ウン ポ
「大丈夫ですか?」と僕に問うたと思しき声を振り返り、その視線の先にまず巨大な乳……まさしく「乳房」と呼ぶべきボリュームがそこにはあったのだ……を認めたのち、更にその巨大な乳房の背後から実に緩慢な動きで姿を現したグッチのジャージを着た男が、もはや人を殺す覚悟があるとしか思えないような決意の眼差しと共に全身から剥き出しの暴力性を放出して、生まれてこの方「良心」とか「慈愛」みたいな一切の要素を排して生きてきましたとでも言うような、底冷えする、硬質な、光のない目で、この場で僕をブン殴る以外の選択肢など想像も出来ないといった、ほとばしるほどの「苛立ち」をもって僕を睨みつけている……と理解した時、僕は、ああ、きっと今日が僕の命日なんだろうなぁと思った。デカい乳とヤバい男を同時に視界に収めるという、何かが決定的にバグったその光景に、僕はある種の走馬灯……いわば、命の灯火の最後の奮起である……を感じ取り、かえって頭は冷静であった。
仮に野生のクマとうっかりマッチングしてしまうことが今後の人生においてあるとしても、こんなふうに「命」を達観することはないだろう。グッチのジャージ男性……ここでは便宜上、グッチくんと呼ぶことにする……が、巨大乳房男性……同じく便宜上、ここでは彼をおっぱいくんと呼ぶことにする……の肩を掴み、「おい」と声を放ったのと、僕が「すみませんでした!」と言い直角に腰を曲げて頭を下げたのはほぼ同時であった。僕が本能的に放った謝罪の言葉と90度のお辞儀は明確に『命乞い』を意味していたので、この場合における「すみませんでした」は「殺さないでください」とほぼ同義である。そう、僕は極めて冷静に自らの命の危機を分析し、「絶対こんなところで死にたくない」という圧倒的な決意の存在、生を肯定する心に改めて気付いたのだ。
僕は、物心ついた時から「なんとなく」で生きてきた人間だった。なんとなく以上の感慨が、ない。なんとなくの学業、なんとなくの就職、なんとなくの労働、なんとなくの人生。絶対的な強い意志で何かを成し遂げたことなどただの一度もなく、ただひたすらに怠惰であり、むしろ怠惰でありたいがためにひたむきなほど自堕落であり、自分のためにも他人のためにも努力出来ず、およそ生産性があると断言出来るような生き方などしたことがない。『なんとなく』の演繹で存在しているのが僕。経産省の統計から引用するなら、僕はれっきとした低所得者層に属する成人男性であり、趣味もなく、貯蓄もなく、具体的な将来設計もない、すなわち限りなく未来のない男なのだ。そんな僕の生活が今後、劇的に変わることなど恐らくないと思う。頭皮が後退し始めて、ろくすっぽ稼ぎもないのに飲酒量だけが増えていく年頃になったらいつ死んでもいい、何しろ原始時代の平均寿命は30代に届くか届かないかだったと言うし、江戸時代の平均寿命も50代といったところだから、時代が時代ならこんな僕とてまあ大往生で死ねるのである。夢も希望もなくこのまま惰性で老人になったところで、死に損ないがみっともなく金を食い潰すだけだなどと、単なる諦念と社会への甘えを「リアリスト」などという便利な言葉でコーティングして、本当のところなんの現実にも向き合っていない、そんな青二才の戯言をまるでお守りのように携えながら、僕はこんな歳にもなってなお冷笑のポーズを取ることで、辛うじて胸の底にこびりつくようにして残った自尊心を懸命に支えていたのだ。
それが今、完全になくなった。
僕は死にたくなかった。実際には、そんな覚悟など微塵もなかった。絶対に暴力を躊躇わない男を前にして、僕は本能的に生きるための知恵を絞り出そうとしていた。科学的な根拠の所在は不明だが、昆虫も死を予感すると賢くなるらしい。僕は僕の中に、懸命にクレバーな虫を探し出そうとする。
おっぱいくんは、どちらに対して先に返事をするべきか一瞬迷った様子だったが、グッチくんの手を慣れた様子で肩からはたき落とすと、僕に「何がっすか?」と訊いた。僕はおっぱいくんとグッチくんを交互に見やって、「ええと」とか「ええと」とか、主に「ええと」とか言ってしどろもどろになり、どう見ても自分より年下の二人組に対してこんなにビビることってあるだろうか? と自分の情けなさにむしろ途方もない動揺を感じながらも、彼らに何を説明すべきか、あるいはどういった説明を彼らに求めるべきだろうかと考えた。しかし何も分からなかったし思いつかなかった。突然剥き出しの殺意を浴びると、人間の体には以下のような変化が起こるということをただ知るばかり。まず大脳皮質がやる気を無くす。完全に自らに与えられた職務を放棄する。永遠に消えない読み込み中のアイコン。突然のシャットダウン。勝手に繰り返される再起動。完全なるブルースクリーン。要するに、思考して話すということが一切出来なくなるのである。
どうしてこんなことになったんだ。僕は確かに堕落の権化みたいな男ではあるが、でもその堕落が市民的自由や市民的生活の範疇から零れたことなどないはずではないか。財産らしきものなど何も持っていないが、そんな僕でも犯罪とは縁遠い生き方をしてきた。罪を犯してまで築きたい財などないからだ。そんな健気な一面を持つ僕のような小市民に、これは一体なんの罰なんだ。
順を追って整理してみよう。
まず僕は今日、財布を落とした。おそらくスーパーのレジから出入口の自動ドアをくぐる間のどこかでだ。日用品の会計をつつがなく済ませて、車に戻り、僕は一度家に帰った。帰宅してポケットの中身を改めたところ、財布がなかった。慌ててスーパーまで舞い戻り、店員さんに落し物がなかったかを尋ねたのだが、生憎そういったものは届いていないと言われる。全身の血の気が引くが、とりあえず自分が使用したサッカー台から出入口まで記憶を辿りながら歩いてみる。ない。財布の中身は確か八千円とちょっと。それから各種カード類。自分でも、自分の顔が完全にシャウアプフのオーラにあてられて髪の毛が抜け落ちたあとのノヴみたいになっていることがよく分かる。こころが折れてしまった。
茫然自失としながら一度車に戻り、ええと、まずはカードを止めるんだっけ? と考えつつも、いやもう一度店内をくまなく探すか、いやいや先に各所に電話だろう、いやいや警察への届出だろうと、その場を行ったり来たり、立ったりしゃがんだりをやっていた時に……
話は冒頭に戻るのだ。
僕の脳からは一気に酸素が失われ、目の前が白黒しはじめ、生命維持に関わるあらゆる内臓がパニックを起こしかけていた。超がつくほどの混乱の濁流が僕の正常な判断能力を確実な殺傷力でボコしはじめる。このままだと、死、待ったなし。死なないために(あるいは殺されないために)言うべき言葉や取るべき態度が分からなかったのだが、普通の人は「死なないためにはコレ言わなきゃ!」みたいな覚悟を持って他人と会話することなどまずないだろうから、いくら脳内検索エンジンで「殺されない 言葉 態度」でサーチをかけても、思ったような検索結果にはたどり着けない。よくよく考えたら、それは至極当たり前のことだ。ただ、僕は今この現場で命に対するはっきりと輪郭を伴った「危機」を肌で感じている。だからとにかく何かを喋らないといけない。僕こそがこの人類における無害の象徴、逆サタン、逆リヴァイアサン、逆仁義なき戦い、人間よりも、はるかに羊に近い生き物であることを証明せねばならない。
おっぱいくんは僕のその様子を見て何かを察したらしく、「コイツ顔怖いけど大丈夫すよ!」と言って、隣のグッチくんを指をさしながら微笑んだ。ウソだ、と僕は思った。なぜならおっぱいくんの隣に立ったグッチくんの顔は先ほどより明らかに険悪であり、『撲殺専門家』の肩書がその表情いっぱいに殴り書きされていたからだ。僕の人生がもし映画化されることがあったら、タイトルは『ただ財布を落としただけなのに』になるだろう。
「困りごとっすか?」とおっぱいくんは僕の恐怖心に構うことなく、更に続けた。僕は唾をのみ込みながら「はい」と答えた。ここでうっかりおっぱいくんのおっぱいさんを見たら、その次の瞬間に見るものはお空か地面とかになりそうだったから、視線はグッチくんの足元あたりに固定した。「どうしたんすか?」とおっぱいくん。「さ、財布を落としました」と僕。
「あ、やっぱり!」
急におっぱいくんが大きな声を出し、僕の視界に入ってきた。おっぱいくんのまんまるの瞳が僕を正面から照射したので、僕は思わず「わっ…」と言って(本当に予想外の行動をとられたので、僕から若干かわいい感じの声が出た)思わず後ずさりをしてしまった。いい歳のおっさんが若い男の子に顔を覗き込まれて「わっ…」(きもち、カワイイ声)とか言いながら後退するの、客観的に評価した時ほんと普通にキツイからもう人間辞めたかった。
「これっすよね? さっきそこで拾ったんすけど…」
おっぱいくんの軽快でフランクな態度は、逆に僕を委縮させた。彼は、僕のような日陰の人間とは生きている世界がまるっきり違ういきものだ。僕がダンゴムシなら彼はタンポポでマーガレットでヒマワリだ。そんな子が、嫌味のないまっさらな笑顔で僕に「これ!」と言って、買った当時は綺麗な栗色だったのに使い込むうちに皮が剥げて今は避難指示が発令されている時の川みたいな色に変わってしまった僕の財布を差し出した。間違いない。僕の財布だ。
「あ、ありがとう…!」
僕はお礼を言いながら泣きそうになった。なんということだ。僕は彼らを見て勝手に殺人実績がありそうとかおっぱいがデカくてもはや乳房とか言って、こんなコンビは絶対に僕のことをしこたま殴るに違いないと、そんなとんでもない偏見で彼らの人間性を歪めて見ていたのに、彼らはただただ良い人だったのだ。どこに落としたのか見当もつかず、困り果てていた僕を救ってくれた。これでようやく安心して帰れる。『手続き』と名のつくものがすべからく大嫌いな僕が、その中でも特に避けたい『解約手続き』とか『再発行手続き』とかいうものを、一切やらずに済む。よかったぁ~! と思ってふとおっぱいくんのおっぱいさんを見ると(間違ってもわざと見たわけではない)おっぱいくんの輝きを掻き消すような黒々としたオーラが、僕の視線をおっぱいくんのおっぱいさんから引き剥がした。グッチくんだ。グッチくんがキレているんだ。キレられる理由が本当になんにも思いつかないけど、僕はさっきから絶対グッチくんに命を狙われている。そういえばそうだった。思い出した。
僕は間合いを確かめるつもりで一瞬グッチくんを見た。グッチくんはやはり僕を睨んでいた。しかもさっきよりだいぶ激しく睨んでいた。どうして。僕は絶望する。せっかく財布が見つかったのに。
見た感じは自分よりはるかに若人だが、グッチくんから放たれるオーラは若者のそれではない。僕よりはるかに濃厚で重厚な人生を送ってきていることが、その獣のような目つきから伺える。確実に今までに何人か屠っている。間違いない。絶対人間を物理的に埋めてる。弱者おじさんには強者のニオイ分かる。グッチくんは強者……つまり、本物のアレだ。あの……反……ナントカだ。絶対、そうだ。
もしかして、これは計画的な『カツアゲ』なのではないか?
僕の脳裏にふと過ぎる新たな不安。このシチュエーションには、なんともイヤな説得力がある。もしかしてこれは、彼らの計画的犯行? マッチポンプ脅迫? このあと僕はひとけのない駐車場の奥とかに連れていかれて、「拾ってあげたんだから、アンタが俺たちにお礼するのは当然だよね?」と手垢まみれの常套句をナイフ代わりに喉元にあてがわれ、震える手で開いた財布から「まあこんなもんでいいよ」と全財産の99%である八千円を引っこ抜かれて、これで僕は用無しで放免! かと思いきや、「まだまだ出せるもんあるでしょ?」などと狡猾な笑みを浮かべた男ふたりは僕のカードを奪っていき……
しかし、グッチくんが反ナントカであるならば、隣にいるこのおっぱいくんは一体なんであろう。まさか彼も反ナントカの構成員なのだろうか。いかにも人の良さそうな笑みで油断させて、ケツにスタンガンとか押し当ててくるんだろうか。僕みたいなのをカモにして、最終的にはケツの毛一本さえ残さぬ勢いでむしり取るつもりなんだろうか。そうであるなら、僕はもうこの世界において信じるに値するものなど何ひとつないと断言出来る。こんないかにも人の良さそうな青年が、おっぱいが大きく笑顔の素敵な青年が、人のケツに躊躇いなく5万ボルトの電圧を流し込める子だったとしたら、もうこの世にはきっと真の善性など存在しえず、天上の神さえ地獄の手下と成り果てる。
しかし、そんなわけはない。なぜだかは分からないが、僕はおっぱいくんが決して悪い人ではないということを、今際の際にだけIQが上がるという昆虫さながらの本能的な直感で見抜いていた。僕には不思議と分かるのだ。彼は、僕のような弱い立場の人間にも、決して冷たい態度をとらない男なのだと。それだけは確かなことに思えた。何もかもが疑わしく感じるほどイカれた状況におかれていても、おっぱいくんのことだけは信じたかった。
おっぱいくんは目ん玉のやたら大きな子だった。多分僕の二倍はあった。大きく盛り上がっているのは胸ばかりではなく上腕もそうだった。顔は体に対して小さくて、ちょっとでかめに握ったおにぎりくらいに思えたが、弾けんばかりの肉体に対して相対的に小さく感じただけかも知れない。ピンク色の髪が目に眩しいほど明るく、太い平行の眉が凛々しい印象である。全身、僕とは明らかに生きている世界が違うといった風情だ。何より、タイトなシャツにボディラインがはっきり浮き上がった性の大盤振る舞いみたいな恰好をしていても、その大ぶりな胸には一切の躊躇い、憂い、そういった悲観を引き起こすようなものはただの一つとしてなく、そこにはむしろ快活な清涼感といやらしさのない生命力が満ちている。僕は彼の体を見て、率直に美しい生き物だなと感じた。そこにやましさはない。純然たる青春のまばゆさに、むしろ感銘を受けての感想だ。
でも、おっぱいがデカいというのは、それはそれとして凄いのだ。おっぱいくんのおっぱいは、なんかもう「乳房」だった。シャツが胸を圧迫しているのではなく胸の肉のほうがシャツの限界を塗り替えているな、という印象さえ受けるほど、その佇まいは堂々たるものだった。男なら、間違いなく誰しもがこの胸に視線を縫い付けられる。普段、俺は貧乳しか抱かない! 胸の厚みなんかベニア板でいい! と声高に主張するヤツだって、いざこのおっぱいを前にしたら絶対にチンパンジーになる。それが人間のサガというものだ。仕方がないことだ。僕だって普段は巨乳にそこまで興味ない。ましてや男の乳になど。
しかし、そういった僕の好奇の視線が今、僕の寿命にじかに影響を及ぼそうとしている。おっぱいくんの隣に並び立って、グッチくんが僕を睥睨している。すさまじい殺気を放っている。その時僕はハッとした。なぜそこに思い至らなかったのかと自分自身の無垢さとアホさと鈍感さに驚いた。多分グッチくんは、人がそういう目でおっぱいくんを見るのが耐えられないのだ。僕をカツアゲ対象と見ているわけではないのだ。
いや、僕が彼に下心なんか抱くわけないだろ! こんな見てくれだってなぁ、オトコとしての誇りは忘れてねぇんだよ! という、グッチくんの完全な言いがかりに対して猛烈に腹を立てる侍の気持ちと、へへ…さーせん…あっしが悪かったでやんす…二度と見ませんから許してつかぁさい…と、こっちには一切非のない理不尽極まりない暴力にただ巻き込まれているだけにも関わらず、相手が腰にぶら下げる刀の方がただ恐ろしくて、頭を大地に擦り付け許しを乞う根っからの雑魚百姓の気質が、自分の中で喧嘩している。と同時にこうも思う。やはり高級ブランドのジャージを好んで着るような男にロクなやつは居ない。これからきっと僕は、ただグッチくんのお友達のおっぱい見たっていう理由でしこたま殴られて山中に遺棄されるんだ。死因、グッチくんのお友達のおっぱい。なにそれ。
だが、僕が最悪な未来予想図を描いていたところ、
「じゃ、いこ!」
そう言うと、おっぱいくんはグッチくんの腕にしっかり自分の腕を絡ませて、もう帰ろう、と合図するようにグッチくんの腕を引っ張った。
グッチくんの眉間に刻まれていた、人間の皮膚と筋肉の限界に挑んだとしか思えない量の皺が一瞬にして消える。
「……気をつけたほうがいいですよ」
きびすを返すついでに放たれたグッチくんの声は想像通り低く、こっちの肌がピリつくほどザラついた苛立ちを孕んでいた。気をつけたほうがいいって何…? 夜道に…? 震える僕に、「もう財布落とさないように」とグッチくんが言う。
「あ…はい…、ありがとう…」
僕は、おじさんらしくしおらしい態度で二人が歩いていくのを見送った。本当に財布拾ってくれてありがとう! という気持ちと、本当に二度と会いたくないという気持ちが交差している。こんなにも形容しがたい気持ちになったのは初めてだ。緊張の糸が解けた途端に脱力してしまって、そのまま僕は、ただなんとなく、二人の歩いていく後ろ姿をぼーっと眺めていた。「だから、先に店に届けて、『届けましたよ』って伝えるだけで充分だろうが」というグッチくんの声。「でも財布だよ? 落とした人、不安ハンパないでしょ。10分くらい様子見てたってよくねぇ?」というおっぱいくんの声。「だからってなぁ」グッチくんの声。「いいじゃん、結果としては……」というおっぱいくんの声。どんどん遠ざかっていく囁きのような言い争い。僕はすべてに納得し、感謝する。ありがとう、心清き青年たち。
そして、思っていたよりも近くに停車していたグッチくんとおっぱいくんの車をこの視界に認めた時、僕はさっきまでの生きたい気持ちがウソのように死にたくなった。
(アルピナ……グランクーペ……!?)
グッチくんとおっぱいくんが乗り込んだのは、端的に言うとクソ高い車である。中古物件くらいする。何をどうしたらあの若さでアルピナなんかに乗れるんだよ。しかもエンブレム純正かよ!? おかしいだろ。あまりの驚きに手が震えてきた。
そして僕は確信する。
(グッチくんは本物の反ナントカだ。絶対)
ガチの反ナントカさんに会っちゃって死ななくてよかったと思う気持ちと、あの若さであんな高い車に乗ってあんなおっぱいでっけぇ友達連れてあんなイカついジャージ着てる人間がなんでこんなとこに居るんだという衝撃でめちゃめちゃ死にたくなった。僕の愛車はタントだ。最高にかわいい自慢の相棒だ。そんな相棒に対して、にわかに言い訳がましい気持ちが沸き起こってくる。違うんだ、お前が恥ずかしいんじゃない、あんな高級車をあの若さで乗り回す若者が僕は怖いんだ、そんな怖い若者の前で僕がタントに乗り込む、その時に発生する『文脈』ってやつが、ただ僕のプライドを傷つけるのさ……
ふと見やったガラス越しに、車の中でキスしているグッチくんとおっぱいくんが見えた。
なるほど。すべてに合点がいった。
つまりそういうことだったんだな。
死のうかな。
僕は車の天井を見上げて思った。
あの二人、家帰ったらすげーセックスするんだろうな。僕が一生経験することない体位とかで。
しつっこいキスとかするんでしょうね。
そりゃね。あんな車乗ってる男にね。お似合いですよね。あんなおっぱいデカくてね。彼ら、なんか完璧なピースがハマりあったって感じだもんね。
まあ、知らんけどね。
僕はその日の夜、すごい夢を見た。
巨大なおっぱいが回転しながら僕の頭を殴ってこようとして、僕はその巨大なおっぱいからひたすら逃げている。あわや巨大おっぱいの『おっパンチ』が僕の頭上をかすめ、思わずしゃがみ込んだ僕に、どこからともなく現れたグッチのジャージがこう語りかけてくる。
「小さい胸でも張れば多少はデカく見えるぞ」
背ェ伸ばして歩けよ。じゃないとお前、ずっとナメられっぱなしの人生だぞ。
まさかのジャージからの説教である。
回転するおっぱいが弧を描いてまた僕の方へ飛んでくる。僕は直感的に、これを受け止められなきゃもう二度と男として立ち上がれないんだと悟る。
胸を張れよ。
グッチのジャージが言う。
黙れよ、このポリエステル野郎。
僕は思う。
それから覚悟を決める。繊維風情に煽られてしまったからには。黙れと思ってしまったからには。
僕は夢の中で、思い切りおっぱいに殴られた。ものすごくデカいおっぱいに。僕は顔面で巨大なおっぱいを受け止めながら、ここで倒れてなるものかと踏ん張る。形ばかりがおっぱいで、感触がほぼゴムボールのような嘘のおっぱい。あまりにもおっぱいに縁遠い人生を送っているせいで、本物の感触なんて忘れてしまったんだ。
起きた時、僕はいつぶりか分からないくらい大きな声で笑った。
僕の人生が、こんなバカバカしい夢のために劇的に変わるなんてことは絶対にない。僕は相変わらず底辺のギリギリ手前を這いずり、時々天を見上げてはうんざりした気持ちになるだろう。届かないのに星ってやつは……。平凡な人生ですら、海を舐めるよりしょっぱいんだってことを、僕は渋々だけど認めなきゃいけない。新しい挑戦は何歳からでもいいとか、無責任な外野の声も時々は正しいわけだが、やる気を出すには毎日の労働ってやつがとにかく億劫だし、重い腰を上げたくても、リアルな腰痛が切実な声で「無理だけはしてくれるな」と年相応のもっともな訴えを寄越す。
だけど、だけどだ。たったひとつのささやかな習慣を作るくらいなら、まな板より脆い胸板を張って歩くよりずっと簡単なことのように思える。胃痛とも腰痛とも関係ない、本当に小さな日々の積み重ね。
僕は昨日二人に拾ってもらったあの財布を開く。中に入っている八千円から一枚を抜く。まずは月々千円から、貯金のひとつでも始めてみようじゃないか。
仮に野生のクマとうっかりマッチングしてしまうことが今後の人生においてあるとしても、こんなふうに「命」を達観することはないだろう。グッチのジャージ男性……ここでは便宜上、グッチくんと呼ぶことにする……が、巨大乳房男性……同じく便宜上、ここでは彼をおっぱいくんと呼ぶことにする……の肩を掴み、「おい」と声を放ったのと、僕が「すみませんでした!」と言い直角に腰を曲げて頭を下げたのはほぼ同時であった。僕が本能的に放った謝罪の言葉と90度のお辞儀は明確に『命乞い』を意味していたので、この場合における「すみませんでした」は「殺さないでください」とほぼ同義である。そう、僕は極めて冷静に自らの命の危機を分析し、「絶対こんなところで死にたくない」という圧倒的な決意の存在、生を肯定する心に改めて気付いたのだ。
僕は、物心ついた時から「なんとなく」で生きてきた人間だった。なんとなく以上の感慨が、ない。なんとなくの学業、なんとなくの就職、なんとなくの労働、なんとなくの人生。絶対的な強い意志で何かを成し遂げたことなどただの一度もなく、ただひたすらに怠惰であり、むしろ怠惰でありたいがためにひたむきなほど自堕落であり、自分のためにも他人のためにも努力出来ず、およそ生産性があると断言出来るような生き方などしたことがない。『なんとなく』の演繹で存在しているのが僕。経産省の統計から引用するなら、僕はれっきとした低所得者層に属する成人男性であり、趣味もなく、貯蓄もなく、具体的な将来設計もない、すなわち限りなく未来のない男なのだ。そんな僕の生活が今後、劇的に変わることなど恐らくないと思う。頭皮が後退し始めて、ろくすっぽ稼ぎもないのに飲酒量だけが増えていく年頃になったらいつ死んでもいい、何しろ原始時代の平均寿命は30代に届くか届かないかだったと言うし、江戸時代の平均寿命も50代といったところだから、時代が時代ならこんな僕とてまあ大往生で死ねるのである。夢も希望もなくこのまま惰性で老人になったところで、死に損ないがみっともなく金を食い潰すだけだなどと、単なる諦念と社会への甘えを「リアリスト」などという便利な言葉でコーティングして、本当のところなんの現実にも向き合っていない、そんな青二才の戯言をまるでお守りのように携えながら、僕はこんな歳にもなってなお冷笑のポーズを取ることで、辛うじて胸の底にこびりつくようにして残った自尊心を懸命に支えていたのだ。
それが今、完全になくなった。
僕は死にたくなかった。実際には、そんな覚悟など微塵もなかった。絶対に暴力を躊躇わない男を前にして、僕は本能的に生きるための知恵を絞り出そうとしていた。科学的な根拠の所在は不明だが、昆虫も死を予感すると賢くなるらしい。僕は僕の中に、懸命にクレバーな虫を探し出そうとする。
おっぱいくんは、どちらに対して先に返事をするべきか一瞬迷った様子だったが、グッチくんの手を慣れた様子で肩からはたき落とすと、僕に「何がっすか?」と訊いた。僕はおっぱいくんとグッチくんを交互に見やって、「ええと」とか「ええと」とか、主に「ええと」とか言ってしどろもどろになり、どう見ても自分より年下の二人組に対してこんなにビビることってあるだろうか? と自分の情けなさにむしろ途方もない動揺を感じながらも、彼らに何を説明すべきか、あるいはどういった説明を彼らに求めるべきだろうかと考えた。しかし何も分からなかったし思いつかなかった。突然剥き出しの殺意を浴びると、人間の体には以下のような変化が起こるということをただ知るばかり。まず大脳皮質がやる気を無くす。完全に自らに与えられた職務を放棄する。永遠に消えない読み込み中のアイコン。突然のシャットダウン。勝手に繰り返される再起動。完全なるブルースクリーン。要するに、思考して話すということが一切出来なくなるのである。
どうしてこんなことになったんだ。僕は確かに堕落の権化みたいな男ではあるが、でもその堕落が市民的自由や市民的生活の範疇から零れたことなどないはずではないか。財産らしきものなど何も持っていないが、そんな僕でも犯罪とは縁遠い生き方をしてきた。罪を犯してまで築きたい財などないからだ。そんな健気な一面を持つ僕のような小市民に、これは一体なんの罰なんだ。
順を追って整理してみよう。
まず僕は今日、財布を落とした。おそらくスーパーのレジから出入口の自動ドアをくぐる間のどこかでだ。日用品の会計をつつがなく済ませて、車に戻り、僕は一度家に帰った。帰宅してポケットの中身を改めたところ、財布がなかった。慌ててスーパーまで舞い戻り、店員さんに落し物がなかったかを尋ねたのだが、生憎そういったものは届いていないと言われる。全身の血の気が引くが、とりあえず自分が使用したサッカー台から出入口まで記憶を辿りながら歩いてみる。ない。財布の中身は確か八千円とちょっと。それから各種カード類。自分でも、自分の顔が完全にシャウアプフのオーラにあてられて髪の毛が抜け落ちたあとのノヴみたいになっていることがよく分かる。こころが折れてしまった。
茫然自失としながら一度車に戻り、ええと、まずはカードを止めるんだっけ? と考えつつも、いやもう一度店内をくまなく探すか、いやいや先に各所に電話だろう、いやいや警察への届出だろうと、その場を行ったり来たり、立ったりしゃがんだりをやっていた時に……
話は冒頭に戻るのだ。
僕の脳からは一気に酸素が失われ、目の前が白黒しはじめ、生命維持に関わるあらゆる内臓がパニックを起こしかけていた。超がつくほどの混乱の濁流が僕の正常な判断能力を確実な殺傷力でボコしはじめる。このままだと、死、待ったなし。死なないために(あるいは殺されないために)言うべき言葉や取るべき態度が分からなかったのだが、普通の人は「死なないためにはコレ言わなきゃ!」みたいな覚悟を持って他人と会話することなどまずないだろうから、いくら脳内検索エンジンで「殺されない 言葉 態度」でサーチをかけても、思ったような検索結果にはたどり着けない。よくよく考えたら、それは至極当たり前のことだ。ただ、僕は今この現場で命に対するはっきりと輪郭を伴った「危機」を肌で感じている。だからとにかく何かを喋らないといけない。僕こそがこの人類における無害の象徴、逆サタン、逆リヴァイアサン、逆仁義なき戦い、人間よりも、はるかに羊に近い生き物であることを証明せねばならない。
おっぱいくんは僕のその様子を見て何かを察したらしく、「コイツ顔怖いけど大丈夫すよ!」と言って、隣のグッチくんを指をさしながら微笑んだ。ウソだ、と僕は思った。なぜならおっぱいくんの隣に立ったグッチくんの顔は先ほどより明らかに険悪であり、『撲殺専門家』の肩書がその表情いっぱいに殴り書きされていたからだ。僕の人生がもし映画化されることがあったら、タイトルは『ただ財布を落としただけなのに』になるだろう。
「困りごとっすか?」とおっぱいくんは僕の恐怖心に構うことなく、更に続けた。僕は唾をのみ込みながら「はい」と答えた。ここでうっかりおっぱいくんのおっぱいさんを見たら、その次の瞬間に見るものはお空か地面とかになりそうだったから、視線はグッチくんの足元あたりに固定した。「どうしたんすか?」とおっぱいくん。「さ、財布を落としました」と僕。
「あ、やっぱり!」
急におっぱいくんが大きな声を出し、僕の視界に入ってきた。おっぱいくんのまんまるの瞳が僕を正面から照射したので、僕は思わず「わっ…」と言って(本当に予想外の行動をとられたので、僕から若干かわいい感じの声が出た)思わず後ずさりをしてしまった。いい歳のおっさんが若い男の子に顔を覗き込まれて「わっ…」(きもち、カワイイ声)とか言いながら後退するの、客観的に評価した時ほんと普通にキツイからもう人間辞めたかった。
「これっすよね? さっきそこで拾ったんすけど…」
おっぱいくんの軽快でフランクな態度は、逆に僕を委縮させた。彼は、僕のような日陰の人間とは生きている世界がまるっきり違ういきものだ。僕がダンゴムシなら彼はタンポポでマーガレットでヒマワリだ。そんな子が、嫌味のないまっさらな笑顔で僕に「これ!」と言って、買った当時は綺麗な栗色だったのに使い込むうちに皮が剥げて今は避難指示が発令されている時の川みたいな色に変わってしまった僕の財布を差し出した。間違いない。僕の財布だ。
「あ、ありがとう…!」
僕はお礼を言いながら泣きそうになった。なんということだ。僕は彼らを見て勝手に殺人実績がありそうとかおっぱいがデカくてもはや乳房とか言って、こんなコンビは絶対に僕のことをしこたま殴るに違いないと、そんなとんでもない偏見で彼らの人間性を歪めて見ていたのに、彼らはただただ良い人だったのだ。どこに落としたのか見当もつかず、困り果てていた僕を救ってくれた。これでようやく安心して帰れる。『手続き』と名のつくものがすべからく大嫌いな僕が、その中でも特に避けたい『解約手続き』とか『再発行手続き』とかいうものを、一切やらずに済む。よかったぁ~! と思ってふとおっぱいくんのおっぱいさんを見ると(間違ってもわざと見たわけではない)おっぱいくんの輝きを掻き消すような黒々としたオーラが、僕の視線をおっぱいくんのおっぱいさんから引き剥がした。グッチくんだ。グッチくんがキレているんだ。キレられる理由が本当になんにも思いつかないけど、僕はさっきから絶対グッチくんに命を狙われている。そういえばそうだった。思い出した。
僕は間合いを確かめるつもりで一瞬グッチくんを見た。グッチくんはやはり僕を睨んでいた。しかもさっきよりだいぶ激しく睨んでいた。どうして。僕は絶望する。せっかく財布が見つかったのに。
見た感じは自分よりはるかに若人だが、グッチくんから放たれるオーラは若者のそれではない。僕よりはるかに濃厚で重厚な人生を送ってきていることが、その獣のような目つきから伺える。確実に今までに何人か屠っている。間違いない。絶対人間を物理的に埋めてる。弱者おじさんには強者のニオイ分かる。グッチくんは強者……つまり、本物のアレだ。あの……反……ナントカだ。絶対、そうだ。
もしかして、これは計画的な『カツアゲ』なのではないか?
僕の脳裏にふと過ぎる新たな不安。このシチュエーションには、なんともイヤな説得力がある。もしかしてこれは、彼らの計画的犯行? マッチポンプ脅迫? このあと僕はひとけのない駐車場の奥とかに連れていかれて、「拾ってあげたんだから、アンタが俺たちにお礼するのは当然だよね?」と手垢まみれの常套句をナイフ代わりに喉元にあてがわれ、震える手で開いた財布から「まあこんなもんでいいよ」と全財産の99%である八千円を引っこ抜かれて、これで僕は用無しで放免! かと思いきや、「まだまだ出せるもんあるでしょ?」などと狡猾な笑みを浮かべた男ふたりは僕のカードを奪っていき……
しかし、グッチくんが反ナントカであるならば、隣にいるこのおっぱいくんは一体なんであろう。まさか彼も反ナントカの構成員なのだろうか。いかにも人の良さそうな笑みで油断させて、ケツにスタンガンとか押し当ててくるんだろうか。僕みたいなのをカモにして、最終的にはケツの毛一本さえ残さぬ勢いでむしり取るつもりなんだろうか。そうであるなら、僕はもうこの世界において信じるに値するものなど何ひとつないと断言出来る。こんないかにも人の良さそうな青年が、おっぱいが大きく笑顔の素敵な青年が、人のケツに躊躇いなく5万ボルトの電圧を流し込める子だったとしたら、もうこの世にはきっと真の善性など存在しえず、天上の神さえ地獄の手下と成り果てる。
しかし、そんなわけはない。なぜだかは分からないが、僕はおっぱいくんが決して悪い人ではないということを、今際の際にだけIQが上がるという昆虫さながらの本能的な直感で見抜いていた。僕には不思議と分かるのだ。彼は、僕のような弱い立場の人間にも、決して冷たい態度をとらない男なのだと。それだけは確かなことに思えた。何もかもが疑わしく感じるほどイカれた状況におかれていても、おっぱいくんのことだけは信じたかった。
おっぱいくんは目ん玉のやたら大きな子だった。多分僕の二倍はあった。大きく盛り上がっているのは胸ばかりではなく上腕もそうだった。顔は体に対して小さくて、ちょっとでかめに握ったおにぎりくらいに思えたが、弾けんばかりの肉体に対して相対的に小さく感じただけかも知れない。ピンク色の髪が目に眩しいほど明るく、太い平行の眉が凛々しい印象である。全身、僕とは明らかに生きている世界が違うといった風情だ。何より、タイトなシャツにボディラインがはっきり浮き上がった性の大盤振る舞いみたいな恰好をしていても、その大ぶりな胸には一切の躊躇い、憂い、そういった悲観を引き起こすようなものはただの一つとしてなく、そこにはむしろ快活な清涼感といやらしさのない生命力が満ちている。僕は彼の体を見て、率直に美しい生き物だなと感じた。そこにやましさはない。純然たる青春のまばゆさに、むしろ感銘を受けての感想だ。
でも、おっぱいがデカいというのは、それはそれとして凄いのだ。おっぱいくんのおっぱいは、なんかもう「乳房」だった。シャツが胸を圧迫しているのではなく胸の肉のほうがシャツの限界を塗り替えているな、という印象さえ受けるほど、その佇まいは堂々たるものだった。男なら、間違いなく誰しもがこの胸に視線を縫い付けられる。普段、俺は貧乳しか抱かない! 胸の厚みなんかベニア板でいい! と声高に主張するヤツだって、いざこのおっぱいを前にしたら絶対にチンパンジーになる。それが人間のサガというものだ。仕方がないことだ。僕だって普段は巨乳にそこまで興味ない。ましてや男の乳になど。
しかし、そういった僕の好奇の視線が今、僕の寿命にじかに影響を及ぼそうとしている。おっぱいくんの隣に並び立って、グッチくんが僕を睥睨している。すさまじい殺気を放っている。その時僕はハッとした。なぜそこに思い至らなかったのかと自分自身の無垢さとアホさと鈍感さに驚いた。多分グッチくんは、人がそういう目でおっぱいくんを見るのが耐えられないのだ。僕をカツアゲ対象と見ているわけではないのだ。
いや、僕が彼に下心なんか抱くわけないだろ! こんな見てくれだってなぁ、オトコとしての誇りは忘れてねぇんだよ! という、グッチくんの完全な言いがかりに対して猛烈に腹を立てる侍の気持ちと、へへ…さーせん…あっしが悪かったでやんす…二度と見ませんから許してつかぁさい…と、こっちには一切非のない理不尽極まりない暴力にただ巻き込まれているだけにも関わらず、相手が腰にぶら下げる刀の方がただ恐ろしくて、頭を大地に擦り付け許しを乞う根っからの雑魚百姓の気質が、自分の中で喧嘩している。と同時にこうも思う。やはり高級ブランドのジャージを好んで着るような男にロクなやつは居ない。これからきっと僕は、ただグッチくんのお友達のおっぱい見たっていう理由でしこたま殴られて山中に遺棄されるんだ。死因、グッチくんのお友達のおっぱい。なにそれ。
だが、僕が最悪な未来予想図を描いていたところ、
「じゃ、いこ!」
そう言うと、おっぱいくんはグッチくんの腕にしっかり自分の腕を絡ませて、もう帰ろう、と合図するようにグッチくんの腕を引っ張った。
グッチくんの眉間に刻まれていた、人間の皮膚と筋肉の限界に挑んだとしか思えない量の皺が一瞬にして消える。
「……気をつけたほうがいいですよ」
きびすを返すついでに放たれたグッチくんの声は想像通り低く、こっちの肌がピリつくほどザラついた苛立ちを孕んでいた。気をつけたほうがいいって何…? 夜道に…? 震える僕に、「もう財布落とさないように」とグッチくんが言う。
「あ…はい…、ありがとう…」
僕は、おじさんらしくしおらしい態度で二人が歩いていくのを見送った。本当に財布拾ってくれてありがとう! という気持ちと、本当に二度と会いたくないという気持ちが交差している。こんなにも形容しがたい気持ちになったのは初めてだ。緊張の糸が解けた途端に脱力してしまって、そのまま僕は、ただなんとなく、二人の歩いていく後ろ姿をぼーっと眺めていた。「だから、先に店に届けて、『届けましたよ』って伝えるだけで充分だろうが」というグッチくんの声。「でも財布だよ? 落とした人、不安ハンパないでしょ。10分くらい様子見てたってよくねぇ?」というおっぱいくんの声。「だからってなぁ」グッチくんの声。「いいじゃん、結果としては……」というおっぱいくんの声。どんどん遠ざかっていく囁きのような言い争い。僕はすべてに納得し、感謝する。ありがとう、心清き青年たち。
そして、思っていたよりも近くに停車していたグッチくんとおっぱいくんの車をこの視界に認めた時、僕はさっきまでの生きたい気持ちがウソのように死にたくなった。
(アルピナ……グランクーペ……!?)
グッチくんとおっぱいくんが乗り込んだのは、端的に言うとクソ高い車である。中古物件くらいする。何をどうしたらあの若さでアルピナなんかに乗れるんだよ。しかもエンブレム純正かよ!? おかしいだろ。あまりの驚きに手が震えてきた。
そして僕は確信する。
(グッチくんは本物の反ナントカだ。絶対)
ガチの反ナントカさんに会っちゃって死ななくてよかったと思う気持ちと、あの若さであんな高い車に乗ってあんなおっぱいでっけぇ友達連れてあんなイカついジャージ着てる人間がなんでこんなとこに居るんだという衝撃でめちゃめちゃ死にたくなった。僕の愛車はタントだ。最高にかわいい自慢の相棒だ。そんな相棒に対して、にわかに言い訳がましい気持ちが沸き起こってくる。違うんだ、お前が恥ずかしいんじゃない、あんな高級車をあの若さで乗り回す若者が僕は怖いんだ、そんな怖い若者の前で僕がタントに乗り込む、その時に発生する『文脈』ってやつが、ただ僕のプライドを傷つけるのさ……
ふと見やったガラス越しに、車の中でキスしているグッチくんとおっぱいくんが見えた。
なるほど。すべてに合点がいった。
つまりそういうことだったんだな。
死のうかな。
僕は車の天井を見上げて思った。
あの二人、家帰ったらすげーセックスするんだろうな。僕が一生経験することない体位とかで。
しつっこいキスとかするんでしょうね。
そりゃね。あんな車乗ってる男にね。お似合いですよね。あんなおっぱいデカくてね。彼ら、なんか完璧なピースがハマりあったって感じだもんね。
まあ、知らんけどね。
僕はその日の夜、すごい夢を見た。
巨大なおっぱいが回転しながら僕の頭を殴ってこようとして、僕はその巨大なおっぱいからひたすら逃げている。あわや巨大おっぱいの『おっパンチ』が僕の頭上をかすめ、思わずしゃがみ込んだ僕に、どこからともなく現れたグッチのジャージがこう語りかけてくる。
「小さい胸でも張れば多少はデカく見えるぞ」
背ェ伸ばして歩けよ。じゃないとお前、ずっとナメられっぱなしの人生だぞ。
まさかのジャージからの説教である。
回転するおっぱいが弧を描いてまた僕の方へ飛んでくる。僕は直感的に、これを受け止められなきゃもう二度と男として立ち上がれないんだと悟る。
胸を張れよ。
グッチのジャージが言う。
黙れよ、このポリエステル野郎。
僕は思う。
それから覚悟を決める。繊維風情に煽られてしまったからには。黙れと思ってしまったからには。
僕は夢の中で、思い切りおっぱいに殴られた。ものすごくデカいおっぱいに。僕は顔面で巨大なおっぱいを受け止めながら、ここで倒れてなるものかと踏ん張る。形ばかりがおっぱいで、感触がほぼゴムボールのような嘘のおっぱい。あまりにもおっぱいに縁遠い人生を送っているせいで、本物の感触なんて忘れてしまったんだ。
起きた時、僕はいつぶりか分からないくらい大きな声で笑った。
僕の人生が、こんなバカバカしい夢のために劇的に変わるなんてことは絶対にない。僕は相変わらず底辺のギリギリ手前を這いずり、時々天を見上げてはうんざりした気持ちになるだろう。届かないのに星ってやつは……。平凡な人生ですら、海を舐めるよりしょっぱいんだってことを、僕は渋々だけど認めなきゃいけない。新しい挑戦は何歳からでもいいとか、無責任な外野の声も時々は正しいわけだが、やる気を出すには毎日の労働ってやつがとにかく億劫だし、重い腰を上げたくても、リアルな腰痛が切実な声で「無理だけはしてくれるな」と年相応のもっともな訴えを寄越す。
だけど、だけどだ。たったひとつのささやかな習慣を作るくらいなら、まな板より脆い胸板を張って歩くよりずっと簡単なことのように思える。胃痛とも腰痛とも関係ない、本当に小さな日々の積み重ね。
僕は昨日二人に拾ってもらったあの財布を開く。中に入っている八千円から一枚を抜く。まずは月々千円から、貯金のひとつでも始めてみようじゃないか。
初出2022
加筆修正2026/09/11
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