここでは人としての倫理よりも消費のための倫理が優先されます。
・我々が需要する限りにおいて供給はされるべきであり(支払い能力がある以上、安全に肉を食べる権利がある)、
・需要を満たすため生産において限りなく合理的な手段をとることは、生命倫理とはまた切り分けて考えねばならない経済の問題で(肉として生まれたものを肉として消費することは悪ではないので、その過程において発生する諸問題は一切を免責されるべきである)、
・また、消費とは生活を過不足なく運用するために必要不可欠な文化的かつ文明的行為であり(美味しい肉を食べるために、肉そのものは安全な場所で管理されなければならず、その点において虐待は許されず、文明的な運用が義務付けられている、であるならば、それは肉そのものの権利すら包括的に保護しているということであり、この合理性を保持する以上、我々は文化的かつ人間的な価値観を喪失しえない)、
・需要を満たすための生産消費は雇用の創出にも繋がり、そのサイクルの中で経済を発展させ、また安定させるものでもあるのだから、仮にしばしば労働者が比重の偏った負担を強いられたとしても、その利益はいずれ労働者に還元される(自らの、受け取りたい/受け取りたくないという意思に関わらず、食肉は市場を潤し潤った市場の恩恵を国民はすべからく受け取っているのだから、その責任はすべてに分散され共有される)
文化や文明が人間の道徳を構成するのではなく、消費行動が人間の「善性」「善意」そのものの価値観まで支配するという考えです。だから人々は食人行為を「食“人”」とは言わない。あくまでもこれは「食事」という行為で、食べているものも「ヒト」ではなく「頭」(作中で食用人間は「頭」と呼ばれる)である。呼び方から強制し、情報統制を徹底する。これは【文化】なんですよ、というポーズ。ただの消費行動を文化的行為と見なすためには、言葉による書き換えがとても重要なんだなぁ。その書き換えがあってこそ、残虐な行為には大量の免罪符が与えられることになります。だって、人は肉を食わねばいきていけないし、動物性タンパク質がなければ健康が損なわれるし、食用の「頭」はそういう生き物として飼育されており、わざわざ痛めつけて殺すといったようなことはしないのだし、食用の「頭」に対する性的な虐待も無論罪に問われる行為で、食の楽しみを守るということは我々の基本的人権を守ることであり、食事は生活において不可欠な行為なのだから、正当性はある。したがって、合法的に肉を手に入れるために必要な手段を講じることは、「悪」ではない。
それが真実かどうかはひとまず置いておいて、そういう「御札」を貼るという行為は、それそのものの価値自体に大きく作用します。だけどマルコスは食肉加工会社で食用人間がどのような環境でどのように飼育され、どんな人間に何をされるか、またどのように処理されているかを知っている。実際に供される「肉」が実際には食肉用の人間だけではないという現実を知っている。そしてその肉がどういった人達に需要され、どういった用途のために使用されているのかも分かっている。マルコスの頭の中には、これを「肉」として見なければいけない自分と「しかしこれは人間の形をしている」と認識する自分がそれぞれに存在していて、常に矛盾を抱えています。本当に生きるために必要ならば納得が出来るかも知れない。それを職業と割り切ることも出来るかも知れない。実際、そう考えている仲間は居る。しかし、現実的にはこれはただの「食人」で、彼らはかつて人間の形をしていたものを食べている。人間が人間を食べるという一線を超えた人々にとって、人肉食のハードルはかなり下がってしまった。つまり、自分と同じ人間を傷つけるハードル、殺しのハードル、そういったものが以前よりずっと低くなってしまった。命の価値自体が変容してしまった。その一方で、マルコスは子供を喪ったら悲しく苦しいわけです。親がボケてまともに会話も出来なくなっていることを嘆く気持ちがあるわけです。妹が介護に参加せず協力的な態度を見せないことに冷酷さを感じるわけです。社会全体が命に対するハードルを下げたとしても、私個人にとっての命のハードルは変わらない。この矛盾が、マルコスを苦しめている。
主人公のマルコスは本当に悲劇的な人物で、 様々な不条理の中をもがく男として描かれているのですが、この人物描写は実に巧みです。
彼の描かれ方としてはこうなわけです。つまり、彼は今自分がやっていることをとても残酷で惨たらしいことだと感じているけど、父親の介護費用を賄うためにはこの選択に頼らざるを得ないから仕方なく仕事を引き受けているという立場で、喪った子供や病んだ妻のことを悼んだり思いやったりするといった心理的コストの支払いのためにはどこかに苛立ちをぶつける必要もあって、その苛立ちの捌け口のためには、エロい知り合いの女と乱暴なセックスもするし、そのエロい知り合いの女をエロがっている男の前で見せつけるようなプレイをすることで溜飲を下げてもいる。かつての彼は飼っていた犬を本当に愛していて、今でも犬に対しては格別の思い入れがあるんだけど、生き残った野犬たちが子供たちに虐待されているところに遭遇しても割り込んでいったりは出来ないし、犬一匹救えない。かといってそんな自分を責めたり哀れんだりといったようなことはなく、悪いのは自分という個人ではなくこういう社会の構造なんだと世の中に対する暗い怒りを抱えている。上司や取引先のお偉いさんには逆らえないが、特別苛立っている時には、女性のサイコパス研究者くらいになら嫌味な態度もとる。
マルコスはまるで「こちら側」の人間であるかのような描かれ方をします。悪の当事者ではなく、悪の傍観者という立場です。肉を捌くということに罪悪感があり悲しさがある。つらさがある。自分の仕事に違和感がある。おかしいと思っている。それを誰にも言えないでいる。死ぬことを恐れている。家族の尊厳が傷つくことを恐れている。どこにでもいる、小さくとも、確かな倫理観に基づいて思考することの出来る人物。「あなた」と同じ。「わたし」と同じ。最初はそういうふうに彼を読むことが出来る。しかし、マルコスは自分より強いものには逆らえない。現状を打破するための努力は出来ない。完全に人肉食や人肉加工を受け入れている取引先の人々にささやかな意思表示をすることも出来ない。子供たちが生き残った野犬を虐待する場面に遭遇してもただ見ているだけで何もしない。子供が死んでしまい心のバランスを崩す妻に寄り添えない。妹を憎んでいて、取引先の女を乱暴に抱き、女性の研究者相手にならストレートな苛立ちを見せる…彼は、今この瞬間に出来る最大限普通の振る舞いをして新しい常識から逸脱しない、ゆえに、彼は自分自身の「差別意識」に気付きもしません。
マルコスは家族や社会的地位に縛られています。食肉加工業者として日々「肉」を処理しながら、自分自身はそういう肉を決して食べないのは、その行為に生理的な極めて強い嫌悪感を覚えるからです。だから貢物として贈られた高級人肉女性のことも、“食べは”しません。
しかし、この物語で提示される「消費」は、食べるという行為をはるかに超えた、もっとグロテスクな行為であり…
マルコスの人間性は悲劇によって保たれています。子供を喪った父親という自分自身の悲劇が、彼に現状に対して不満を持ち、怒りと悲しみを覚える平凡な男の人格を与えています。この物語が明示するのは、「行き場のない怒り」や「途方もない悲しみ」こそが、実は人が「人」というものに大きく共感し、精神的な共鳴を送受信するアンテナになっているという事実です。では、その「悲劇」を克服した彼は、その代わりのアンテナをどこに求めるようになるのか。
マルコスと同じ「あなた」も「わたし」も、結局はこの超消費社会でひたすら滑車を回し続けている残酷な消費者でしかないとしたら。そしてその残酷さに、当事者ほど無自覚なのはなぜなのか。他人の誤った行いには強烈な忌々しさを感じるのに、自分の手だけはあんなふうに汚れていないと考えてしまうのはなぜなのか。人命を家畜と等しく扱う富裕層(遊びで人間狩りとかする)を心底下品と軽蔑しながら彼らを打倒しようとはせず、その日食うにも困っている最貧困の人々(腐った人肉を拾い集めて食ったりする)に憐れみより苛立ちを感じて常に攻撃の口実を探してしまうのはなぜなのか。
その矛盾の答えを、物語は最後の最後で明示してくれます。これ以上ないグロさをもって。
2026/05/14読了
肉は美し
アウグスティナ・バスティリカ著 宮崎真紀訳
河出書房新社畳む
折角設置したので、テスト代わりに先日くるっぷに投げた『肉は美し』の感想(の改訂版)をこちらにも。
『肉は美し』、本の帯に「Tiktokで話題沸騰」と書いてあるのを見て、私の中の悪いインターネットがTiktok愛好者に3行以上文章読めるヤツなんか居ないだろと唾棄すべき極めて差別的な偏見を囁いてきたので、それじゃあ一丁買って読むかという気になり購入を決めました。導入としては最低だと思います。
アルゼンチン発の「食人ディストピアSFホラー」というふうに紹介されているんですけど、難しい用語や複雑な設定なども出てこずかなり世界観を理解しやすいSFホラー入門編という感じ。グロテスクな部分は多分にあるのですがそこまで苛烈な描写ではなく、非常に淡々としていて読みやすいです。それでいて読後にちゃんと「毒を飲んだ」という感覚が残る。とても良かった。確かにTikTokで話題沸騰しそうだなとも思いました。こういうグロテスクさを大袈裟に広告するタイプのインフルエンサーは居るだろうなという意味で。
舞台は動物が人命を脅かす病原菌の保体となってしまった近未来、動物を食肉として生産・出荷・消費することが出来なくなり、人間を家畜として扱うことが合法的に認められた社会で、その家畜人間(作中ではこれを【人間】と表現することは法律で固く禁じられている)を屠殺する業務に従事しているマルコスという男が本作の主人公。
彼はもともと食肉加工(もちろん家畜の)業者だったのですが、現在はその知識を活かして人肉加工会社に勤めてそこそこの地位についているサラリーマン。しかし彼の生活は厳しいもので、社会が合法的に人間食っていいとかマジでワケ分かんないことを言い出して世の中がありえない狂い方したことに絶望したお父さんは認知症になっちゃうし、実の妹はボケた父親の介護にノンタッチで父親が入居する施設に会いに来ようともせず、マルコスはひとりで父親の介護負担を背負っており、不妊治療を続けてどうにか授かった子供も生まれてすぐに亡くなってしまって、そのせいで妻は精神的に病んで実家に戻っていて、人肉加工になんの罪悪感も持たないどころか嬉々として人の肉を切り刻むサイコパス経営者に囲まれて心労もハンパじゃないし、なんかもうにっちもさっちもいかなくてちょっと病んでる男なんですけど、そんな彼がある時、取引先の人間に食肉用に飼育された最高級人肉女性をプレゼントされるのですね。
マルコスという主人公は悲観的な男で、自分がどれほど悲劇的な人生を歩んでいるかということにもかなり自覚的です。自分の父親、妹という心理的距離が最も近いはずの家族が分裂している問題、苦労した末に授かった子を喪失してしまった父親として、その死を処理しきれない自分自身の精神の問題、また妻も同様に病んでしまい、そうした家庭の問題をも抱えなければいけないという多重の精神的負荷、加えて仕事においても安寧の時はなく、自分自身が抱える業務の違和感と経営者たちの臨む景色の間に深い断絶があることに絶望している。あらゆる方面から悲劇に見舞われている実に《悲劇的な》男マルコスは、自分とは即ち悲劇の男なんだという諦観の中に生き、日々を苛立ちと共に過ごしている。そんな主人公が、人肉として育てられて出荷を待っていた、『見た目は人間中身は家畜』という地獄名探偵(ヘル・コナン)みたいな決して《人として》扱ってはいけない存在と出会ってしまい…
『肉は美し』の世界において描写される社会というのは、「食べられなくなった動物の肉の代わりに人間の肉を食べる」という極端な選択をした社会です。つまり、需要を満たすためであれば究極的な超消費を肯定する、資本主義の最果てのような社会です。作中に描写される食用人間たちは肉の一枚とて無駄にはされず、その皮さえも加工品となります。実験動物の代わりでもある。人格はほぼないに等しいような描かれ方をされていて、同じなのは見た目だけ…という建付けです。でも誰も彼もがこの食事にありつけるわけではない。工場で管理されて生産された「美味しい人肉」を食べられるのは、ミドルクラス以上の人間たちだけということ。
動物性タンパク質がないなら人肉食べればいいじゃない。国家が(無論自分たちを含む)ブルジョワ様の【消費】のために超えてはならない一線を超えた社会、ここに描かれているのはいわば資本主義を限界まで加速させた結果倫理の崩壊を引き起こしている社会です。シリコンバレーの技術者の一部の集団が提唱している「加速主義」のようなカルト的な主張は、この資本主義の限界をテック企業が突き破ってこそ社会は前進するのだから、限りなく資本主義を拡大せよと謳っているけど、本作の舞台ではテクノロジーがこれを救いません。つまり技術革新は人を死に至らしめる病を克服出来ず、また動物性タンパク質の代替を生み出すことも出来ず、しかして消費に対する希求は留まることがなく、今ある資源の分配を拒否し、需要を満たすためであれば人倫を踏み越えることも厭わなくなった社会、文化や文明というものが【カネ】と【消費活動】にとって代わられた世界です。
設計としてかなりの無理のある【超消費】は、一部の富裕層にだけはやたらとカネが集まっているのに市場にはモノがないという状態の時にこそ起こる。一部にだけ富が集中してるってことは市井の人々の生活は困窮しているということで、作中では貧富の差が壮絶なものであるということが肉の消費を通じて描かれています。金持ちもヤバいけど貧困層もヤバい。
で、モノがなくなり需要を満たせず、著しく需給の均衡を欠く貧困社会では下記のような価値観がとても強い実行力を持っていて、『肉』という富の象徴はやはり富裕層を中心に消費されます。一部の限られた層の人たちへの分配だから、ここでは人としての倫理よりも消費のための倫理が優先されます。
・我々が需要する限りにおいて供給はされるべきであり(支払い能力がある以上、安全に肉を食べる権利がある)、
・需要を満たすため生産において限りなく合理的な手段をとることは、生命倫理とはまた切り分けて考えねばならない経済の問題で(肉として生まれたものを肉として消費することは悪ではないので、その過程において発生する諸問題は一切を免責されるべきである)、
・また、消費とは生活を過不足なく運用するために必要不可欠な文化的かつ文明的行為であり(美味しい肉を食べるために、肉そのものは安全な場所で管理されなければならず、その点において虐待は許されず、文明的な運用が義務付けられている、であるならば、それは肉そのものの権利すら包括的に保護しているということであり、この合理性を保持する以上、我々は文化的かつ人間的な価値観を喪失しえない)、
・需要を満たすための生産消費は雇用の創出にも繋がり、そのサイクルの中で経済を発展させ、また安定させるものでもあるのだから、仮にしばしば労働者が比重の偏った負担を強いられたとしても、その利益はいずれ労働者に還元される(自らの、受け取りたい/受け取りたくないという意思に関わらず、食肉は市場を潤し潤った市場の恩恵を国民はすべからく受け取っているのだから、その責任はすべてに分散され共有される)
文化や文明が人間の道徳を構成するのではなく、消費行動が人間の「善性」「善意」そのものの価値観まで支配するという考えです。だから人々は食人行為を「食“人”」とは言わない。あくまでもこれは「食事」という行為で、食べているものも「ヒト」ではなく「頭」(作中で食用人間は「頭」と呼ばれる)である。呼び方から強制し、情報統制を徹底する。これは【文化】なんですよ、というポーズ。ただの消費行動を文化的行為と見なすためには、言葉による書き換えがとても重要なんだなぁ。その書き換えがあってこそ、残虐な行為には大量の免罪符が与えられることになります。だって、人は肉を食わねばいきていけないし、動物性タンパク質がなければ健康が損なわれるし、食用の「頭」はそういう生き物として飼育されており、わざわざ痛めつけて殺すといったようなことはしないのだし、食用の「頭」に対する性的な虐待も無論罪に問われる行為で、食の楽しみを守るということは我々の基本的人権を守ることであり、食事は生活において不可欠な行為なのだから、正当性はある。したがって、合法的に肉を手に入れるために必要な手段を講じることは、「悪」ではない。
それが真実かどうかはひとまず置いておいて、そういう「御札」を貼るという行為は、それそのものの価値自体に大きく作用します。だけどマルコスは食肉加工会社で食用人間がどのような環境でどのように飼育され、どんな人間に何をされるか、またどのように処理されているかを知っている。実際に供される「肉」が実際には食肉用の人間だけではないという現実を知っている。そしてその肉がどういった人達に需要され、どういった用途のために使用されているのかも分かっている。マルコスの頭の中には、これを「肉」として見なければいけない自分と「しかしこれは人間の形をしている」と認識する自分がそれぞれに存在していて、常に矛盾を抱えています。本当に生きるために必要ならば納得が出来るかも知れない。それを職業と割り切ることも出来るかも知れない。実際、そう考えている仲間は居る。しかし、現実的にはこれはただの「食人」で、彼らはかつて人間の形をしていたものを食べている。人間が人間を食べるという一線を超えた人々にとって、人肉食のハードルはかなり下がってしまった。つまり、自分と同じ人間を傷つけるハードル、殺しのハードル、そういったものが以前よりずっと低くなってしまった。命の価値自体が変容してしまった。その一方で、マルコスは子供を喪ったら悲しく苦しいわけです。親がボケてまともに会話も出来なくなっていることを嘆く気持ちがあるわけです。妹が介護に参加せず協力的な態度を見せないことに冷酷さを感じるわけです。社会全体が命に対するハードルを下げたとしても、私個人にとっての命のハードルは変わらない。この矛盾が、マルコスを苦しめている。
主人公のマルコスは本当に悲劇的な人物で、 様々な不条理の中をもがく男として描かれているのですが、この人物描写は実に巧みです。
彼の描かれ方としてはこうなわけです。つまり、彼は今自分がやっていることをとても残酷で惨たらしいことだと感じているけど、父親の介護費用を賄うためにはこの選択に頼らざるを得ないから仕方なく仕事を引き受けているという立場で、喪った子供や病んだ妻のことを悼んだり思いやったりするといった心理的コストの支払いのためにはどこかに苛立ちをぶつける必要もあって、その苛立ちの捌け口のためには、エロい知り合いの女と乱暴なセックスもするし、そのエロい知り合いの女をエロがっている男の前で見せつけるようなプレイをすることで溜飲を下げてもいる。かつての彼は飼っていた犬を本当に愛していて、今でも犬に対しては格別の思い入れがあるんだけど、生き残った野犬たちが子供たちに虐待されているところに遭遇しても割り込んでいったりは出来ないし、犬一匹救えない。かといってそんな自分を責めたり哀れんだりといったようなことはなく、悪いのは自分という個人ではなくこういう社会の構造なんだと世の中に対する暗い怒りを抱えている。上司や取引先のお偉いさんには逆らえないが、特別苛立っている時には、女性のサイコパス研究者くらいになら嫌味な態度もとる。
マルコスはまるで「こちら側」の人間であるかのような描かれ方をします。悪の当事者ではなく、悪の傍観者という立場です。肉を捌くということに罪悪感があり悲しさがある。つらさがある。自分の仕事に違和感がある。おかしいと思っている。それを誰にも言えないでいる。死ぬことを恐れている。家族の尊厳が傷つくことを恐れている。どこにでもいる、小さくとも、確かな倫理観に基づいて思考することの出来る人物。「あなた」と同じ。「わたし」と同じ。最初はそういうふうに彼を読むことが出来る。しかし、マルコスは自分より強いものには逆らえない。現状を打破するための努力は出来ない。完全に人肉食や人肉加工を受け入れている取引先の人々にささやかな意思表示をすることも出来ない。子供たちが生き残った野犬を虐待する場面に遭遇してもただ見ているだけで何もしない。子供が死んでしまい心のバランスを崩す妻に寄り添えない。妹を憎んでいて、取引先の女を乱暴に抱き、女性の研究者相手にならストレートな苛立ちを見せる…彼は、今この瞬間に出来る最大限普通の振る舞いをして新しい常識から逸脱しない、ゆえに、彼は自分自身の「差別意識」に気付きもしません。
マルコスは家族や社会的地位に縛られています。食肉加工業者として日々「肉」を処理しながら、自分自身はそういう肉を決して食べないのは、その行為に生理的な極めて強い嫌悪感を覚えるからです。だから貢物として贈られた高級人肉女性のことも、“食べは”しません。
しかし、この物語で提示される「消費」は、食べるという行為をはるかに超えた、もっとグロテスクな行為であり…
マルコスの人間性は悲劇によって保たれています。子供を喪った父親という自分自身の悲劇が、彼に現状に対して不満を持ち、怒りと悲しみを覚える平凡な男の人格を与えています。この物語が明示するのは、「行き場のない怒り」や「途方もない悲しみ」こそが、実は人が「人」というものに大きく共感し、精神的な共鳴を送受信するアンテナになっているという事実です。では、その「悲劇」を克服した彼は、その代わりのアンテナをどこに求めるようになるのか。
マルコスと同じ「あなた」も「わたし」も、結局はこの超消費社会でひたすら滑車を回し続けている残酷な消費者でしかないとしたら。そしてその残酷さに、当事者ほど無自覚なのはなぜなのか。他人の誤った行いには強烈な忌々しさを感じるのに、自分の手だけはあんなふうに汚れていないと考えてしまうのはなぜなのか。人命を家畜と等しく扱う富裕層(遊びで人間狩りとかする)を心底下品と軽蔑しながら彼らを打倒しようとはせず、その日食うにも困っている最貧困の人々(腐った人肉を拾い集めて食ったりする)に憐れみより苛立ちを感じて常に攻撃の口実を探してしまうのはなぜなのか。
その矛盾の答えを、物語は最後の最後で明示してくれます。これ以上ないグロさをもって。
2026/05/14読了
肉は美し
アウグスティナ・バスティリカ著 宮崎真紀訳
河出書房新社畳む
CATEGORY:小説感想
学生時代にやっていた個人サイトは「骨とサーカス」という名前でした。その後、本格的に社会人生活が始まるタイミングで「血と骨と肉」という名前に変えました。当時はこういうのがクールだと思っていました。骨とか血とか書いておけば展示しているものの傾向も分かりやすいし。
私のテキストを読んだことがある人はなんとなく分かると思うのですが、そもそも当時の私が好んで書いていたのは暗い話の方で明るい話はあんまり書いてなかったんですね。大真面目に文章を書こうと思ったら、やっぱりハッピーエンドよりなんかどんよりした話の方が書きやすい。今でこそ堂々たるハピエン厨ですが、ハピエン厨に転向した理由は「社会人の疲れは学生の疲れより暗い話を書く体力を奪うタイプの疲れ」だったというのと、絵ではギャグっぽい話が描きやすいという気付きがあったからです。漫画で暗い話を描く気にならないように、文章で明るい話を書く気にもあまりならない。よほど書きたいものがあれば別かも知れないけど、文章で書きたいものは自分の技量ではとても絵に落とし込めない何かなんだと思います。
今回サイトを作るにあたって初心忘れるべからずと思い、また「骨とサーカス」という名前をつけようと思ったのですが、なんかもう骨とか言うような年頃じゃないことに気付きました。死を連想させることがカッコよかった学生時代はもうかなり遠い遠い過去で、今はもっと今の自分に近い言葉にしたいと思ってサイト名を「さんぽぽぽ」にしました。今の自分は結構自分のアイデンティティを「ぽ」のほうに託しているんだと思います。「えうぉ」ではなく。
この言葉が他で使われていないか確認してから名前をつけたらよかったんですが、思いついたら「これしかない‼️」となってしまい我を通してしまいました。検索するとアート展のタイトルが出てきてやっちまったと思ったんですが、まあこのサイトは一応検索避けもしておりますしご迷惑はならないだろうと。おいおい同人サイト系のサーチには登録しようかなぁと考えておりますが、身内に時々来てもらう用のサイトとして(あとは完全に自己満足として)細々やっていこうかなと思います。
「骨とサーカス」というサイトを運営していた頃の一番の思い出が、当時自分がサイトに展示していた作品を気に入ってくれたお姉様に「あなたの話を本にしたい」と言ってもらい本当に本を出してもらったことです。その本が本当に手の込んだ素敵なもので、お姉様がその表紙に手作業で赤いスワロフスキーを貼ってくれました。ペーペーの学生だった自分にはまだそのスゴさがあんまり分かっていなくて、今だったら感謝の五体投地でアスファルトを自分の額で削る気概なんですけど、当時は「嬉しいなぁ」くらいの感覚でした。あの頃の自分に会えたらぶっ飛ばすと思います。お前、もっと感謝しろと。
でもそうやって大切にしてもらった話は、今振り返って読んだ時にどれほど拙く感じても、やっぱり何がなんでも手元に残しておかなくちゃと思うもので、10年どころじゃない月日がたった今もこのお話だけはインターネットに残しています。
https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=...
死にたい雲雀シリーズというやつです。初出が2007年か2008年か。だからもう本当に20年近く前。
当時を振り返るとずいぶん熱心にサイトをやっていたなぁと思うし、サイトが本当に生活の一部でした。今同じ熱量でサイト作りが出来るかと言われたら無理です。しかし、二次創作的なコンテンツが軒並みpixivに収容されるようになってインターネットの景色が変わり、SNSが更に二次創作の裾野を広げてくれたのと同時に、狭いところでダンゴムシしていたオタクは実際のところ行き場をなくしてしまいました。ダンゴムシではなくてせめてイモムシくらいにはならないといけなかった。でもやっていることは二次創作だし、わざわざ表立って自分の存在をアピールしたいわけではない。石の下にいられるならそっちのほうがいい。注目を浴びたくはないが愛好者には自分の存在を知ってもらいたい。個人サイトはそういう需要を満たしてくれるものだと思います。
イーロン・マスクがインターネットで暴れるたびに「個人サイトへの回帰」がにわかに熱を帯びたりしますけど、サイト作りはやはり骨の折れる作業だったしハードルが低いとは言えないなと思います。管理も面倒くさいし、何よりスマホ一台で出来るのかと言われると、難しいと思う。とにかく一番これ、「スマホだけで完結しない」というのが時代に合っていない。サイト作りってPCがあることが前提だけど、今どきの子達はそもそもPCを持っているのだろうか。自分たちが同人作品を楽しむ時もわざわざPC開くよりスマホ片手に見る方が圧倒的に多いと思いますし、スマホで作業出来ない限り個人サイトは絶対流行らないだろうなと思います。もちろん今はスマホ一台でサイトが作れるサービスもあるんですけど、選択肢は少ないというのが現状です。
「個人サイト」というものが同人文化の一部として定着していた時代を通ってきた人と、pixivやSNSが同人文化の入口だった人とでは個人サイトというものに対する思い入れも違うと思いますし、「やってほしい」だけではなかなか重い腰は上がらないと思いますが、それでも是非興味があったらチャレンジしてほしいです。テンプレートを配布してくださっているサイトさんは今でもたくさんあって、今回私はすべてを配布サイトさんに頼りました。cssに関して自分が頑張ったことはほぼないです。素敵な配布サイトさんたちのお陰でやっと自分だけの石の下が出来ました。
サイト作りをやろうやろうと思いつつ全部後回しになっていたんですが、以前merciで未捺彦先生に「6月に個人サイトWebオンリーがあるんですよ〜」と教えて頂き、それに合わせて絶対サイトを完成させるぞ‼️という目標(締切とも言う)を立てることが出来たのもかなり大きかったです。
https://ma100.stars.ne.jp/meguruichi/
未捺彦先生に「ぽえうぉさんが出たらめぐゆじ取り扱いサイトが2件に増える」と言われて、ソイツはやるしかねぇと思いました。増えた方がいいからね、自カプサイトは。
目下の夢はサイトのリンクページをめぐゆじサイトまみれにすること。どういうサイトを参考したとかどんな記事を読んだとか、自分がやったことや自分のぶち当たった壁などは聞かれたら全部教えますので、どうか皆さんお願いします。夢を叶えさせてください‼️
SNSは便利だけど、どこへ行こうが結局は同じことが煩わしくなり同じことで悩まされるもの。なんでも使い方次第なんだから、SNSも含めてゆるくやっていこうと思います。どこで何をやっていたって私は絶対的に平和を支持。Xには課金しない。戦争反対。自カプは最高。
以上、よろしくお願い致します。畳む
私のテキストを読んだことがある人はなんとなく分かると思うのですが、そもそも当時の私が好んで書いていたのは暗い話の方で明るい話はあんまり書いてなかったんですね。大真面目に文章を書こうと思ったら、やっぱりハッピーエンドよりなんかどんよりした話の方が書きやすい。今でこそ堂々たるハピエン厨ですが、ハピエン厨に転向した理由は「社会人の疲れは学生の疲れより暗い話を書く体力を奪うタイプの疲れ」だったというのと、絵ではギャグっぽい話が描きやすいという気付きがあったからです。漫画で暗い話を描く気にならないように、文章で明るい話を書く気にもあまりならない。よほど書きたいものがあれば別かも知れないけど、文章で書きたいものは自分の技量ではとても絵に落とし込めない何かなんだと思います。
今回サイトを作るにあたって初心忘れるべからずと思い、また「骨とサーカス」という名前をつけようと思ったのですが、なんかもう骨とか言うような年頃じゃないことに気付きました。死を連想させることがカッコよかった学生時代はもうかなり遠い遠い過去で、今はもっと今の自分に近い言葉にしたいと思ってサイト名を「さんぽぽぽ」にしました。今の自分は結構自分のアイデンティティを「ぽ」のほうに託しているんだと思います。「えうぉ」ではなく。
この言葉が他で使われていないか確認してから名前をつけたらよかったんですが、思いついたら「これしかない‼️」となってしまい我を通してしまいました。検索するとアート展のタイトルが出てきてやっちまったと思ったんですが、まあこのサイトは一応検索避けもしておりますしご迷惑はならないだろうと。おいおい同人サイト系のサーチには登録しようかなぁと考えておりますが、身内に時々来てもらう用のサイトとして(あとは完全に自己満足として)細々やっていこうかなと思います。
「骨とサーカス」というサイトを運営していた頃の一番の思い出が、当時自分がサイトに展示していた作品を気に入ってくれたお姉様に「あなたの話を本にしたい」と言ってもらい本当に本を出してもらったことです。その本が本当に手の込んだ素敵なもので、お姉様がその表紙に手作業で赤いスワロフスキーを貼ってくれました。ペーペーの学生だった自分にはまだそのスゴさがあんまり分かっていなくて、今だったら感謝の五体投地でアスファルトを自分の額で削る気概なんですけど、当時は「嬉しいなぁ」くらいの感覚でした。あの頃の自分に会えたらぶっ飛ばすと思います。お前、もっと感謝しろと。
でもそうやって大切にしてもらった話は、今振り返って読んだ時にどれほど拙く感じても、やっぱり何がなんでも手元に残しておかなくちゃと思うもので、10年どころじゃない月日がたった今もこのお話だけはインターネットに残しています。
https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=...
死にたい雲雀シリーズというやつです。初出が2007年か2008年か。だからもう本当に20年近く前。
当時を振り返るとずいぶん熱心にサイトをやっていたなぁと思うし、サイトが本当に生活の一部でした。今同じ熱量でサイト作りが出来るかと言われたら無理です。しかし、二次創作的なコンテンツが軒並みpixivに収容されるようになってインターネットの景色が変わり、SNSが更に二次創作の裾野を広げてくれたのと同時に、狭いところでダンゴムシしていたオタクは実際のところ行き場をなくしてしまいました。ダンゴムシではなくてせめてイモムシくらいにはならないといけなかった。でもやっていることは二次創作だし、わざわざ表立って自分の存在をアピールしたいわけではない。石の下にいられるならそっちのほうがいい。注目を浴びたくはないが愛好者には自分の存在を知ってもらいたい。個人サイトはそういう需要を満たしてくれるものだと思います。
イーロン・マスクがインターネットで暴れるたびに「個人サイトへの回帰」がにわかに熱を帯びたりしますけど、サイト作りはやはり骨の折れる作業だったしハードルが低いとは言えないなと思います。管理も面倒くさいし、何よりスマホ一台で出来るのかと言われると、難しいと思う。とにかく一番これ、「スマホだけで完結しない」というのが時代に合っていない。サイト作りってPCがあることが前提だけど、今どきの子達はそもそもPCを持っているのだろうか。自分たちが同人作品を楽しむ時もわざわざPC開くよりスマホ片手に見る方が圧倒的に多いと思いますし、スマホで作業出来ない限り個人サイトは絶対流行らないだろうなと思います。もちろん今はスマホ一台でサイトが作れるサービスもあるんですけど、選択肢は少ないというのが現状です。
「個人サイト」というものが同人文化の一部として定着していた時代を通ってきた人と、pixivやSNSが同人文化の入口だった人とでは個人サイトというものに対する思い入れも違うと思いますし、「やってほしい」だけではなかなか重い腰は上がらないと思いますが、それでも是非興味があったらチャレンジしてほしいです。テンプレートを配布してくださっているサイトさんは今でもたくさんあって、今回私はすべてを配布サイトさんに頼りました。cssに関して自分が頑張ったことはほぼないです。素敵な配布サイトさんたちのお陰でやっと自分だけの石の下が出来ました。
サイト作りをやろうやろうと思いつつ全部後回しになっていたんですが、以前merciで未捺彦先生に「6月に個人サイトWebオンリーがあるんですよ〜」と教えて頂き、それに合わせて絶対サイトを完成させるぞ‼️という目標(締切とも言う)を立てることが出来たのもかなり大きかったです。
https://ma100.stars.ne.jp/meguruichi/
未捺彦先生に「ぽえうぉさんが出たらめぐゆじ取り扱いサイトが2件に増える」と言われて、ソイツはやるしかねぇと思いました。増えた方がいいからね、自カプサイトは。
目下の夢はサイトのリンクページをめぐゆじサイトまみれにすること。どういうサイトを参考したとかどんな記事を読んだとか、自分がやったことや自分のぶち当たった壁などは聞かれたら全部教えますので、どうか皆さんお願いします。夢を叶えさせてください‼️
SNSは便利だけど、どこへ行こうが結局は同じことが煩わしくなり同じことで悩まされるもの。なんでも使い方次第なんだから、SNSも含めてゆるくやっていこうと思います。どこで何をやっていたって私は絶対的に平和を支持。Xには課金しない。戦争反対。自カプは最高。
以上、よろしくお願い致します。畳む
CATEGORY:雑記
埼玉と聞いてパッと「あそこだったら多少の観光が出来るね」という場所を思い浮かべることの出来る人は、およそ関東圏の人間に限られていると思う。
さいたまスーパーアリーナがあるから、コンサートやライブが好きな人なら大宮やさいたま新都心の名前は聞いたことがあると思うし(大宮は新幹線も停車するターミナル駅だ)、ベルーナドーム(旧西武ドーム)も決してマイナーなドームではない。ベルーナドームが、もはや修験者しか行かないだろというような過酷なドームであったとしても、好きなアーティストが人質にとられた以上はコンサートないしライブへ参加せざるを得ず、その場でうっかり修験道を極めてしまったという人も少なからず居るはずで、そういう人達からすれば、所沢というのはもはや修行僧たちの集まる場所という認識かも知れないが。
野球が好きなら西武ライオンズ、サッカーが好きなら浦和レッズや大宮アルディージャなど、意外と埼玉の名前は“観光地以外では”聞いたことがあるというレベルだったりする。
しかし皆さんご存知の通り、埼玉というのは1都6県の中でも格別に地味な県である。「魅力度ランキング」の最下位を北関東が争っているのを見ると、「それでもそこが話題になるんだろ⁉️」と私なんかは思う。「下位争い」とて、話題作りとしては立派なバリューを生み出している。当事者たちからすると「並べられたらたまったもんじゃない」と思うかも知れないが、北関東3県の魅力は個人的に横並びだ。どこに行っても美しい山河が、おいしい特産品が、温泉が、それぞれある。魅力がないなんて有り得ない。
満を持して2025年、「魅力度ランキング」で埼玉は47都道府県中の最下位となった。これもまたひとつのバリュー…のはずが、埼玉の魅力度ランキング最下位は絶妙に笑いのネタにしづらい生々しさがあり、むしろ順位をあげた「茨城」に、最下位脱出という話題性で負けた感が否めない。「そうは言っても埼玉には〇〇があるよね」というフォローにも、何か物悲しい雰囲気が漂ってしまう。そもそも「埼玉にも〇〇があるよね」の「〇〇」に、皆さんなら何を代入するだろうか。代入するものがパッと思いつくのだろうか。正直なところ、埼玉県民をしてみても、「埼玉にも新幹線とまるところはあるよね」くらいしかパッとは出てこない。何しろ埼玉は、基本的に東京のすぐ隣という立地を最大限活用した労働者輸送コンベアであり、東京まで人を運ぶことには優れているものの、観光に便利な交通網をあまり有していないのだ。そんな埼玉に、一体誰が来ると言うのだろう…。一体何を見ると言うのだろう…。そう思うことも思われることも、これは自然なことだ。
埼玉千葉論争というのが一部にはあるが、私個人としては、埼玉のヒエラルキーは明らかに千葉より下だ。千葉には成田空港があり、ディズニーランドがあり、鴨川シーワールドがある。対する埼玉は大宮駅であり、ムーミンバレーパークであり、東武動物公園である。助けて。
埼玉県民は、県民性がそもそも自虐体質だ。だから自ら率先して埼玉を小馬鹿にしてしまうところがある。「翔んで埼玉」という映画が話題になった時、我々が感じたのは「やかましいんだよ」という気持ちの一方、「魔夜峰央大先生、ありがとうございます」ということだった。「埼玉県民にはそのへんの草でも食わせておけ!」という台詞で腹の底から笑えるのは、埼玉生まれ埼玉育ちの埼玉県民の特権だとさえ思う。我々の自虐的で卑屈な県民愛を、なぜ魔夜峰央先生はこんなに理解されているのか。一方で、こういう弄られ方でなければ「県」としての個性を発揮出来ないのだとすれば、それはやはり現地の人間として非常に悔しいというのも紛れもない本音である。埼玉にも美味しい食べ物はある。草以外も食う。
前置きがまた長くなった。とにかく、そういうわけで埼玉といえば「何も無い県」なわけで、「ダサくてイモい」がすっかりパブリックイメージになってしまっている。しかし、そんな埼玉にも、見所は間違いなくあるのだ。
スズキ先生から、「和綴製本(和紙でノートを作る)のワークショップがあるが、一緒にどうか」というお誘いがあった。秒速で「行きます」と答えた。場所は川越だと言う。なんと!教えてもらったサイトを見たら、創業100年を数える会社さんらしい。活版印刷と書いてある。オタクはデカい主語と活版印刷が大好きだ。例外はない。
私が大学生くらいの頃の川越は、今よりぜんぜんパッとしない町だった。確かに埼玉の中では比較的観光地寄りではあったものの、神社仏閣城跡などなど、すべてが駅から遠い。知人や友人たちの住む町だから、自分の中で、観光地というより住宅地というイメージが強かったというのもある。クレアモールより先にあるものと言ったら、自分の中ではもう「人ん家」だった。半径数キロは栄えているように思えても、そこから更に先に歩けば、普通に寂れた町があった。
自分が記憶している限りだと、川越の評価が明らかに変化しているな、と感じるようになったのは2015年あたりだったと思う。
自分が学生の頃から、そうは言っても川越は「蔵造りの町並み」という景観を持続的に守るため地域が一体となって活動を行っていたし、私の中のイメージはともかく、「小江戸」としての川越は、川越比企郡地域において昭和の時代からずっと地域活性化のための重要な位置づけにあった。でも、自分が比較的川越へ遊びに行っていた時代を振り返って記憶を辿ってみても、今ほどの活気はどこに行ってもなかったように思う。メディアで大々的に取り上げられる回数も少なかった。本当にこの10年で、ずいぶん川越も観光地ぜんとした顔になった。
そんな観光地川越に、久々に降り立つ。
当日、前日に起こった豪雨と地震のダブルパンチで埼玉を走る各線には朝から大きな影響があった。朝から掻くべきでない量の汗、もはや人間出汁を垂れ流しながら迂回ルートを駆使して現着。予定の時間から大幅に遅れての到着にはなったが、スズキ先生が予約してくれていたワークショップの時間にはなんとか間に合い胸を撫で下ろした。
現地まではタクシーに乗って移動した。商店街を抜けると所謂「小江戸」の街並みが見える。イモも見える。川越と言えばイモだ。
埼玉といえばダサくてイモいイメージ、と言ったが、実際埼玉はイモの国だ。秩父に行けば味噌のかかったジャガイモを食わされる(※食わされるなどということはありません)し、川越に行けば甘いイモを食わされる(※食わされるなどということはありません)
ワークショップ参加者は、午前中の時間帯ではなんとスズキ先生と私のふたり。こじんまりとした店内には、活版印刷で刷られたカードやレターセットなどが並んでいてどれもかなり可愛い。
スタッフの方に案内をしてもらい、まずは「蔵書票」というものに活版印刷機で今日の日付をいれる体験をする。蔵書票というのは、本がまだ今ほど部数を刷れなかった時代、これは自分の本であるということを証明するために本に貼り付けた紙片のことだそうだ。好きな絵柄のものを5枚選び、そこに印刷をしていく。宗教上の都合で自カプカラーを意識したものを確実に2枚、あとは自分の趣味のものを3枚選んだ。すべてグレーの紙で揃えたら、「すべてグレーとは、センスがありますね」と甘すぎる評価を頂き気分が良くなる。
自カプ蔵書票はいつか自分の同人誌に貼ろう…と思いながら刷る。だからいつか上下巻の同人誌を出そう。
活版印刷機の上部には丸くて平たい皿のようなものがついていて、ここにインクが塗られている(染み込んでいるというほうが適切か)。ローラーがその皿からインクを引き受け、レバーを下ろすとインクが紙にうつる。
インクの乗った平たい皿には、乾燥を防ぐためのフードなどもついていなかったから、相当ねっちりしたインクなのかな。活版印刷機の横にはインクの缶が置いてあって、スタッフの方曰く、少量でもかなり長持ちするとのことであった。
蔵書票を乾かしている間に和綴体験に移る。
好きな紙を2枚、表紙と裏表紙で選べる。宗教上の都合で(以下略)理想的な自カプカラーと出会い、私の心は一気に踊った。
スタッフの方に「決めるのが早いですね!」と驚かれるくらいマッハで用紙を選んだ。私は元々が異常のせっかちな上に、選択に迷ったら自カプを連想して決めるという有り得ない方法で様々な時間を圧縮しているオタクなので、こういうのを決めるのだけはなんか無駄に早い。
ノート作りはやや手先の器用さが要求されるが、私でもなんとか形に出来た。初めてにしては上出来だろう。作り方を覚えて道具さえ揃えられたら、家でも出来ないことはないのかな、と思ったが、もう既に綴じ方を忘れたので終わりです。
スタッフの方が「初めてなのにすごくお上手だ、ここで働いてもらいたいくらいだ」というような優しい言葉をかけてくれて嬉しかった。これでいつ会社からクビ切られても大丈夫になった。
紙を折ったり切ったりは、私でも難しくない。問題は糸を通すところだ。まったく恐ろしいほど裁縫のセンスがないので、スタッフの方の手本を見ながらモタモタとやった。それでもなんとか出来た。
出来上がったものは御朱印帳としても使用出来ると言われたが、折角耐用年数が洋紙よりあるという和紙でノートを作ったのだ。1000年先まで残すっきゃない。というわけで、私には新たな夢が出来た。なんとかこの和綴ノートを未来の民芸博物館とかに展示してもらうことである。1000年くらい先の未来では、言葉の形もまた変わっているだろう。解読された時に突然「めぐゆじ」って出てきたら意味分かんねぇだろうな。解説のところに、「情熱的な書きぶりから、この日記の著者は、“めぐゆじ”という何かにいたくハマっていたことが分かる」とか書かれたい。もはや。
まだ何を書きつけるかは決めていないけど、なんかいい感じのことを書きたいと思います。
店内には活版印刷の「活字」もあった。鉄製の判子のようなやつだ。小さいのから大きのまで色々あるが、この中から文字を選んで組み合わせて…と考えると、本当に気の遠くなる作業だな…と思った。書き物を残すって、改めてすごいことだ。
ワークショップを終えて外に出た時にはまだ午前中。予約したランチまでは時間があるので、氷川神社へ向かう。
この「氷川神社」という名前、埼玉県民・東京都民の方なら聞いたことがあるという人も多いはず。なぜならこの名前がついた神社、埼玉県内だけでも大小含め200はあると言われているからである。
この「氷川神社」の総本社は埼玉は大宮の「武蔵一宮氷川神社」である。もしなんらかの用事で大宮に足を伸ばすことがあったら、是非こちらにも行ってみて頂きたい。なお氷川神社の主祭神はスサノオノミコトだそうです。
川越氷川神社は、武蔵一宮氷川神社から分祀された神社であり、主に縁結びなどで有名らしい。実際、行ってみるとデートコースになっているのだろうなと分かるくらいカップルが多い。こんなに若い人でいっぱいの神社には、久々に来た。
境内は、そんな若い人たちの目にも嬉しい「映え」に溢れている。
大量に吊るされたカラフルな風鈴の下で、かわいい浴衣を着た女性たちが写真を撮っている。世はまさに大セットログ時代。私の心がもう少し強ければぬいぐるみを出していたが、残念、気持ちで負けてしまった。次こそは私の手持ちカップル(手持ちカップル)でカップルバトルを制したい。ぬいたち、行けるよな!
時と場合を選ぶべきだ「ぬい」
ありえない種類のおみくじが販売されており(販売という言い方は恐らく正しくない)、何かこう…逞しさのようなものを感じた。
規模こそ大きくはないが、小綺麗で写真映えする神社だ。駅からはそこそこ歩くので、歩く場合は車に気をつけて向かって頂きたい。
氷川神社から、今度は川越城跡本丸御殿に向かう。
川越城跡。好きな場所だ。博物館と美術館も同じ場所にある。
先日の名古屋旅で名古屋城を見た時、内装の豪華絢爛ぶりに大変驚き、また感動もした。その美しさたるや、名古屋城本丸御殿はまるで歩く美術館のようだった。一方ここ川越城跡本丸御殿はどうかというと、ただ一言、「質素」、これに尽きる。
しかし、私たちのDNAに刻まれているといっても過言ではない木造建築に対する心地良さと安心感、何よりも親しみは、よほどこちらの本丸御殿のほうに強く感じる。まるで実家だ。木造建築(概念)が自分の塩基配列に組み込まれているんだ。我々の血潮には法隆寺(概念)が流れているんだ。ちなみに大人の入館料は100円である。人がわらわらと居るような感じではなく、かなり落ち着いて過ごせるので、人間が居すぎると気絶するタイプの方は是非こちらに赴き、大人にしか楽しさを見いだせぬ、贅沢な「ひま」を過ごして頂きたい。
私はこういう空間でぼーっとしているのが好きだ。せっかちなくせに、落ち着いて過ごしたいという矛盾を抱えている。
川越城跡の目と鼻の先には三芳野神社がある。童謡「とおりゃんせ」発祥の地と言われているのがここである。「とおりゃんせ とおりゃんせ ここはどこの ほそみちじゃ てんじんさまの ほそみちじゃ」。唄の中だと、「行きはよいよい、帰りは怖い」と歌われているのですが、参道のすぐ側には三芳野神社の境内に続く公園(初雁公園)があり、子供たちの行き帰りにはまったく問題ないので安心してください(有益情報)
いい時間になったので、予約していたランチへ。ドカうま。スズキ先生はお店を探す天才。いっぱいお話した。
スズキ先生はタフネスの擬人化のような人で、先日は秩父旅行に行ったと話してくれた。最終的には群馬に行ったというので笑ったが、埼玉に旅行、という言葉が嬉しかった。会う度にマッチョになっていっている先生。次にお会いする時にも、マッチョすぎる新エピソードの追加があるのに違いない。
とにかく見習いたいのは能動的な人であるというところだ。自分がやりたいと思うことや行きたいと思うもの、達成したいことがたえずあるというのは本当に素晴らしい。こうありたいものだ。スズキ先生が、埼玉でこんな催しがあるのかと知った時に、埼玉住みの私のことを思い出してくれたというのが有難い。大変光栄なことと思う。
古民家カフェに入って、またつらつらと話をした。古民家カフェの古民家ぶりが本当すぎて、古民家カフェって本当に古民家なんだなぁとアホみたいな感想を抱いた。美味しかった。
お土産にクソデカふ菓子を買った。
埼玉には確かにコレという観光地的な個性がない。ないと思う。思うというのは、そこに住んでいる人間にとっては、仮にそこが自他ともに認める観光地だったとしても、観光地であるという認識以上に居住地だからだ。居住地に観光地的な個性は必要ない。普遍的であることのほうが望ましい。そして大抵の人達はその普遍的な居住地に住んで、ただ生活をしている。川越もそうで、一歩道を外れたらそこにあるのは住宅街だ。私は住宅街である川越を知っているから、小旅行として川越に来ると、なんだかちょっと変な気持ちである。よく知っていて、まったく知らない土地を歩くような。
しばらく来ない間に、川越は結構立派に「観光地」をやっていた。観光地的な個性を、しっかり獲得していた。なんか、そこに感動を覚えた。
埼玉は決して一枚岩ではない。上下左右で文化が違う。私は南部の生まれ育ちで、圧倒的な工業地帯で育った。周囲に山はなく、森もなく、遊べる川もなく、沼もなく、林もなく、湖もなく、当然海もない。夏休みに自然と触れ合うためにはなんらかの交通手段をもって遠出しなければらなず、見沼の用水路で釣るザリガニや、近所の公園の土をほじくり返して拾ったセミの幼虫なんかが、辛うじて生物と繋がる接点だった。ホタルは金を払って見に行くもので、カブトムシはイオンで買った。周辺にあるのは住宅と会社と工場で、私が生まれた頃には完全にその勢いを失ってはいたけども、かつてここは「キューポラのある街」だった。いくつもの工業団地、組合、ブルーカラーに支えられた街。暮らすうえではなんの不便もなかったが、猥雑という印象については否定出来ない。そんな街。
埼玉の何もなさを人が語るとき、イメージされているのは多分この街のような姿なんだろうなと思う。何もなさという部分では。ただ、「埼玉のイメージ」全体の平均値をとったら、みんなが考える埼玉に一番近いのは所沢とか、西武線沿いの埼玉なんだろうなという気もする。県庁所在地がある浦和やターミナル駅である大宮より、実際の埼玉を代表しているのはあっちのほうだと思う。
そんなことをつらつらと考えながら帰った。私は埼玉が好きだ。自分の生まれ育った街が好きだ。友達の住んでいる街も好きだ。とても。
スズキ先生のお陰で、本当に楽しい週末だった。久しぶりに川越を歩いてみたら、川越が本当に観光地をやっていて驚いた。こういうのを“再発見”と言うんだな、と思った。小江戸川越、いいところだ。誘って頂けて光栄でした。本当にありがとうございました。何もないけど何かはある埼玉、是非これからもご贔屓に‼️
そして、「埼玉に旅行しに行ったよ」と言ったなら、それだけで「な、な、な、なにしに⁉️埼玉に⁉️」という相手からのリアクションが期待出来ると思いますので、是非皆さん、話題作りに埼玉旅行、ご検討ください。畳む