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愛、います

 伏黒恵は、虎杖悠仁の腰のたおやかなまるみを愛した。皮膚の内側に張り詰める筋肉のかすかな痙攣と、その躍動の予感を愛し、悠仁の体の凹凸の美を愛した。照明のあかりをわずかに落とした部屋にあってさえ閃々たるその四肢の、きめの細かい肌や関節の丘陵とを愛した。熱情に浮く互いの視線にほとばしる本能の、隠し立て出来ぬ恋慕の鮮明さと、心おもてに剥き出しになる苛烈なほどの欲望を愛した。我を主張して猛る雄の激しさも、恵を受け入れんがために濡れる退紅の襞の振起も、すべての行為の余波を、首尾を、終を、恵は愛した。
 恵は悠仁の華奢という形容から遠く遠くかけ離れた頑強な肉体のすべてに、絶え間なく、また耐え難く性を見出し心を乱した。神仏がただ無為に放った「ひと」という形象が、にわかには信じられぬ、特別の完成をもって自分の前に横たわっているという、ほつれのひとつさえ感じさせないこの不可思議は、恵に確かな奇跡を信じさせるにじゅうぶん値した。
 悠仁の肉体の隅々にまで満ちる血潮が、胸にとどろくような純度の色づきもって恵の魂を行き来する時、恵はその肉体に対する渇仰を深く感じないではいられなかった。
 この体を自由に愛する権利が、自分にはあるのだ、自らの指がこの愛らしい肉体のふちを歩み、その中心の熱塊を仰いで、高め、慈しむ権利が、その資格が、自分だけは付与されているのだ、ただひとり、自分にだけは……
 恵はそのことに突として気付いた時、彼の毅然たる悟性をもってしてなお振り払えずにいた、あの気怠い、すべての憂いに光が射すのを感じた。泥の中を匍匐していた彼の物憂い傷心の一部は、その光輝に日々の、生活の、人生の希望を見た。
 虎杖悠仁は、今、ただ一人の男にだけ、そう、まさに自分にだけ、その体を委ねることを許し、許されている。
 恋人という関係にあってその特恵は自然である。その優越。自分以外の誰にも侵されえぬ神聖がここにあるという、なにものにも替えがたき恍惚。
 だから、恵はただ、注いだ。自分のうちにあって激しく燃え盛り、猛り狂う情炎を、際涯なき春機の衝動に陶然と酔いしれる、ある種の狂気を。
 恵の腕の中で、 その奇跡はわななき、泣いた。恵の指に押し広げられ、舌に転がされ、渇きを知らぬその愛撫の怒涛に腰を立たせることもままならなくなって、自分の体に何か別の新しい形を与えられたかのような…不安と期待とが、すべて綯い交ぜになって、いまだ定義されえぬ未知の感情に新しい輪郭が生まれた日のような…そんな、形容し難い歓喜に。
 広い腰に指先を泳がせると、悠仁の口からかすかな吐息が漏れた。ここに悠仁の性感があった。
 指でその腰をさすらったそばから、恵は撫でるようなかろやかさで、そこに唇を這わせた。それから、ただ、ゆるやかにのぼった。無心の運筆のごとき愛撫だった。その肉体のふちを、己が筆でなぞり、このすべての熱の原点に彼の…悠仁の…肉体のあやしさ…神々しいまでに完成された誘惑の壺の美を、透かし写すように…今目の前に顕現せし蠱惑の現実をなぞり描いて、恵はただ悠仁の体をまとう体温を不乱の心で追いかけ、それに没頭した。唇を通じて恵の全身に行き渡る肉感の熱が、ただならぬ気迫をもって恵の胸を貫いていた。胸の中にあらゆる情動が満ちるような狂おしさであった。
 そのまま首の付け根に辿り着いて、そこでようやく恵は薄く口を開いた。人よりいくらか厚みがないと自負さえする恵の唇は、しかしその寡黙な肉付きからは到底想像出来ぬほどに雄々しく情熱に盛っている。
 恵は唇の力だけでそこの肉をやわくはんだ。悠仁が息を飲む、その呼気の震えが恵の唇にも伝わってきた。悠仁の艶めいた震えはいずれ断続的な甘い呼吸に変わった。
 悠仁の体温は、恵の舌の先をその更に奥へ導くように、上へとのぼり詰めれば詰めるほどに熱かった。恵は悠仁のうなじを…俯いて浮き上がった丸い骨のくぼみから、やわらかい毛髪の茂みまで一路に…唇でゆっくり差上った。悠仁がこれに仰け反ったのを合図に、恵は唇とは反対に下流へと忍ばせていた手を、ようやくその実り豊かな双丘へ辿らせた。谷間を拓くと、悠仁の口からは微かな喘ぎが漏れた。その声には色があった。恵の唇が繊細に肌を這う動作に翻弄されて沸き起こった甘美の痺れが、悠仁の胸の奥から吐き出された熱い吐息に混じっていた。
 悠仁は恵の手が導くまま、素直にその足を開いた。ほの明るいばかりの室内に、濡ればむ肉の起立が熟れた桃のように赤く先端を灯している。
 悠仁はあらわになった中子の先に、恵の指を待った。愛撫を待った。懇願したいほどに焦がれた。種子の中でとろけて、ついに外皮に溢れ出した涓滴の切なさが、悠仁の腰をわななかせた。
 恵はそれをあえて焦らすような、露骨な無粋など働かぬ。むしろ、こちらの力にこたえて自ら足を開いた悠仁の健気が、恵には嬉しかった。
 恵の愛撫には、特別の才覚…あるいは男が男として生来に持つ道理を、ただの怠慢と切って捨てるほど闊達な鋭気…が宿っているようにも感じられた。恵のその堅強な性情は、ゆえに対の獣をその心に生み出している。性急な愛の獣と、その深淵に佇んでなお、欲望の坩堝に身投げせぬ賢者の人格とをである。
 悠仁は自らの萌(きざ)しにすべての神経を委ねて、委ねるがあまりに無力の態であった。だが恵はこの技能をどこかで改まって習得したわけではない。特別の学びが彼の人生にあろうはずもない。ささやかな猥談に興じる友さえ、恵の人生には有り得なかったのだ。ただ恵のひたむきな奉仕の精神が彼の指を神の唇に変えた。その唇を神の指先に変えた。悠仁のために恵は、この肉欲さえ調伏してせしめたのだ。
 恵は自らの、この尊ばれるべき精神を他者の中に知らない。ゆえに彼らは愛戯における比較対象を持たぬ。悠仁の体にあらゆる感度の快楽のおぼえを刻みながら、それが特別に優れた性の才能であったことを、終ぞこの男は知ることがないのである。
 肉叢に至って、悠仁の腰がついに明らかな高揚をもって動いた。自分の口から驚くほど甘えた声が漏れたことに、いじらしいほどの恥辱をあらわにしながら、悠仁はその手で自らの顔を覆った。覆ったそばから恵の手が伸びて、悠仁の赤らむ顔からせめてもの意地を解く。
 悠仁は幼ささえ感じられるような無力の表情で、眉を寄せて、肩で息をして、恵の猛攻を震える手で止めようともした。だが恵は止まらなかった。すべての指が役割を持った。中指と薬指とがそのあなぐらを主立って可愛がった。時々人差し指と中指とで、中の様子を確かめた。指を屈伸させては熱い肉の襞を懐柔し、悠仁の心までもを掻き乱した。
 恵の前ですべてが暴かれ、くさびから解かれた姿態。その恵体はししどに濡れて、したたり、そのつやに、やわらかく部屋に射し込んだ暮色の闇が注いでいる。
 悠仁はその足で恵の腰に絡んだ。求めて誘ったのではない。恵の、その引き締まった腰に抱きつきながら、精一杯の抗議のつもりで畳み掛けたのだ。だが恵にはそれが分からなかった。絡みついた悠仁の足が、ちょうど恵の一番硬い腰の骨のあたりに触った。心地よい波が、彼らの肉体の内側に寄せて返す。彼らはその潮騒をかいだ。
 深愛のなすべきわざである。伏黒恵という人間の高潔が、誠実が、そしてまた比類なき彼の質実さが、恵を怜悧にして熱情的な魔性にしてしまう。それは驟雨が如し接吻であった。すべての手指に役割を与える愛撫であった。悠仁の体を抱きかえては丁寧に穿つことであった。媚びではない。愛にへつらっているのでもない。恋人におもねっているのでもない。神以て、それは純然たる奉仕であった。
 悠仁は恵の鼓膜にとけた吐息がかかる程度の声量で懇願した。その声が、顔が、恵には良かった。
 高潮はその岸壁を幾度も打ち付け、白い飛沫はいずれ透明な水沫となって空に解けた。
 悠仁は閉じていた目をもう一度開いた。自分の額に恵の唇が落ちるのが分かった。額に、瞼に、鼻先に、そして唇に、祈りの儀式のように誠実で、至心をもつ接吻だった。

 彼らを結んだのは無償にしてすぎるほどの、まったく無垢で潔白な信愛だった。何もかもを差し出し、なげうって、ついにその精魂の擦り切れたとしても、互いにすべてを捧げ、殉じるような挺身…一方で、これほどまでに身を焦がすことが果たして本当にあろうものかと、むしろ病の気すら疑うほどの峻烈なまでの愛欲もまた、嘘ではない。その心を抱きたいと思い、また腕に抱かれたいとも思った。
 愛は憂いを知らぬ。愛は渇きを知らぬ。愛は餓えを知らぬ。ただ満ちて、欠けぬ。伏黒恵は、いまになって、ようやくそれを心の一番深い位置で知った。
 夢さえ忘れて目覚めるようにはっきりと、有形の感触を伴って心に押し寄せたそれらの確信は、彼らが営む日々の中に唐突に沸き上がり、彼らの歩みに追随した。
 生まれてこの方、こんなような思慕にとらわれたことなど一度もなかった。無味乾燥の、それを青春と呼ぶことさえ憚られるような日々に、恵はなんの期待もいだいてはいなかった。
 伏黒恵は虎杖悠仁のしとやかな肢体のすべてに触れて、その内側までをも指でまさぐりながら、一望千里の心のありよう…洋々たる海のごとくの広大無辺の愛についてなんの疑心もなく肯う、その心のありようを、突然に理解したのだった。少し前の自分ならば、こうした感情をどう言っただろう。バカしか罹らぬ病気と蔑んだだろうか。薬の効かぬ病理と嘲っただろうか。だが今の恵には、それが愛に己惚れた愚か者の空想とはとても思えなかった。他のどんな愛念にも勝って、この気持ちは正しく慈しみというものに溢れていると思った。青臭いほど真っすぐ心に伸びたその傾慕の若枝を、一切の不足も不純ない美しさと捉えることに、なんら恐ろしさなどないのだった。
 おびただしい死を映して、天魔波旬をも飲み下してきたこの眼にも、今更こんな単調極まりない夢想の詩が思い浮かぶものなのかと、本人ですら時々ふと我に返って驚く。角のない心は自らの過去にてらして、あまりに稚拙であるから恥ずかしい。
 愛は渇望である。窮愁である。煩悶である。愛とは、そういうふうにして彼らの心に寄り添った。愛は彼らの御手である。ただその人である。彼らだけが、そのことを知っている。


初出2022/09/24

加筆2026/05/27

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