糸杉の墓標
わたしは命の息ある肉なるものを
みな 天の下から滅ぼし去る
地にあるものは みな死に絶えるであろう
ただし わたしはあなたと契約を結ぼう
あなたと、子らと、妻、子の妻たちと共に
箱舟に入りなさい
創世記 第6章
一匹のシデムシが、ぬるまった腐葉土からほんの少しばかり鼻先を突き出した時、大気にはかぐわしい夏の、なまめいて蠱惑的なバクテリアのフェロモンと、コナラやクヌギの樹皮から浸潤した油と、分解されたタンパク質から生成されたアンモニアのおよそ獣的な匂いとが、渾然一体となってこの暮夜を染めぬいていた。シデムシは、我が子のために掘った穴に、血潮に浸ったその地中に、丸めたアカネズミの死体を鉤爪のような後ろ足で蹴り進めていた最中だったが、八月の甘い芳香は彼女から、母親のつとめを一瞬忘れさせ、その代わりに生娘のごとき旺盛な食欲が彼女の口器をみずみずしく潤わせる、あの見境のない本能を思い出させた。月を問わず、また日を問わずしてあの高い空を旋回するカラスたちの甲高い歓声とも喧騒ともつかぬ粗野で野蛮な叫びは、はたして彼女にはまったく理解の出来ない言語によって取りかわされる給餌の合図であったが、黒い羽を騒々しく空に突き立てて、泥の繭に守られたゆりかごを嘲るように見下ろすあの高慢ないきものたちが、自分たちと同じようにこの喉の鳴るような芳しい匂いを嗅ぎ分けているに違いないということだけは、彼女の小さな脳にも理解は容易いのだった。
身ごもった母は分別あるほうの本能に従って、再びアカネズミの、くすんだ鳶色の毛玉を後方に蹴り出した。その肉塊は彼女が予め用意していた穴にはみ出すことなくちょうどよく納まり、こうしてシデムシは、生まれくる我が子のための立派な家と食料とを同時に調達する任務を、見事に達成したのであった。
シデムシはアカネズミの体毛を噛み切って実に簡易的なベッドを作ると、その湿った毛の上にひとつずつ我が子を並べていった。母親の手によって清められ、整列し、白膜の向こう側から泥と肉の産湯を待望する、均一な背格好の白い楕円のおくるみ。もうあと少しで、彼女はかわいい我が子たちと対面する。子供らはこの肉を食べ、成長し、更なる栄養を求めて旺盛に首を振る。クォーツめいた乳白色の体をひねり、兄弟たちを出し抜いて、母親からのありとあらゆる恩寵を独り占めしようとする。足りない、と回らない舌で彼らは訴える。実際のところ、ここに横たわるアカネズミの肉団子だけでは、到底子供たち全員を養っていくことは出来ない。そして子供のわがままは際限を知らないものだということを、この若きシデムシの母親はよく知っている。だから、アカネズミが骨だけを残して、魂の次にその肉体を天に召しあげる時になったら、母は最もまるまるとして肉付きのいい太った我が子の脂ののった肉を八つ裂いて、他の子供たちに分配する。そうして母は、彼らの生きる才能を見抜き、選別し、ただ一匹を一人前の大人に育てる。だが…と今から母となるシデムシは思う。
だが、この子達の出生があともう少し遅ければ、あの鼻持ちならない鳥たちが喚き散らす高い木と木のわたりの、そのすぐ真下の、骨さえ溶かすあたたかな泥に蓋をする腐葉土の上の、きっとこのアカネズミの何倍も大きな大きな家とご飯とが果てなく並んだ理想郷のような場所で、この育児を始められたに違いないのに。子供たちに、これでは足りないなどと舌足らずの言葉で訴えさせずに済む巨大な食料庫が、地平線すら望めないほどうずたかく積み重なった泥の肉団子が、我らの飢えと渇きとを永久に忘却させたに違いないのに。
1
それでも体を巡るあらゆる視神経はこの臭いを本能的に拒絶して、食道はひっきりなしに上下する胃液に焼かれ、舌は錆び付いた鉄球のようになって、嚥下する運動を阻害した。たったひとつだけ前向きに評価できることがあるとすれば、今ここに漂っているのは死臭であって腐臭ではないということだけだが、下手な職人が手を抜いて編んだ織物のように、死せる数多の肉体が縦糸と横糸となってひとつに織りあがって、キャンプファイヤーにくべられるのを待つ薪よろしく沈黙している光景は、そう遠からぬうちにここがウジとシデムシたちの熱心な社交場になることを、それぞれが違うシマに住む肉食の鳥たちが一堂に会していがみ殺し合う絶好の狩場になることを、そうした騒乱のために揺り起こされた様々な雑食性の生き物が樹液の代わりに腐乱した体液を体にこすりつけて病気を媒介する暗殺者になることを、伏黒恵に容易に予感させた。徐々に森を侵し、夏の短夜に染み出しつつある死神の体臭は、野生の死体回収業者たちにとって何よりもかぐわしい香水で、何よりも甘美な小宴の誘惑だった。伏黒恵は早急にことを片付けて、この異常な、死が花の咲くをも支配する悪夢の庭園に、可及的速やかに火を放たねばならないと思った。脂の滲み出した人の肉は燃えづらく、乾燥というものを知らぬこの地の、亜熱帯のごとし風に撫でられて進行する腐敗は、湿地帯の悪徳をすべて詰め込んだ地獄を生み出すことになる。
1960年代に建てられたというアール・デコ調の建築物は、皇族の自邸がモデルだった。かつては神々しいばかりに潔白だった外壁は、今はあの頃のうるわしい栄光を、眼下に築かれた死の山河に目もくれず逞しく気根を伸ばし続けるツタに蹂躙されている。屋根の腐食をはみながら、大地を浸す血の養分を吸い上げて、ツタはどこまでも伸び続けるつもりだ。
玄関を入ってすぐ、伏黒恵は、かつてルネ・ラリックが皇族のために製作したという特注のガラスレリーフをそのまま模したと思しき観音開きのガラス扉を認めた。そのガラス窓の向こうから、何か音楽のような旋律が聞こえてくる。それは4分の6拍子の祈りのアルペジオかもしれないし、変イ長調の叫びかも知れなかった。
真ん中の扉を取り囲むように、三種類の大きさの長方形のガラス窓がいかにもアール・デコ調のシンメトリーによって装飾され、その整然として几帳面な左右のガラスの手前には、やわらかな白のヴェールに包まれた天使の彫像が建っていた。ガラスレリーフに描かれた羽の模様は、この天使たちの天衣というわけだ。天使たちは、まだ染めあげられてから幾許の時間も経っていない、鉄臭い染色剤の乾ききらぬ、真新しいベルベットの絨毯を慈悲深く見下ろして、慈愛をたたえた笑窪をよく肉のついた子供のような頬に作っている。今日の演奏会のために奏でられた死の夜想曲を、天使たちはこの面持ちで聴いたのだ。まるでしかるべき罪と罰とをすでに神に頼み込んだあとのような清廉さで、自分たちの仕事を終えてあとは黄昏のテラスに腰掛けて飴色と紫紺に塗り分けられた西の空を眺めながらコーヒーをすするような無邪気さで、花を砕く絶望のカデンツァに耳を傾けていたのだ。
職人の丁寧なわざを追憶させる組木の床は朽ちて、一歩足を踏み込むごとに不気味でかぼそい悲鳴をあげたが、白い人造石の壁は荒れ果てた室内において唯一かつての威光を失わず、いぜんとしてしとやかな肢体を、この胸の悪くなる悪夢の死体屋敷に白々しく放っていた。むかって右側の天使の彫像の下では、男が天に召し迎えられることなく事切れている。伏黒恵はガラス扉を開けた。先程までくぐもっていた音はシャープになり、美しい和音が鮮明になった。
次間を抜けて、客室に入った。音が大きくなった。美しい和音から美貌の仮面が剥ぎ取られていくのが分かった。音がさらに大きくなった。伏黒恵の耳には、もうこの音しか届いていない。客室から小客室に続く扉を開けて踏み込むと、正面に初めて生きた人影が見えた。ひとりの男が、項垂れて立っているのだった。それは朽ちた枝木を思わせる長い影だった。しおれた葦を手折ったあとの、惨めな黒い影だった。男は伏黒恵の姿に気付くと、やあ、と言った。
こんなことになるとは思っていなかったんだ。男は言った。ほんとうに、思ってもみなかったんだ。
伏黒恵は手印を結んだ。男はそれに気付いて、待って、と言った。男はレコードプレイヤーの前に立って、これだけ最後まで聴かせてほしいと言った。大窓から差し込む森の月の、白く冷たい光線がおびたたしい血に染む床を青く赤くなめらかに照らしていた。男があゆみ出てくると、その輪郭が月の光のもとで泡立った。目の下の濃い隈はあたりの闇と同化していた。痩せぎすの男は、そのまま伏黒恵に向かって歩いてきた。落窪んだ目には膿んだように黄色味がかった涙が溜まっていた。男は伏黒恵を通り過ぎ、部屋の端に設置されていたグランドピアノにたどり着いた。干からびたような指で鍵盤を押し込むと、高い「ソ」の音が死にかけのネズミが放つ鳴き声のように力無く、小客室の高い天井に吸い込まれていった。
男は椅子に腰をかけると、再び告解の真似事を始めた。虚空に向かって楽譜を放るような、あるいは荒野に取り残されて、家路に着くためにはもう、あらゆる希望の類をハゲタカの臓腑に託す以外になくなった人間の哀惜と諦観のような、そうした寂寥とした感を、伏黒恵は男の背に覚えた。ぼくは、と男は言った。ぼくは、すべてがあの子のためになると思ったんだ、と男は言った。こんなことになるとは思っていなかったんだ、すべてあの子のためだけになると思ってやったことだったんだ、と男は言った。言葉が滞ることはなかった、吃音に悩まされることもなかった、予め何度も練習していたようにつかえることなく男の懺悔は始まった。
ぼくはただ、あの子の生活がずっと楽になると思ったんだ、勉強して、いい大学に入り、しっかりつとめろとそう言ったんだ、あの子はあまり頭の出来がよくなくて、それはもうたいへんな苦労だったが、それでもあの子にとってこの選択は、必ず間違っていないだろうと思ったんだ、あの子が泣いて喚く日があっても、妥協はけっしてしなかった、すべてあの子のためだと思ったからだ、きびしく躾けたし、たしかに時々行き過ぎをあんじることもあった、しかしあの子のことを思うから手を抜かなかったのだ、すべてはあの子のためになり、あの子が大きく強くなることこそが、この資産を守るために必要不可欠たことだったから、だからすべてはあの子のための努力だったんだ、こんなことになるなんて、考えもしなかった、とんだ裏切りだ、バカな、なんてバカな、愚かな、愚かな子だろう、親の心を知らないで、好き勝手にやって、この家のあらゆるものを壊すと言った、どうでもいいと言いやがった、あの子のためにやったすべてが壊れていくのを見るのはつらかった、全部あの子を思ってやったことだ、愛していたから、あの子を愛していたのは本当なんだ、なのにあのガキは、びたいち愛を返さなかった、愚かな子、愚かな子だよ、どうしようもない、ゴミの、カスの、この立派な、本当に立派な、誇るべき我が一族における紙魚みたいなクソガキ、愛していたのに、こんなに愛していたのに、言いつけを守らず家を出ていき、自由に生きるなどと現実を見ず、他人の甘言に騙されて、努力は水の泡、でもね、バカだったが音楽の才能だけはあった、いま、ほら、聞こえているでしょ? これはあの子の演奏した曲、なんていったか、ほら、有名なあの曲、まあとにかく、わたしはすべてをあの子に捧げたんですよ、あのアバズレ、バカのイカれたクソガキの、恥知らずのマヌケ、生きる価値のないどうしようもない汚物、ションベンをひっかけた路端の石ころ、わたしの遺伝子があんなものを生み出したなんて信じられない、あんなものをわたしが生むはずがないんだ、女ですよ、女が悪かった、あの子も女に狂わされたんだから、ねえ、そういうことなんです、それでね、わたしはただ、わたしの愛を分かってほしかっただけなんです、こんなことになるなんて思うわけがない、こんなことに、まさかこんなことに、わたしはあんなにあの子を愛して、愛して愛して、何もかもをあの子に捧げたというのに、あの子は、あのクソガキ、何もかもをめちゃくちゃにしやがって、ブタのエサにでもしてやろうと思って殺してやったんですがね、困ったことにあのバカはこのわたしに取り憑いてブタに食われるのはお前だなんて言うんですね本当にこんな親不孝があってたまりますかまったくこれだから失敗作は困る失敗作は困る失敗作は困るしかしあの子には美しい音楽の才能だけは確かにあったんですほらこの曲見事でしょう私にとってのあの子の思い出ああそうだ今思い出しましたよ、この曲の名前は……
「愛の夢だ」
男の背が割れた。そこで、伏黒恵は永遠に忘れられない横顔を見た。死体の肉を粘土にして整形された鼻を見た。爛れ腐った口と目を見た。血を吸い上げて膨張した筋繊維を見た。その筋肉がツタのように伏黒恵の手首に巻きついた。怪物は言った、まだ待って、と言った。殺さないから、殺さないで、この音楽が終わるまでは、と言った。腐臭のする吐息が伏黒恵の意識を朦朧とさせた。科学の遠く及ばない未知の死が、辺り一帯に充満していた。
かつては男だった生き物は、黒ずんだ血と肉を床に垂れ流しながらレコードプレイヤーの前に立った。森はもう、わずかな風にすら物音を立てぬよう沈黙していた。カラスたちの喚く声も消えた。地中を這い回っていの一番に餌場を確保したがってる虫たちも活動の痕跡を消し、月さえ雲に隠れたがった。音楽だけが、この音楽だけが、この場で聞くことの叶う唯一の鼓動だった。伏黒恵の手首から筋繊維の触手がほどかれ、腐肉の肉細工と化していた男は二股に裂けた背に再び自らの生み出した怪物のオブジェをしまい込んだ。レコードプレイヤーをじっと見下ろし、音楽にただ耳を傾けている。
あなたのことをなんて呼んだらいいだろう、特使さん? 男は訊いた。わたしを、ぼくを、殺しにきたのでしょう、殺しにきたんだろう。男は訊いた。伏黒恵は答えなかった。
フランツ・リストの「愛の夢」には歌詞がある、あなたはご存知で? 男は訊いた。歌詞があるんですよ、この音楽には言葉があるんですよ。男は続けた。伏黒恵は答えなかった。それはもう、本当に美しい歌詞です、フェルディナント・フライリヒートの詩でね、わたしは本当に、あの子がこの曲を私のために演奏してくれた時、どれほど嬉しかったか、あなたには分かるまいね。男は言った。伏黒恵は答えなかった。
にわかに男が、影の中で動いた。振り返ったのだ。目が合った。男の目は、孤独に打ち据えられた子供のように怯えていた。その迷子のような目は、影の中に黄色い粒のような光となって揺らめいた。男の手には何かが握られていた。伏黒恵が男の姿をはっきりと記憶しているのはここまでだ。次に閃光が走って、一秒後には男は影そのものになっていた。コルト・ディテクティブに装填された.38スペシャル弾が男の頭蓋骨を割り砕いて、後方に弾とともに射出された脳漿は、やわらかく黄色いたんぱく質の細切れの肉の雨になってレコードプレイヤーの上に降り注いだ。それ以外のものは壁に幾何学の、なにか呪文じみた絵図を描いた。レコードプレイヤーのトーンアームが、カートリッジが、針が、メロディを精緻に刻んだレコードの溝から音を拾い上げるマグネットとコイルが、肉の壁に阻まれて同じ旋律を繰り返した。
呪いは呪力で倒さねばならない。
呪いは呪いで祓わねばならない。
呪いは殺してはならない。
呪いは死んではならない。
物語は振り出しに戻った。
愛の夢が終わる。
2
伏黒恵が玄関で靴を揃えていると、背後から、報告書を受け取りに寄っただけだ、お疲れさん、という日下部篤也の声がした。日下部篤也は伏黒恵の肩を二度ほど叩いて、もう一度、お疲れさん、と言った。すれ違う時、日下部篤也の服からはサンオイル・ローションのような甘く気だるいココナッツバターのような香りがして、伏黒恵はそれが外国製の強力な消臭スプレーの匂いであることを知っていたから、なるほど彼はおそらく「仕事」の帰りにすぐここへ立ち寄ったのだろうと思った。伏黒恵と虎杖悠仁が共に暮らす郊外の築年数の浅い賃貸マンションから日下部篤也が出ていくと、しばらくして外から日下部篤也の乗る車が放っていると思しき妙な音が聞こえてきて、日下部さん、車買い換えたらいいのにね、あの音はもう普通じゃなくない? どっか壊れてないとあんな音しないでしょ、とおかしそうに虎杖悠仁が笑った。実際、日下部篤也の愛車はブレーキキャリパーが錆びていて、マフラーにもヒビが入っていたのだが、日下部篤也は車が動かなくなること以外を故障とは認めていないから、そのまま乗り回しているのだった。
それで、どうだった、と虎杖悠仁が伏黒恵に訊いた。何か手がかりはあったの?
無かった、と伏黒恵は答えた。何も無かったし、振り出しに戻った。
その日の夕飯には、タラの煮付けとナスの漬物が出た。今日はまあ、比較的穏やかな現場だったよ、でも明日は多分帰りが遅いと思う、家出るのも早いから、なんか作っておくよ、とナスの漬物をご飯の上に乗せながら虎杖悠仁は言った。そうか、と伏黒恵は答えて、いや、明日の夕飯は俺が作るよ、と続けた。虎杖悠仁の顔は見なかった。伏黒恵は皿の上のタラを黙々と箸で割っていた。ありがとうー、と間延びした礼だけを聞いた。テレビは伏黒恵が帰宅した時からついていた。どこのチャンネルにあわせても、この時間帯はバラエティ番組しかやっていなかった。
眠る時になって、ようやく伏黒恵は虎杖悠仁の全身をくまなく見る。一日を終えるための儀式のように見る。一級の品を讃えるにふさわしい審美眼でもって、伏黒恵は虎杖悠仁の肉の硬いところとやわいところを目視し、胸の膨らみや腰骨のたしかなこと、欠けた耳の位置が昨日と変わっていないことや爪がすべて揃っていること、真新しい創痕や線状痕がないこと、古傷が勝手に消えたりしていないことを確認する。傷が増えている時には包帯を変えたり軟膏を塗ってやり、まどろみの中で虎杖悠仁が夢の大陸に向かって船を漕ぎ出し、かぼそい声で、もういいよ、と言う時には、その傷口が痛まないように体を横たえてやる。甲斐甲斐しく、またまめまめしい世話の甲斐で、虎杖悠仁はもう伏黒恵のこの聖なる日課を、なんのことはない占いと同程度に考えるようになった。虎杖悠仁は風呂上がりの、少しほてった体にタオルを一枚だけ巻いて、露めいた肌に石鹸の匂いをまとわせてそこに立った。少し焼けた、と伏黒恵は呟いて、虎杖悠仁のキャラメルに浸かったような夏の甘い肌を撫でてさすってやった。体温が行き交い、その微熱は虎杖悠仁に夢魔の吐息を吹きかけた。いいやしかし、これは伏黒恵にとって、ジンクスなどという言葉で軽んじるべきではない信奉の態度であって、それは礼拝と同じだった。伏黒恵は、今日という日をこの形で終わらせることが、本当に虎杖悠仁の命を長らえさせると信じているのだ。そのことを虎杖悠仁は理解していた、虎杖悠仁にとっては日々の小さな出来事だが、これは伏黒恵にとっては何よりも深い祈りなのだ、魂の手綱をたぐる祭儀なのだ、堕ちた星をもう一度そらへ打ち上げる方法を、伏黒恵はこうして見つけたのだ。
それから伏黒恵は、虎杖悠仁をうしろから抱きかかえて眠った。こうしないと夜は眠れなかった。いつもの体勢で大きな熱の塊を胸にいだいて、命の温度を幾度となく思い出した。この大きさと温かさが命というものだ、心臓が脈打つたび全身に感じる小さな震えこそが命というものだ、次第に小さく、細く、弱くなっていく吐息が、肺の奥に一度沈んだ呼吸が、再び浮上して長く吐き出される息に変わって、それが自分の腕にまとわりつき、呼気の余韻で夢路がひらける瞬間に浜へと寄せて返すさざ波のような幸福が、まさに命というものだ。今日は人がふたり死ぬのを見た。虎杖悠仁はどうだっただろう。伏黒恵は救うべき五人のうちのふたりを喪った。それでも昨日と同じ夜が、こうして今日も彼に訪れたのである。
初出2025/06/29
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