溜めていたマイリストを消化しようと思ったのに新着リストを見ると面白そうな最新作が色々。マイリストに入れたが最後、観ないんじゃないか?もはや、マイリストに観たい映画を登録することが目的になってないか?と思いながらも新着に載っていた『アグリー・シスター 可愛いあの娘は醜いわたし』を観て、久々に食らう。
『アグリー・シスター~』は、シンデレラをモチーフにした(とても残酷な)フェアリーテイルだが、主人公はシンデレラではなく義理の姉妹の長女のほう。シンデレラの原作では姉妹たちの名前が設定されていないのだがディズニー版ではアナスタシア(長女)とドリゼラ(次女)という名前がつけられており、この映画ではディズニー版で言うところのアナスタシアが主役である。
王子様との結婚を無垢に夢見るエルヴィラ(主人公、演:リラ・マイレン)は母の再婚のため王国へ越してくる。義姉妹となるアグネス(演:テア・ソフィー・ロック・ネス)は目を見張るほど美しい娘で、新しいお父さんも朗らかで人は良さげ。厳かで美しいお城での新生活に胸ときめかせるエルヴィラだったが、同居を始めたその日に新しいお父さんは亡くなってしまう。ショックのあまり寝込んでしまったアグネスを見舞ったエルヴィラは、そこでアグネスから「この家にはお金が無い(だからあなたたちのお金を当て込んで父は再婚した)」と聞かされ、お互いがお互いの金目当てに再婚したことを知る。金持ちと再婚出来たと思ったらとんでもない間違い、すっかり素寒貧になってしまったと絶望する母レベッカ(演:アーネ・ダール・トルプ)に対して、「また再婚すればいいじゃない」と励ましの言葉をかけるエルヴィラだが、「こんな年増の垂れ乳女(※垂れ乳女は本当に言った)が再婚するのがどれほど難しいと思っているんだ」とむしろ逆ギレされてしまう。さめざめと泣き出す母を憐れに思ったエルヴィラは、「なら私が結婚する」と言うのだが…というのがあらすじ。
お城から舞踏会への招待状が届き、舞い上がったエルヴィラは早くも王子様とのロマンチックな出会いで頭がいっぱいになるのだが、母であるレベッカはエルヴィラに「そんなツラと体型じゃ…」という態度を隠さず、しかして娘が玉の輿に乗ってもらうことが母の悲願(だって金持ち男に養ってもらう生活は捨てられないから)、そこから母による母のための整形とダイエットをエルヴィラに強いていくことになるのだが、ここで描き切られたグロテスクさに骨の髄から打ちのめされて感動した。この痛みにこの踏み込み方が出来る脚本家は絶対に女性だと思ったが、やはり脚本兼監督はエミリア・ブリックフェルトさんという女性監督。この映画が長編デビュー作らしく、その才能の迸り方に感激してしまい私はすっかり彼女のファンである。
ご本人も言うように、映画にはクローネンバーグ的なボディホラーの要素がふんだんに盛り込まれているが、クローネンバーグほど「人間やめさせちゃお☆」に寄った作風ではない。人間の原型を留めるからこそ、破滅的なイメージが完成している。無麻酔で鼻の骨を砕いて整形し、虫を飲み込み、つけまつ毛を直接皮膚に縫い付け、ストレスで抜け落ちた毛はカツラで誤魔化す。美しさを追求するはずがどんどん美しさからかけ離れていく。こんなふうに変わりたいなんて、自分で願ったことなど一度もないはずなのに。
今月の頭に、「マンジャロ」という糖尿病治療薬を無許可で販売・転売目的で保管した疑いで男女3名が書類送検されたというニュースを読んだ。(日経新聞: https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUF0... )
この「マンジャロ」というのが、現代の痩身薬として一定の層から需要されているらしい。私ももちろん運動しないで痩せられるなら是非痩せたいし、腹筋しなくても腹筋が割れてくれるなら本当にありがたいし、寝転がっているだけでケツが引き締まるなら是非そうあってほしいし、どれだけ食べても消化の段階でカロリーを半分に圧縮してくれる胃袋があるなら嬉しいと真っ直ぐな気持ちで思う怠惰な市民のひとりだが、それは土台無理な話だと理解している。それなりに痩せたいと思ったら痩せるなりの努力が必要なわけだが、その「努力」というのは「運動」と「適度な摂生」を言うのであり、健康な体になんらかの薬品を流し込むこととはおそらく違う。
健康を投げ打ってまで得たい「美ボディ」というやつが自分には想像出来ない。絶食をするとか薬品に頼るとか、得られるものに対して支払いがデカすぎると感じるし、世の中の大抵の“良識派”は「痩せるにしたってやり方が…」と言うだろうから、健康な体に治療薬をブチ込むとその後どうなるか体を張った人体実験の参加者に金を払ってまでなりたいという奇特な感情を共感的に見るのは難しいかも知れないと思う一方、「美しさ」という観念が、主観的な「美」よりも客観的な「美」のほうに基準をおいている以上、「私はこれが美しいと思うので」という主張一本でボディポジティブを語っていくにはそれなりの胆力が必要なのも事実で、「デブ」や「ブス」、その他身体的特徴を揶揄する言葉がどれほど人の心を傷付け苛むか、身を持って知る女性の方が世の中多いのではないかとも思う。と考えると、糖尿病治療薬を使ってまで「痩せたい 」という願望に依存的なまでにのめり込み、痩せることが美への最短距離のはずだと妄信的に痩身を信奉している人達の心に、深く根を張っているのはコンプレックスというより恐怖心だろうというのは、別に突飛な想像とも言えないだろう。自分が他者からの心無い目に晒されること、無神経な言葉のひとつひとつに傷つけられること、そういう恐ろしいことから逃げたいのだ。惨たらしいのは、恐怖を感じている人の心につけ込むことがどれほど容易なことかを知っている人達が、嘘八百を並べ立てているに過ぎないのにそれをまるで魅力的な広告であるかのように装って、その恐怖心から金を巻き上げているという搾取の構造である。
「美」というのは実際のところかなり抽象的な概念なのだが、そこに「痩せ」だとか「二重」だとか目に見える確実性を求めてしまうのは、型に嵌められた存在でいたほうが突出した身体的特徴にスポットライトを当てられずに済むという回避的な意識もあるんじゃないかと思う。定義されている「美」を体現出来たなら、自分たちはこれ以上、「デブ」や「ブス」という言葉に苦しめられることはないだろう。相手の差別的な態度に悲しんだり、怒ったりする必要もなくなるだろう。と同時に、客観性が定めた「美しさ」という基準を満たすことは、自分を人生の成功者のように振る舞わせてくれる魔力と、そうすることでようやく対等に「権力」と並び立てるという、神話的な幻想を抱かせてくれる魔法を彼女達に与えてくれるのではないか。美しさは常に権力者との接点を作る上で重要な武器となってきた。換金可能な「美」は、「美」の基準として分かりやすい。“金になるほど美しい”!
エルヴィラは、いわば現代において「マンジャロ」を求める女性のひとりだ。彼女は淑女養成スクールに通って、選ばれし洗練されたお嬢様としての振る舞いを叩き込まれる。立ち姿から美しく、しなやかに、舞踏会ではダンスの相手に“選ばれる”女となるために、母親からのプレッシャーにも先生からの厳しい指導にも耐える。エルヴィラは、自分は将来的に“金になる女”だと母に証明しなくてはならない。綺麗な顔になって、痩せて、お金持ちの王子様と結婚する。美しさを換金する。そのためにサナダムシの卵も飲む。彼女を支えるのは、王子様との甘い出会い、甘い夢。
母の意向で整形手術に挑む時、エルヴィラはおそらくなんの覚悟も決まっていないまま椅子に縛り付けられる。無麻酔で出っ張った鼻の頭の骨を砕かれ悲鳴を上げて身悶えるエルヴィラに、慣れた様子で「アン、ドゥ、トロワ」とまるで魔法の呪文でも唱えるみたいに言いながらもう一度カナヅチを振るう美容外科医が、つまり現代でマンジャロをダイエット薬として転売する鬼畜商人の姿というわけだ。
美容整形のため鼻を砕かれ、その鼻をベルトで固定されているエルヴィラの姿が本作のキービジュアルにもなっている。彼女の本当の生き地獄は、この顔から始まる。
エルヴィラは妹のアルマ(演:フロー・ファゲーリ)とピクニックに出かけ、そこでアルマに「サナダムシダイエット」について打ち明けるのだが、アルマは「虫を飲むなんて気持ち悪い」と憤慨しエルヴィラを置いて帰ってしまう。置いていかれたエルヴィラはしばらく森を彷徨うが、そこでなんと偶然にも森に狩りへ来ていた王子様とその友人たちを見かけるのである。高鳴る胸の鼓動を抑えて彼らに近づくと、彼らの、ありえないくらい下品で下劣で聞くにたえないような会話が聞こえてくる。しかも、エルヴィラが想い焦がれる王子様はケツ丸出しで立小便までしている有様。物陰に隠れて彼らの様子を伺っていたエルヴィラは驚きと動揺で物音を立ててしまい、王子一行に見つかってしまうのだが、そこでエルヴィラにかけられたのは甘く優しい言葉などではなく…
本作の2人目の主人公とも言うべき、もう一人の地獄を生きるものがシンデレラにあたる義理の姉、アグネスである。初対面のエルヴィラですらうっとりしてしまうような、絵に描いたような美貌を持つ“プリンセス”。しかしアグネスは馬番をしているイサク(和名っぽい名前だが別に日本人ではない)という男と相思相愛の格差恋愛の真っ最中で、立場的に舞踏会に出て王子様を射止めるべきだと理解しつつも、自分の本当の愛はイサクのもので心から愛しているのはイサクだけだと痛切な想いをイサクに告げる。愛し合うふたりは馬小屋で怒涛のセックスをブチかますのだが、いつでもタイミングが最悪なことに定評があるエルヴィラがこれまた偶然にもふたりの生々しいまぐわいを目撃してしまうのである。日中に王子様の汚ぇケツを見たと思ったら、夜は馬小屋でイサクの無駄にキレイなケツを見る羽目に。涙が出ますよ。
コトが継母レベッカにバレ、馬番のイサクは全裸で野に追放、アグネスはここで原作通りの“灰かぶり”となり、彼女らの真剣恋愛はあまりにも空しい幕引きを迎えるのだった。お城のお嬢様から召使いに堕ちたアグネスは淑女養成スクールからも退校させられ、一方でレベッカのエルヴィラに対するプレッシャーはますます激しいものになっていく。
妹のアルマはこの狂った母娘の玉の輿大作戦にドン引きしていて、自分が「女性」として扱われること、また「女性」になることに抵抗感を感じているし、自分の母親が、「女は権力のある男の一番美しいアクセサリーでなければいけない(金持ちから選ばれる女にならなければいけない)」というような価値観が完全に内面化されてしまっていること、そしてその感性が無批判のまま放置された結果、母レベッカの中でそれは暴力的なほど強い支配的な価値観になってしまっていること、娘であるはずのエルヴィラを操り人形のように操作して、自分を代弁する装置にしようとしていることに、唯一気付いてる。母親の狂気に飲み込まれて崩壊していく姉を心から心配しているのもこのアルマだけで、彼女だけが、作中で唯一の良心として姉エルヴィラのことを見守っている。
いざ舞踏会の日がきてエルヴィラは念願の王子様と、(母親が金とコネの力で錬成した)キラキラ輝くうら若き乙女として対面を果たすが、この舞踏会に出てくる男性陣は目に余るほど露悪的な描かれ方をしていていっそ意地の悪い笑いを誘う。必見である。
客観性が評価の中心軸になっている「美」は、常に値踏みされる。客観性が評価の中心軸になっている「美」というのは、つまり誰かにとって都合よく扱える「美」のことだ。
そういう「美」においては、胸の大きさ、ウエストの細さ、顔の小ささ、手足の長さ、目の開き具合、二重の幅、鼻がついている位置、額の広さ、おしりは垂れていないか、脇毛は生えていないか、眉毛は整っているか、まつ毛は上がっているか、毛穴は閉じているか、皮脂は浮いていないか、髪の毛は艶を帯びて且つくし通りは滑らかか、肌は白いか、背中にニキビはないか、爪の形は綺麗か、ほうれい線はないか、歯は白く輝いているか、唇はひび割れていないか、体重は最低でも身長から-110をキープしているか、身長は低すぎず高すぎることもないか、デリケートゾーンの色素沈着はどうだ、歩き方はみっともなくないか、猫背ではないか、内股ではないか、座り方はどうだ、肩幅はどのくらいだ、髪の長さは理想的か、愛用しているアクセサリーのサイズは、好きなブランドは、使っているボディソープは、パーソナルカラーを意識した化粧品を使っているか、体型に似合った服を着ているか、エトセトラ、もっとたくさん、様々なことが評価の対象になり女性の査定になる。その査定を一体、誰がなんのためにしているのか。
『アグリー・シスター~』の物語では、そういう査定をする側の人間が、要するに権力勾配の上層にいる人間であることを明確に描いている。俺が興奮出来る女でいてくれ、自分に知的な劣等感を感じさせないアクセサリーでありトロフィーであってくれ、セックスするのにちょうどいいおっぱいであってくれ、やりやすい程度の頭の弱さを持っていてくれ、それでいて攻略しがいのある美しさを保っていてくれ、俺が触りたくなり犯したくなるような「女の子」でいてくれ。言外に伝えられる欲望が、舞踏会という場面で男性陣たちが見せる振る舞いの中に凝縮されている。下劣の煮凝りみたいな会話の応酬。こんなヤツらのために歩き方ひとつから指導され、他人に人生の主導権を自ら渡しに向かうエルヴィラ。そして、そんな男性たちのダダ漏れの欲望を浴びてなお、そう眼差されること、性的な価値こそが女の持つ重要な武器であり、その対価で優雅な暮らしが出来るのだと信じて疑わない女衒のような母親。おお、神よ。
女性の多くはおそらくこの物語の残酷さに、全体的とは言わないまでも部分的に、かなり共感が出来ると思う。なぜなら、私たちはどのような容姿や風貌をもって生まれていたとしても、他人からの値踏みに晒されなかったことなどないはずだからだ。生活においてそれを意識しようがしまいが、身長や体重、胸の大きさやウエストの細さ、瞳の大きさに至るすべてのパーツにおいて、私たちは何らかの完成と正解を自分以外の存在から求められているように感じることがある。逃れられない圧のようなものをただの一度も感じたことがないという人より、実際に自分が本当にそれを求められていたかどうかはともかくとして、空気感としてそういうプレッシャーを感じたことがある人はきっと少なくないはずだ。化粧禁止から一転、“出来なきゃおかしい”ことになったメイク、就活の時に履かされてそれ以外では一度も履かないパンプス、あたかもそれがマナーであるかのように語られる“正しい”アイシャドウやアイブロウの色、消耗品のストッキング、そういうものだって、みんな女性が空気感に強いられてきた社会的な「美」の模範だ。正解はコレだと教えられてきた。ただ矯正器具を嵌められているに過ぎないのに、それを「空気を読む」という行為の中に矮小化されてきた。男性が清潔感のためにヒゲを剃るのと同じだと。いいや違う。私たちもヒゲなら剃っている。女にもヒゲが生えることを知らないおじさまたち、同じ土俵に上がりたいならその濃いおヒゲで青くくすんだ月面みたいな肌にとっととファンデーションをお塗り!と何度も思ってきた。
私たちは「健康」や「清潔感」から切り離された極端な「美」、すなわち「ルッキズム」を賞賛するようメディアから語りかけられ、長いものに巻かれるようにして、そういう価値観を知らず知らずのうちに内面化している。それで生活に支障が出るわけではないけど、日々毛穴の開きや体毛の濃さや髪の毛のパサつき、午後になるとベトベトしてくる額や鼻筋がどうにかなってくれたらいいのにと思いながら過ごしている。自分の意思で美しくありたいと思うけど、一方で、なんで美しくあることが自分のためなんだ?とも思う。
「デブから一転、ダイエットで大変身」などと言ってダイエットを煽り、肥満をお笑いコンテンツ扱いするくせに、極端なダイエットにおける健康被害が若年層を中心に増加の傾向などと、一体なんのマッチポンプなんだよと思うような記事が踊るたび、時々ひどくバカバカしい。やれ何歳の女がカラコンなんてみっともないだの、やれいくつになっても好きなオシャレを楽しもうだの、出産後の体型維持だの、こんな髪色の女はイモっぽいだの、涙袋がどうだの、平行眉の流行は終わっただの、外野の声を一度でも聞いてしまったらなかなかそれが頭から離れない。聞く価値などないと一蹴しても、蹴り飛ばしたそばから違う意見が飛んでくる。なんて不毛なことだろう。それでもせっせとムダ毛の処理をして、顔の産毛を剃り、眉毛を懸命に整えて、金を払ってまつ毛を上向きにしにいく。野暮ったい自分の顔と折り合いをつけて生きていく。新しい化粧品を買えば気分があがり、好きな服がゲット出来たら嬉しいし、美容に熱をあげている時は、それはそれとして嘘偽りなく女の人生が楽しい。顔面に隕石でも激突したんかぇと思うような毛穴の開きを憂いながら、日々深くなっていくほうれい線を眺めながら、内田有紀さんのいくつになっても変わらない美しさに惚れ惚れしながら、自分なりに美しく歳をとりたいと願ってやまない。
多分重要なのは、それが自分の意思で選んだ行動かどうかというところだ。
しないよりしたほうが、自分のことを好きになれるかどうかだ。
エルヴィラの世界にはそういう「美」が存在しない。自己決定としての「美」、セルフケアとしての「美」がどこにもない。彼女達の視野を覆っているのは「自分のために美しくありたい」という願望ではなく、「他者から承認されるためのルッキズム」という地獄の景色である。
エルヴィラは母親のためにあるがままの自分を否定し、漂白しなくてはいけなかった。まるっこくて何が悪い。目がつぶらで何が悪い。スタイルが抜群じゃなくて何が悪い。野暮ったくて何が悪い。そういうことを何ひとつ言えず、そういう発想すらないような顔をしなくてはいけない。気付いてはいけないし、賢くなってはいけない。男性から下品な態度をとられても、拒否してはいけない。胸を掴まれても、それは自分のためだ。なぜ?と考えてはいけない。
極端な食事制限や腹の中でサナダムシを飼う行為はひるがえって彼女を隠れた過食に走らせ、豊かだった髪の毛はストレスのために抜け落ちた。眠れない痛みに耐え、サナダムシが腹の中を掻き回す気持ち悪さに耐え、キャパシティ以上の努力を精一杯詰め込んで、自分が“選ぶ”のではなく自分が“選ばれる”ための舞台に向かう。これだけのものを犠牲にして立つための精神的支柱は、もはや王子様との結婚しかない。
終盤に最も痛ましいシーンがある。創作におけるグロテスクさには慣れていると自負する私も、この話の流れで最後にこれがくるのかよと、みぞおちに一発パンチをもらうようなショックを受けて久しぶりに映画を観て痛みのために顔が歪んだ。というわけで、おおいに食らいました。
エルヴィラは舞踏会で数多の男に値踏みをされるが、エルヴィラを査定する男たちの顔や体は果たしてどうだったんだろう。ケツ丸出しで立ちションしていた王子様はケツの下から突然無駄毛が生え散らかしてて体毛アマゾンって感じだったけど、この映画が引き出す「汚さ」はそこを含めて本当にすごい。どれもこれもが痛烈に印象に残る。
こうした「女性とルッキズム」をテーマにした映画だと、近年では『ザブスタンス』(🇺🇸🇬🇧🇫🇷/'24)がアカデミー賞5部門にノミネートされるなどその脚光は記憶に新しい。こちらも女性監督がメガホンを撮り作り上げた快作である。こうした映画や物語が広く支持を受けるようになることで、女性を取り巻く環境がいまだ硬直性のある権力構造の中で作り上げられていることへの議論が活発になるだろうという期待がある一方、ルッキズムの弊害が可視化されればされるほど、これが世界共通の地獄であることを再認識することにもなる。女性にとっては、他人から文句無しに「A」と評価されるような「美」はもちろん永遠の憧れだ。そして、同時に足枷だ。『サブスタンス』は“かつては”若く美しかった女性が、その「美しさ」に囚われて瓦解していく様子を描くサイコなホラーである。人は老いる。生きた年数だけシワが刻まれ、白髪が増え、脂肪は重力に逆らえない。どれだけ栄華を極めても、いずれ自分の時代は去る。でもかつての栄光が老いを受け入れさせてくれない。過去の自分が今の自分を拒絶する。「そんなの私には分からない感覚だ」と、一体どんな人なら言えるだろう?
ルッキズムは私たちに生きづらさを強いてくるだけでなく、搾取とも密接だ。先述した糖尿病治療薬の件も結局は人の心につけ込む悪どい商売であって、ソリューションの提供でもなんでもない。記事を読んだ時これは本当に日本の話題なのかと思ったが、本当に日本の話題だった。そこまで「痩せる」ということに呪縛されてしまう人が居ることにも衝撃を受けるし、そこに商売性を見いだせる人の心がまるでない人間が平然と社会に生き、ダイエットビジネスなんて宣って、社長だとか、インルフエンサーだとかいう仕事をやっているということにもだいぶショックを受ける。こういう物事の延長線上にニードルパークとかが生まれる気がする。こんなことを商売にする人間だから、きっとまわりにいる人達も似たような人が多いのだろうし、おそらく誰も指摘をしないんだろうが、自分の倫理観が破綻していることに気付かないまま世に出て、その破綻した倫理観のケツを自分ではなく社会に持たせているという自覚がまるでない大人が、ルッキズムに呪われた若年層やあるいは物事にまったく無知な人達から金を巻き上げているのだから、世も末も末だ。金持ちの都合に合わせたバカになんてなるなよ。
ところで、ディズニー版のシンデレラにはOVAで発表された続編が2つあり、シンデレラ本編のサブキャラたちにスポットをあてた「2」、フェアリーゴッドマザーの魔法の杖がひょんなことから継母に奪われ、継母の邪悪な企みによりシンデレラが王子と結婚した歴史が改変されてしまいあわや大惨事の「3」、なんとその両方で長女アナスタシアは主役級の大抜擢を受けて活躍するのだが、これがそれぞれ、なかなか胸にくる話となっている。
「2」でのアナスタシアは過去の行いを反省し、シンデレラと距離を詰め、自分なりの幸せを掴む過程で母親との共依存的な関係を断ち切るのだが、「3」は時間軸でいうと「2」の手前にあたる物語で、継母がフェアリーゴットマザーから奪った魔法の杖を使って時間を戻し、王子たちに催眠をかけてアナスタシアを花嫁にしようと目論む物語だ。
「3」におけるアナスタシアは『アグリー・シスター~』におけるエルヴィラと似て、母親に対して従順だ。母親の言うことはなんでも正しく、言うことを聞いて約束を守れば幸せになれると信じている。母親の愛は本物だと思っているからだ。しかし母親は実際のところ娘たちのことを、金持ちと結婚させるための道具としか考えていないことが、次第に明らかになってくる。真実の愛とは何かを考える過程で、アナスタシアは人を騙して結婚しようとしている自分や、自分をとにかく王子と結婚させたがる母親に疑問を抱くようになる。
シンデレラは持ち前の負けん気とガッツで数々の逆境をネズミたちの力も借りながら乗り越えるのだが、何度心をへし折っても立ち上がってくる不屈のファイターシンデレラに対して恐るべき継母が最後に選んだ手段は、なんとアナスタシア自身の見た目をシンデレラにしてしまうという作戦だった。究極の全身整形。シンデレラ本編ではそこそこの悪役ぶりだったが、全シリーズを通してみるとシンデレラの継母は『ノートルダムの鐘』のフロローに匹敵するくらいかなりキマっている真のヴィランの迫力がある。
アナスタシアは葛藤するも、「自分自身を愛してくれる人と結婚したい」と言い最後は自らの意思で母親の願望を拒絶するのだが、「2」でのアナスタシアは母親が望むような金持ちと結婚するのではなく町のパン屋さんと結婚しており、彼女が見つけた等身大の愛の素朴さになぜか「3」を見たあとの方が涙を禁じ得ないというナゾの現象が起こる。シンデレラ2と3は、シンデレラの物語というよりアナスタシアがいかにして母親からの呪縛から解き放たれ、シンデレラという美しさの代名詞から「本当に必要な美しさとは何か」という哲学を取り戻す物語にもなっているという点で、実は隠れた良作なのである。
シンデレラはただ可憐で美しいがゆえに王子様に選ばれたわけではない。しかし、義理の妹たちであるアナスタシアとドリゼラはふたりとも深いほうれい線の刻まれた顔に団子っ鼻を乗せて、目は小さく髪の毛はごわごわとしていて、更には歌も下手で芸術的な才能に恵まれず、だからといって家事が出来るわけでもなく、性格もワガママで放埓で更には手足もデカイという、本当に散々な描かれ方をしていて、シンデレラとビジュアルや能力の面で明確な対比を取ろうとしていたことは明らかだ。ディズニーがシンデレラ「2」や「3」を制作したのは2000年代で、時代の進歩が既存の価値観に疑問を投げかけるようになり、そこからアナスタシアの再描写に繋がったのだと私は思っている。
次女のドリゼラについてはまったく性格的にも進歩がないまま終わっているので、いつかは彼女の成長譚も見たいところだったが、『アグリー・シスター~』では逆にこの次女の存在が救済そのものになっていて、私はラストシーンで思わず泣いた。私たちが獲得すべき真に「美しいもの」とは何かという答え、それはあのラストシーンに存在する。
かなり余談だが、『アグリー・シスター~』で体を張った主演を務めたリラ・マイレンさんは、好きな映画に『鉄男』(🇯🇵/'89)をあげており、なかなかエッヂの効いた趣味をお持ちであることが分かる。他、『RAW 少女のめざめ』(🇫🇷🇧🇪/'16)などが好きらしい。なんというか、すごく共感出来る趣味だ。じゃあこの映画の撮影は楽しんで臨めたのではないかと思い、その点で安心した。
こういう怪文書をつらつら書きつつ、他気になった映画を3本ほどシバいたら土曜の夜が終わり日曜日も終わった。イベント前にとっととpixivにサンプルをあげようと思っていたし会場に搬入する荷物もまとめようと思っていたのに何一つ終わっていない。怪文書を書くことをライフワークにしているせいだ。畳む
『アグリー・シスター~』は、シンデレラをモチーフにした(とても残酷な)フェアリーテイルだが、主人公はシンデレラではなく義理の姉妹の長女のほう。シンデレラの原作では姉妹たちの名前が設定されていないのだがディズニー版ではアナスタシア(長女)とドリゼラ(次女)という名前がつけられており、この映画ではディズニー版で言うところのアナスタシアが主役である。
王子様との結婚を無垢に夢見るエルヴィラ(主人公、演:リラ・マイレン)は母の再婚のため王国へ越してくる。義姉妹となるアグネス(演:テア・ソフィー・ロック・ネス)は目を見張るほど美しい娘で、新しいお父さんも朗らかで人は良さげ。厳かで美しいお城での新生活に胸ときめかせるエルヴィラだったが、同居を始めたその日に新しいお父さんは亡くなってしまう。ショックのあまり寝込んでしまったアグネスを見舞ったエルヴィラは、そこでアグネスから「この家にはお金が無い(だからあなたたちのお金を当て込んで父は再婚した)」と聞かされ、お互いがお互いの金目当てに再婚したことを知る。金持ちと再婚出来たと思ったらとんでもない間違い、すっかり素寒貧になってしまったと絶望する母レベッカ(演:アーネ・ダール・トルプ)に対して、「また再婚すればいいじゃない」と励ましの言葉をかけるエルヴィラだが、「こんな年増の垂れ乳女(※垂れ乳女は本当に言った)が再婚するのがどれほど難しいと思っているんだ」とむしろ逆ギレされてしまう。さめざめと泣き出す母を憐れに思ったエルヴィラは、「なら私が結婚する」と言うのだが…というのがあらすじ。
お城から舞踏会への招待状が届き、舞い上がったエルヴィラは早くも王子様とのロマンチックな出会いで頭がいっぱいになるのだが、母であるレベッカはエルヴィラに「そんなツラと体型じゃ…」という態度を隠さず、しかして娘が玉の輿に乗ってもらうことが母の悲願(だって金持ち男に養ってもらう生活は捨てられないから)、そこから母による母のための整形とダイエットをエルヴィラに強いていくことになるのだが、ここで描き切られたグロテスクさに骨の髄から打ちのめされて感動した。この痛みにこの踏み込み方が出来る脚本家は絶対に女性だと思ったが、やはり脚本兼監督はエミリア・ブリックフェルトさんという女性監督。この映画が長編デビュー作らしく、その才能の迸り方に感激してしまい私はすっかり彼女のファンである。
ご本人も言うように、映画にはクローネンバーグ的なボディホラーの要素がふんだんに盛り込まれているが、クローネンバーグほど「人間やめさせちゃお☆」に寄った作風ではない。人間の原型を留めるからこそ、破滅的なイメージが完成している。無麻酔で鼻の骨を砕いて整形し、虫を飲み込み、つけまつ毛を直接皮膚に縫い付け、ストレスで抜け落ちた毛はカツラで誤魔化す。美しさを追求するはずがどんどん美しさからかけ離れていく。こんなふうに変わりたいなんて、自分で願ったことなど一度もないはずなのに。
今月の頭に、「マンジャロ」という糖尿病治療薬を無許可で販売・転売目的で保管した疑いで男女3名が書類送検されたというニュースを読んだ。(日経新聞: https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUF0... )
この「マンジャロ」というのが、現代の痩身薬として一定の層から需要されているらしい。私ももちろん運動しないで痩せられるなら是非痩せたいし、腹筋しなくても腹筋が割れてくれるなら本当にありがたいし、寝転がっているだけでケツが引き締まるなら是非そうあってほしいし、どれだけ食べても消化の段階でカロリーを半分に圧縮してくれる胃袋があるなら嬉しいと真っ直ぐな気持ちで思う怠惰な市民のひとりだが、それは土台無理な話だと理解している。それなりに痩せたいと思ったら痩せるなりの努力が必要なわけだが、その「努力」というのは「運動」と「適度な摂生」を言うのであり、健康な体になんらかの薬品を流し込むこととはおそらく違う。
健康を投げ打ってまで得たい「美ボディ」というやつが自分には想像出来ない。絶食をするとか薬品に頼るとか、得られるものに対して支払いがデカすぎると感じるし、世の中の大抵の“良識派”は「痩せるにしたってやり方が…」と言うだろうから、健康な体に治療薬をブチ込むとその後どうなるか体を張った人体実験の参加者に金を払ってまでなりたいという奇特な感情を共感的に見るのは難しいかも知れないと思う一方、「美しさ」という観念が、主観的な「美」よりも客観的な「美」のほうに基準をおいている以上、「私はこれが美しいと思うので」という主張一本でボディポジティブを語っていくにはそれなりの胆力が必要なのも事実で、「デブ」や「ブス」、その他身体的特徴を揶揄する言葉がどれほど人の心を傷付け苛むか、身を持って知る女性の方が世の中多いのではないかとも思う。と考えると、糖尿病治療薬を使ってまで「痩せたい 」という願望に依存的なまでにのめり込み、痩せることが美への最短距離のはずだと妄信的に痩身を信奉している人達の心に、深く根を張っているのはコンプレックスというより恐怖心だろうというのは、別に突飛な想像とも言えないだろう。自分が他者からの心無い目に晒されること、無神経な言葉のひとつひとつに傷つけられること、そういう恐ろしいことから逃げたいのだ。惨たらしいのは、恐怖を感じている人の心につけ込むことがどれほど容易なことかを知っている人達が、嘘八百を並べ立てているに過ぎないのにそれをまるで魅力的な広告であるかのように装って、その恐怖心から金を巻き上げているという搾取の構造である。
「美」というのは実際のところかなり抽象的な概念なのだが、そこに「痩せ」だとか「二重」だとか目に見える確実性を求めてしまうのは、型に嵌められた存在でいたほうが突出した身体的特徴にスポットライトを当てられずに済むという回避的な意識もあるんじゃないかと思う。定義されている「美」を体現出来たなら、自分たちはこれ以上、「デブ」や「ブス」という言葉に苦しめられることはないだろう。相手の差別的な態度に悲しんだり、怒ったりする必要もなくなるだろう。と同時に、客観性が定めた「美しさ」という基準を満たすことは、自分を人生の成功者のように振る舞わせてくれる魔力と、そうすることでようやく対等に「権力」と並び立てるという、神話的な幻想を抱かせてくれる魔法を彼女達に与えてくれるのではないか。美しさは常に権力者との接点を作る上で重要な武器となってきた。換金可能な「美」は、「美」の基準として分かりやすい。“金になるほど美しい”!
エルヴィラは、いわば現代において「マンジャロ」を求める女性のひとりだ。彼女は淑女養成スクールに通って、選ばれし洗練されたお嬢様としての振る舞いを叩き込まれる。立ち姿から美しく、しなやかに、舞踏会ではダンスの相手に“選ばれる”女となるために、母親からのプレッシャーにも先生からの厳しい指導にも耐える。エルヴィラは、自分は将来的に“金になる女”だと母に証明しなくてはならない。綺麗な顔になって、痩せて、お金持ちの王子様と結婚する。美しさを換金する。そのためにサナダムシの卵も飲む。彼女を支えるのは、王子様との甘い出会い、甘い夢。
母の意向で整形手術に挑む時、エルヴィラはおそらくなんの覚悟も決まっていないまま椅子に縛り付けられる。無麻酔で出っ張った鼻の頭の骨を砕かれ悲鳴を上げて身悶えるエルヴィラに、慣れた様子で「アン、ドゥ、トロワ」とまるで魔法の呪文でも唱えるみたいに言いながらもう一度カナヅチを振るう美容外科医が、つまり現代でマンジャロをダイエット薬として転売する鬼畜商人の姿というわけだ。
美容整形のため鼻を砕かれ、その鼻をベルトで固定されているエルヴィラの姿が本作のキービジュアルにもなっている。彼女の本当の生き地獄は、この顔から始まる。
エルヴィラは妹のアルマ(演:フロー・ファゲーリ)とピクニックに出かけ、そこでアルマに「サナダムシダイエット」について打ち明けるのだが、アルマは「虫を飲むなんて気持ち悪い」と憤慨しエルヴィラを置いて帰ってしまう。置いていかれたエルヴィラはしばらく森を彷徨うが、そこでなんと偶然にも森に狩りへ来ていた王子様とその友人たちを見かけるのである。高鳴る胸の鼓動を抑えて彼らに近づくと、彼らの、ありえないくらい下品で下劣で聞くにたえないような会話が聞こえてくる。しかも、エルヴィラが想い焦がれる王子様はケツ丸出しで立小便までしている有様。物陰に隠れて彼らの様子を伺っていたエルヴィラは驚きと動揺で物音を立ててしまい、王子一行に見つかってしまうのだが、そこでエルヴィラにかけられたのは甘く優しい言葉などではなく…
本作の2人目の主人公とも言うべき、もう一人の地獄を生きるものがシンデレラにあたる義理の姉、アグネスである。初対面のエルヴィラですらうっとりしてしまうような、絵に描いたような美貌を持つ“プリンセス”。しかしアグネスは馬番をしているイサク(和名っぽい名前だが別に日本人ではない)という男と相思相愛の格差恋愛の真っ最中で、立場的に舞踏会に出て王子様を射止めるべきだと理解しつつも、自分の本当の愛はイサクのもので心から愛しているのはイサクだけだと痛切な想いをイサクに告げる。愛し合うふたりは馬小屋で怒涛のセックスをブチかますのだが、いつでもタイミングが最悪なことに定評があるエルヴィラがこれまた偶然にもふたりの生々しいまぐわいを目撃してしまうのである。日中に王子様の汚ぇケツを見たと思ったら、夜は馬小屋でイサクの無駄にキレイなケツを見る羽目に。涙が出ますよ。
コトが継母レベッカにバレ、馬番のイサクは全裸で野に追放、アグネスはここで原作通りの“灰かぶり”となり、彼女らの真剣恋愛はあまりにも空しい幕引きを迎えるのだった。お城のお嬢様から召使いに堕ちたアグネスは淑女養成スクールからも退校させられ、一方でレベッカのエルヴィラに対するプレッシャーはますます激しいものになっていく。
妹のアルマはこの狂った母娘の玉の輿大作戦にドン引きしていて、自分が「女性」として扱われること、また「女性」になることに抵抗感を感じているし、自分の母親が、「女は権力のある男の一番美しいアクセサリーでなければいけない(金持ちから選ばれる女にならなければいけない)」というような価値観が完全に内面化されてしまっていること、そしてその感性が無批判のまま放置された結果、母レベッカの中でそれは暴力的なほど強い支配的な価値観になってしまっていること、娘であるはずのエルヴィラを操り人形のように操作して、自分を代弁する装置にしようとしていることに、唯一気付いてる。母親の狂気に飲み込まれて崩壊していく姉を心から心配しているのもこのアルマだけで、彼女だけが、作中で唯一の良心として姉エルヴィラのことを見守っている。
いざ舞踏会の日がきてエルヴィラは念願の王子様と、(母親が金とコネの力で錬成した)キラキラ輝くうら若き乙女として対面を果たすが、この舞踏会に出てくる男性陣は目に余るほど露悪的な描かれ方をしていていっそ意地の悪い笑いを誘う。必見である。
客観性が評価の中心軸になっている「美」は、常に値踏みされる。客観性が評価の中心軸になっている「美」というのは、つまり誰かにとって都合よく扱える「美」のことだ。
そういう「美」においては、胸の大きさ、ウエストの細さ、顔の小ささ、手足の長さ、目の開き具合、二重の幅、鼻がついている位置、額の広さ、おしりは垂れていないか、脇毛は生えていないか、眉毛は整っているか、まつ毛は上がっているか、毛穴は閉じているか、皮脂は浮いていないか、髪の毛は艶を帯びて且つくし通りは滑らかか、肌は白いか、背中にニキビはないか、爪の形は綺麗か、ほうれい線はないか、歯は白く輝いているか、唇はひび割れていないか、体重は最低でも身長から-110をキープしているか、身長は低すぎず高すぎることもないか、デリケートゾーンの色素沈着はどうだ、歩き方はみっともなくないか、猫背ではないか、内股ではないか、座り方はどうだ、肩幅はどのくらいだ、髪の長さは理想的か、愛用しているアクセサリーのサイズは、好きなブランドは、使っているボディソープは、パーソナルカラーを意識した化粧品を使っているか、体型に似合った服を着ているか、エトセトラ、もっとたくさん、様々なことが評価の対象になり女性の査定になる。その査定を一体、誰がなんのためにしているのか。
『アグリー・シスター~』の物語では、そういう査定をする側の人間が、要するに権力勾配の上層にいる人間であることを明確に描いている。俺が興奮出来る女でいてくれ、自分に知的な劣等感を感じさせないアクセサリーでありトロフィーであってくれ、セックスするのにちょうどいいおっぱいであってくれ、やりやすい程度の頭の弱さを持っていてくれ、それでいて攻略しがいのある美しさを保っていてくれ、俺が触りたくなり犯したくなるような「女の子」でいてくれ。言外に伝えられる欲望が、舞踏会という場面で男性陣たちが見せる振る舞いの中に凝縮されている。下劣の煮凝りみたいな会話の応酬。こんなヤツらのために歩き方ひとつから指導され、他人に人生の主導権を自ら渡しに向かうエルヴィラ。そして、そんな男性たちのダダ漏れの欲望を浴びてなお、そう眼差されること、性的な価値こそが女の持つ重要な武器であり、その対価で優雅な暮らしが出来るのだと信じて疑わない女衒のような母親。おお、神よ。
女性の多くはおそらくこの物語の残酷さに、全体的とは言わないまでも部分的に、かなり共感が出来ると思う。なぜなら、私たちはどのような容姿や風貌をもって生まれていたとしても、他人からの値踏みに晒されなかったことなどないはずだからだ。生活においてそれを意識しようがしまいが、身長や体重、胸の大きさやウエストの細さ、瞳の大きさに至るすべてのパーツにおいて、私たちは何らかの完成と正解を自分以外の存在から求められているように感じることがある。逃れられない圧のようなものをただの一度も感じたことがないという人より、実際に自分が本当にそれを求められていたかどうかはともかくとして、空気感としてそういうプレッシャーを感じたことがある人はきっと少なくないはずだ。化粧禁止から一転、“出来なきゃおかしい”ことになったメイク、就活の時に履かされてそれ以外では一度も履かないパンプス、あたかもそれがマナーであるかのように語られる“正しい”アイシャドウやアイブロウの色、消耗品のストッキング、そういうものだって、みんな女性が空気感に強いられてきた社会的な「美」の模範だ。正解はコレだと教えられてきた。ただ矯正器具を嵌められているに過ぎないのに、それを「空気を読む」という行為の中に矮小化されてきた。男性が清潔感のためにヒゲを剃るのと同じだと。いいや違う。私たちもヒゲなら剃っている。女にもヒゲが生えることを知らないおじさまたち、同じ土俵に上がりたいならその濃いおヒゲで青くくすんだ月面みたいな肌にとっととファンデーションをお塗り!と何度も思ってきた。
私たちは「健康」や「清潔感」から切り離された極端な「美」、すなわち「ルッキズム」を賞賛するようメディアから語りかけられ、長いものに巻かれるようにして、そういう価値観を知らず知らずのうちに内面化している。それで生活に支障が出るわけではないけど、日々毛穴の開きや体毛の濃さや髪の毛のパサつき、午後になるとベトベトしてくる額や鼻筋がどうにかなってくれたらいいのにと思いながら過ごしている。自分の意思で美しくありたいと思うけど、一方で、なんで美しくあることが自分のためなんだ?とも思う。
「デブから一転、ダイエットで大変身」などと言ってダイエットを煽り、肥満をお笑いコンテンツ扱いするくせに、極端なダイエットにおける健康被害が若年層を中心に増加の傾向などと、一体なんのマッチポンプなんだよと思うような記事が踊るたび、時々ひどくバカバカしい。やれ何歳の女がカラコンなんてみっともないだの、やれいくつになっても好きなオシャレを楽しもうだの、出産後の体型維持だの、こんな髪色の女はイモっぽいだの、涙袋がどうだの、平行眉の流行は終わっただの、外野の声を一度でも聞いてしまったらなかなかそれが頭から離れない。聞く価値などないと一蹴しても、蹴り飛ばしたそばから違う意見が飛んでくる。なんて不毛なことだろう。それでもせっせとムダ毛の処理をして、顔の産毛を剃り、眉毛を懸命に整えて、金を払ってまつ毛を上向きにしにいく。野暮ったい自分の顔と折り合いをつけて生きていく。新しい化粧品を買えば気分があがり、好きな服がゲット出来たら嬉しいし、美容に熱をあげている時は、それはそれとして嘘偽りなく女の人生が楽しい。顔面に隕石でも激突したんかぇと思うような毛穴の開きを憂いながら、日々深くなっていくほうれい線を眺めながら、内田有紀さんのいくつになっても変わらない美しさに惚れ惚れしながら、自分なりに美しく歳をとりたいと願ってやまない。
多分重要なのは、それが自分の意思で選んだ行動かどうかというところだ。
しないよりしたほうが、自分のことを好きになれるかどうかだ。
エルヴィラの世界にはそういう「美」が存在しない。自己決定としての「美」、セルフケアとしての「美」がどこにもない。彼女達の視野を覆っているのは「自分のために美しくありたい」という願望ではなく、「他者から承認されるためのルッキズム」という地獄の景色である。
エルヴィラは母親のためにあるがままの自分を否定し、漂白しなくてはいけなかった。まるっこくて何が悪い。目がつぶらで何が悪い。スタイルが抜群じゃなくて何が悪い。野暮ったくて何が悪い。そういうことを何ひとつ言えず、そういう発想すらないような顔をしなくてはいけない。気付いてはいけないし、賢くなってはいけない。男性から下品な態度をとられても、拒否してはいけない。胸を掴まれても、それは自分のためだ。なぜ?と考えてはいけない。
極端な食事制限や腹の中でサナダムシを飼う行為はひるがえって彼女を隠れた過食に走らせ、豊かだった髪の毛はストレスのために抜け落ちた。眠れない痛みに耐え、サナダムシが腹の中を掻き回す気持ち悪さに耐え、キャパシティ以上の努力を精一杯詰め込んで、自分が“選ぶ”のではなく自分が“選ばれる”ための舞台に向かう。これだけのものを犠牲にして立つための精神的支柱は、もはや王子様との結婚しかない。
終盤に最も痛ましいシーンがある。創作におけるグロテスクさには慣れていると自負する私も、この話の流れで最後にこれがくるのかよと、みぞおちに一発パンチをもらうようなショックを受けて久しぶりに映画を観て痛みのために顔が歪んだ。というわけで、おおいに食らいました。
エルヴィラは舞踏会で数多の男に値踏みをされるが、エルヴィラを査定する男たちの顔や体は果たしてどうだったんだろう。ケツ丸出しで立ちションしていた王子様はケツの下から突然無駄毛が生え散らかしてて体毛アマゾンって感じだったけど、この映画が引き出す「汚さ」はそこを含めて本当にすごい。どれもこれもが痛烈に印象に残る。
こうした「女性とルッキズム」をテーマにした映画だと、近年では『ザブスタンス』(🇺🇸🇬🇧🇫🇷/'24)がアカデミー賞5部門にノミネートされるなどその脚光は記憶に新しい。こちらも女性監督がメガホンを撮り作り上げた快作である。こうした映画や物語が広く支持を受けるようになることで、女性を取り巻く環境がいまだ硬直性のある権力構造の中で作り上げられていることへの議論が活発になるだろうという期待がある一方、ルッキズムの弊害が可視化されればされるほど、これが世界共通の地獄であることを再認識することにもなる。女性にとっては、他人から文句無しに「A」と評価されるような「美」はもちろん永遠の憧れだ。そして、同時に足枷だ。『サブスタンス』は“かつては”若く美しかった女性が、その「美しさ」に囚われて瓦解していく様子を描くサイコなホラーである。人は老いる。生きた年数だけシワが刻まれ、白髪が増え、脂肪は重力に逆らえない。どれだけ栄華を極めても、いずれ自分の時代は去る。でもかつての栄光が老いを受け入れさせてくれない。過去の自分が今の自分を拒絶する。「そんなの私には分からない感覚だ」と、一体どんな人なら言えるだろう?
ルッキズムは私たちに生きづらさを強いてくるだけでなく、搾取とも密接だ。先述した糖尿病治療薬の件も結局は人の心につけ込む悪どい商売であって、ソリューションの提供でもなんでもない。記事を読んだ時これは本当に日本の話題なのかと思ったが、本当に日本の話題だった。そこまで「痩せる」ということに呪縛されてしまう人が居ることにも衝撃を受けるし、そこに商売性を見いだせる人の心がまるでない人間が平然と社会に生き、ダイエットビジネスなんて宣って、社長だとか、インルフエンサーだとかいう仕事をやっているということにもだいぶショックを受ける。こういう物事の延長線上にニードルパークとかが生まれる気がする。こんなことを商売にする人間だから、きっとまわりにいる人達も似たような人が多いのだろうし、おそらく誰も指摘をしないんだろうが、自分の倫理観が破綻していることに気付かないまま世に出て、その破綻した倫理観のケツを自分ではなく社会に持たせているという自覚がまるでない大人が、ルッキズムに呪われた若年層やあるいは物事にまったく無知な人達から金を巻き上げているのだから、世も末も末だ。金持ちの都合に合わせたバカになんてなるなよ。
ところで、ディズニー版のシンデレラにはOVAで発表された続編が2つあり、シンデレラ本編のサブキャラたちにスポットをあてた「2」、フェアリーゴッドマザーの魔法の杖がひょんなことから継母に奪われ、継母の邪悪な企みによりシンデレラが王子と結婚した歴史が改変されてしまいあわや大惨事の「3」、なんとその両方で長女アナスタシアは主役級の大抜擢を受けて活躍するのだが、これがそれぞれ、なかなか胸にくる話となっている。
「2」でのアナスタシアは過去の行いを反省し、シンデレラと距離を詰め、自分なりの幸せを掴む過程で母親との共依存的な関係を断ち切るのだが、「3」は時間軸でいうと「2」の手前にあたる物語で、継母がフェアリーゴットマザーから奪った魔法の杖を使って時間を戻し、王子たちに催眠をかけてアナスタシアを花嫁にしようと目論む物語だ。
「3」におけるアナスタシアは『アグリー・シスター~』におけるエルヴィラと似て、母親に対して従順だ。母親の言うことはなんでも正しく、言うことを聞いて約束を守れば幸せになれると信じている。母親の愛は本物だと思っているからだ。しかし母親は実際のところ娘たちのことを、金持ちと結婚させるための道具としか考えていないことが、次第に明らかになってくる。真実の愛とは何かを考える過程で、アナスタシアは人を騙して結婚しようとしている自分や、自分をとにかく王子と結婚させたがる母親に疑問を抱くようになる。
シンデレラは持ち前の負けん気とガッツで数々の逆境をネズミたちの力も借りながら乗り越えるのだが、何度心をへし折っても立ち上がってくる不屈のファイターシンデレラに対して恐るべき継母が最後に選んだ手段は、なんとアナスタシア自身の見た目をシンデレラにしてしまうという作戦だった。究極の全身整形。シンデレラ本編ではそこそこの悪役ぶりだったが、全シリーズを通してみるとシンデレラの継母は『ノートルダムの鐘』のフロローに匹敵するくらいかなりキマっている真のヴィランの迫力がある。
アナスタシアは葛藤するも、「自分自身を愛してくれる人と結婚したい」と言い最後は自らの意思で母親の願望を拒絶するのだが、「2」でのアナスタシアは母親が望むような金持ちと結婚するのではなく町のパン屋さんと結婚しており、彼女が見つけた等身大の愛の素朴さになぜか「3」を見たあとの方が涙を禁じ得ないというナゾの現象が起こる。シンデレラ2と3は、シンデレラの物語というよりアナスタシアがいかにして母親からの呪縛から解き放たれ、シンデレラという美しさの代名詞から「本当に必要な美しさとは何か」という哲学を取り戻す物語にもなっているという点で、実は隠れた良作なのである。
シンデレラはただ可憐で美しいがゆえに王子様に選ばれたわけではない。しかし、義理の妹たちであるアナスタシアとドリゼラはふたりとも深いほうれい線の刻まれた顔に団子っ鼻を乗せて、目は小さく髪の毛はごわごわとしていて、更には歌も下手で芸術的な才能に恵まれず、だからといって家事が出来るわけでもなく、性格もワガママで放埓で更には手足もデカイという、本当に散々な描かれ方をしていて、シンデレラとビジュアルや能力の面で明確な対比を取ろうとしていたことは明らかだ。ディズニーがシンデレラ「2」や「3」を制作したのは2000年代で、時代の進歩が既存の価値観に疑問を投げかけるようになり、そこからアナスタシアの再描写に繋がったのだと私は思っている。
次女のドリゼラについてはまったく性格的にも進歩がないまま終わっているので、いつかは彼女の成長譚も見たいところだったが、『アグリー・シスター~』では逆にこの次女の存在が救済そのものになっていて、私はラストシーンで思わず泣いた。私たちが獲得すべき真に「美しいもの」とは何かという答え、それはあのラストシーンに存在する。
かなり余談だが、『アグリー・シスター~』で体を張った主演を務めたリラ・マイレンさんは、好きな映画に『鉄男』(🇯🇵/'89)をあげており、なかなかエッヂの効いた趣味をお持ちであることが分かる。他、『RAW 少女のめざめ』(🇫🇷🇧🇪/'16)などが好きらしい。なんというか、すごく共感出来る趣味だ。じゃあこの映画の撮影は楽しんで臨めたのではないかと思い、その点で安心した。
こういう怪文書をつらつら書きつつ、他気になった映画を3本ほどシバいたら土曜の夜が終わり日曜日も終わった。イベント前にとっととpixivにサンプルをあげようと思っていたし会場に搬入する荷物もまとめようと思っていたのに何一つ終わっていない。怪文書を書くことをライフワークにしているせいだ。畳む
CATEGORY:映画感想
指定の集合時間よりだいぶ早くに約束の場所についた私はベンチに座って「ケツでかい ゆじケツでかい クソでかい え?ホントでかい なにこわでっか」という短歌をしたためていた。集合場所に早く着きすぎていたし、スマホを弄ることくらいしかやれることがなかった。デカケツ短歌を投稿し、いきおいデカチチ短歌も書き上げた。「ゆーじくん!ちちまででかい!しぼれまそう!うそ すみません しぼりません 死」というデカチチ短歌をSNSに投稿し終え、満足して顔をあげると、目の前にうに先生が居た。羽田空港の思い出が何かあるかと問われたら、この日のことを話すしかなくなる。デカケツ短歌とデカチチ短歌とうに先生。
羽田空港は第1から第3までターミナルがあるが、第3ターミナルについてはほとんど何も知らない。だから、第3ターミナルに羽田エアポートガーデンという施設があることも知らなかった。呪術廻戦コラボのお陰で、空港に併設されている施設のことを知った。オタク、知との出会いがいつも自カプ。
ラーメン屋のコラボメニューに「抹茶スープラーメン」という謎のラーメンがあって、どうしても気になった。お店に入るまで抹茶スープラーメンを食べる気満々だったのだが、カップリング者と一緒にコラボをキメているなら自カプラーメンを作るべきではないか?と、脳内の自カプマナー講師に嘘のマナーを吹き込まれて急遽悠仁のラーメンのほうを頼み、テーブル上に自カプラーメンを生成した。抹茶スープラーメンに関してはちょっとだけ食べさせてもらったが、抹茶の自己主張は控えめで美味しかったと思う。悠仁のは肉まみれで味が濃かった。私が老人だったら味の濃さで死んでいた。
昼時に集合したのでお店には行列が出来ていたが、みんな分かりやすくコラボメニュー狙いだった。仲間がたくさんで心強い。机に祭壇を作り上げている方もいて、たいしたものだった。
食べ終えたあと物販やパネルを見た。小さい方のアクスタを買うつもりだったのに、自カプの攻め様があまりに攻め様の顔をしており、攻め様にしか許可されていない足の長さに感動してしまい結局大きい方のアクスタを買った。大は小を兼ねる。チンはポーを兼ねる。悠仁の腰つきが妖艶すぎて、しかも胸の主張も激しい。巨大な性のシンボルが、健全な週末の、健康的な日中の、聖なる空港において、堂々たるパイオツ展開を繰り出している。こんなことが、あっていいのか。どうなっている。困惑と同時に私は下心を隠しきれない。どれほど懸命に取り繕っても、私の中には妖怪下ネタおばさんが棲んでいるのだ。その妖怪下ネタおばさんが、むこう半年分くらいの下品な感想を並べ立てまくってくる。勘弁してくれよ。2年前に羽田で書いた、あのデカケツ短歌とデカチチ短歌を不意に思い出した。はからずしも、私は真実を書いてしまっていたようだ。
パネルは正面からの彼らしか描いていない。しかし私の第六感、否、悠仁のケツの存在感を捉えることにだけ特化した私の第七感は、悠仁の丸い無防備なケツが今、恵の前でプリプリと音を立てながら縦に横に動いていることを確実に予感した。あんな腰つきでケツがプリプリ言ってないわけがない。私たちの見えないところで言わせまくっているんだろう、ケツを。プリプリと。クソッ。アテンションプリプリプリーズ。当機は間もなくドカ尻空港に着陸します。ウワーッ!やかましすぎる。
許し難いほどプリプリしているケツを感じながらパネルを撮影した。特大パネルの方は上半身だけが切り抜かれていたが、どう考えても自カプが切り取られた画面下で手を繋いでおり、狙っているとしか思えない配置だ。
物販は七海のアクスタだけが総攫いされていて、納得感が強かった。七海、あまりに機長服が似合いすぎて、TL(ティーンズ・ラブ)の化身みたいになっていたものな。
食後におやつ(コラボドリンク)をキメていたところでスズキ先生と合流した。悠仁のマンゴーハニーナントカとかいうソフトクリームが乗ったドリンクで、これがかなり美味しかった。このまま一気に畳み掛けるしかないと思って、りんご飴も買った。カットしてもらっていたところ、見知らぬ子供たちがコラボりんご飴を見て「なんで黒いの?」と素朴な疑問を投げかけていて、確かにこの黒いのはなんなんだろうと思った。舐めても食べても特に味がしなかった。ただ黒い粉が降りかかったりんご飴だ。
充分グルメを楽しんで、エアポートガーデン内のお店をいくつか見て羽田を離脱した。羽田空港の思い出を振り返った時、デカケツ短歌とデカチチ短歌が真っ先に出てきた自分は土曜日をもって消えた。これからは、ドカ尻悠仁のプリプリ空港物語だ。虎杖プリケツエアラインだ。悠仁デカパイ線ターミナルだ。そして恵のドチンチンフライトだ。フゥーッ。助けてください。
ところで私は、先日金曜ロードショーで「魔女の宅急便」を観て泣いた。虎杖プリケツエアラインを爆誕させる一方で、私は魔女宅に感涙出来る脳みその持ち主でもある。期間限定でリバイバル上映をしているというから、この機会に先生たちとどうしても映画が観たかった。
映画館に行ったら、魔女宅のパンフレットも売っていた。やった!買った。1100円だった。ふと、当時のパンフレットは一冊いくらだったんだろうと思った。
宮崎駿はロリコンだという言説を、ご本人には本当に申し訳ないが私は額面通りに受け取っていた。なんとなくそういうイメージがあって、そのイメージが負の面に傾いて聞こえていたせいでジブリに対しては大人になってからもあまり興味がわかなかった。むしろ、大人になってからの方が興味がなかった。小さい頃には結構作品を観ていたが、私はどちらかというと賑やかで明るいパーティみたいなアニメが好きだったし、ジブリよりディズニーを好んだ。
それがふと金曜ロードショーで魔女宅の再放送を観た時、その物語のあまりの素晴らしさに泣いた。思春期の成長をこんなに鮮やかに切り取って、「こども」という存在をこんなにも主体的な個人として正面から描いた作品が他にあろうか。誰もが通るもどかしい時期、アイデンティティの揺らぎ、あの嵐のような感性の中、自力で岸を渡るこどもたち。そしてそんな子供の成長を見守る大人の、あたたかな眼差し。
子供の問題を子供だけの力で解決させようとする物語はこの世にたくさんある。子供には、そういう物語もまた必要だからだ。子供は大人になりたい。ならねばならない。彼らは大人としての意見を持ち、大人のような権利を求める。自由と葛藤。矛盾と義務。自分の問題を自分で解決したいと思うのに、そう出来ないもどかしさ。そのもどかしさと戦うために、その背中を押すために、あと一歩の勇気のために、子供たちが子供たちだけの世界で活躍する冒険譚がある。
でも魔女宅はそうではない。
キキはすべての困難を、知らず知らずのうちに差し伸べられた大人たちからの手によって乗り越える。彼女がたったひとりの力だけで成しえたことは、実は何もない。でも、彼女は常に努力の先頭に立とうとする。嵐の中を飛ぶ。様々な対話の中でヒントを掴み、生きるために必要なことを少しずつ学んでいく。感動もする。嫉妬もする。いろんな感情が同じ心の中で暴れ回っている。大人になるにはいつも痛みが伴う。その痛みに涙することだってある。魔女であるいぜんに、キキは少女であり女性なのだ。キキはかつての私たちで、今を生きる彼女たちで、これからの子供たちだ。
魔女宅の魅力はもちろんキキにある。不思議なもので、彼女の存在は大人になればなるほど身近だ。そしてそんな彼女と同じくらい、キキを取り巻く大人たちが素敵だ。キキのことを13歳の少女と認識しながら、それでも決して彼女を「こども」扱いしない。だけどキキは大人でもないから、周囲の大人たちは、大人として見られる面倒のすべてを当たり前のように見る。
キキのお父さんは、キキに対して「まだ早い」とは言わない。相手はもう13歳の女性だからだ。でも、彼女はまだ13歳の少女なのだ。だから「いつでも帰っておいで」と言う。“いつの間にかこんなに大きくなった”キキを抱きしめて。
私はもうこの冒頭でじゃぶじゃぶに泣く。愛だから。キキが旅立てるのは、この愛があるからだ。
そのあとも色々なところでじゃぶじゃぶに泣く。パン屋の亭主がキキのためにパンのリースみたいなのを店の窓にぶら下げてくれるところとか、ウルスラがキキと出会って絵を描きあげられたって話すところとか。キキは偉大なことを成功させているエリートじゃない。スーパーパワーを持っているわけでもないし、なんのカリスマでもない。でも彼女がただ「キキ」として生きているだけで救われる人の心ってものがある。そんでそれは多分、私たちだってみんなどこかで出会うことなんだ。そこに何かの「功績」なんかなくたって、自分が自分というものをただ生きているだけで、誰かの救いになることが、あるいは、誰かが誰かのままただ生きているだけで、私の心を救う瞬間が、人生には絶対にある。キキはまさにウルスラにとってそうだったし、ウルスラもまたキキにとってはそうだった。
特別な親切や思いやりではないもの、何かの返報を期待したわけじゃないもの、そういうものが自然、自分や自分以外の人の視野を不意に広げてくれることがある。なんでもないと思い込んでいる自分の行為や行動が、本当にただ無意味に終わっているかどうかなんて、一体誰になら分かるの?私の預かり知らないところで、人の想像の及ばぬほんの僅かな隙間で、それが小さい光になって灯る可能性がどうしてないなんて言えるの?私はキキとウルスラのお泊まり会のところでもこうしてじゃぶじゃぶになり、マスクの下にミクロな洪水を生み出すことしか出来ないのであった。
キキは友達作りが下手なタイプでは決してない。だって田舎では同世代の子達がお見送りしてくれたもんね。でも都会の垢抜けた空気感や、魔女のいない世界では自然と浮いてしまう自分では、なかなか同世代の子たちの輪の中に入れない。自分はどうやらみんなと違って、その差は誰かを喜ばせるものではどうやらないらしいということに戸惑いを覚えるわけですよね。そんな中、はじめて出来たトンボという友達が、なんかあんま好かんと思っている女の子とも仲が良いと知って、「なんでェなんでェ!」となってしまう。このいじらしさ。素直さ。こっちはもう「はじめてのおつかい」見ているのとあんまり変わらないマインドで泣いている。成長って痛いし、不安だし、怖いよね。キキはもう、そんなことで腹を立てている自分のこともイヤ。だからスランプに陥ってしまう。それまで自然に出来ていたことが、ぎこちなくなる。
そんな彼女がウルスラとの対話の中で、これは誰にだってあることなのかも、と考えるキッカケを得る。今出来ること、出来ないことに対して、ちょっとだけ冷静になる。そんでお泊まり会の帰りにあのニシンパイのおばあちゃんちに寄って、ただ純粋なやさしさを受け取る。これは、やっぱりおばあちゃんの、孫娘に向けるような素朴な愛情ですよね。キキは大人になろうとしているけど、心のもう片っぽでは子供の自分を大人に慰めてもらいてぇわけよ。複雑だよな子供って。誰もが通ってきた道だと思うよ。子供でいたくないし、大人になりたいし、でも子供として自分が寄りかかれる大人が傍にいないとまだ怖いんだよ。ひとりで歩くには地球があまりにデカすぎるんで。
そして気持ちが少し上向いてきた時に、トンボの危機を知る。キキがおじさんからデッキブラシ借りて飛び立つシーン、あのデッキブラシはまさにキキの心そのものですよね。真っ直ぐ飛べよ!もっと高く飛べよ!しっかりしろよ!自分が自分に一番言いたい。自分への叱咤激励。出来るだろ、やるんだよ、お前、と。葛藤を一旦キャンセルして、キキは飛び立つ。助けたいから。トンボはこの街で出来た初めての友達だから。
魔女宅の好きなところ、子供の成長物語にありがちな「冒険」や「恋愛」をストーリーに盛り込んでいないところ。キキは魔法世界に行ったり異世界に飛んだりしないし、トンボのことも別に恋愛対象として見ていない。それはトンボも同じだ。住んでいる街と自分。友達と自分。全部が自分の0地点から徒歩圏内。そこが、本当に好きだ。
宮崎駿は確かに「女の子」が好きだと思う。でもそれはセクシャルな事柄から眼差されたものではなく、おそらく、人の成長においてもっとも伸び代のあるこの時代、まさにこの世代の人達の営為そのものに夢やロマンを感じているんだと思う。本当に(所謂、性的な含みを持たせた性的趣向者としての)ロリコンなら、「胸は平べったいのが至高!」とか言ってナウシカのことも貧乳に描いたでしょう。でもそうではない。少女はいずれ大人の女性になる。その過程には葛藤がある。達観もある。情熱的でありながら冷静で、無鉄砲でありながら思慮深い。少女性と母性を右と左の手にそれぞれ携えてどちらも手放さないというような時代が、彼の目にはとてもロマンチックに映るのかも知れないと思う。魔女宅のキキはこどもでありながら、ひとりの人間として主体的に描かれている。大人に振り回されるこどもでも、大人を振り回すこどもでもない。幼稚じゃないがこどもっぽく笑い、大人ではないが成熟した人間観を持ってもいる。多面的な人間の、その中でも特に「善性」というものを、宮崎駿は信じているような気がする。
「だから宮崎駿は、光のロリコンなんですよ」
ぐずぐず鼻を鳴らしながらスズキ先生にそう言うと、スズキ先生は「はじめて聞いたよそんなの」と言って笑った。確かにと思った。なぜなら光のロリコンなんてものは存在しないからだ。光のロリコンとは「パンのお米」みたいに矛盾した言葉だ。ロリコンはロリコンというだけで業を背負う。だから闇のロリコンという言葉も存在しない。闇のロリコンという言葉は、「トウモロコシポップコーン」みたいな重言だからだ。
宮崎駿はなんか、よく分からないけど、怖いくらい真っ直ぐに人を見ていると思う。そうでなければ、こんなふうに子供の世界を切り取ったり出来ないと思う。親たる人の愛、親ではないが子供を見守る人の愛、そのやわらかな誠実さ。魔女宅にはキキやトンボという魅力的なこども以外に、素晴らしい大人たちがたくさん出てくる。魔女宅は子供たちの感性の中で瑞々しく光る物語でありながら、私たち大人たちに向けてもしっかりと骨太なメッセージを伝えてくれる。
今まであまり気にしたこともなかったが、背景美術や音楽の素晴らしさにも胸を打たれた。引き合いに出して申し訳ないが、ディズニーだったらあらゆるシーンで扇情的で壮大なBGMを流していたと思う。海外のアニメスタジオがキキのデッキブラシ爆走シーンを作ったら、絵だけではなく音楽でも物語を語ろうとしただろう。キキが悩むたびにドラマチックなメロディが、彼女の心情を代弁しただろう。でもジブリはそうではなかった。音楽は常に彼女達のささやかな日常を彩るものでしかなかったし、空と風と山と海のためのメロディだった。さざ波を運ぶ風の代わりに、市場の賑やかさやパンの甘いかおりの代わりに、高い空の澄み渡った空気の代わりに、町と町との結び目のように横たわる森の静寂の代わりに、鳥たちの羽ばたきの代わりに、太陽や月の代わりに、そういうものの代わりに音楽が語っていた。ドラマチックな演出を畳み掛けなくてもいいんだ…みたいな発見があった。
まあとにかく、魔女宅は最高だ。こんな素敵な映画が1989年に公開されていたということに、今も新鮮にびっくりする。公開から35年以上たった今、大画面で魔女宅を観ることが出来て本当によかった。付き合ってくれたうに先生とスズキ先生、本当にありがとうございました‼️
地元の駅についたら成人男性が別れ話を拒んで地べたに座り込んでガキのように駄々をこねており、「逆魔女宅‼️」と思いました。畳む